九五式軽戦車 "ハ号" (Type 95 "Ha-Go")

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2012/02/17(金)
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九五式軽戦車(95しきけいせんしゃ)とは、1935年(皇紀2595年、旧軍の兵器は昭和以降皇紀の下2桁で呼称)に制式化され、第二次世界大戦の終結まで大日本帝国陸軍が主に使用した軽戦車である。ハ号とも呼ばれる。

背景

初期の国産戦車八九式中戦車は最高速度 25km/h で走行することが可能だった。しかし中国戦線における悪路、路外での投入では速度を発揮できず、12km/h から 8km/h 程度が実用速度となった。このような機動力では、歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、しかし舗装路の整備されていない中国戦線で追撃戦を行うのには遅すぎた。

熱河作戦において、トラックとの協同作戦行動ができる戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」を求めた。また、この頃陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、新型戦車にはある程度の数を揃える必要性が存在したため、上述の要求も加味した上で、この新型戦車は軽戦車とすることが決まった。

しかし、完成した九五式軽戦車は余りに小型で非力だった為に主力とはならず、別途九七式中戦車が開発されることとなった。ただし、装甲貫徹能力に劣る短砲身57mm砲を搭載した九七式中戦車は「歩兵支援戦車」の色合いが濃いものとなった。

開発

1933年6月に設計が開始され、1934年6月に最初の試作車が完成した。引き続き試作が継続され、騎兵部隊や戦車部隊などでの各種試験と重量軽量化など改良が繰り返された。1936年11月には量産型と同じく砲塔に機銃が追加された増加試作車が完成する。満州で寒冷地試験が行われた後、九五式軽戦車として制式採用された。

3人乗りの小型の車体に全周旋回可能な37mm砲という組み合わせは、開発当時には世界的に見て標準的なものであった。ただし、採用された九四式37mm戦車砲は、歩兵砲である狙撃砲の改良型であり、長砲身化したものの砲尾等の強化はされず、同年に制式化された九四式37mm速射砲のような初速の高い弾薬は使用できなかった。

結果として同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して本車は装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった(これは、同じく37mm歩兵砲由来の主砲を搭載したルノーR35などと共通する問題点であった)。なお、日本陸軍全般において徹甲弾弾頭の金質が悪く、装甲板に当たると弾頭が砕けたり滑ってしまうため、貫徹力が発揮できなかったという指摘がある。

また、同時期に登場した他国の軽戦車(ルノーR35、BT-5、LT-38など)が概ね10t前後の車重を有したのに対し、本車はそれより一回り少ない約7トンに制限されたことは、本車の限界を決定付けた主要因となった。これは日本は島国であるが故に、戦車を国外に移動させる時は船舶を用いざるを得ず、当時の標準的な港湾設備や船舶のクレーンの能力から戦車の重量は6t以内に収めることが要求された結果の選択であったとも言われる。これに加え、当時の日本の技術力では高出力軽量の戦車用ディーゼルエンジンが開発できず、エンジン重量がかさんだこともあり、装甲厚を薄くして車重を軽量化するしかなかった。

本車は八九式中戦車乙型の「三菱A六一五〇VD」(イ号機とも呼ばれる)を小型軽量化した、「三菱A六一二〇VDe」(「ハ号機」とも呼ばれる)空冷直列6気筒ディーゼルエンジンを搭載した。六一二〇とは6気筒120馬力の意味である。エンジンは車体後部右側に偏って配置された。消音器とルーバーも車体上の右側面に配置された。

結果として、本車の走行速度は速く機動性は良好なものとなったが、最大装甲厚はわずか12ミリとなった。軽装甲のため後の実戦で場所によっては小銃弾でも貫通した。装甲については用兵者側でも評価が分かれていた。騎兵科では、自動車と行動できる機動力を確保するため、装甲防御力が若干落ちてもやむをえず、装甲の弱さは機動性を生かした総合的な防御力で補えばよいとした。

他方、歩兵科系列の戦車部隊は、機動力・武装は十分だが装甲については現状では不十分で、このままでは戦車としての価値は低く、せめて装甲30ミリは欲しい、と主張した。最終的には、本車の当初の開発意図である「機動戦車」としては12ミリの装甲厚で十分との結論が下された。

こうして装甲の薄いまま量産に移った九五式軽戦車は、各地で機動力を発揮した一方で、防御力の弱さゆえの苦戦を強いられることとなる。なお、小銃弾にも耐えられないという問題に対しては、車体側面の砲塔基部に避弾経始に優れたバルジ(張り出し)状の装甲を追加する一応の改良が行われ、量産車の生産に適用されている。

車内レイアウトはお世辞にも良いとは言えず、人間工学的に無理があった。特に狭い砲塔には前方の37mm砲に加え、砲塔後部に車載機関銃が詰め込まれ、その両方の装填から射撃までを車長一人で操作しなければならなかった。

実戦

本車は、他国の戦車の設計思想が対戦車戦を意識するようになりつつある中で開発された、日本初の対戦車戦闘を考慮した戦車である。しかし、その対戦車能力はお世辞にも高いとは言えず、敵となった装甲戦闘車輛との戦闘では常に苦戦を強いられた。一方で機動力が優れており、中国軍などの対戦車能力の低い軍隊との戦闘ではそこそこの活躍をみせた。

初めて九五式軽戦車が本格的に投入されたノモンハン事件では、3輌一組のフォーメーションを組んだ上で、ソ連軍のT-26軽戦車やBT-5戦車と戦闘し、撃破に成功した事例も存在する。これは猛訓練の結果でもあり、無線をほとんど使わずに行動する「以心伝心」の様なものであったとされるが、基本的に装甲が薄い同時期の軽戦車が相手であれば本車の九四式37mm戦車砲でも対応可能だったことも窺える。

ただし、同事件での戦車部隊の作戦期間は短期間だったこともあり、戦車単独での戦果はごく少ない。同事件でソ連戦車を多数撃破したのは歩兵連隊の九四式37mm速射砲であり、敵味方ともその戦果を高く評価している。

日本と友好関係にあったタイにも40輌から50輌が輸出され、太平洋戦争の開戦前に仏領インドシナとの間に起こった国境紛争で活躍した。ただし、温度変化の影響か、1/4以上の車輛について装甲に自然にひび割れが生じる不具合が起き、クレームが付けられる事態となった。

太平洋戦争(大東亜戦争)では九五式軽戦車は苦戦を強いられた。序盤のビルマ侵攻作戦において、イギリス軍のM3軽戦車と遭遇した事例(1942年3月5日)では、九五式軽戦車が次々とM3軽戦車に命中弾をあたえたにも関わらず、全て跳ね返された。M3軽戦車はフランス戦の戦訓からM2軽戦車を元に開発され、本車の約2倍の重量があり(12.7トンと八九式中戦車よりも重い)、車体前面で38mm、砲塔前面で51mmの装甲を施されていた。

これは、本車の九四式三十七粍戦車砲では砲口初速でも射貫できない装甲厚である。他方、M3軽戦車の37mm砲は当時の同口径の戦車砲及び対戦車砲の中では最も貫通力が高く、有効射程内のどの距離でも九五式軽戦車の装甲を正面から貫通できる性能を持っていた。九五式軽戦車は、最終的にはM3に体当りまでして応戦する羽目に陥った。

一方でエンジンの故障も少なく長距離走破にもよく耐え、緒戦のマレー作戦やフィリピン攻略戦などで活躍した。中にはマレー半島からスマトラ島へ転戦し、2,000km以上の行軍に耐えた車輛もあった。

後半の防御主体の作戦では、火力も装甲防御力も不足が明らかだったが、後継車両の不足から終戦に至るまで様々な戦線へと投入された。タラワの戦い、ペリリューの戦い、サイパンの戦いでは海軍陸戦隊も本車を使用した。そして、陸海軍いずれにおいても、強力な連合軍戦車や対戦車砲、バズーカ砲などの前に為す術もなく撃破された。

戦後

生き残った車両は大部分が解体されたが、一部は八幡製鐵所など壊滅を免れた工場へ送られ、砲塔や機関銃などの武装を撤去した上で、ブルドーザーや牽引車として戦後復興に活躍した。その中には北海道中央バス石狩線で積雪対策として馬そりを車輪代わりに使う雪上バス「バチバス」の牽引車として用いられていた(参考画像)。

中国大陸において中国の軍隊組織に引き渡された車輛は、1945~49年にかけて行われた国共内戦で両勢力により使用された。ちなみに、中国共産党軍が初めて編成した戦車隊は本車で構成されていた。

フランス領インドシナに残された車輛はフランス軍が接収し、独立運動勢力に対する戦闘で使用された。さすがに最大装甲厚12mmでは不安だったのか、この車両には車体前面、戦闘室前面および砲塔側面に増加装甲が施されていた。ちなみに同地では八九式中戦車の使用も確認できる(本車と一緒に写る写真が残っている)。

バリエーション

九五式軽戦車 北満型
中国北部のコーリャン畑を走行する際、九五式の転輪の間隔と畑の段々が偶然一致していてはまり込んでしまい、機動性を低下させたため、接地転輪の間に小転輪を追加したもの。しかし一説にはあまり効果がなかったともいわれる。

三式軽戦車 ケリ
本車の砲塔にそのまま九七式中戦車に搭載された短砲身57mm戦車砲を搭載したもの。

四式軽戦車 ケヌ
常人では砲塔にすら入れなかったケリ車に代わり、砲塔リング径を大きくして九七式中戦車の旧型砲塔を載せたもの。

九五式軽戦車 ケニ車砲塔装備型
攻撃力増強の為の計画車輌。

九五式軽戦車 ケト車砲塔装備型
攻撃力増強の為の計画車輌。

試製四式十二糎自走砲 ホト
本車の車体に三八式十二糎榴弾砲をオープントップ戦闘室形式で搭載した車輌。

試製五式4.7cm自走砲 ホル
47mm対戦車砲を固定式に装備してドイツ軍の駆逐戦車(形状はイタリア軍のセモヴェンテに似ていた)的性質を持たせた車輌。

その他の改造型
生産台数が日本戦車中最も多かったハ号車には現地改造と思われる非制式なバリエーションも多い。主砲を木製ダミーに換え(?)車体左前部に火炎放射器を装備したもの(ラバウル)や、砲塔および車体前部に部隊単位で追加装甲を溶接付けしたもの(旧インドシナ)のほか、泥よけ・フェンダーなど細部の個体差は非常に多い。(参照:「日本の戦車と装甲車輌」)

特二式内火艇
陸戦隊用の水陸両用戦車で、改造型ではないが九五式軽戦車が開発母体となり、多くの部品が流用された。

性能諸元

全長 4.30 m
車体長 4.30 m
全幅 2.07 m
全高 2.28 m
重量 7.4 t
懸架方式 シーソー式連動懸架
速度 40 km/h (最大)
    31.7 km/h (定格)
行動距離 240 km
主砲 九四式37mm戦車砲(120発)
副武装 九七式7.7mm車載重機関銃×2
    (車体前部・砲塔後部 3000発)
装甲 砲塔外周12mm
    砲塔上面9mm
    砲塔ハッチ6mm
    車体前面上・下部12mm
    車体前面傾斜部9mm
    車体後面10mm
    車体上面前部9mm
    車体上面後部6mm
    車体底面9mm
エンジン 三菱A六一二〇VDe
     空冷直列6気筒ディーゼル
     120 hp (最大)
     110 hp (定格)
乗員 3名(車長、操縦手、機関銃手)

さらに詳しく → 九五式軽戦車



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