世界恐慌 (The Great Depression)

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2010/12/27(月)
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世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(world crisis)のこと、あるいは1929年に始まった経済不況(The Great Depression)を指す。後者の事件は大恐慌、世界大恐慌とも言われる。当記事では、世界恐慌の概要とともに、とくに1929年から発生した世界恐慌について詳述する。

概説

ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という。マルクス経済学では、資本主義諸国の経済の有機的連関によって、資本主義経済の矛盾も世界的に爆発的に広がる危険性を持つと捉える。恐慌がこうした要因で波及した世界恐慌の最初の例として、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった恐慌が挙げられる。

上の分類における世界恐慌のもっとも代表的な例が1929年にアメリカ合衆国のウォール街で起きたパニックをきっかけに世界各国を襲った大恐慌であり、単に「世界恐慌」と書いてこの1929年の事件を表す場合もある。

また、2008年の金融危機に始まる一連の不況も「世界恐慌」と呼ばれる場合がある。ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンも、世界的な景気後退状況について「これは、まさに第二次世界恐慌(a second Great Depression)の始まりと思われる」と述べた。

1929年に始まった世界恐慌

1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。

背景

第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。

1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。

また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた。

展開

そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、 24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。

投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。

過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。

大不況から世界恐慌へ

第1次世界大戦後の米国経済の圧倒的な存在感(当時世界の金の半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している。

1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。

暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーストックの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーストックが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出に対し、金融政策を米国のそれと順応させるを得ず(各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった)、不況は国際的に伝播していった。

特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。

大不況が世界に広まるきっかけとなったのは1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年にロスチャイルド男爵により設立)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独オーストリア関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的であった。

クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。

当時の米国大統領、フーバーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった(当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった)。

金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第1次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。

特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで)。この決定は「嵐の中で雨戸を開けた」と評され、昭和恐慌から太平洋戦争へ至る道筋を作ったと言われる。

(当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる)

各国の状況

未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった。

第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった。

社会主義・共産主義への傾倒

世界各国が大恐慌に苦しむ中、NEP(ネップ)で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とスターリンの美化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の支配階級で裏切りが続出した事は冷戦時代に大きな意味を持った。しかしスターリンの目指したのはトロツキーの国際主義ではなくソ連の国益であった。

社会科学における解釈とその影響

政治経済学

世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第1次世界大戦で崩れ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに保護貿易主義を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。米国の生産量に見合うだけの支払うべき資金(有効需要)がどこにもないからである。米国はその本位金保有高に見合うだけの資金創造を海外に投資することで国際分業を促進しなければならない立場にありながら、むしろ投資資金を引き上げる事で世界各国の流動性を枯渇させた。モンロー主義(孤立主義)が優勢で、ウッドロウ・ウィルソンの国際主義ではなかった。第1次世界大戦の参戦も、ルシタニア号事件とツィンメルマン電報事件が必要であった。レンテンマルクを発行しドイツの天文学的インフレを収束させたワイマール共和国のシュトレーゼマンの功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、ナチスの勃興を促した。

最大の負の教訓は、軍国主義を取ったドイツ・イタリア・日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策が必ずしも景気の回復に結び付かなかった事である。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功のように考えられている場合があるが、そうではなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争が強力に余剰生産力を解消したのである。そういう意味でも1929年に始まった世界恐慌は第二次世界大戦の素地を作ったと言える。事実、ニューディールは世界経済の需給ギャップを埋めるにはあまりにも小さく、財政出動に慎重でありすぎ、期間も十分ではなかった。アメリカは第二次世界大戦によってようやく後先を考えない政府支出を始め、国民もまた強力に政策を支持したことによりようやく不況から脱却し、飛躍するのである。

経済学

当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という自由放任主義の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。しかし、このような考え方では1930年代に世界が直面した大恐慌を説明し世界経済を救い上げる手立てを提供することができず、新しい経済理論が求められた。

行政府による財政出動による経済刺激策はフランス革命前後の啓蒙思想の頃から盛んに議論されてきた論題であったが、古典派経済学の過少消費説への勝利以降、政府の介入は民間の経済活動を圧迫するだけであるとの考えが通説となった(クラウディングアウト)。大恐慌の発生以降、再びこの論題がアメリカおよびイギリスで盛んに論議され、アメリカでは共和党のフーバー政権が赤字財政と国債発行に反対し、均衡予算主義のためにクラウディングアウトの議論を援用した。また、イギリスでは保守党政権下の財務省が同様の理論でケインズの立案になる自由党の提案と対立した。

ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の中で、政府による財政出動によって、失われた雇用の創出と有効需要の創出が可能であり、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づき、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、回復可能であることを示した。

反ケインジアンの筆頭とされるマネタリストのミルトン・フリードマンは、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求めている。

さらに詳しく → 世界恐慌



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タグ : 世界大恐慌 世界恐慌 経済恐慌 経済不況

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