リチャード・ニクソン(Richard Nixon) - その知られざる素顔

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2010/10/24(日)
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リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領。デタント政策を推進し、ソビエト連邦との核兵力の削減やベトナム戦争の終結、中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。しかし、「ウォーターゲート事件」により任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

生い立ち

1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかった。

実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノやバイオリンを習う余裕があったことから、決して貧しいものではなかった。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。

その後ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。

副大統領時代

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。

「チェッカーズ・スピーチ」

副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であったニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた。

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党のハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な毛皮のコートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。

併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちが犬を飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた。

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった。

副大統領就任

この様な逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、キューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本や中華民国、韓国などの北東アジアからフィリピンやラオス、カンボジアなどの東南アジア、インドやパキスタン、イランなどの西アジア、オーストラリアやニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。

「キッチン討論」

この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都のモスクワを初めて公式訪問した。

その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。

アイゼンハワーとの確執

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11 月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった。また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている。

第37代合衆国大統領

1969年1月20日に大統領に就任した。大統領就任当時は、ケネディ政権によって始ったベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、過激な運動を嫌う保守層がニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、その後のジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、反戦的なリベラル層からの大きな支持も獲得した。

就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進する。これらの外交における大きな功績のみならず、下記のような内政における様々な功績も高い評価を受け、1972年の大統領選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。

ウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後から1980年代頃まではその功績が過小評価された傾向にあるものの、1973年に実現にこぎつけたベトナム戦争における南ベトナムからのアメリカ軍の完全撤退や、冷戦当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国の承認など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。

内政的にもアメリカ環境保護局(EPA)の設置やアメリカ全土の高速道路における最高速度制限の設定、麻薬取締局 (DEA) の設置など、主に環境対策面で大きな功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。

大統領任期中の主な施策

最後には辞任という不名誉な形で自ら政権の幕を下ろしたものの、2期に渡り大統領職を務めた中で、デタントの推進やベトナム戦争からのアメリカ軍の撤収、アメリカ環境保護局や麻薬取締局の設置など、その政治力を生かして内外で多くの実績を残したことは高い評価を受けている。

* 1969年には日本の佐藤栄作首相と会談、安保延長・在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還に同意している。
* 1970年のアメリカ環境保護局 (EPA) の設置。
* 繊維業者の多い南部の支持を取り付けるために、繊維製品の輸入制限を公約に掲げていた。1970年から「日米繊維交渉」が取り持たれ、1972年1月に政府間で規制することで交渉妥結した。
* 初の訪米(ヨーロッパ訪問のためにアンカレッジに寄港)を行った昭和天皇と会談した。
* ドルと金との交換停止(ニクソン・ショック)。
* 1972年1月5日に、スペースシャトル計画を命じた。ニクソンの名前は月の表面に置かれた特別の飾り額の上で前国連事務総長、ウ・タントの名前に並んでいる。
* 1972年2月に、アメリカの大統領としては初めて中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、事実上承認した(これに伴い同国と対立している中華民国との国交断絶を伴った為批判も多い)。
* 1973年1月23日のパリ協定調印とベトナムからのアメリカ軍撤退によるベトナム戦争終結。
* 1973年の麻薬取締局 (DEA) の設置。
* 1974年2月に、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響から、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。

デタント推進

ニクソンは、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた、ソ連を中心とした東側諸国に対する「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進した。これを受けて、1969年よりフィンランドのヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉が開始され、1972年5月に交渉は妥結し、ニクソン出席のもとでモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。

この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するためのソ連を含めた東側諸国の関係改善と、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費を押さえる目的もあったと推測されている。

なお、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近海でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した。この事件の報復のために、ニクソン政権内では戦術核兵器で北朝鮮の基地を攻撃することも検討されたが、当時デタント推進を最優先していたニクソンは、北東アジアにおける新たな戦争を招くことを避けるために、北朝鮮の金日成政権に対する報復を行わなかった。

ベトナム(インドシナ)戦争の終結

選挙公約

ニクソンは、フランスに代わってのアイゼンハワー時代の軍事援助から始まり、ケネディ大統領により本格的に軍事介入が開始され、その後ジョンソン大統領によって拡大・泥沼化され、10年以上続いていたものの国民からの支持、支援も失っていた上に、「勝利」への道筋も見えないベトナム戦争を終了し「栄誉ある平和」を実現することを大統領選に向けた公約とした。

併せて当時アメリカの若者を中心に増加してきた「ヒッピー」文化の信奉者や過激なベトナム反戦論者、そして保守主義者らなどの強い主張を持つ少数派を嫌っていたアメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始した。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。

しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させた。ニクソンはキッシンジャーを使い南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールした上に、1972 年には北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問し北ベトナム政府に揺さぶりをかけるなど、様々な手段を使いながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。

アメリカ軍の完全撤退

そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャー大統領補佐官とト特別顧問にノーベル平和賞が授与された(ト特別顧問は受賞を拒否した)。

中華人民共和国の承認

電撃訪問

1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。

また、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。

この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。

国交樹立へ

その後、1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東主席と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、このことにより長年友好関係にあった中華民国と断交した為、多くの自由主義者と反共産主義者から非難を浴びた。

なお、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交回復は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。

環境対策の推進

工場などからの排出物による大気汚染や水質汚染、土壌汚染に対する非難の声が高まっていたことを受けて、市民の健康保護と自然環境の保護を目的とする連邦政府の行政機関であるアメリカ環境保護局 (EPA) を1970年12月2日に設立した。設立に先立ち、共和党の支持基盤である大企業からの反発は大きかったものの、環境保全に対する信念と、環境問題に敏感な地元のカリフォルニア州民を中心とした国民の声を背景に、持ち前の政治力でこれを推進した。

さらに1974年2月には、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響によるガソリン節約、そして交通事故による死亡者の増加を押しとどめることを目的に、自動車の最高速度を全国で時速55マイルに制限する法案に署名した。その後全国の最高速度規制は州により設定する形に戻ったものの、カリフォルニア州をはじめとする多くの州では時速55マイルの制限は続けられており、自動車による石油消費の削減に貢献していると評価されている。

麻薬取締局の設置

ニクソンは、ベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせてアメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して強硬な態度をとり続けた。1970年には特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止した規制物質法の策定を行い、1973年5月には、連邦麻薬法の国施行に関する主導機関であり、国外におけるアメリカの麻薬捜査の調査及び追跡に関する単独責任を有している「麻薬取締局(DEA)」の設置を行った。

大統領選挙の大勝利

1972年の大統領選挙では、1期目の実績を高く評価されたニクソンは予備選段階で圧勝し、共和党候補としての指名を受けた。副大統領候補は1期目においてその実務能力が高く評価されていたスピロ・アグニューが引き続き努めることとなった。

民主党は上院院内幹事のテッド・ケネディが民主党候補としての指名を得る有力候補とされていたが、ケネディの大統領候補としての将来は、1969年にケネディが起こした飲酒運転の上での人身事故を伴う女性スキャンダル、いわゆる「チャパキディック事件」によって頓挫した。その結果ニクソンはジョージ・マクガヴァンと争うことになった。

しかしマクガヴァン陣営は、副大統領候補のトマス・イーグルトンが病気で急遽候補を降り、ケネディの遠縁に当たるサージェント・シュライバーが変わって候補となるなど混乱したことや、マクガヴァンの妊娠中絶や麻薬合法化容認に対する姿勢の甘さなどが指摘されたこともあり劣勢に置かれることとなった。

投票は1972年11月7日に行われ、ニクソン/アグニュー陣営は一般投票の60%以上を得て、得票率で23.2%という大差を付け、マクガヴァン/シュライバー陣営を破り、かつアメリカ政治史で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。全米50州のうちマサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れた)。

しかしこの選挙において、ニクソンの再選に向けて動いていた大統領再選委員会のスタッフが(恐らくニクソン本人の指示の元に)、ニクソンの大統領として、そして政治家としての命運を絶つ事件を起こすことになった。

副大統領交代

高い実務能力でニクソン政権を支えた功績を評価され、2期目も引き続き副大統領を務めたアグニューは、ジョージ・ビール連邦地方検事にメリーランド州知事時代の収賄の証拠をつかまれ、1973年10月10日に副大統領職を辞任した(その後法曹資格も失った)。

同日にニクソンはジェラルド・R・フォード下院内総務を副大統領に指名した。その後上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。

これはケネディ大統領暗殺を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第二十五条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった。

ウォーターゲート事件と辞任

外交と内政で大きな成果をおさめ、内外からその手腕が高い評価を受け、中間選挙で大勝利し大統領再選を果たしたニクソンを、アメリカ史上初めての大統領任期中の辞任に追い込んだのが、中間選挙の予備選真っ只中の1972年6月に起きた民主党全国委員会オフィスへの不法侵入・盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」である。

1972年6月17日に、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうちの1人であるジェームズ・W・マッコード・ジュニアの所持品から、ニクソン大統領再選委員会のスタッフであるエドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかった。このために、ニクソン政権に近いものがこの事件に何らかの形で関与されていると疑われたが、当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」との立場を取り続けた。

しかし、事件調査の過程でニクソン本人がこの盗聴に関わっていたことが明らかになったため、ニクソンは1974年8月8日夜に行われたテレビ演説で辞意を表明し、事件の責任をとる形で8月9日に正式に辞任した。なお、任期中の大統領の辞任はアメリカ史上初めてのことであり、その後も任期中に辞任した大統領は現れていない。

後任のフォード大統領はウォーターゲート事件の調査が終了した後、同年9月8日にニクソンに対する特別恩赦を行った。ニクソンが何のために不法侵入と盗聴を指示したかは未だに定かではないが、結局、自ら辞職したことでニクソンは現実に弾劾されず有罪と判決されもしなかったが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味した。

なお事件後に、ニクソンや事件関係者が証拠隠滅のためにウォータゲート事件の資料を廃棄できないよう、アメリカ合衆国議会が制定した大統領録音記録および資料保存法によってウォーターゲート関連書類は政府が押収した。資料はワシントンD.C.地域外への持ち出しが禁止されたので、カリフォルニア州ヨーバリンダの「ニクソン生誕地図書館」ではなくアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた。なお、ニクソンの死後から10年以上が経過した2005年3月に、合衆国アーキビスト (国立公文書記録管理局長)とリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、2007年7月11日にこれまでは私営として運営されてきた「ニクソン生誕地図書館」は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄の大統領図書館に変わった。

支持基盤

「サイレント・マジョリティ」に代表されるような、幅広い中道保守派層が支持者の多くを占めていた。また、ベトナム戦争の終結を公約に当選したことや、デタントを進めたことから、共和党選出であったもののリベラル層にもその支持層を広げていた。

なお、前任者のジョンソンやケネディ、さらにアイゼンハワーなどの冷戦期の大統領と同様、ニクソンの支援基盤の1つが軍産複合体であり、特に地元の南カリフォルニアに工場を所有していたヒューズ・エアクラフトやマクドネル・ダグラス、ロッキードなどと関係が深かったといわれているが、ジョンソンやケネディ、アイゼンハワーなど、軍産複合体の利益になるような政策を進めた前任者らとは異なり、ベトナムからの全面撤退という、軍産複合体の利益にそぐわない政策も果敢に遂行した。

また経済界では、自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。

大統領辞任後

ウォーターゲート事件の後遺症

ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であったジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、1976年から1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の2003年7 月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに明らかなものにした。

イメージの修復

しかしながらニクソンは、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「外交問題に詳しい長老政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ足繁く訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、1980年に大統領に就任したロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。

これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からの高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功した。

死去

ニクソンは、1993年に死去した妻パットの後を追うように、1994年4月22日にニューヨークで脳卒中とその関連症で81歳で死去した。しかし、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。

評価

ウォーターゲート事件の後遺症や、一部の反共和党のマスコミからの執拗な攻撃もあり完全な名誉回復はついになされなかったこともあり、アメリカの一般大衆からの人気は現在も決して高いとはいえないものの、デタントの推進や冷戦崩壊への貢献など、外交面で大きな成果を上げたのみならず、内政面においても様々な環境保護政策を実現させたことなどで、アメリカの有識者の間では「偉大な功績を残した歴代大統領の1人」との評価を受けている。

さらに、冷戦下におけるニクソンの外交手腕に高い評価を与える外国の有識者も多く、フランスの元外務大臣で、1960年代後半にシャルル・ド・ゴール大統領の下で首相を務めたモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルは、1986年1月に行われたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中でニクソンの外交政策とその手腕を絶賛している。

さらに詳しく → リチャード・ニクソン  ウォーターゲート事件



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