ヤク-1 (Yakovlev Yak-1、Як-1)

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2010/12/02(木)
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Yak-1ヤク1;ロシア語:Як-1ヤーク・アヂーン、ヤーカヂーン)は、ソ連で開発された戦闘機。第二次世界大戦中盤の労農赤軍航空隊(赤色空軍)や労農赤色海軍航空隊(ソ連海軍航空隊)の主力戦闘機となった。ナチス・ドイツ軍との戦闘におけるソ連軍反撃の序盤に活躍し、またその後の一連のヤク戦闘機の始祖となったため、ソ連側では「最も偉大な戦闘機」のひとつとして記憶されている。

なお、名称は日本語文献では日本語のローマ字表記に従って「Yak-1」と書かれるか、そのローマ字読みで「ヤク1」と書かれることが多いが、一方で「Jak-1」と書かれることもある。これは、言語によってロシア語の文字の転写が異なることに由来する。ドイツやポーランド、チェコなどの東欧圏では、使用言語の発音表記上の規則に従って「Jak-1」と書かれることが専らである。また、ソ連科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)の採用した正式の転写法でも「Jak-1」となる。一方、ルーマニア語を用いるルーマニアやモルドヴァでは「Iak-1」と書かれる。その他、表記のバリエーションとしては、ロシア語でも他言語でも「ЯК-1」、「YAK-1」などとすべて大文字で書かれることもある。

開発

1930年代末、スペイン内戦やノモンハン事件ですでに性能不足を露呈していたそれまでの主力機に代わる新たな戦闘機の開発が、国内の各設計局に対し命ぜられた。以前より多くの戦闘機の開発に成功し「戦闘機の王様」と呼ばれていたポリカールポフ設計局に加え、ヤコヴレフ、ラーヴォチキン、ミグ、スホーイなど多くの設計局が新型戦闘機の設計に着手した。

1938年11月に第一線級戦闘機の開発を命ぜられたヤコヴレフ設計局では、設計局の頭文字をとったYa-26の開発名称のもと初の本格的戦闘機の開発に取り掛かった。それまでヤコヴレフ設計局ではAIRシリーズやそこから生まれたUT-1 (AIR-14) やUT-2などの軽量飛行機の開発に成功してきたが、かねてより戦闘機の開発に強い関心を持っていたアレクサーンドル・セルゲーエヴィチ・ヤーコヴレフ(Александр Сергеевич Яковлевアリクサーンドル・スィルギェーヴィチュ・アーカヴリェフ、1906年 – 1989年)は、この千載一遇の機会にそれまでのものとは一線を画する新型戦闘機を生み出そうと努力した。設計された機体には、設計者同士の繋がりからクリーモフ設計局製のエンジンが搭載されることとなった。Ya-26には「26番目の戦闘機」を意味するI-26の正式名称が与えられ、開発が進行された。最初の計画では、1350馬力の中高度用液冷V型12気筒M-106エンジンを搭載して高度6000 mにおいて最高速度620 km/h、着陸速度120 km/h、航続距離600 km、飛行上限高度11~12 km、高度10000 mまでの到達時間9~11分、武装は12.7 mm機銃BSを1 門と高速射撃用の7.62 mm機銃ShKASを2 門となっていた。

I-26初号機であるI-26-Iの組み立ては1939年10月1日にモスクワの第115工場で開始された。一方、搭載が予定されていたM-106エンジンは最初のM-106-Iの組み立てが第26工場で行われ、発表によれば最初の試験が1940年2月に実施され、その後4月には二度目の試験が行われた。しかしながら、このエンジンは完成が間に合わなくなったため、I-26は急遽、同クラスだがやや旧型で出力が1050~1100馬力に落ちるM-105Pを搭載する仕様に変更されることとなった。一方これに伴い武装は強化され、VISh-61油圧プロペラハブ上に20 mm機関砲であるMP-20またはShVAKが搭載されることとなった。主翼下面と尾部の3ヶ所にある降着装置は、主輪の一部が露出する引き込み式とされ、その上げ下げには空気圧が使用された。また、ジュラルミン製分割式フラップもそれ同様空気圧によって作動するものとされた。空気抵抗を減ずるため、グリコールを使用するラジエーターと潤滑油冷却器は主翼後縁下面に取り付けられたダクト内にまとめて収められた。I-26-Iのキャブレター空気取り入れ口は、機首部分下面ではなく主翼付け根下面に取り付けられていた。

I-26-Iの組み立ては12月27日に完了し、モスクワの中央飛行場(Центральный аэродромツェントラーリヌィイ・アエラドローム)へ送られた。完成したI-26は、それまでのポリカールポフ風の幅の広い寸詰まりの小型の胴体をもったソ連戦闘機とは一線を画す、優秀な速度性能を想起させるスマートな外貌をもって登場した。そのため、工場員からは「クラサーヴェツ」(Красавецクラサーヴィツ)、つまり「美男子」と渾名された。

I-26-Iは、年の明けた1月5日より飛行試験に入り、1月13日には初めて完全な飛行を果たした。試験飛行における操縦は、試験工場の主任パイロットであるユリアーン・イヴァーノヴィチ・ピオントコーフスキイ (Юлиан Иванович Пионтковский) によって行われた。兵装や無線装置は搭載されずに行われた初飛行では、当時一般にまだ技術的に完成域に達していなかった引き込み式の降着装置も、雪氷の悪条件のなか順調に作動した。新型機の試験は緊張のなか続けられ、月内に10回の試験飛行が遂行された。だが、燃料系統が計画通りに働かないという事態が発生した。つまり、燃料系統のアルミニウム配管に疲労破壊が多発し、そのために飛行中に火災が度々発生した。また、空気圧系統も不調で、機銃射撃ができなくなったり、スライド式操縦席覆いが途中で引っ掛かって閉まらない、あるいは開かないということもしばしばあった。ピオントコーフスキイは、試作機体を守るために15回もの不時着陸を余儀なくされた。結局、再三に亙り燃料系統は作り直され、異なる潤滑油用ラジエーターが試された。ベアリングの過熱のためにエンジンは3度交換された。しかしながら、 I-26-Iは成功しなかった。4月27日、I-26-Iはついに墜落し、ピオントコフスキイの生命とともに機体は失われた。

2号機であるI-26-IIは、I-26-Iの墜落以前の3月26日に飛行状態となった。一方、4月11日には二人目のテストパイロットセルゲーイ・アレクサーンドロヴィチ・コルズィーンシチコフ (Сергей Александрович Корзинщиков) が試験に迎えられた。工場試験で1機種に対し複数のテストパイロットをつけるのは、これが初めてのことであった。I-26-IIには、I-26-Iの試験で明らかになった欠陥を修正するための多くの改善点が盛り込まれていた。潤滑油冷却器は主翼付け根下面から機首の下へ移され、キャブレター空気取り入れ口を主翼付け根に分割、胴体幅はキャビンの後方で従来より拡大された。垂直尾翼の翼弦も広げられた。また、機体の軽量化と生産性と整備性の向上のための構造の簡略化として、降着装置のうち尾輪の引き込み装置を廃して固定式とした。

I-26-IIは、5月1日のメーデーで初飛行を行った。I-26-IIはコルズィーンシチコフの操縦により602 km/hの最高速度を記録したこともあったが、通常は590~595 km/hに留まった。試験はコルズィーンシチコフのほか何人かのテストパイロットによって行われた。その後、I-26-IIは、1940年6月にはI-180やI-28(Yak-5の試作名称)、I-200(MiG-1の試作名称)、I-301(LaGG-1の試作名称)と比較試験され、模擬戦において優れた成績を出した。

I-26-IIの試験は赤軍航空軍科学試験研究所 (NII VVS KA;Научно-испытательный институт (НИИ) ВВС КА) へ移され、6月10日より「ソ連英雄」ピョートル・ミハーイロヴィチ・ステファノーフスキイ (Петр Михайлович Стефановский) らによって厳しい国家試験が継続された。しかしながら、差し迫った戦局からその実戦配備が急がれ、機体は完成の域に達しないまま量産へと向かっていった。12月9日に試験されたI-26-IIIでは、M-105PエンジンとVISh-61プロペラが組み合わされた。この試験では基本的に好成績を収めたが、なお組み立てやシステムの不具合を指摘され、それらを解決した上でI-26はYak-1の正式名称のもと量産に移されることとなった。

生産と配備

量産型Yak-1は、翌1941年に初飛行した。大祖国戦争(独ソ戦)緒戦においてドイツ戦闘機に大敗を喫したソ連空軍は、イギリスやアメリカ合衆国から戦闘機を輸入するとともに各設計局へ新型機の生産を急がせたが、いずれの機体も諸々の不具合や欠陥を露呈し、また工場の疎開に伴う混乱から、生産の遅れと機体規格の完全な不統一といった問題が生じた。もっとも順調な生産成績を出していたYak-1でさえ、まったく同規格の機体がひとつも存在しないというほど生産ラインは混乱した。

生産は、当初はモスクワのレニングラート大通り(レニングラーツキイ・プロスペークト)にあるヤコヴレフ設計局に隣接する GAZ-301とサラトフのGAZ-292の2ヶ所の工場で開始された。だが、1941年秋以降のドイツ軍のロシア侵攻により、生産ラインはスヴェルドロフスク州カメンスク・ウラルスキーのGAZ-286へ、さらに1942年後期にはノヴォシビルスクのGAZ-153へと疎開を余儀なくされた。GAZ-153ではそれまでLaGG-3の製造が行われていたが、この戦闘機の不具合と生産の遅れによりYak-1へ生産ラインが回されたのであった。生産されたYak-1では、機体設計上の欠陥や複雑な構造のための組み立て上の不手際から離着陸時や飛行中の事故が多発し、また戦闘時に機体構造に起因する不利も生じたため多くの改修が現場の判断で取り入れられていった。特に、Yak-1の高い着陸速度は初心者には高すぎる操縦技術を必要とし、失速による墜落や過速度によるオーバーランなど多くの事故を招いた。Yak-1では、離着陸時の操縦が最も難しいとされた。

構造

Yak-1は当時の戦闘機の中でも最も軽量な機体のひとつであった。Yak-1は低翼機で、機体は混合構造であった。すなわち、胴体の骨組みはクロマンシル(クロム・マンガン・シリカ鋼)製の溶接管で、機首外板はジュラルミン製、尾翼は羽布製、主翼の大部分と後部胴体はいわゆる「デルタ合板」(デーリタ・ドレヴェシーナ;дельта-древесинаデーリタ・ドリヴィスィーナ)で作られていた。「デルタ合板」は積層材の一種で、正式にはDSP-10 (ДСП-10) と呼ばれ、クンツェーフスキイ工場のレオーンチイ・イオーヴィチ・ルィシコーフ (Леонтий Иович Рыжков) によって開発された。DSP-10は、フェノール・ホルムアルデヒド樹脂をアルコール溶液によって浸透させ、加熱によってプレス加工した薄い白樺材を、VIAM-ZB (ВИАМ-ЗБ) と呼ばれる接着剤で互いに貼り合わせたものであった。「デルタ合板」はたいへん丈夫で耐火性に優れるという長所を持ち多くのソ連機に使用されたが、その反面で重量がかさむという重大な欠点を持っており、これにより機体の操縦特性や機動性の悪化が招かれた。

だが、当時のソ連国内の鉄鋼業事情を鑑みれば、主力機を混合構造の機体としたのは得策といえた。特に、重工業をはじめあらゆる産業の中心地であったウクライナが真っ先にドイツ軍による侵略と損害を受け、各工業施設がシベリア方面への疎開を余儀なくされたことを考慮すれば、もしYak-1をはじめとする多くの軍用機が全金属製で設計されていたら、それは大戦末期の日本のように致命的な航空機生産力の低下を招いていたであろう。西側では木製軍用機として合板で挟んだバルサ材と羽布張りの主翼をもったモスキートが特に有名であるが、ソ連ではYak-1やIl-2をはじめ終戦まで混合構造の軍用機がその主力となっており、モスキートもソ連ではごくありふれた構造をもつ航空機のひとつでしかなかった。ソ連で全金属製の機体が主力となるのは、戦後Yak-9PやLa-9が配備されてからである。

Yak-1は、1050馬力のM-105PAにより、最大580 km/hで飛行、高度5000 mまでは5.4分以内に到達できた。M-105PAはM-105Pを改良した液冷V型12気筒のレシプロエンジンで、「M」は「モトール」(моторマトール:「発動機」の意味)を意味していたが、のちに設計者ヴラヂーミル・ヤーコヴレヴィチ・クリーモフ (Владимир Яковлевич Климов、Vladimir Yakovlyevich Klimov、1892年 - 1962年)のイニシャルをとったVK-105PA (ВК-105ПА) に改称された。

Yak-1の武装はすべて胴体に集中位置されており、20mm ShVAK 1 門がエンジンのプロペラハブ軸上に、7.62mm ShKAS 2 門が機首エンジン上面に並べて搭載されていた。この武装は当時としては強力なもので、同時期に開発されたミグやラーヴォチキンの機体は7.62 mmや12.7 mm機銃しか搭載していなかった。これらの機体が打撃力不足で泣いたのに対し、Yak-1の20 mm機関砲ShVAKは脆弱な防御しか持たない当時の多くの機体に対して「一撃必殺」の威力を発揮した。

ShVAKは、大型の爆撃機に対しても大きな威力を発揮した。LaGG-3の初期シリーズが搭載していた23 mm機関砲VYa-23が不調で機体の改良に伴い撤去されたのに対し、ShVAKは十分な働きを見せ、第二次大戦におけるソ連戦闘機の標準武装のひとつとなった。ShKASも、同じくソ連軍戦闘機の標準武装のひとつであった。ShKASは小口径で一発の威力には劣ったが、高い射撃速度により戦闘機など軽防御ではあるが軽快な動きを見せる機体に対し効果的であると考えられた。のち戦闘機の防御力の向上により7.62 mm機銃弾では威力不足となると、改良型のYak-1には12.7 mmのUBがShKASにかわって搭載されるようになった。これは望ましくない重量の増加を招いたため、のちのヤク戦闘機では機銃を1 門に減らしたものもあった。

発展

Yak-1は、開発時の仮想敵機のひとつであったナチスドイツ空軍のBf 109Eに対しては有利に戦闘を遂行する能力を持っていたが、大幅に性能が向上した新型のBf 109Fに対しては若干分が悪かった。そのため、登場直後からすでに改良型の完成が強く求められた。

Yak-1の搭載エンジンは、当初のM-105Pから改良型のM-105PFに生産の途中から変更された。また、後方視界の悪さも深刻であった。幾度か改良作業が試行されたが、結局は抜本的な機体構成の変更が必要であることが明白となり、いわゆる「水滴風防」と呼ばれる形の操縦席風防を採用するため、後部胴体の高さが減ぜられた。風防ガラスの透明度の低さも問題で、一説には壜底から覗いているようだと形容され、品質向上が求められた。また、前方特に下方の視界が悪かった第一風防の形状は、Yak-1でもいくつかの型が試され、後継機の開発過程で徐々に改良されていった。

水滴風防とVK-105PF エンジンをもつ機体は、Yak-1Bと呼ばれている。Yak-1Bの基本デザインは後継機の基本デザインを決定付け、戦後のYak-9Pまでそのデザインは基本的に変更されなかった。翼幅を減じた新しい主翼の採用により低空性能を向上したYak-1Mは、「最良のヤク戦闘機」と謳われるYak-3のもとともなった。また、Yak-1の練習機型としてYak-1から開発されたYak-7は、Yak-1よりも優れた性能を示したためYak-1に代わって戦闘機として用いられるようになり、のちにもうひとつの主力戦闘機Yak-9を生み出した。

実戦

Yak-1は、その登場時にソ連を取り巻いていた情勢から、対独戦の行われていたヨーロッパ・ロシア、ベラルーシを含むバルト海方面、ウクライナ、カフカース、ベッサラビア、黒海方面などでの活動が特に知られている。Yak-1は、それまでのI-16にかわりソ連の主力前線戦闘機となった。「この機体を操縦できれば、操縦できぬ機体などない」と言われた前任機ほどではなかったが、混合構造機である Yak-1の飛行特性は初心者には極めて扱いにくい癖のあるものであった。その上操縦システムに関しての「容易化のための自動化」は限定的で、当時としてもたいへん原始的な操縦システムを搭載していると言わざるを得なかった。

だが、熟練者が操縦すればドイツ空軍の主力戦闘機Bf 109にも劣らない高い能力を発揮し、多くの撃墜王も誕生した。数多くあるYak-1を装備した部隊の中で特に有名なのは、スターリングラート近郊の町サラートフの防空を司った第586戦闘飛行連隊である。この部隊は、戦前より著名な女性飛行家であったマリーナ・ミハーイロヴナ・ラスコーヴァ (Марина Михайловна Раскова) らのヨシフ・スターリンへの請願により結成され、女性パイロットにより構成されていた。そのため別名「女性戦闘飛行連隊」(Женский ИАПジェーンスキイ・イー・アー・ペー)と呼ばれ、多くの優秀な女性戦闘機パイロットを輩出した。特に、

12機の撃墜が公認されているリーヂヤ・ヴラヂーミロヴナ・リトヴァーク(Лидия Владимировна Литвак、リトヴャーク (Литвяк) とも)、
11機の撃墜が公認されているエカテリーナ・ヴァスィーリエヴナ・ブダノーヴァ (Екатерина Васильевна Буданова) らは、この部隊から出発した女性撃墜王として知られている。

リトヴァークはYak-1を駆りスターリングラートの戦いの時期に同空域で目覚しい働きを見せ、「スターリングラートの白ユリ」 (Белая лилия Сталинградаビェーラヤ・リーリヤ・スタリングラーダ) の名で一躍ヒロインに祭り上げられた。



その他、Yak-1を操縦した撃墜王・ソ連英雄は、

アレクセーイ・ミハーイロヴィチ・レシェトフ (Алексей Михайлович Решетов)、
ミハイール・ドミートリエヴィチ・バラーノフ (Михаил Дмитриевич Баранов)、
パーヴェル・イーリイチ・パーヴロフ (Павел Ильич Павлов)、
インノケーンチイ・ヴァスィーリエヴィチ・クズネツォーフ (Иннокентий Васильевич Кузнецов)、
パーヴェル・ペトローヴィチ・カラヴァーイ (Павел Петрович Каравай)、
アレクセーイ・パーヴロヴィチ・シーシキン (Алексей Павлович Шишкин)、
イヴァーン・フェオクチーストヴィチ・ポポーフ (Иван Феоктистович Попов)、
アレクセーイ・ヴァスィーリエヴィチ・アレリューヒン (Алексей Васильевич Алелюхин)、
セルゲーイ・ダニーロヴィチ・ルガーンスキイ (Сергей Данилович Луганский)、
ニコラーイ・ヴァスィーリエヴィチ・ブリャーク (Николай Васильевич Буряк)、
スルターン・アメート=ハン (Султан Амет-хан)

など、枚挙に暇がない。

だが、一般にYak-1登場前後、大戦初期におけるソ連のパイロットは民間航空や航空クラブ、農業機のパイロットなど民間出身者が多く、操縦技術は優れていても戦闘技術がなっておらず、機体の不良と相俟ってドイツ軍戦闘機相手に苦戦を強いられていた。ソ連ではこうした多くの一般人民が優秀なパイロットとして祖国を守ったと宣伝していたが、実際には彼らの多くは個人の未熟な戦術と上層部の拙劣な戦闘指揮から悲惨な最期を遂げていた。対するドイツ空軍からは100機を超える撃墜数を誇る撃墜王が誕生していたが、彼らの戦果の多くはソ連軍相手に戦った東部戦線におけるものであった。ソ連は、ウクライナやベラルーシにおいて多大な犠牲を払い、首都モスクワやレニングラートを含むヨーロッパ・ロシアは大きな戦禍を被った。ドイツ軍は、電光石火の進撃により容易くソ連を粉砕しうるものと宣伝した。

しかし、経験を積んだソ連軍部隊は徐々にその能力を上げていった。戦闘機部隊では、Yak-1が絶え間ない努力によりいかなるドイツ軍戦闘機にも引けをとらない機体へと改良されていった。それ以上にパイロットの手腕は経験の蓄積により、技術的にも戦術的にも劇的に向上していった。大戦中期以降、ドイツ軍はかつてのような一方的な戦闘を行うことは不可能になっていった。ドイツ軍は多くの熟練者を戦闘で失い、指揮系統は混乱していた。また、占領地域での悪質な統治で嫌われたことも、戦争遂行の妨げとなった。

ドイツ軍爆撃機部隊は長らくJu 87、Ju 88、He 111、Do 17などを主力としていたが、強まるソ連軍防空戦闘機の反撃に対し機体の防御機銃を増設するなどの対策をとった。だが、機銃の増備や装甲板は重量の増加と飛行速度の低下を招き、ますます高速重武装化するソ連軍戦闘機の前に劣勢を強いられた。さらに、厳しい冬の気候もドイツ軍を苦しめた。もっともこれはドイツ軍側にとってのみのことではなくソ連軍側にとっても同様に厳しいものであったのだが、ソ連軍の装備の方が氷雪の中での稼働率に優れていた。Yak-1など多くの機体で、冬期専用の装備をもった機体も配備された。これは通常の車輪式降着装置にかえて「スキー板」を履かせたものであった。第一次世界大戦時より戦後のジェット機時代にいたるまで、航空機に「スキー板」を履かせることはソ連のひとつの伝統といえた。

スターリングラードの戦い以降のソ連軍の対独反撃の初期に目覚しい活動を見せたYak-1は、それ自体はドイツ軍戦闘機に対して圧倒的な優位を獲得するには到らなかったが、ドイツ軍への反撃の烽火を上げた新生ソ連軍の象徴的な戦闘機となった。「ヤク戦闘機」は朝鮮戦争においてMiG-15が登場するまでソ連戦闘機の代名詞となったが、その「輝かしい」歴史はYak-1から始まったのである。そのため、機体の抱えていた数々の欠陥にも拘らず、今日もロシアなどではYak-1を「最も偉大な戦闘機」のひとつに数え上げることも少なくない。

海外での運用

Yak-1はソ連のポーランド人部隊である第一戦闘飛行連隊「ワルシャワ」(«Варшава»ヴァルシャーヴァ)やソ連のフランス人部隊として機能した自由フランス空軍の「ノルマンディー・ニーメン」 (Normandie-Niemen;「ノルマーンヂヤ・ネーマン」;«Нормандия-Неман»ナルマーンヂヤ・ニェーマン;「ノルマンディー・ニェメン」などとも)でも運用されソ連人以外にも比較的なじみのあるソ連製戦闘機となったが、後継機であるYak-9が広く海外で運用されたため、Yak-1はそのほとんどがソ連国内で現役を終えた。例外はユーゴスラヴィアで、戦後ごく少数ではあるがYak-1が運用された。また、戦時中に捕獲されたいくつかの機体は黒い十字架を機体に描かれ、ドイツ空軍で試験運用された。

スペック

I-26-2

* 初飛行:1940年
* 翼幅:10.00 m
* 全長:8.48 m
* 翼面積:17.15 m2
* 空虚重量:2318 kg
* 通常離陸重量:2803 kg
* 発動機:M-105P (М-105П) 液冷エンジン ×1
* 出力:1050 馬力
* 最高速度(地表高度):490 km/h
* 最高速度:586 km/h
* 実用航続距離:700 km
* 上昇力:833 m/min
* 実用飛行上限高度:10200 m
* 乗員:1 名
* 武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1(弾数130発)、7.62 mm機銃ShKAS(ШКАС) ×4

Yak-1

* 初飛行:1941年
* 翼幅:10.00 m
* 全長:8.48 m
* 翼面積:17.15 m2
* 空虚重量:2445 kg
* 通常離陸重量:2950 kg
* 発動機:M-105PA(М-105ПА)液冷エンジン ×1
* 出力:1050 馬力
* 最高速度(地表高度):472 km/h
* 最高速度:569 km/h
* 実用航続距離:650 km
* 上昇力:877 m/min
* 実用飛行上限高度:10000 m
* 乗員:1 名
* 武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、7.62 mm機銃ShKAS (ШКАС) ×2

Yak-1(冬季仕様)

* 初飛行:1941年
* 翼幅:10.00 m
* 全長:8.48 m
* 翼面積:17.15 m2
* 空虚重量:2475 kg
* 通常離陸重量:2930 kg
* 発動機:M-105PA(М-105ПА) 液冷エンジン ×1
* 出力:1050 馬力
* 最高速度(地表高度):472 km/h
* 最高速度:441 km/h
* 実用航続距離:533 km
* 上昇力:847 m/min
* 実用飛行上限高度:10400 m
* 乗員:1 名
* 武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、7.62 mm機銃ShKAS (ШКАС) ×2、その他RS-82ロケット弾用牽引架 ×6 を装備可能

Yak-1B

* 初飛行:1942年
* 翼幅:10.00 m
* 全長:8.48 m
* 翼面積:17.15 m2
* 空虚重量:2394 kg
* 通常離陸重量:2883 kg
* 発動機:M-105PF(М-105ПФ) 液冷エンジン ×1
* 出力:1180 馬力
* 最高速度(地表高度):531 km/h
* 最高速度:592 km/h
* 実用航続距離:700 km
* 上昇力:926 m/min
* 実用飛行上限高度:10050 m
* 乗員:1 名
* 武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、12.7 mm機銃UB (УБ) ×2

Yak-1M

* 初飛行:1943年
* 翼幅:9.20 m
* 全長:8.60 m
* 翼面積:14.85 m2
* 空虚重量:2133 kg
* 通常離陸重量:2655 kg
* 発動機:M-105PF(М-105ПФ) 液冷エンジン ×1
* 出力:1180 馬力
* 最高速度(地表高度):545 km/h
* 最高速度:632 km/h
* 実用航続距離:585 km
* 上昇力:1220 m/min
* 実用飛行上限高度:10700 m
* 乗員:1 名
* 武装:20 mm機関砲ShVAK (ШВАК) ×1、12.7 mm機銃UB (УБ) ×1

さらに詳しく → Yak-1



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