V2ロケット (V-2 rocket、Vergeltungswaffe 2)

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2010/12/06(月)
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V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ロケット(弾道ミサイル)であり、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが命名した報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)を指す。この兵器は大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された。開発名称のAggregat 4(略号:A4 Aggregatは「集計」「凝集体」「ユニット」の意)も知られている。

開発

1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。

フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量500kg)の飛行実験を成功させた。

1936年までには、チームはA2ロケットの開発計画を終了し、新たにA3とA4の開発に着手した。後者は射程距離175km、最大高度80km、搭載量約1トンとして設計された。フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増しつつあり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿するため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場(Heeresversuchsanstalt Kummersdorf)からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島ペーネミュンデに新設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場(HVP)に移した。

A4の約1/2スケールモデルのA3は4回の打上げに全て失敗したため、A5の設計が始められた。このバージョンは完璧な信頼性を備え、1941年までに約70基が試射された。最初のA4は1942年3月に飛行し、およそ1.6km飛んで海中に落下した。2回目の打上げでは高度11.2kmに到達して爆発した。1942年10月3日の3回目の打上げで成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって 192km先に落下した。

1940年頃よりイギリス軍情報部は写真偵察からこの開発計画を察知し、1943年8月にペーネミュンデを爆撃した(ハイドラ作戦)。このため、同年11月より生産テスト・発射訓練部隊は内陸部奥深くの武装親衛隊演習場、ハイデラガー(Heidelager)(現ポーランドのブリツナ Blizna)に移動した。1944年5月には、試射されたミサイルをポーランド人レジスタンスがブク川の土手から回収し、極めて重要な技術的詳細をイギリスに伝えたこともあり、連合軍はペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させた。

ドルンベルガーは当初よりトラクター牽引式の発射装置を想定し、ロケットのサイズを鉄道・道路での輸送が可能な範囲に留めることを設計条件としていた。アドルフ・ヒトラーは地下発射陣地に拘り、最初の陣地建設がカレー近くで1943年に開始されたが、イギリスは直ちにこれを爆撃して破壊した。この一連の作戦はクロスボー作戦(Operation Crossbow)として著名。

このため地下発射陣地建設計画は破棄され、ミサイル、人員、機器、燃料を乗せた約30台の各種車両から成る技術部隊・発射部隊が編成された。ミサイルは工場から射場近くまで鉄道輸送され、運搬車(Vidalwagen)に載せ換えて射場まで道路輸送された。弾頭が取り付けられた後、発射部隊がミサイルを発射台兼用車(Meilerwagen)に移し、液体燃料を注入して発射した。

ミサイルは事実上どこからでも発射可能で、カモフラージュの観点から特に森林の道路上が好まれた。射場決定から発射までの所要時間は、4ないし6時間程度で、機動性の高い小部隊だったため、一度として敵空軍に捕捉されたことはなかった。なお、報復兵器のうち、V1は空軍所管だったのに対し、V2は陸軍が所管した。これは、V1が飛行爆弾で「無人の戦闘機」とみなされたのに対して、V2はロケットで「巨大で高性能な砲弾」と考えられたことによる。

生産・発射

V2は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した工場で、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所の収容者により生産された。その多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、劣悪な環境の中、そのうち約10,000人が過労死したり、警備員の手で殺された。皮肉なことに、この数はV2の実際の攻撃による死者数を遥かにしのいでいる。

最初に運用段階に達したのは第444砲兵大隊で、1944年9月2日、当時解放されたばかりのパリを攻撃すべく、ベルギーのホウファリーゼ近くに発射基地を設営した。翌日には第485砲兵大隊がロンドン攻撃のためにハーグに移動した。数日間は打ち上げは失敗に終わったが、9月8日両部隊とも成功した。

続く数ヶ月間に発射された総数は次の通り。

* ベルギーに対して
    o アントウェルペン 1610
    o リエージュ 27
    o ハッセルト 13
    o トゥルネー 9
    o モンス 3
    o ディースト 2
* フランスに対して
    o リール 25
    o パリ 22
    o トゥールコアン 19
    o アラス 6
    o カンブレ 4
* イギリスに対して
    o ロンドン 1358
    o ノリッチ/イプスウィッチ 44
* 地上部隊が爆破に失敗したライン川の鉄橋を目標に
    o レーマゲンの鉄橋 11
* オランダに対して
    o マーストリヒト 19

1945年3月3日、連合国軍はハーグ近郊のV2と発射設備を大規模爆撃で破壊しようと試みたが、航法誤差のためベザイデンハウツェ区域が破壊され、市民におよそ500名の死者を出した。

V2の軍事的効果は限定的であった。ごく初歩的な誘導システムは特定目標を照準できず、コストは4発で概ね爆撃機1機に匹敵した(爆撃機はより遠距離の目標に、より正確に、遥かに多くの弾頭を、幾度も運搬可能)。ただし心理的効果はかなり大きく、爆撃機や特徴的な唸り音を発するV1飛行爆弾と違い、超音速で事前の警告なしに飛来し、既存の兵器では迎撃不可能なV2は、ドイツにとって有用な兵器たりえた。特に、ロンドン市民は連日の攻撃に多大な不安に晒され、市街地への被害も甚大であった。

反面迎撃不可能ゆえに、V2の攻撃を阻止するには発射基地を制圧する必要があり、かえって連合軍のドイツ侵攻を早める動機づけにもなった。そのような意味ではドイツの敗北を早めた兵器とも言える。一方、同じ報復兵器のV1飛行爆弾は低速で迎撃が可能な分、かえってそのために戦力を割かねばならず、戦略的にはV2より効果があったとも言える。

上記の欠点を嫌ったアルベルト・シュペーアは、より小型で使い勝手の良い兵器の開発を望んだが、大型兵器による戦局打破に拘ったヒトラーに押し切られ、製造が続けられた。

戦後のV2の利用

戦争の末期には、V2ロケットと技術者たちをできるだけ多く獲得するレースが行われた。アメリカ軍はペーパークリップ作戦の下で貨車300両分のV2とその部品を鹵獲し、オルガー・N・トフトイ大佐は、ジョージ・パットン大将率いる第3軍に投降したフォン・ブラウンやドルンベルガー将軍をはじめとする126人の主要な設計技術者をアメリカに連れ帰った。その後数年間、アメリカのロケット計画は未使用のV2ロケットを活用して進められた。これらの改良型V2のひとつである2段式の「バンパー」は、1949年2月24日の試験飛行で当時の高度記録である400kmを達成した。

フォン・ブラウンはアメリカ陸軍のレッドストーン兵器廠に勤務し、1950年からはアラバマ州ハンツビルに居住。後にレッドストーン、ジュピター、ジュピター-C、パーシングそしてサターンなど、ほぼ全てのアメリカのロケットの生みの親となった。

ソ連もまた多数のV2ロケットと250人余りの技術者を捕らえた。元共産党員の妻を持つヘルムート・グレトルップ(Helmut Gröttrup)がこのグループを率いた。彼らはドイツ国内でロケット研究を継続できるという条件でソ連軍に協力したが、1946年にソ連は突如彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに多くの新しいミサイルの開発を行なわせた。しかし、ドイツ人の設計によるものは一つも生産されたものはなかった。1950年代にソ連の技術者が十分な経験を積むと、ドイツ人技術者は東ドイツに帰国させられた。

ドイツ人技術者のノウハウをもとに、ソ連が開発したミサイルにはV-2のコピーR-1、射程延伸型R-2、R-3(計画のみ)、ソ連で最初に核弾頭を搭載したR-5およびR-5M(NATO名SS-3 Shyster)などがある。スカッド(NATO名 SS-1b/c SCUD。ソ連名称 R-11およびR-17。)ミサイルはそれらの技術から発展した戦術ミサイルである。

同様にイギリスは少数のV2ミサイルを捕獲し、いくつかを北ドイツの射場でバックファイア作戦として打ち上げた。しかし、関係した技術者はすでに、試験完了後にアメリカに移ることに合意していた。同作戦の報告は、あらゆる支援手順、専用の車両そして燃料合成を含む広範囲な技術文書を残した。

詳細技術

V2の射程距離は約1,000kgの弾頭でおよそ300kmであった。 そのほかの仕様は次の通り:

* 構成:1段式液体ロケット
* 全長:約14m
* 直径:約1.7m
* 離陸時質量:12,800kg
* 離陸時推力:27,000kgf

V2はアルコール(エタノール)と水の混合燃料及び酸化剤の液体酸素を推進剤とした。燃料ターボポンプは過酸化水素により駆動された。混合燃料は重量軽減のためアルミニウムの燃料タンクに貯蔵されたが、アルミニウムは稀少かつ高価であったため、ドイツの戦時経済にとっては大きな負担であった。

燃料は主燃焼機の壁を通してポンプで運ばれた。これは混合燃料を予熱すると同時に燃焼機を冷却して、過熱による溶融を防ぐためである。そして燃料はアルコールと液体酸素の混合比が常に適切になるよう、いくつかのノズルを通って主燃焼室に運ばれた。

燃焼ガスの向きを制御し、ロケットの進行方向を変えるための推力偏向板(ジェットベーン、Jet vane)方式には、現在大気圏外を飛行するロケットで主流の、ノズル全体の向きを変えるジンバル機構方式に比べると、燃焼ガスの運動エネルギーロスが大きいという欠点がある。しかし機構がごく簡単なため、当時の工作技術の下では合理的な選択であった。

後期モデルには目標への誘導のために地上から送信する電波信号を用いるものもあったが、初期モデルはロケットの方位を合わせるための単純なアナログコンピュータを用いた。飛行距離は燃料残量で計算され、燃焼が完了するとロケットは加速を停止し、程なく放物線飛行カーブの頂点(約80km)に達した。

作戦用のV2は大抵何種類かの迷彩パターンで塗装されたが、終戦近くには全面オリーブドラブ塗装も見られた。試験中には、ロケットは特徴的な黒白の市松模様で塗装され、ロケットが自身の長軸を回転軸としてスピンしたかどうか判断できるようにされた。

諸元

種類 単段式弾道ミサイル (エリア爆撃)
原開発国 ナチス・ドイツ
重量 12,500 kg (28,000 lb)
全長 14 m (0.0076 nmi)
翼幅 3.56 m (0.00192 nmi)
弾体直径 1.65 m (0.00089 nmi)
弾頭 980 kg (2,200 lb) アマトール火薬
推進薬 エタノールが75%と水が25%の混合燃料が3,810 kg (8,400 lb)と液体酸素が4,910 kg (10,800 lb)
行動距離 320 km (200 mi)
射高 88 km (55 mi) 最大射程時の最大高度, 206 km (128 mi) 垂直打ち上げ時の最大高度
速度 最大:
     1,600 m/s (5,200 ft/s)
     5,760 km/h (3,580 mph)

    着弾時:
    800 m/s (2,600 ft/s)
    2,880 km/h (1,790 mph)

誘導方式 ジャイロスコープによる姿勢制御
    エンジン停止用のミューラー型振り子式ジャイロスコピック加速度計が量産された大半のロケットに装備
    (10% のミッテルベルクロケットは誘導ビームでエンジン停止)
発射  運搬式(Meillerwagen)

さらに詳しく → V2ロケット



ドイツ兵器名鑑 陸上編<ミリタリー> (ミリタリーイラストレイテッド)ドイツ兵器名鑑 陸上編<ミリタリー> (ミリタリーイラストレイテッド)
(2003/04/25)
田中 義夫

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タグ : V2ロケット ナチスドイツ 報復兵器 弾道ミサイル 第二次世界大戦

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