桜花 (おうか、Yokosuka MXY7 Ohka、BAKA BOMB)

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2012/01/18(水)
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桜花(おうか)は大日本帝国海軍が太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器である。昭和20年(1945年)より実戦に投入された。専門に開発、実用化、量産された航空特攻兵器としては世界唯一の存在である。

概要

桜花は、機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。

一一型では母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。

正規軍の制式武器としては世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「人間爆弾」と呼べるものであるが、日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BOMB(単にBAKAとも)、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていた。

開発の経緯

発案者は日本海軍の航空偵察員であった大田正一特務少尉であり、大田少尉は、このアイデアを東京帝国大学航空研究所でさらに具現化した後、空技廠(海軍航空技術廠)に持ち込んだ。ただし、この発案から開発に至る経緯については、当時の通例としては考えられないことが数多く起きており、未だに本当に大田少尉が発案者であったのかどうかは論議となっている。ただ、どちらにしろ開発の端緒をつけたのが大田少尉であることは確かである。

1944年8月初頭、空技廠に第1081航空隊付の一少尉が尋ねてきた。廠長和田操中将に面会し、人間爆弾の構想を説いた。これに対して同席していた飛行部設計課設計主任の山名正夫技術中佐及び同課第3班班長三木忠直技術少佐は当初「技術者としてこんなものは承服できない、恥です」と強硬に反対し、最終的には「誰がこれに乗っていくんだ!」と質したところ大田少尉は「自分が乗っていきます」と言いきった。このような議論の末、和田中将は大田少尉に航空本部の了解を取るように言った。

これを受けた航空本部は軍令部に意見を求めた。軍令部では当時特攻兵器研究の真っ最中であったため、この提案に飛びついた。特に源田実中佐が即座に動き、及川軍令部総長の了解を迅速に取り付け、1944年8月16日、この新兵器は、機密保持のために発案者の名前から「マル大(ダイ)」という名称で呼ばれることとなり、この兵器の正式な試作命令が空技廠に下った。空技廠は山名技術中佐を主務者に任命、実際の設計は、三木忠直技術少佐と、服部六郎技術少佐等が担当した。主翼と艤装を担当した長束巖技術少佐(空技廠飛行機部第二工場主任)は自動操縦装置を搭載して搭乗員が脱出する方法を探ったが、賛同者は無かった。

実用化

特攻兵器であることから、ジュラルミンや銅等の戦略物資に該当する各種金属を消費しないように材料は木材と鋼材を多用し、生産工数を削減するために構造はできるだけ簡素化することとした。そして既存の翼断面を流用するなどした上、大田少尉が持ち込んだ東大航空研究所の谷一郎教授と木村秀政所員の手による風洞実験結果、空力計算書、基礎設計書など基礎資料を基に試作命令から一週間で基礎図面を書き上げ、その一週間後には一号機を完成させた。

当初の基礎設計案より実機の変更点としては:

* 垂直尾翼を当初の1枚から安定性確保及び母機への搭載を容易にするため、双尾翼にした。

* 弾頭重量の機体重量に占める割合が、設計案では80%であったが無理だったため爆薬の重量を56%に減らした。これには固体ロケットの重量が3本で500kgに及んだことも影響している。なお、桜花の爆弾とロケットを除いた部分の重量は450kg程度である。

* 大田案では、動力に秋水と同じ特呂二号薬液ロケット・エンジンが予定されていたが、開発途上で性能も不安定であったため、火薬ロケットに変更された。

* 強度上・重量配分上どうしても尾部と垂直尾翼部にはジュラルミンを使わなければならなかったため完全な鋼・木混合ではなくなった。

* 不発を防ぐため、突入時に弾頭が確実に起爆するように信管を弾頭に1つ弾底に4つ装備していた。

等が挙げられる。

運用

桜花11型は独力で離陸できなかったため、一式陸攻24型を改造した一式陸攻24型丁と呼ばれる改造機を造り、アメリカ軍艦隊の近くまで、その下部に搭載して運び、そこから発進する方法をとった。

しかし、爆弾搭載量800kgで設計された一式陸攻にとって、全備重量2.3トン弱の桜花は非常に重く、桜花を搭載した一式陸攻は、限界ギリギリの離陸可能重量となり、離陸後の巡航時における最高速度は300km/h以下に落ちたといわれ、通常の爆弾搭載量の時であっても戦闘機には敵わない運動能力はさらに制限された。

また、桜花の航続距離が37kmと長門型戦艦の主砲の射程距離程度であり、攻撃に際して安全圏から発射して反転するという現代の定石から考えると、目標にかなり接近する必要があった。

一方、目標である敵の機動部隊は、桜花の航続距離のはるか遠方からレーダーによって日本機の接近を察知し、迎撃戦闘機を出して待ち構えることができた。その迎撃戦闘機にしてもグラマンF6Fの最高速度は600km/hに達していた。速度で半分以下、運動能力は通常の爆装時以下ともなれば、母機の一式陸攻の搭乗員にとって桜花による攻撃は、桜花搭乗員と共に死にに行くようなものであり、実際、一式陸攻乗員も特攻隊員扱いであった。

なお、後述する神雷部隊に指揮官として着任した野中五郎少佐は、桜花のこのような運用を知って「この槍、使い難し」と嘆いたという。

上述の野中少佐は、

「俺はたとえ国賊と罵られても、桜花作戦だけは司令部に断念させたい。敵に辿り着けると思うか? 援護戦闘機が陸攻編隊を守りきれると思うか? 仮に敵まで辿り着いたとしよう。ところが司令部は桜花を投下した攻撃機は速やかに帰りまた出撃するのだといっている。そんなことが出来るか。桜花投下と同時に自分も他の目標に体当たりしてやる」

と公然と桜花及び司令部の批判をするようになった。そして、「日本一の俺が最精鋭を連れて行っても桜花作戦は成功しない、必ず全滅する」と、現実を直視せず皮算用ばかりしている上層部に対して血を吐くような批判を同僚にしている。

桜花の搭乗員の訓練は、零式複戦と零戦による滑空訓練の後、滑空練習用の桜花による単独での滑空訓練を行なうものであった。単独での滑空訓練は、一式陸攻から切り離した後、滑空し、機体に付けた橇で着陸するという訓練であったが、特攻専用機であるという性質上、着陸進入を考慮した翼型になっていないただの平板の尾翼を持つなど、高速で飛行し、「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない、操縦特性の非常に悪い桜花の実機を練習用に転用したことから、失速して墜落、着陸に失敗するなどの事故が発生して死傷者が出ることは日常茶飯事であり、問題が多いものであった。

特に初期における訓練では、滑空練習用の桜花の機体の前部に爆弾、後部にロケットと同じ重さの水バラストを載せた機体を使用し、ピッチ制御を水バラストの放出によって行なっていたため、水放出コックの操作ミスによる殉職事故が発生した。さらに、一式陸攻からの桜花の切り離しがうまくいかず、切り離してから一挙に2~300m降下してからようやく滑空に移り、着陸時の速度は180km/h程度という極めて難しいものであった。その後、水バラストの搭載をやめて滑空訓練を行なったが、基本的に実機での訓練は1人1回のみであった。あまりにも危険すぎるというのがその理由であったといわれている。なお、43型では複座型の練習機が開発された。

桜花は、重量1.2トンの大型の徹甲爆弾を搭載した機体を敵艦に直撃させる事で大きな損害が与えられると期待されたが、実際には敵の制空戦闘機によって母機の一式陸攻ごとその多くが撃墜されてしまい、期待した戦果を上げることはできなかった。桜花は、ロケットエンジンによる数秒程度の加速と、滑空によって飛行するため、その航続距離は、母機の一式陸攻からの切り離し時の高度に大きく左右され、航続距離を伸ばすためには、母機の一式陸攻は高高度飛行をせざるを得ないが、それは敵艦のレーダーから探知される距離が伸びることを意味している。

そのため米軍は遠距離からレーダーで母機の一式陸攻を探知し、余裕を持って迎撃できたのであった。また、桜花攻撃の失敗はその母機の一式陸攻搭乗員の未帰還と同義であった。一式陸攻一機あたり7~8名の搭乗員を一挙に失う危険は作戦実行前から認識されていた。

なお、桜花が「突入時に敵の防空網を突破できる高速」と「余裕を持って敵艦隊の制空権外から発進できる航続距離」を両立した航空機であれば、必死攻撃に近いものの、母機から切り離しの後に加速して敵戦闘機を振り切り、通常攻撃を行った後に敵艦隊から離脱、搭乗員回収による戦果が期待できたはずである。

しかし、桜花の速度・航続距離のどちらかが不十分であれば、たとえ体当たり攻撃を採用しようが、速度不足で桜花が撃墜されるか、航続力不足により敵艦隊に接近し過ぎて母機もろとも撃墜され、戦果は全く挙がらないことになる。

また、母機が敵艦隊に接近するための制空権の確保が可能であれば、母機の通常攻撃で充分に戦果が期待できる。あくまで後付け論ではあるが、「桜花」はロジック面からも破綻した兵器と言える。無人版桜花とも言える今日の巡航ミサイルは、安全圏を飛行する母機から発射可能な長い航続距離を持つが、比較的低速であり、一旦発見されると容易に撃墜される。このため、レーダーや目視による探知を避けて高度3m程度の極超低空を長距離進攻する。

実戦

桜花は、フィリピン決戦で投入される予定であったといわれている。しかし、ある程度の機体数が完成し、2ヶ月間の速成訓練が終わった搭乗員による最初の部隊は、移動途中、空母信濃と共に潮岬沖で沈んだ。その後、後続部隊が空母雲龍でフィリピンへ運ばれるはずだったがこの部隊もまた、到着前に海没の憂き目に会う。

どちらにしろ、輸送時期はフィリピン戦の帰趨が決まってからであり、たとえ到着しても攻撃の機会はなかったであろうといわれている。一式陸攻の性能もさることながら、護衛機を十分につけなければ攻撃は成功しないであろうというのは如何な日本軍といえども現場レベルではわかりきっており、使う機会を得ぬまま沖縄戦に突入していく。

悲劇

桜花特攻の専門部隊として編成された第721海軍航空隊(通称・神雷部隊、司令兼副長は岡村基春大佐)は、1945年3月18日から始まった九州沖航空戦4日目の3月21日に岡村司令を始めとする現場部隊の「護衛機不足により成算なし」との反対を押し切って第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将の“断固出撃すべし”の令により第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊を沖縄攻撃中の米機動部隊に向けて、桜花実戦部隊として初出撃させた。

この出撃の決まった作戦会議では護衛として出せる掩護戦闘機が近隣の基地からの応援を含めても少なすぎることから一時は出撃中止になりかけたという。しかし、宇垣長官はこの出撃の前に、銀河による特攻隊梓隊で出撃を散々延ばして失敗していた。それを鑑みての出撃決定であったことが彼の日記から見て取れる。この出撃決定が下された作戦会議の後、退席した野中少佐は隣にいた神雷部隊の飛行長岩城邦広少佐に「湊川だよ、飛行長」と言い、還って来なかった。出撃前から全滅を覚悟していたと思われる。

結局、この部隊は進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されてしまい、敵艦隊の遥か手前でF6F戦闘機28機に迎撃され、陸攻隊は18機全機未帰還、零戦隊は30機中10機が撃墜され全滅という結果に終わった。当初、護衛機として零戦55機が出撃したがエンジン故障などで25機が途中で引き返し、最終的に敵兵力と同等の30機に減ってしまったのが致命的であった。

桜花隊:三橋謙太郎大尉ほか14名、攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官 野中五郎少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:伊澤勇一大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:漆山睦夫大尉ほか2名が未帰還となった。

実際の戦闘では、艦隊のレーダーにより誘導され待ち受けていたホーネット隊F6F 16機及びベローウッド隊F6F 12機に上空から攻撃を受け、戦闘機隊は数では互角ではあったが、互角では満足な護衛が出来る状態ではなく、むしろ自分達が生き残るのに精一杯の戦闘を繰り広げており、丸裸となった陸攻隊は次々と被弾墜落していった。18機の母機が全機撃墜されるのにかかった時間はわずか20分程度であった。

なお、護衛を放棄して敵戦闘機との戦闘に入った直掩戦闘機隊の戦果は、僅か撃墜1機、撃破1機。味方未帰還11機(内1機は離陸直後に事故で喪失)であった。レーダー搭載型一式陸攻の電探員で、出撃命令がなかった野中部隊隊員によれば、桜花1機が整備ミスで出撃できず、離陸直後に零戦2機が空中衝突。BBCの短波放送を無断で聞いたところによれば、米側損害は7機だったという。

この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわすも、ついに被弾して一瞬で火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っている。

桜花特攻への批評

第一神雷部隊の陸攻隊は、司令部の仕打ちに対する無言の抗議からか、無線封止によるものかは不明であるが、離陸した後は一本の電報も入れなくなり、司令部では帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握する有様だった。また出撃後、目標の機動部隊が健在であることが偵察機の報告から判明し、一部の参謀から帰還命令を発するよう宇垣中将に進言があったが、宇垣はこれを聞き入れなかったという。

また、桜花隊の出撃は、神雷部隊の創設者でもあり指揮官でもあった特攻推進派の岡村大佐でさえ成算無しとして中止を進言しているにも拘らず出撃させた上層部の態度も当時を物語っている。一式陸攻の鈍重さと防御の脆さ、敵警戒網の厚さをはじめとするそれまでの戦訓を引いた作戦会議での反対意見の多さがそれを物語っている。

しかし、戦後宇垣中将の指揮していた第五航空艦隊に所属していた鹿屋海軍特攻隊の昭和隊所属杉山幸照少尉曰く、「中将は最期まで自らが戦局打開の鍵を握っている(特攻隊の事)と考えておられた」、宇垣自身が自らの最期に部下と同じ死地へと向ったこと(終戦特攻)に関しては「長官の自決をよそに逃げた参謀が沢山いたが、部下と同じ死地に向って死んだのは長官のみである」と語っている。杉山本人は、宇垣無くして特攻を語るのは愚かであると語っていると同時に、あまりにも一人だけ気を吐いているだけで部下が着いて行けなかったと書き残している。

宇垣日誌
宇垣長官の書いていた日誌『戦藻録』において彼自身が記述しているところによると、桜花隊出撃前の心境として「敵ハ相当大ナル損害ヲ蒙リタルモノノゴトク上空警戒モ少ナシ」とそれまでの3日間の特攻を含めた全力攻撃で相当の被害を敵に与えたものと誤認しており、「18日以来、本特攻兵力ノ使用ニ機ヲウカガヒ続ケ、何トカシテ本法ニ生命ヲ与ヘントシタリ」と、既に作戦目的が何とかして桜花作戦を敵撃滅の切り札にしたいというものに変わっていて、特攻によって敵が撃滅できると信じていた節がある。

つまりはレイテ時に大西中将が戦果をあげる為に“止むを得ず”取った“外道の戦法”(特別攻撃隊を参照)がこの時点では日本軍としては“正攻法”に変わっていることを意味している。また、部下の生命を無視してでもこの戦法を成功させたいという戦果と戦法の優先順位が完全に逆となっている思考になっていることも窺え、まず戦法ありきで戦果は二の次なのである。更に「今ニシテ機ヲ逸セバ再ビウルシーへ梓隊ノ遠征ヲ余儀ナクサレ、シカモ成功ノ算大ナラズ」と失敗に終わった梓隊の結果が今回の出撃決定に繋がったことも暗に認めている。

結果として緒戦以来数々の戦果を挙げてきた当時では数少ない歴戦の現場指揮官を無為に失った上、その部下であった100名を越すベテラン爆撃機搭乗員を一挙に失うという取り返しのつかない損失を招いてしまったわけである。その見返りとして得られたものは何もなかった。

このように宇垣中将の指揮に対する批判的な意見がある一方で、良く考えればパイロットの育成もままならない航空隊の現状において貴重なベテランパイロットを神雷部隊に投入した事を考慮すれば、切迫した現状を打開すべく期待されていた可能性もある。

つまりは現状に連合国と対等に戦える兵器がないなか、必死必殺の「桜花」にかける心情は絶望的戦局に立たされた現場指揮官の宇垣としては最良の判断だっただろう、という宇垣中将への擁護論も存在し、宇垣纒という提督の評価が賛否両論に分かれる一因ともなっている。

ただ神雷部隊と対比して通常攻撃に関して言うのならば、最早通常攻撃も成功させられる程の大量の攻撃機や護衛戦闘機を揃えるのは不可能であり、通常攻撃に出撃した機体も最終的には特攻と言った形で攻撃後に体当たり敢行している攻撃隊も存在する。

勿論これら全ての通常攻撃に対してこの事が当てはまる訳ではないし、沖縄に夜間通常攻撃を終戦間際まで続けた芙蓉部隊や、同様に瑞雲水上偵察機で沖縄夜襲をおこなった第六三四海軍航空隊のような例も存在する。そして宇垣中将は指揮下にあった芙蓉部隊を擁護しており、「戦藻録」 1945年7月の記述にて芙蓉部隊の合理的な通常攻撃戦法を絶賛している。

宇垣中将が特攻に積極的反対を行わなかったのは事実である。しかし、有名な「最期の出撃」や「戦況の変化のよる考え方の変化」も含めて、宇垣中将の「特攻に対する考え方」については今後の考察や研究が待たれるところであろう。

確実に戦果を挙げる為の体当たり攻撃とはいえ、先述したように十分な護衛機無しで投下地点となる目標の近距離まで到達する為に、多数の高性能迎撃戦闘機を鈍重な爆撃機で突破しなければならない桜花を使用した所で攻撃が成功する確率は万に一つもなかった。桜花を防御弾幕の手薄な比較的遠距離で切り離し、敵機動部隊外縁のピケット艦等の軽艦艇に攻撃をかけるのが精一杯だったことが実際の戦果でも証明されている。

見合わぬ戦果

この戦い以降は、さすがに戦訓により昼間大編隊による攻撃を断念し、薄暮及び黎明時に陸攻少数機が1~2機ずつに別れての出撃を主とし、10次にわたって攻撃を敢行した。これと併行して桜花隊搭乗員で編成された建武隊(零戦52型新造機に50番(500kg)爆弾を搭載したもの)による特攻も行われた。しかし米艦隊を捕捉できず、桜花のみ空中投棄して帰投する機も多かった。

合計10度に渡る出撃の結果、桜花パイロット55名、その母機の搭乗員368名の戦死者に対し、桜花が与えた確実な戦果は、沖縄戦においてアメリカ海軍の駆逐艦マナート・L・エベール(USS Mannert L. Abele、DD-733)撃沈1隻、その他連合国の駆逐艦以下の数隻に損傷を与えるにとどまった。前者のマナート・L・エベールの時は、艦体中央部に命中した瞬間、爆発して真っ二つに折れ、一瞬で沈没させる事が出来たが、後者の中には駆逐艦に命中したものの、幅の薄い艦首部だったために機体が炸裂せず貫通、そのまま海に突っ込んでから爆発したという例もあるという、あまりにも犠牲に見合わない戦果であった。

バリエーション

作戦の成功率が低いのとは裏腹に、軍部は桜花のさらなる増備と改良を計画していた。

21型

作戦の成功率を高めるため母機を銀河に変更したもの。銀河の機体形状に合わせて若干の改良が加えられている他、自重の軽減のため、爆弾の搭載量を減らして(1200kg→800kg)いる。最初の試作機は実際に銀河を母機として飛行試験が行なわれたが、銀河からの分離発進後にエンジンの不調により墜落し、搭乗していたパイロットが殉職している。その後、試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。

22型

発進後の飛行距離の増大を目指して、21型の四式噴進器を「ツ11」に変更したもの(レシプロエンジンでコンプレッサーを駆動し、燃焼室内に燃料を噴射するというカンピーニロケットの一種である)。21型同様試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。

33型

母機をさらにパワーのある連山に変更したもの。同時に桜花自体のエンジンも強化されている。連山自体が増備されなかったため、こちらも量産されなかった。

43型

ジェットエンジンを搭載し、200km近い航続距離を得たタイプ。陸上からのカタパルト発進を行う予定で開発された。モックアップが概成したところで終戦を迎えている。この型ではエンジンと燃料タンクの設置のため爆弾重量は600kgに減らされていた。練習型および多くの発進基地は完成しており、実戦機も大量生産への秒読み段階にあった。

房総半島南部の山中には、桜花用のカタパルトを設置して、本土決戦の備えとした。このため朝鮮人の徴用工を南房総市に集め、各所に秘匿基地を建設した。このとき残された桜花発射用のレールが、三芳村の智恩院という寺の片隅に放置されている。地元の農家にとって、戦跡は農作業の邪魔でしかないため、遺跡としての保存はまったくなされていない。

また関西地区では比叡山延暦寺の側にカタパルトが造られ、カタパルト建設と桜花の輸送に比叡山鉄道のケーブルカーが接収された。カタパルトは終戦直後に連合国軍の手で爆破された、との記録が有る(大津市市制100周年企画展「大津の鉄道百科展」の展示より)。 

さらに詳しく → 桜花 (航空機)



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