リトアニア独立革命(Lithuania Revolution) - 流血の一月

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2010/10/26(火)
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リトアニア独立革命(りとあにあどくりつかくめい)は、20世紀後期ソビエト連邦の支配下にあったリトアニアの独立運動とその実現。リトアニアの独立運動はバルト三国全体の独立運動を主導し、最終的にソ連崩壊に大きな役割を果たした。

背景

リトアニアは第一次世界大戦のあと、1920年に独立共和国を形成していたが、1940年からソ連に併合され、その連邦構成共和国となった。共和国とは名ばかりで、ソ連共産党中央委員会の独裁、中央集権体制に組み込まれ、実質的には独立も自治もない状態だった。

1985年13月、ゴルバチョフがソ連共産党書記長(実質的な最高権力者)になり、いわゆるペレストロイカ(改革)が始まると、リトアニアでも自由化の機運が生じた。

サユディス結成

1988年6月3日35人の知識人(共産党員も非共産党員もまじっていた)が民族組織「サユディス」(lt:Sąjūdis「運動」の意)の草創グループを組織した。当初は独立は意識せず、ゴルバチョフ政権のペレストロイカ、グラスノスチ、民主化を支持し、自治を求めてゆくものだった。この年、4月にはエストニア、6月にはラトビアでそれぞれ人民戦線が組織された。サユディスの議長には音楽学者でリトアニア音楽アカデミー教授のヴィタウタス・ランズベルギスが選出された。大規模集会が開かれ、地下出版の新聞も多く刊行された。リトアニア語の公用語化、独ソ不可侵条約の秘密議定書(ドイツとソ連によるバルト三国併合の合意)の暴露など、民族的な要求が出され、次第に運動は独立を志向するようになっていった。

人間の鎖

リトアニアの独立運動は、ラトビア、エストニアなどと連携する。独ソ不可侵条約50周年を迎えた1989年8月23日にはヴィリニュス-リガ-タリンを結んで600キロにわたる、200万人の人間の鎖(バルトの道)が形成され、世界に独立を訴えた。 一方、ブラザウスカス第一書記が主導するリトアニア共産党も12月20日、ソ連共産党からの分離を宣言、一党独裁を放棄する。

独立宣言

1990年3月4日、共和国最高会議(国会にあたる)の議員の選挙が50年ぶりに自由な形で行われる。サユディスが選挙に圧勝し、非共産党員としてはじめて共和国最高会議議長にランズベルギスが就任する。

3月11日リトアニア最高会議は、ソ連連邦構成共和国の中でいち早く独立を宣言。

3月15日ソ連政府はその撤回を要求。さらに、ソ連政府は4月17日はリトアニアに対し、経済封鎖を行った。一方、独立に最低5年はかかる連邦離脱法を計画することにより、独立の動きを牽制した。経済制裁によりインフレ率は100%を記録し、特にエネルギーの不足は深刻だったが、共和国は独立宣言を撤回しない。

流血の一月

分離独立の動きを加速するバルト三国に対し、ソ連政府は軍事的圧力をかけるようになる。9月にはラトビアに対して軍事介入する。そして、リトアニアへの介入も準備される。

1991年1月8日、特殊部隊アルファ部隊を含むソ連軍がリトアニアに投入される。

1月10日、ゴルバチョフはリトアニア最高会議に対し、ソ連憲法の回復と反憲法的な立法の撤回を最後通牒的に要求する。

1月11日軍事介入が始まる。

* 11時50分、ヴィリニュスの国防省の建物占拠。
* 12時00分、ヴィリニュス出版センターを包囲、占拠。市民に対し、実弾を発砲し始める。数人負傷。
* 15時00分、リトアニア共産党中央委員会の建物で記者会見。反独立派の共産党が「リトアニアソビエト社会主義共和国・国家救済委員会」の設立を宣言し、自らが唯一合法的な政府であると述べた。
* 16時40分、共和国、サウダルガス外相、ソ連外務省にソ連軍の暴力行為について懸念を表明。
* 21時00分、テレビ中継基地占拠。

1月12日

* 最高会議の徹夜で審議。ランズベルギス、三度ゴルバチョフに電話するが通ぜず。
* リトアニア全土から国民が集まり、最高会議、ラジオ・テレビ局、テレビ塔、主要電話局などの重要拠点の守備に当たる。

1月13日

* 01時50分、戦車および兵士がテレビ塔を守備する市民に発砲、また戦車が市民の列に列に突入。13人が死亡。ソ連軍兵士の一人が味方の発砲で死亡。

* 02時00分 ラジオ・テレビ局を襲撃。生放送中のテレビが中断される。最後の映像はカメラに向かってくる兵士の姿だった。

* この二回の襲撃が行われている中、独立を支持する大群衆が最高会議ビル周囲に集まる。夜には2万人、朝には5万人に達した。臨時の礼拝所が最高会議ビルの内外に設けられ、祈りがささげられた。人々は独立のスローガンを叫び、民族の歌を歌った。軍用トラックや戦車の車列が近くまで来たが、攻撃はしなかった。

この流血の直後、リトアニア最高会議は全ソビエトと西側世界に向かって、文書で声明を出した。それは攻撃を非難し、外国政府に対し、ソ連が主権国家に対する侵略行為を始めたことを認めるよう求めるものだった。 このニュースに対し、ノルウェー政府は国連に訴えを起こした。また、ポーランド政府はリトアニア国民との連帯を表明し、ソ連軍の行為を非難した。キエフ、タリン、リガなど多くの都市でリトアニア支持の集会が開かれた。1月13日以後、占領は続いたが、大きな衝突はなかった。

西側の報道が入ってくると、ゴルバチョフは厳しい立場に立たされた。2月4日、アイスランドがリトアニアの独立を承認し、外交関係を樹立した。

独立達成

1991年8月19日、当時、新連邦条約をめぐってゴルバチョフ大統領と対立していたソ連共産党保守派グループは、クリミアの別荘で休養中のゴルバチョフを軟禁、さらに国営放送を占拠し、クーデターを試みた。しかし、軍の大半は動かず。ロシア共和国大統領エリツィンはゼネラル・ストライキを呼びかけるなどして抵抗、市民もエリツィンを支持したので失敗。リトアニアに較べて漸進的な独立運動を進めていたエストニアが20日・ラトビアが21日、完全な独立を宣言する。いわゆるソ連8月クーデター事件である。これにより、ソ連共産党の権威は完全に失墜した。実権はロシア共和国大統領のエリツィンに移る。ウクライナなどの連邦構成共和国も相次いで独立を宣言する。

9月2日、アメリカ合衆国がバルト三国を承認。

そして、1991年9月6日、ソ連国家評議会はリトアニア、ラトビア、エストニアの独立を承認する。

ソ連解体の動きは急速に進み、12月25日終焉を迎える。

さらに詳しく → リトアニア独立革命


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