戦艦 大和 (Japanese battleship Yamato) - 悲劇の戦艦

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2012/05/28(月)
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大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦、大和型戦艦の一番艦。

概要

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。1945年4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の延べ1,000機以上の航空機による猛攻撃を受け(魚雷14本、大型爆弾3発、小型爆弾多数)、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなす。

艦名「大和」は、旧国名の大和国に由来する。日本の中心地として日本の代名詞ともなっている大和を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑型戦艦がある)。正式な呼称は“軍艦大和”。

建造

大和(計画名A140F5)は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。アメリカやイギリスに本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。

機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる。ちなみに、そのドックの近所の全ての民家から干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている)がかけられた。

建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下におかれ、歩哨が要所を警戒していた。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。

そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂もあったが、結局は海軍大臣代理により、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦はあえて臨席している面々に聞こえないように小声で「大和」と命名された(なお軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した二つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。

もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は注水済みの造船ドックから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。

また、大和には当時の最新技術が多数使用されていた。球状艦首(バルバス・バウ)による速度の増加、煙突などにおける蜂の巣状の装甲などである。その他、観測用の望遠鏡や測距儀も非常に巨大なものが採用され、進水時には世界最大最精鋭の艦型であった。レーダーは就役後に順次装備された。初期のものは性能が安定しなかったが、1944年以降に量産された仮称二号電波探信儀二型は良好な性能を発揮した。

戦歴

1942年2月12日に、連合艦隊旗艦となる。同5月29日、ミッドウェー作戦により柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため海戦の戦闘には参加しなかった。同6月14日柱島に帰投。

機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく、空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度とは直接関係はなく、編成上は戦艦が主力の扱いであった。

アメリカ海軍側はミッドウェー海戦の報を受け、戦艦「テネシー」、「ミシシッピ」、「アイダホ」、「ニューメキシコ」、護衛空母「ロングアイランド」を中心とする第1任務部隊をサンフランシスコより出撃させている。この部隊はハワイ西北1,200浬で戦艦「コロラド」、「メリーランド」と合同し、日本艦隊の西海岸攻撃に備えており、この時点では空母部隊を前衛として戦艦を運用するという思想には両軍とも差がなかった(日本艦隊が空母喪失後もあくまでミッドウェー攻略に固執した場合、アメリカ戦艦6隻は同島防衛に動く可能性もあった)。

1942年8月17日、ソロモン方面の支援のため柱島を出航。同8月28日、トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型2番艦「武蔵」に移譲。5月8日トラック出航、柱島へ向かう。

呉では対空兵器を増強し、再びトラックに向かったのは8月16日。 3ヶ月前より戦局は悪化し、ソロモン諸島では激戦が行われていたが、本艦はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加せず、居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄された。10月中旬マーシャル群島への出撃命令が下る。

アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4 日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港。

1943年12月25日、トラック島西方180海里でアメリカ海軍の潜水艦「スケート」より攻撃を受け、3番砲塔右舷に1本被雷する。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。

トラックで応急修理を受けた後、内地に帰還。浸水量は全部で600トン未満であり、火薬庫と機械室の機能は失われなかった。下部火薬庫には浸水は認められなかった。この欠陥に対して、水密隔壁を新たに追加し浸水を極限する改修が行なわれた。

1944年6月15日、マリアナ沖海戦に出撃。機動部隊同士による決戦が繰り広げられる中、アメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。しかし同じ海戦において、周囲艦艇とともに日本側第一次攻撃隊をアメリカ軍機と誤認し高角砲などで射撃、数機を撃墜するという失態も犯している。

同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊第一戦隊としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指し出撃。23日早朝に旗艦愛宕が潜水艦に撃沈されたため、大和座乗の第一戦隊司令官の宇垣纒中将が一時指揮を執った。夕方に栗田健男中将が移乗し第二艦隊旗艦となった。

24日、シブヤン海で空襲を受け、僚艦武蔵を失う。25日、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、主砲弾を104発発射したが、この時の戦果に付いては諸説ある。

有名なものに、アメリカの護衛空母「ガンビア・ベイ」に大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言する意見もあるが、ただこれは主に当時、乗員であった者からの言葉や日記などから世間に広まったという傾向が強い(重巡利根艦長黛大佐は、著書で戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかったと、強く反論している)。

また、米側記録にも該当する大火災発生の事実はなく、同艦は0801に重巡の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。大和が空母を砲撃したのは0709までの間であり、大和主砲弾が命中した可能性はほとんどない。「当たって欲しい>当たったはず」という精神作用が、防御煙幕や至近弾を火災の煙と誤認させたものと思われる。

本海戦において、栗田艦隊の将兵は(至近砲戦に移行してからでさえ)護衛空母と正規空母の識別すらできない精神状態にあったことは有名で、その目撃証言の信頼性はきわめて低い。但し、32,000mの遠距離から放った砲撃はその第一斉射から目標を挟叉し、対するアメリカ側から「砲術士官の望みえる最高の弾着」との評価を受けている。

大和に突入しようとしたフレッチャー級駆逐艦「ジョンストン」を副砲の射撃により撃沈したともいう証言もある。アメリカ側には0725-0730頃、米駆逐艦「ホーエル」「ジョンストン」が戦艦からの主砲・副砲弾を受けたという記録が残っているが、アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛は、0725にスコールに入ったために射撃を中止しており、同型艦の榛名もこの時刻には射撃していないことから、0727の主砲射撃で「巡洋艦轟沈」を報じた大和の射撃が命中した可能性もある。

ただし、この時期には、七戦隊の日本重巡各艦も「ホーエル」「ジョンストン」を砲撃していたため、これも確実なものとは言えない。

いずれにせよ、この砲撃でアメリカ駆逐艦が致命傷を負った形跡はないことから、命中弾があったとしても「戦艦の主砲弾で」艦橋上のMk37射撃指揮装置を吹き飛ばされた「ホーエル」ではないかと言われている。「ジョンストン」も、十戦隊の軽巡「矢矧」以下が止めを刺しているため、大和が敵艦を直接葬った可能性はない。

なおこの海戦で、大和が電測射撃で重巡鳥海を味方撃ちしたという説もあるが、鳥海及び筑摩が損傷した時期には、日本戦艦がこの両艦を誤射するような射撃機会を得ていないため、これは誤解である。

レイテ沖海戦では往復の航程でアメリカ軍の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。

砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡ってはがしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た(第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う)。また前甲板の爆弾は鋲座庫付近に水面下の破孔を生じ、約4,000トンもの浸水が発生した。

レイテ湾の入り口まで来たが、結局栗田長官は近隣に米機動部隊が存在するとの誤報を受けて反転を命じ、突入することなく引き返している。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。

最期

詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照
最終時の大和。米側資料で、最新の研究考証に準じているが、一番砲塔脇と、砲塔上の機銃形状が日本側考証と異なる。
3月19日の呉空襲で、敵機の攻撃を回避する大和。

呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、目立った被害はなかった。

同年3月28日、「次期作戦」に向け大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられたが、米軍機の空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、第二艦隊を徳山沖に回航させた。

3月30日に、アメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥る。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任される。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦(菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。

この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神重徳大佐(終戦直後、飛行機事故で水死)の発案が唐突に実施されたものであった。一般には片道分の燃料で特攻したとされるが、燃料タンクの底にあった油や、南号作戦で必死に持ち帰った重油などをかき集めて3往復半分の燃料を積んでいたともされている(下記も参照)。

* 第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞))で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槇(マキ))の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

* アメリカ軍偵察機 (F-13) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。

* 天一号作戦(菊水作戦、坊ノ岬沖海戦も参照のこと)の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。

しかし、大和を座礁させて陸上砲台にするには、1.座礁時の船位がほぼ水平であること 2.主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた(レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。

アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに一億総特攻の魁(さきがけ)であった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカの潜水艦「スレッドフィン」に行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたという。

* 当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし「大和」が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈するということが目的でありそのために手段は選ぶべきではないと考えマーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じた。しかし、スプルーアンスが戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャーが先に攻撃部隊を送り込んでしまった、という説がある。

* 九州近海までは、陸上基地から発進した航空機が艦隊の護衛を行ったが小規模な編成であり、見送りに近いものであった。またそれも4月7日昼前に帰還してしまう。入れ替わりアメリカ軍の偵察機が艦隊に張り付くようになる。

4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖 90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾(250キロ爆弾と思われる)2発を被弾。後部射撃指揮所が損壊した(この時に副砲も損傷したという説があるが、後年の海底調査ではその形跡は見られない。

また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある)。特に後部射撃指揮所、つまり後部艦橋はオノで叩き割られたように跡形もなく破壊された。建造当初から弱点として問題視されたこの後橋及び、副砲周辺部の命中弾による火災は沈没時まで消火されずに燃え続けた(攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している)。

以後14時17分まで、アメリカ軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾やロケット弾を装備して出撃した。攻撃機の中には、大和とアメリカ軍空母の間を3往復したものもいた。

主な被害状況は以下のとおり。

* 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中。
* 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障(1345中央に復元固定)。
* 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中。
* 14時00分 中型爆弾3発命中。
* 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中。
* 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
* 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中(右舷後部という意見もある)、傾斜増す。
* 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令。

大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。また副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。

このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。このことにより、米軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、その後副舵は中央に固定された。傾斜復旧のために、右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令(いわゆる「無断注水」だったという説もある)が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にあるキングストン弁を人力で開く必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。そのためこの魚雷が命中した時は、艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。またそれまでの魚雷命中とは違い、下から突き上げられた後に「艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下した…」という証言もある。すでに左の舷側は海水に洗われる状態であった。

最後に魚雷が命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増し、3分後に総員退去が命ぜられた。しかし、艦内の大半のものに「総員上甲板」は知られず、総員上甲板(総員退去)の発令3分後には大傾斜赤い艦腹があらわになった。

艦橋トップの測距所からは、煙突にごうごうと海水が流れ込み、そこに兵員も吸い込まれるのが見られた。方位盤射撃手の村田大尉も「最期まで艦橋最上部の射撃指揮所におり艦と運命を共にするつもりであったが、部下と退艦するしないで押し問答となり、このままでは部下も巻き添えにしてしまうと思い指揮所の外にでたところ、普段は目もくらむ高さの指揮所のはずが、すぐそこに海面があり、あっというまにザブンとそのまま海に漬かった」と後述している。

また、随伴した駆逐艦からは大和が操艦不能になっているのが観察された。涼月の学徒出身航海士は「吾舵故障す」のD旗流を掲げた大和を確認している。直後、大和は既に大破していた涼月と衝突しかけたが、駆逐艦側が後進して回避した。その後急に傾斜が激しくなり、お椀をひっくりかえすようにゴロンと横転したと思うと、海面が盛り上がって大爆発したという記載も残っている。

横転(または転覆)は14時23分。大爆発を起こして艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。爆発の原因は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。

誘爆は火災か転覆の衝撃による可能性があるが、転覆直後に爆発していることと、2番主砲付近での火災の報告がないので転覆によるとする説のほうが有力である。戦後の海底調査で、機関部の艦底にも大きな損傷穴があることが判明しており、転覆時にボイラーも爆発したか、沈没前に傾斜した艦底に魚雷が命中したためと考えられている。

大和沈没により、古村啓蔵少将は一時は作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は作戦中止を司令部に要求し、生存者を救助のうえ帰途についた。

* 同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内 1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたことと、武蔵に比べ米軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたためである。

アメリカ軍航空隊は「武蔵」一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというもので、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない(1発被弾したという資料もある)。

また、船体の傾斜が主砲は5 度、副砲は10度、高角砲は15度以上になると射撃不能とすることもできた。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は一説では30本以上の命中を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。

* 菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたもの、及び海上護衛総隊割り当て分7,000トンの内4,000トンを第2艦隊向けに割り振ったもので、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。

とはいえ、空襲への回避運動や敵艦隊との水上戦が発生したなら、長時間に及ぶ高速での迂回航行を想定する必要があったし、また戦術的な擬装航路の実行なども合わせて考えるなら、決して余裕のある燃料量ではなかったとも言われている。

* うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円分ほど)。また出撃に先立ち(5日午後)、傷病者と若干の老兵、兵学校卒業直後の53名の士官候補生が退艦させられた。

* 戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存者269名または276名。

戦艦大和の沈没によって連合艦隊は、完全に洋上行動能力を失い、その後艦隊として出撃することはなかった。1945年4月25日、連合艦隊だけでなく海上護衛総隊及び各鎮守府をも指揮する海軍総隊が設けられ、終戦まで海上護衛及び各特攻作戦の指揮を執る。

海上特攻の経緯

戦艦大和』(児島襄著)によると、4月2日矢矧での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。

1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

この3案に対し古村少将、山本大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。 しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。 この命令は連合艦隊司令長官と軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなかった。

特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、陛下から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。

現在

現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176km、水深345mの地点に沈没している。艦体は1番副砲跡を境に前後2つに分かれ、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90 度)方向を向いている。

右舷を下にした艦首部より1番副砲(0 - 110番フレーム付近)までの原型をとどめた部分、転覆した状態の3番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部(175 - 246番フレーム付近)が約170mの間に、原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70m南に転覆した状態で、根元から折れた艦橋は艦首の下敷きとなり、各々半分泥に埋まった状態で沈んでいる。

主砲と副砲塔はすべて転覆時に脱落した。特に3基の主砲は、砲塔の天蓋を下にして海底に塔のように同一線上に直立している。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味している。主砲砲身自体は着底の衝撃によって泥に深く埋もれており観察できていない。

また2番主砲塔のみ基部が酷く破損しており、沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠といわれている。1番と3番主砲塔には著しい損壊は認められていない。副砲塔は砲身が視認されており、損傷もない。

4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが、1本は脱落して、海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリュー軸が折れて、脱落したものと思われる。舵には損傷はなく、正中の位置となっている。艦首部分には左右に貫通している魚雷命中穴があり、その他にも多数の破孔があるようだが、詳細な位置は一般には公開されていない。

2009年1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島支局等広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指している。

「大和型戦艦」らしき2隻の戦艦が動く映像が発見されたことがあるが、のちにこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ型戦艦の戦艦アイオワと戦艦ミズーリの物だと分かった。

歴代艦長

(階級はいずれも大佐)

1. 宮里秀徳:1941年9月5日~(艤装員長)
2. 高柳儀八:1941年11月1日~
3. 松田千秋:1942年12月17日~
4. 大野竹二:1943年9月7日~
5. 森下信衛:1944年1月25日~
6. 有賀幸作:1944年11月25日~

最も新しい艦長である有賀が最初に没し(戦死)、先輩艦長は全員が戦後まで存命した。

さらに詳しく → 大和 (戦艦)



日本海軍艦艇写真集・別巻 戦艦大和・武蔵 (呉市海事歴史科学館図録―日本海軍艦艇写真集別巻)日本海軍艦艇写真集・別巻 戦艦大和・武蔵 (呉市海事歴史科学館図録―日本海軍艦艇写真集別巻)
(2005/04/15)
不明

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タグ : 戦艦大和 大日本帝国海軍 太平洋戦争 坊ノ岬沖海戦

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