昭和天皇 (The Shōwa Emperor "Hirohito") - その生涯

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2011/02/18(金)
*

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇(在位 : 1926年(大正15年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。諱は裕仁ひろひと)。幼少時の称号は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。

概要

神話上の天皇を除くと、歴代天皇の中で在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(87歳)であった。大日本帝国憲法の下では「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬」する立憲君主制の天皇として、終戦の国策決定などに深く関与した。1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法の下では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇として「国政に関する権能を有しない」ものとされた。しかし占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。主権回復後には、象徴天皇として、精力的に皇室外交を行った。また、天皇としての公務の傍らヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究し、生物学研究者としての業績もあげた。

生涯

少年時代

1901年(明治34年)4月29日、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において、明治天皇の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一男子として誕生。同年5月5日、称号を迪宮(みちのみや)、名は裕仁ひろひと)と命名された。産まれたとき、身長は51cm、体重800匁(約3000g)であったという。

生後70日の同年7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村伯の死去により、弟の淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に移った。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、翌1907年(明治40年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。

皇太子時代

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。元号が大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ移る。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、陸海軍中尉に昇任。1916年(大正5年)年10月には陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子・良子女王を皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月に満18歳となり、同年5月7日に成年式が執り行なわれると共に、貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、同年11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化の中で、同年3月3日から9月3日まで、軍艦香取でイギリスをはじめ、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5カ国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。

1923年(大正12年)4月、軍艦金剛で台湾を視察する。同年9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。同年10月1日に御学問開始。同年10月31日に陸海軍中佐に昇任した。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。同年8月、戦艦「長門」で樺太を視察。同年10月31日に陸海軍大佐に昇任した。同年12月、第一皇女・照宮成子内親王が誕生。

即位と第二次世界大戦

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。 1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。同年11月9日に行われた名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴を受けた(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社参拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王が誕生した。1931年(昭和6年)1月、天皇・皇后の御真影を全国の公私立学校へ下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。1933年(昭和8年)12月23日、待望の第一皇男子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し、盛大な祝賀を受ける。1935年(昭和10年)11月28日には、第二皇男子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。

1937年(昭和12年)11月30日、宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対米英開戦を決定し、12月8日に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出した。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、皇居吹上御苑内の御文庫に移住した。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、3月18日に被災地を視察した。5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、皇居宮殿が炎上した。8月10日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決断し、いわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送により国民に終戦を伝えた(玉音放送)。9月27日に、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーをアメリカ大使館へ初めて訪問。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告参拝を行った。また同年には、神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵にも参拝して終戦を報告した。

象徴天皇」として

1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため横浜を訪問(1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した)。1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて「わたくし」を使う。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出席し、従来の「勅語」から「お言葉」に改められる。1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で行われた独立記念式典で天皇退位説を否定する。また同年には、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ参拝し、日本の国家主権回復を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后がそろって靖国神社に参拝した。

1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。

1976年(昭和51年)には、在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。記念硬貨が12月23日から発行され、発行枚数は7.000万枚に上った。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の祝宴を体調不良から中座する。以後、体調不良が顕著となり、特に9月下旬以降、病状は急速に悪化し9月19日には吐血するに至った為、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えたが体重は急速に減少しており、1988年(昭和63年)9月以後、容態は再び悪化した。8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となり、日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により崩御(87歳)。神代を除く歴代の天皇で最も長寿であった。同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号である昭和から採った昭和天皇と追号した。2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。

昭和天皇の戦争責任論

昭和天皇の戦争責任論(しょうわてんのうのせんそうせきにんろん)とは、昭和天皇の日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)にいたる、一連の戦争に対する戦争責任に対する議論である。連合国からの極東国際軍事裁判(東京裁判)における対外的責任に基づく訴追問題と、日本国内における敗戦責任の議論などがある。その責任の有無を巡って肯定論、否定論ともに主張されている。

概要

終戦直後の南原繁は戦争責任について具体的に法律的、政治的、倫理的カテゴリーを区分した上で発言した。山折哲雄によれば戦後まもなくは天皇の戦争責任が取り上げられ退位すべきだという意見もあった。21世紀となってから秦郁彦は戦争責任は法律的、政治的、道徳的、形而上的の区分があると発言した。

東京裁判では昭和天皇が大日本帝国憲法で軍の統帥権を持つ国家元首、かつ大日本帝国陸海軍の最高指揮官(大元帥。軍の階級としては陸海軍大将)であったため、侵略戦争を指導した国際法違反を昭和天皇が犯したとする法的責任があるとして、訴追対象になる可能性があった。しかし昭和天皇は訴追されなかったことから不問になった。一方日本国民に対する政治的、道徳的責任、すなわち国民国家に対する多大の人的・物的損害と領土失地などの敗戦責任を何らかの形で取るべきであったのではないかという議論があった。後者については秦によれば昭和天皇は退位することで取る意思があったが、こちらも実現することはなかった。

責任の種類

昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物が主張する説によれば、戦争によって不幸な状態に陥れられた被害者全般に対しての責任があるとする考え方がある。この被害者には、日本の民間人の被害者、軍人や兵士の被害者、日本が進出した中国やその他のアジア諸国の軍人や民間人の被害者、日本の残虐な扱いで犠牲になったアメリカ軍などの西欧諸国の軍隊の戦争捕虜を含む連合軍の軍人などに対して天皇が責任を取らなければならないと主張している。さらに一部の人々は、アメリカなど西欧列強の被害者に対する責任は無視して、アジア諸国の被害者については責任を認めようとする考え方が、情緒的なものではあるが比較的多数の国民に共有されていると主張している。

また、類似の意見として戦争時の敵国の被害者を完全に除外するが、結果的に日本が戦争に敗れ、また日本の軍人や民間人に多大の犠牲者を出したことについての責任だけを限定して認めようとする立場もある。このような考え方は、東京裁判で裁かれた東條英機の陳述などに見ることができ、現在でも多くの日本人の共感を勝ち得ていると主張している。ただ、東京裁判の被告人として有名な東條英機は連合国側に与えた被害を無視すると主張してはいない。また昭和天皇の戦争責任については認めていない。

昭和天皇の戦争責任の追及には否定的な立場の人物が主張する説によれば、昭和天皇は立憲君主として「君臨すれども統治せず」との立場を貫いたのであり、戦争責任は昭和天皇を輔弼または帷幄上奏した政治家、軍人らにあるとするものである。

また、昭和天皇の戦争責任の追及に否定的であるとともに、政治家、軍人らの戦争責任も否定する立場の人物が主張する説によれば、昭和の戦争を日本が独立国として存続するための自衛戦争、あるいは西洋帝国主義諸国の植民地主義と戦って、過酷な支配の下にあったアジア植民地を欧米列強から解放するための戦争であったと主張し、戦争は天皇が専らアジア諸国の侵略を目的として企図したものではないと主張している。

これに対して、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物は、戦後の国際的な冷戦体制によって、アメリカを中心とする西側諸国が日本の共産化を阻止するため、侵略戦争に荷担した日本指導層を戦争責任を追及せずに政財界に復帰させた逆コースによって天皇の戦争責任の追及が今でも阻まれていると主張している。これらの人々は、1990年代頃に顕著になった自由主義史観といった議論や運動は、この流れに沿ったものであると主張している。

戦争責任を肯定する立場の主張

戦争当時の日本では国家主権は天皇に帰属し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとするすべての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇に戦争責任があったとする主張がある。また、天皇自身も戦争責任を意識している節は各種証言や手記によって確認されている。ポツダム宣言受諾の際の1条件(国体護持)をめぐる回答や、(中曽根らの進言に沿って)戦後に退位を望む意向を示したことなど。

2005年5月8日に菅直人(当時民主党元代表)は出演したテレビ番組で天皇機関説的に動いていたから直接的な責任はないが象徴的な戦争責任はあり、退位することで戦争責任を明確にするべきだったと述べた。

より具体的に昭和天皇の具体的な意識と判断を含めて責任を追及する声もある。昭和20年2月14日に近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、これを拒否したという。このことは、少なくともある局面では天皇が能動的判断で戦争の継続を選択していることを意味するとも取れ、またこのときの判断次第ではそれ以降の敵味方の損害はなかった可能性をも示す。つまり、このときに天皇がこれを受け入れていれば少なくとも沖縄戦や広島・長崎の被爆はなかったはず、というものである。

戦争責任を否定する立場の主張

大日本帝国憲法では、天皇には、拒否権のみが存在し、実際の意思決定や政策立案は内閣と帝国議会によって行われていたとする意見がある。また当時の大日本帝国憲法では天皇の政治的無答責が規定されているとする意見がある。しかし、「君主無答責」の規定による戦争責任からの逃避は、第一次世界大戦ではヴェルサイユ条約でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が戦争責任を問われたことがあり、国際的には全肯定されていない。また東京裁判でも「君主無答責」論が公式に利用されることはなかった。また上記に列挙した戦争責任について、日本には戦争に対する責任を負うべき事実が存在しないから、天皇の戦争責任自体を問うことが設問として成り立たないとする意見がある。また国としての損失という面から考えると、当時の日本の主権者は天皇であり、その最大の被害者は天皇自身であったとする意見もある。また、天皇は日米開戦を論議した御前会議の最中に、開戦に反対したとする意見もある。昭和天皇はマッカーサーとの会見で、戦争責任は日本国民にではなく、すべて自分にあると述べたとされている。ただし、サンフランシスコ講和条約において、天皇が自国の戦争に責任を負うべきものがあることを承認するという条項は無い。

戦争裁判における天皇の免罪

戦後、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判では、昭和天皇を訴追する動きもなかったわけではないが、早い時期にそのような動きは撤回され、天皇は裁かれないことになった。また、戦争直後には昭和天皇が退位するという選択肢もまったく検討されなかったわけではないが、実際には戦後の民主的な選挙によって構成された国会によって日本国憲法が制定され、大多数の国民の支持を得た上で昭和天皇は天皇の地位にとどまり、戦後の象徴天皇制が始まった。

これに対して、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人物は、これらの一連の措置は、アメリカによって行われた非民主的な措置であり、昭和天皇の戦争責任を歴史的な研究課題として今日まで未解決のまま残した決定的な原因であるとしている。しかも、この措置は戦争責任に関する議論によって決定されたものではなく、多くは冷戦に向かう戦後政治の中で、日本を西側陣営に引き込もうとするアメリカなどの西側連合国の政治的な動機により採られたものだったと強く主張している。

一方、昭和天皇の戦争責任を追及しない立場の人物は、アメリカによって行われた合理的な措置であり、戦後日本の民主化への移行をスムーズに導いた要因であるとしている。この措置は、日本国民に根付く天皇の伝統文化的な価値観と誇りを破壊することによって生じるであろう多大な悪影響と混乱を回避し、民主化達成後の日本国民自らがその価値観を象徴天皇という概念として受け入れるための意識改革にとって適切な思考期間を与えた成功例であると主張している。仮に昭和天皇が戦犯として処刑されていた場合、あれほど日本国民がアメリカの占領政策に協力したであろうか。それだけではなく現在の日本人の価値観、思考などさまざまな点で異質の民族性を生み出していた可能性が指摘されている。

タブー化

このように、昭和天皇の戦争責任を追及する立場の人々は、天皇の戦争責任は戦後における未解明の問題として残されていると主張している。また、これらの人物は、戦後の日本で昭和天皇の戦争責任を追及することは禁じられており、何者かの強い圧力によりこの問題はタブー化され、その傾向はますます強まっていると主張している。その根拠として、1988年に天皇の戦争責任について市議会で答弁した長崎市長・本島等が銃撃された事件(長崎市長銃撃事件)等がその証拠であると主張している。

一方で、これらの討論などは法律などによって規制されているわけではない。つまり、日本人が昭和天皇の戦争責任の追及をタブー視して、タブーがあると主張する天皇の戦争責任を追及する立場の人々が否定的に見られるのは、大半の日本人が天皇の戦争責任に対して否定的な見解である証左であると見なす論者もいる。一方で、タブーが天皇の権威付けに利用されまた権威がタブーを強固にするトートロジーとなっていると指摘する論者もいる。

『長崎市長への七三〇〇通の手紙』

1988年12月に長崎市議会で本島等長崎市長が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言した問題は大きな波紋を呼んだ。日本全国から、さらに国外からも多くの封書、はがきなどが寄せられ、それらをまとめた書籍も発行された。『長崎市長への七三〇〇通の手紙』は、1988年12月8日から1989年3月6日まで市長宅に届き、そこから編集部に送られたはがき、封書、電報、電子郵便の合計7323通が収録されている。その内容については、市長を激励するものが6942通、批判・抗議するものが381 通で、圧倒的に市長が支持されている内容となっている。

ただし本島市長を「支持する」内容が即ち「天皇の戦争責任を認める」ものとは言えず、たとえば「その勇気に感銘した」という論旨のものや、反対勢力の暴力的恫喝的な行動への批判を表明するものなども散見される。しかし、自分の体験などに言及しつつ市長の発言に支持を表明するものも数多く収められている。

国内や他国からの反応

連合国のイギリス、オーストラリア、ソビエト連邦、中華民国は天皇の戦争責任を追及し一部は死刑にすべきと主張していたが、マッカーサーの政治的判断で追訴を免れ、イギリスも第一次世界大戦でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を追放したことがナチスの台頭を招いたとして、天皇を占領管理の道具に利用すべきだと主張した。一方、イギリス、オランダ、中国からは憎悪の対象として見られた。

1971年に天皇がヨーロッパを訪問した際、ベルギー、フランスでは歓迎を受けたが、交戦国であったイギリス・オランダでは天皇に憎しみを持つ退役軍人からは抗議に遭い、イギリスでは馬車に乗っている最中「帰れ!!」と抗議を受けた。

イギリスの場合、大衆紙『ザ・サン』は、「血に染まった独裁者」として天皇の写真を掲載し、天皇を「バッキンガム宮殿からVIP待遇を受けた血に染まった独裁者達」として特集していた。大喪の礼の際にメディアでは昭和天皇の戦争責任を問う報道があり、かなりの反日的内容であった。

オランダでは天皇が乗車する車に卵や魔法瓶を投げるほど反日感情が根強く、昭和天皇在位中の1986年のベアトリクス女王の日本訪問はオランダ国内で反対を受けた。しかし昭和天皇崩御後の今上天皇はオランダ人から歓迎を受けた。

アメリカでは1945年6月29日に行われた世論調査によれば、天皇を処刑するべきとする意見が33%、裁判にかけるべきとする意見が17%、終身刑とすべきとする意見が11%であった。1975年に訪問したアメリカでは、侍従長・入江相政によると「天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいた」といい関係者を悩ませたものの、歓迎ムードであり、後にディズニーランドにも訪問した。また昭和天皇はアメリカ兵犠牲者の慰霊碑に訪問して、アメリカ人を喜ばせている。しかし後にハーバート・ビックスは著書『昭和天皇』において昭和天皇が戦争に積極的に関与したという主張を提示し、論争を引き起こした。

さらに詳しく → 昭和天皇



昭和天皇(上) (講談社学術文庫)昭和天皇(上) (講談社学術文庫)
(2005/07/09)
ハーバート・ビックス

商品詳細を見る
関連記事

タグ : 昭和天皇 裕仁 ひろひと 象徴天皇

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/1979-a42b0bb0
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。