レイテ沖海戦(Battle of Leyte Gulf)

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
2010/10/22(金)
* 

レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、Battle of Leyte Gulf)とは、第二次世界大戦中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍とアメリカ海軍との間で交わされた一連の海戦の総称。日本側とアメリカ側の主攻目標が共にレイテ島(レイテ湾)であったことから、この名が付けられた。比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦 (2nd battle of the Philippine Sea) ともいう。直接的にはシブヤン海海戦 (Battle of the Sibuyan Sea)、スリガオ海峡海戦 (Battle of Surigao Strait)、エンガノ岬沖海戦 (Battle of Cape Engano)、サマール沖海戦 (Battle off Samar) の4つの海戦からなるが、戦局に与えた影響や評者による議論の仕方によっては事前の様々な背景が採り上げられる事もある。

連合軍の作戦名はキングII作戦(Operation KING II)でレイテ島奪還が目的、日本側の作戦名は捷一号作戦でアメリカ軍の進攻阻止が目的である。日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。また、この海戦で日本側は神風特別攻撃隊による攻撃をはじめて行った。

日本(特に海軍)は残された軍艦ほぼすべての投入を企図するなど総力を挙げ、後の戦闘を見越し陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力(特に海軍)を投じて戦ったため、その規模の大きさ、戦域の広大なことでも有名である。

背景

日本

1944年6月のマリアナ沖海戦は敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥、マリアナ諸島自体の失陥も確実なものとなった日本では国政にも影響があり、反東条の気運の中7月22日に小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる。

その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。

1. 短期決戦案
* 本年後期に国力戦力の全縦深を展開して対米決戦を指導し、明年以降の施策は全然考慮しない。
2. 決戦重点二本立案
* 本年後期に国力戦力の徹底的重点(七~八割)を構成して主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(二~三割)をもって長期戦的努力を強化する。
3. 併行二本立案
* 本年後期従来程度の決戦的努力を行なうと共に、併せて長期戦的努力を行なう。
4. 長期戦重点二本立案
* 戦局の前途短期決戦の見込みなきをもって決戦的努力を従とし、長期戦的努力を主とする。

日本の「戦力は既に破断界に達している」と認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。児島襄は、初期著作『太平洋戦争』で「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した。これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。

この目的のため大本営は7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行い次の防衛作戦を立案、方面別に捷一号から捷四号と名付け、7月24日裁可、陸軍は同日作戦準備を各軍に命じた。

このうち、フィリピン方面の防衛作戦は、捷一号作戦とされていた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることであり、戦争の敗北に大きく繋がるものであった。

その後、大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議の最初の会議が8月19日に開かれた。このとき「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での決戦方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした(以上、日本の背景は主に児島襄『太平洋戦争 下』「フィリピンに決戦を求めて」に拠る。具体的な作戦計画については捷号作戦を参照のこと)。

アメリカ

守りに回った日本側の戦略目的がある意味で明快になりうる環境にあったのに対し、下記のように、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。そのようになった理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋のアメリカ大統領選挙を睨んだ主要アクターの行動、対日戦終結後の蒋介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が絡んで考慮されたからであった。

ハワイ会談まで

1943年11月のカイロ会談で中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が定まり、概略の順番も示されたが、優先度は中部太平洋の方が上であり、海軍作戦部長アーネスト・キングは中国との兼ね合いを重視してフィリピンよりは台湾→廈門に至るルートに拘りを見せていた。

1944年3月12日、キング、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ、マッカーサーの代理であったサザランド参謀長等の討議の後統合参謀本部は当面の攻略予定について決定をした。その中にはマッカーサーの推すハルマヘラ(9月15日に上陸予定)、ミンダナオ(11 月15日に上陸予定)など南西太平洋から南部フィリピンに至るものも含まれていた。しかし、6月の段階でも統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示し、海軍作戦部長アーネスト・キングは上記2箇所への進攻を中止し、彼の持論である台湾へ進攻することを提案した。キングの方針は3月12日決定での中国本土接岸目標にも合致していた。

統合参謀本部は戦争終結を早めるべく6月13日、マッカーサー、ニミッツの両者に対して次の3つの案での対日進攻の再検討を命じた。

1. 台湾攻略までの既定計画の促進。
2. 途中の目標を素通りして一気に台湾を攻略する
3. 既定計画を中止し、日本本土攻略を含む新計画を策定

しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。

このとき、陸軍参謀総長のマーシャルは6月24日、マッカーサーに沖縄への進攻を提案した。その意図はマッカーサーの面子を潰さずに中国本土に接岸し、かつ米本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないためであった。

マッカーサーはマーシャルの提案に反対し7月8日、統合参謀本部が3月12日に決定した案を更に短縮し1945年5月ルソン島に進攻するレノ5号(Reno-V)計画を提出した。マッカーサーは、軍事的理由としてフィリピンの場合ゲリラの助力が期待できること、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できる事を挙げていた。しかし、政治的な理由もあった。フィリピンは元々アメリカの植民地であり、マッカーサーは父親の代よりこの地の利権を多く握っていて、マッカーサー王国などと揶揄される状態であった。また自身の前職はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。これらがマッカーサーがフィリピン奪回に大きな努力を払っていた背景である。そのため、6月18日マーシャル参謀総長に宛てた書簡に対しマーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる返事を送っている。

一方ニミッツはこの時期、1945年2月に台湾南部に進攻するグラニット2号計画 (Granite-2)を持っていた。また7月4日、予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサーの主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。この理由としては

1. サイパン攻略時の抵抗が予想より大
2. 連合艦隊の脅威
3. 日本陸軍の大陸での進撃による中国本土沿岸での作戦活動の困難
4. 1月に既にキングに対して8月までの戦力の用意はあるが以降は補強が必要である旨を伝えたが
* マッカーサーの戦力を指揮下に置くことは期待できない
* オーバーロードの進展からして戦力が必要な時期までに太平洋に移動することは期待できない

といったことを挙げていた。海軍はマッカーサーの提唱するレノ5号は対日戦早期終結に役立たないと批判した。

こうした対立のため統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をし、下記のいずれにするかはパラオ占領(当時の予定では9月15日)とミンダナオ攻略の間に決定するとした。

1. ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻(その際硫黄島、沖縄進攻を提起)
2. ドイツ打倒も日本海軍撃滅も出来ていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻
3. ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回

キングはこの後エニウェトクなどの視察行に出、17日にサイパンに飛び、第5艦隊司令官を務めていたレイモンド・スプルーアンス、両用戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナーなどと討議を行なった。その中で次期進攻としてどこが望ましいかを尋ねたところ、両者ともフィリピンと答え、スプルーアンスはその理由としてサイパンのような島嶼よりも港湾向きの地形が多く、マニラ湾などを活用できることを挙げた。キングはスプルーアンスの論理に理解は示しつつも、持論の台湾進攻による中国大陸接岸案を棄てようとはしなかった。

動員限界

なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944 年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャルはやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している。

ハワイ会談

一方、ルーズベルトはマッカーサーが共和党の大統領候補になる事を警戒し、これまで余り手柄を立てさせないようにしてきた。マッカーサーは表面上は平静を装ってきたが、選挙出馬への働きかけは行なっていたため、これは杞憂とは言えない。しかし、マッカーサーは4月末に不出馬を宣言し、ルーズベルトは7月初旬の民主党大会で自身が大統領候補に指名されることが確実となり、カリフォルニアに滞在中の20日に指名を受けた。また、マッカーサーにも出馬の意思がなくなったことを知った。その後ルーズベルトは選挙遊説を行い、その一環としてボルチモア (USS Baltimore, CA-68 ) でオアフ島ホノルルに赴いた。これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。この際、前線の最高指揮官達と下記の会談が行なわれたが、これも政治ショーの性格があった。上記のように、戦況はマリアナ諸島全体の占領が確実な段階まで来ていた。

ボルチモアは7月26日に到着し、その日の夜に現地の資産家の所有する邸宅で軍関係者を招いての夕食会を開き、その後、ウィリアム・リーヒ陸海軍参謀長会議議長 (Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy)、マッカーサー、ニミッツの4者のみで会談を行った。マッカーサーはミンダナオ→レイテ→ルソンというコースを示して持論を述べ、フィリピンはゲリラの協力が期待できるが、台湾は半世紀も日本の統治下にありむしろ住民が日本側へ協力すると思われる旨を比較してみせた。一方、ニミッツは台湾には固執していなかった。キングの提唱する台湾進攻には5~10個の陸軍師団が必要と見られ、陸軍の協力が不可欠だったからである。ルーズベルトはこの時点ではマッカーサーに手柄を上げさせようと考えていた。マッカーサーは長弁舌を振るった後、キリスト教徒が多くを占めるフィリピンの住民は1942年に裏切られたと思っていること、フィリピンを日本軍の銃剣の下に見捨てる事はアメリカの名誉に大きな汚点となることを述べて迫った。そして、会談後寝室に続く廊下で 2人きりになった時、「国民の激しい怒りは、この秋の選挙時に閣下への反対票となって返ってくることになる」と脅した。これに対しルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことを認め、「これからキングとやり合わねばならない」と述べた。このやり取りでフィリピンに足場を設けることは決まった。会談はその後も同艦が出港する29日まで続いた。作戦部長キング、この時点で作戦中であった第5艦隊司令官の後任を予定していたハルゼーもそうした中で討議の一部には参加或いは意識していた。

しかし、海軍(キング)が主張する台湾進攻とルソン進攻案との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でチャーチルと協議した結果により決めるとした。ハワイ会談に対し統合参謀本部は不満で、キング作戦部長は即時台湾攻略を主張し、ニミッツに対して「人事を扱う航海局の出身だから妥協ばかりする」と怒りを露にした。一方海軍側でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をした。いずれにせよフィリピンへの進攻決定は高度の政治性を含むものではあった。

8月以降

8月に入りテニアン、グアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島、ヤップ、タラウド諸島などが次の目標として見えてきた。

8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティア(Musketeer )と改名し27日に計画を提出した。それによれば攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。この一部を統合参謀本部は採用した。キングはなおも台湾に拘りマッカーサーはレイテ、海軍と海兵隊は台湾を攻略するよう提案し、暗にレイテ上陸への非協力をほのめかしたが、最終的にはレイテ後を棚上げする事で折れた。こうして9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島の攻略(キングI)予定を11月15日、レイテ島の攻略(キングII)予定日を12月20日と指令した。その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは棚上げされた為未定であった。

なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディ上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能な事は明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにする事は出来なくなった。

両軍の作戦計画

日本軍(捷一号作戦)

日本海軍の機動部隊がアメリカ軍第38任務部隊を北方に牽制し、基地航空部隊は第38任務部隊への攻撃を控え、フィリピン奪還を目的としたアメリカ軍輸送船団を撃滅する。また適宜、戦艦を中心とした水上砲撃部隊もアメリカ軍上陸地点に送り込み、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃してフィリピン奪還を頓挫させる。

なお、リンガ泊地に移動した部隊の訓練内容は後述のように輸送船団攻撃の計画が持ち上がって以後、それを目的としたものに変えられたが、小柳の陳述では下記の5種に区分されている。

1. 湾内投錨艦船への攻撃法
2. 夜戦訓練
3. 対空戦闘訓練
4. 電探射撃訓練
5. 夜戦での星弾使用法

アメリカ軍(キングII作戦)

まずフィリピン周辺の広範囲に渡る日本軍拠点を攻撃して露払いを行い、その後レイテ島に上陸する。陸軍部隊の上陸作戦は、キンケイド中将の第7艦隊が担当し、艦船による砲火支援、輸送艦船の護衛などを行なう。ハルゼー大将の第3艦隊もこれを掩護する。

9月の情勢推移

8月29日、第3艦隊はエニウェトクより最初の出撃を行い、31日、第38機動部隊第4群が硫黄島を空襲し、続いて小笠原諸島を襲った。9月4日、第3艦隊(ハルゼー大将)が直接指揮する残りの3つの群はニューギニアのマヌス島から出撃し、9月6日よりパラオ周辺、続いてフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、第4群もヤップを叩きつつパラオに向かい、他の群と入れ替わりに空襲を加えた。ただし、この段階では日本軍はセブ島を中心に航空兵力を配置して敵の攻撃を控え、温存策をとっていた。このために150機分の囮が各基地に配置されていた。

一方、アメリカ軍は空襲と併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲した。

ダバオ誤報事件

ダバオは、アメリカ軍上陸の可能性が高いと見られており、捷一号作戦では敵来寇の第一候補地に挙げられていた。9月に入ると連日のようにビアク島からの基地航空機による空襲を受けるようになり、9月9日から10日にかけアメリカ海軍第38機動部隊は、パラオ諸島に続いてダバオを中心にミンダナオ島各所に空襲を加えた。日本側は事前の空襲の為警戒を強めていたが不運な事に、この日の早朝、サランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近と誤認、この事は捷一号作戦警戒を発令する事に繋がった。そしてフィリピン南部に陸海軍の基地航空兵力が集結をはじめた矢先の9月12日、再び米機動部隊が来襲し、9月22日までマニラを始めとするフィリピン各地に空襲を続けた。

この戦いで日本側は一方的に攻撃を受けるだけで基地上空での邀撃戦に終始し、何ら敵艦隊に打撃を与える事は出来なかった。その反面一航艦の実働兵力は250機から65機へ激減した。海軍と共同する陸軍の現地航空部隊である第四航空軍も約200機からほぼ全機が失われた。

作戦計画への影響

日本軍
マリアナ諸島等での防衛作戦で受けた打撃から再建途上にあった一航艦は再び甚大な被害を受けた。また、激化するフィリピンへのアメリカ軍の攻撃からアメリカ軍がフィリピンに侵攻するのは間違いないと判断したが、正確な日程と地点を確信するには10月まで待たなければならなかった。

アメリカ軍
上記のダバオ空襲を行っている段階で、ハルゼーは日本軍の反撃力が極めて弱いことに気付き、9月13日、ヤップ島及びパラオの攻略計画を取りやめ、日本軍の反撃力が回復しないうちにレイテ島を攻略することをニミッツに無電で進言した。ニミッツはこのうちヤップ攻略の取り止めに同意し、11日からケベックでイギリス首脳との会談に臨んでいたルーズベルト、12日から開かれていた米英軍事会議に出席していた統合参謀本部のキングにこの意見を伝えた。マッカーサーも14日、タラウド諸島、ミンダナオ島迂回をマーシャル参謀総長に進言した。ルーズベルトは攻略繰上げによる選挙戦への好影響も考慮してこの意見に同意し、上記2ヶ所に加えミンダナオへの上陸計画も取りやめとなった。これにより統合参謀本部は軍事会議中の15日、計画を2ヶ月繰り上げて10月20日にレイテ島を攻略する事に変更し、ヤップ攻略用に準備されていた第24軍団が攻略部隊に繰り入れされた。タイムスケジュール等を改定したキングII作戦計画は9月26日付で第7艦隊、27日にはニミッツより第3艦隊にも通達された。

台湾沖航空戦

アメリカ軍は上記の南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲、日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。そして、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。

連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、引き続き基地航空部隊にアメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じた。小沢治三郎中将指揮下の空母航空隊も基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開させ、戦場に投入した。また、アメリカ軍機動部隊の損傷した残存空母を掃討するために、小沢中将の指揮下にあった志摩清英中将の第二遊撃部隊(第五艦隊)を出撃させたものの、この段階で戦果誤報に気付いた為任務は中止され、同艦隊が奄美大島へ退避中に台湾の馬公に向かうように指示し、更に同艦隊を南西方面艦隊の指揮下に移した。

日本軍の作戦計画への影響
上記のように捷号作戦計画の基本は1944年の7月から8月に立てられた。その中で小沢などの意向により機動部隊は決戦兵力の中核という位置づけが維持され、侵攻が12月まで延期されればリンガに派遣した遊撃部隊も本土に戻して合同して決戦したい意向があった。しかし、計画策定後に前線で立て続けに敗北を重ねた為、基地航空部隊、特に第一航空艦隊が壊滅的打撃をうけ、小沢機動部隊の艦載機も同航空戦に投入し殆どを消耗してしまった。その結果艦隊を支援する為の航空戦力はほぼ枯渇し、予定した戦力と実際の戦力に大きなずれが生じた。さらに、台湾沖航空戦の直後にアメリカ軍の上陸作戦が始まった。このため作戦計画を根本的に修正する余裕がなくなった。とは言え、アメリカ軍機動部隊が防御する輸送船団に対して丸裸で突っ込むことに、何の対応策も行なわないのは自殺行為である。

そのため、苦肉の策として小沢艦隊による牽制にほぼ依存し、これを囮にして、アメリカ軍のハルゼー大将率いる第38任務部隊を水上砲撃部隊から引き離し、その間に水上砲撃部隊がレイテ湾に突入することとされた。囮とする着想を小沢は豊田長官の発想だと述べている。第3艦隊の場合、方針変更は19日の艦長会議での訓示で明らかになり、20日には連合艦隊からの電令により次のように任務が定められた。

1. 第一遊撃部隊は二十五日黎明時、タクロバン方面に突入、まず所在の敵海上兵力を撃滅し、ついで敵攻略部隊を殲滅すべし。

2. 機動部隊本隊は、第一遊撃部隊の突入に策応、ルソン海峡東方海面に機宜行動し、敵を北方に牽制するとともに、ついで敵攻略部隊を殲滅すべし。

3. 南西方面艦隊長官は、比島に集中する全海軍航空部隊を指揮、第一遊撃部隊に策応、敵空母ならびに攻略部隊をあわせ殲滅するとともに、陸軍と共同してすみやかに海上機動反撃作戦を敢行、敵上陸部隊を殲滅すべし。

4. 第6基地航空部隊(台湾)は主力をもって二十四日を期し、敵機動部隊に対し総攻撃を決行しうるごとく比島に転進、南西方面艦隊司令長官の作戦指揮下に入るべし。

– 佐藤和正, レイテ沖海戦 上巻P195


続いて、豊田長官は第一遊撃部隊を機動部隊本隊の指揮下から除き連合艦隊司令長官の直率下に置くことを発令した。

その後、第一遊撃部隊司令部の判断で部隊も第一、第二部隊と第三部隊の2つに分けられ、レイテ島に南北からタイミングを合わせて接近し、同時に別方向からアメリカ軍輸送船団に攻撃を行うこととなった。小沢艦隊と行動をともにするはずだった志摩艦隊(第五艦隊の艦船を基幹)は、作戦開始直前になって更に南方への移動を決定し、西村艦隊と同じくレイテ島の南方から接近することとされた。しかし、突然の兵力再配置の為、両艦隊は共同行動の準備が出来ず、更に同じ中将ながら志摩の方が先任のため志摩が西村の指揮下に入ることは出来ず、ばらばらに行動することとなった。

この戦いでは連合艦隊司令長官の豊田副武が前線視察中であったため、中央から適切な指揮が出来なかった事が指摘される。この背景には通信諜報の解析を元に9月28日、マリアナ方面の敵機動部隊撃滅を賭して第7基地航空部隊として纏めた陸海軍航空兵力に丹作戦を下令し、10月5日の攻撃を予定していたということがあった。しかし、索敵を行っても敵の気配はなく、4日にとりやめとなった。この間、敵機動部隊がサイパンでの補給後、1日に出撃した事は推定されたが、敵の目的が不明であった。

そのためもあり、豊田は前線への視察を目的にフィリピン、台湾などを回っていたが、風邪を引いたこともあり現地陸海軍指揮官とまともに協議は出来ず、護衛戦闘機の不足からダバオ行きを諦めた。そして10日、日吉に戻る為台湾の新竹に移動したところ沖縄に機動部隊が来襲し台湾沖航空戦が始まった。そのため移動が出来なくなってしまったのであった(佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第三章 遅かった豊田長官の巡視行)。

また、この戦いにより空母艦載機まで投入して消耗した為、第四航空戦隊に組み込まれていた隼鷹、龍鳳の出撃が諦められた。また、第一航空戦隊を編成していた雲龍、天城は竣工して間がなく、訓練未了を理由に温存された。これらの戦備が完全に整っていればマリアナ沖海戦並の艦隊航空兵力によって牽制を行えたことになるが、実際には燃料の不足等による搭乗員大量養成の遅延、米軍の急激な反攻などにより(台湾沖航空戦以前にも)杜撰で刹那的な兵力投入を行なった(或いは行わざるを得なかった)面があり、同航空戦により止めを刺された。また、葛城は10月15日の竣工、信濃はこの時期同日の竣工を目標としていたが、戦局に寄与する事は出来なかった。これらは戦時の建艦計画の遂行の失敗例として挙げられることが多い(佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第三章他)。更にこの航空戦での敗北による稼動機の激減が、少数による航空機の体当たり攻撃、即ち特別攻撃隊投入決断への決定打となった。特別攻撃隊に関しては後述する。

日本

全般
1944年4月下旬、アメリカ海軍作戦本部長キングは潜水艦隊に対して護衛艦への積極的な攻撃を命じていた。以後、多数の連合艦隊所属艦を含む駆逐艦、海防艦が撃沈され、ルソン海峡を中心とした通商破壊も月毎に激化した。また、護衛兵力の不足と船舶の合理的使用のため南方資源用の船団とフィリピン決戦用の兵力輸送船団は纏めて運行されたが不要な船舶までが危険海域を通過するようになった。9月に入ると上述のようにハルゼーは日本側の航空兵力が弱体であることを察知し、第38機動部隊による空襲も加わった。このため更に多数の船舶が沈められ、捷号作戦計画に基づいた事前の兵力展開にも支障した。これが捷号作戦時の駆逐艦不足、作戦発令前後の遊撃部隊からの一部戦闘艦艇の引き抜き、油槽船との会合遅延・失敗などにつながった。原勝洋によれば計画段階では14隻存在した連合艦隊の随行油槽船は作戦発動時6隻(日栄丸 良栄丸 厳島丸 雄鳳丸 八紘丸 日邦丸)まで減少していたという。なお、9月末の作戦計画での敵情要約の全般情勢にて、アメリカ軍は「航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船舶に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている」と述べており、攻撃の効果を認識している。

連合艦隊司令部は16日、作戦海域付近に在泊・航行中の油槽船に艦隊随行の命令を予告、捷一号作戦が発令された18日に発令した。また10月19 日、軍令部は10月2日シンガポールを進発し日本に向け南シナ海を航行していたヒ76船団を連合艦隊の指揮下に移し、作戦用燃料を確保したい意向を示した。これには陸軍が反対し、東京都芝の海軍水交社にて折衝を続けた結果、20日の昼に同船団の黒潮丸、東邦丸を指揮下に置く代わりに本土の海軍用燃料15,000キロリットルを一般用に放出することが取り決められた。なお、この際陸軍は制空権が敵にあることを理由に艦隊の突入自体に反対しており、艦隊現存主義をとって、船団についてはフィリピンが落ちたあとの事を考慮して本土に油を還送するべき旨を主張したという(『海上護衛戦』26 しびれた輸血管他)。

第二艦隊(栗田艦隊、西村艦隊)
連合艦隊司令部は上記のように16日の段階で予告をしていたが、10月17日に捷一号作戦警戒、続いてブルネイへの進出待機命令を受電した際には油槽船への随行命令は発令されていなかった。そこで栗田は第二艦隊独断でシンガポールに在泊していた雄鳳丸、八紘丸にブルネイへの進出を命じ油槽船を手配した。栗田艦隊は20日11時にはブルネイに入港したが、栗田の手配した油槽船は21日 17時に入港を予定していた。栗田は給油時間を短縮する為に小型艦へは大型艦から給油を済ませておき油槽船は大型艦への給油のみを行えばよいように準備した。手配の早さから油槽船は21日11時20分に入港し、出撃予定時刻とされた22日8時の3時間前に作業は完了し、各艦は燃料を満載した。18日の連合艦隊司令部の発令により第二艦隊に随行を命じられた油槽船は計8隻となったが、ブルネイに集結した艦隊の出撃に間に合ったのは上記の2隻だけであった(『戦史叢書56巻 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』、佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第四章)。

ブルネイからの第一遊撃部隊の進撃航路は4つの案があり、パラワン水道を抜けてシブヤン海に接近する案は距離は最短だが敵潜水艦と会敵する危険が大きかった。しかし、小柳富次の言を借りるならば「まる一日無駄に過ごした」(『栗田艦隊』第6章内 進撃航路の選択)のは事実で、現実にはパラワン水道を抜ける事とし、雷撃を受けた。このことについて栗田は戦後『決断』の会見記で「パラワン水道を行かずに、西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と述べた。

なお軍令部は第二艦隊のため、20日に萬栄丸、御室山丸、日邦丸、厳島丸に5隻の海防艦を護衛につけシンガポールから回航を命じていたが、この手配は栗田艦隊の出撃に間に合わなかった。その後日邦丸、厳島丸はコロン湾への進出を命じられ、両船共25日にブルネイを出港したが、27日バランバンガン島沖でアメリカ潜水艦バーゴール (USS Bergall, SS-320) の雷撃を受け、日邦丸は沈没、厳島丸も航行不能となった後31日に空襲で沈没した。

このような状況から下記の作戦開始後も、栗田艦隊は後の激戦を控えて23日までは20ノット以上の速力を出す事が出来なかった。パラワン水道通過時は夜間16ノットに速度を落とし、敵潜水艦に測的の余裕を与え、払暁と共に18ノットに上げたところで攻撃を受けた。シブヤン海海戦時も空襲を受けたとき以外は22ノット、下記のサマール沖で反転した際も26日中にコロン湾で待機する油槽船との合流を見据えていたという。

第五艦隊(志摩艦隊、18日より南西方面艦隊指揮下)
志摩艦隊は20日、馬公へ入港し、三亜から移動してほぼ同時に入港した良栄丸より給油を受けた。その後南方へ移動中の22日朝、連絡書を載せた水偵をキャビテに向け発進させ、その連絡書の中には栗田艦隊へ向けた行動予定書も含まれていた。その行動予定では、23日夕刻にコロン湾で補給作業の予定と書かれていたが、栗田からの返電はなく、志摩艦隊がコロン湾に到着した際、期待した油槽船もいなかった。そのため、志摩艦隊は巡洋艦から駆逐艦に補給を行ったのみだった(佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第五章 志摩艦隊、レイテ湾突入を決定す)。

第三艦隊(小沢艦隊)
小沢艦隊の場合、出撃地点は日本本土であったが戦場には遠かった。出撃後の22日、航続力の短い丁型駆逐艦に空母と大淀から給油を行なったが悪天候の為完遂できず、未済の桐に杉を同行させ部隊から除き、台湾へ向かわせた。艦隊には2群の補給部隊が付けられそれぞれ油槽船、仁栄丸、たかね丸があったが、仁栄丸は25日アメリカ潜水艦スターレット (USS Sterlet, SS-392) の雷撃を受け沈没、戦闘後の27日、本隊の残存艦艇は奄美群島で補給作業を行なったが、たかね丸はその帰路撃沈された。

アメリカ

一方、アメリカ側ではこの時期の他の戦いと同じく、充実した体制が組まれていた。第38機動部隊は10月6日にウルシーを出港してから、1945年 1月のリンガエン湾上陸支援と通商路攻撃を終えるまでの約16週間海上にあった。同艦隊各艦は少なくとも85日は洋上に留まり、根拠地等に錨をおろす事はなかった。また、第3艦隊の各部隊は概ね15ノット前後での移動が多かったが、25日の作戦行動など、必要とあれば25ノット以上の速力も選択していた。戦術レベルでは同日第34任務部隊で大型艦から小型艦に給油を行うため数時間速度を落とさざるを得なくなる場面などがあったが、後方の港湾まで後退するようなことはなかった。

この長期に渡る洋上行動を支えたのは、強力な役務部隊である。これは艦隊用タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦19 隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻に及ぶ。アメリカ海軍はこれを10~12のグループに分割し、日本軍の哨戒圏外に補給点を設定、ウルシーとの間を往復させていた。

ローテーションは次のようになっていた。補給点(Fueling Area)には常時9~10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3~4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品等も補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。

一方、日本側は補給点を発見することは出来なかった(以上、アメリカ側については松代格三「艦艇の航続力と海軍作戦」『世界の艦船』1992年10月号)。

ただ、第38機動部隊第1群は24日には後退して補給中であり、結局この海戦で殆ど有用な役割を果たす事はなかった。補給点はミック(MICK)と呼ばれ東経130度、北緯15度の海上にあった。この他にも補給点は設定されており、本作戦では6つあった。本作戦の兵站計画によれば、需品の供給もニューギニアに設けた後方拠点などに数ヶ月分が備蓄されていた。

その他

この間、日本側では9月29日、連合艦隊司令部が大淀から日吉の慶應義塾大学構内に移転した。軍令部総長の上奏文によれば高雄にも同様の指揮所を設置する予定だったが実際には設備は造られなかった(『日本海軍 戦場の教訓』P346)。

また、戦場であるフィリピンは戦前アメリカ本国の議会を通過した法案により1946年7月4日に独立を予定されていたが、フィリピンを占領した日本軍はこの状況を汲み、1943年には形式上はフィリピンを独立させていた。日本はその後連合国への宣戦布告を迫ったが、国土が戦場となり、長年の宗主国アメリカとしこりを生みたくなかった大統領ホセ・ラウレルはこれを引き伸ばす事に努め、1944年9月23日漸く宣戦布告をした。しかしこれも、戦争状態の存在を認める(existense of a state of war)であって正真正銘の宣戦(Declaration of War)ではなかった。日本軍はこの時期、親日を誓うフィリピン人による防衛組織ガナップ隊、11月10日にはマカピリ隊を編制し、後方での役務につけた(鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史』中公新書)。

海戦の推移

1944年10月 海戦前

    * 10月6日
        o 第38機動部隊(95隻)、ウルシーを出港(『世界の艦船』1992年10月号P88)
    * 10月9日
        o アメリカ軍戦艦1隻、重巡2隻、駆逐艦8隻により南鳥島を砲撃(『日本海軍 戦場の教訓』P347)。
    * 10月11日
        o アメリカ軍上陸部隊、ニューギニア各地を出発。
    * 10月12日から16日
        o 台湾沖航空戦(上述)。日本側航空戦力、実質的に壊滅状態となる。
    * 10月17日
        o アメリカ軍レイテ湾のスルアン島に上陸。
        o 連合艦隊司令部、捷一号作戦を発動。

作戦発動後

    * 10月18日
        o 栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊(戦艦7隻基幹、通称栗田艦隊)リンガ泊地を出撃。同日午後、第16戦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦1)を第二遊撃部隊に編成替え、同戦隊はブルネイより出港、陸軍兵輸送のためマニラへ向かい、本海戦への投入はされなかった。
    * 10月19日
        o 小沢中将指揮の日本軍第三艦隊(空母4隻・戦艦2隻基幹、通称小沢機動部隊)が瀬戸内海を出撃。なお、太平洋艦隊は豊後水道に敵情監視を行なうための潜水戦隊3隻を配置していたが、敵が発見出来ない事に業を煮やして配置の変更を申し出、これは許可され20日に九州沖に移動した。その間に第一機動艦隊は元の哨戒域を通過し、敵に知られる事無く太平洋上に出た。ニミッツが出撃を確信したのは商船用暗号の解読により油槽船の手配を察知したウルトラの報告からであった(カール・ソルバーグ『決断と異議』7.内P176他)。
    * 10月20日
        o 11時、日本軍第一遊撃部隊ブルネイに入泊開始。直ちに給油する予定だったが、油槽船の到着が一日遅れたため、以後の行動予定に大きく影響した。なお、給油の後武蔵だけは塗装を塗り直し、他の艦より明るい鼠色となった。武蔵に焦点を合わせた文献ではこのことを囮となるための処置と見るものが多い。
        o レイテ湾、台風の余波から抜け晴天となる。20日は上陸予定日(A-dayと呼称)でもある。2時間に渡る艦砲射撃の後10時より連合軍主力、タクロバン、ドラグ方面に上陸。18時までに60000名、兵器、物資等107000トンを揚陸。海軍第5航空基地隊、陸軍第二飛行師団が散発的な少数機による反撃を実施したが軽巡1隻を損傷させるにとどまる。
    * 10月21日
        o 日本軍第二遊撃部隊(巡洋艦3隻基幹、通称志摩艦隊)が馬公を出撃。フィリピン、ルソン島マニラへ向かう。
    * 10月22日
        o 日本軍第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊(戦艦5隻基幹)が予定より一日遅れでブルネイを出撃。遅れを取り戻す為、危険が予想されたパラワン水道の迂回は不可能となり、同海域を通過するコースを取る。
        o 日本軍第一遊撃部隊第三部隊(戦艦2隻基幹、通称西村艦隊)がブルネイを出撃。スリガオ海峡を通過するコースを取る。
        o 志摩艦隊はスリガオ海峡コースでレイテ湾突入が決定、マニラ寄港を中止。補給のためパナイ島西岸コロン湾へ向かう。
    * 10月23日
        o 1時16分、パラワン水道を航行中の栗田艦隊を第7艦隊所属の潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) がレーダーで発見した。ダーターはこれを報告すると共に艦隊に接近し、6時32分栗田艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射、それから急旋回して重巡洋艦高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した。愛宕には魚雷4本が命中し、6時53分に沈没した。愛宕の被雷1分後、高雄に魚雷2本が命中した。高雄は大破し、駆逐艦朝霜と水雷艇鵯に護衛されブルネイに後退した。6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の放った魚雷4本が命中した。摩耶は7時8分に沈没した。栗田中将は旗艦を予備の旗艦に指定してあった戦艦大和に移しレイテ湾に向かって進撃を続けた。キンケイドはこの報告を受け取り当初は大規模な東京急行の前兆と誤断していた。

    o 志摩艦隊コロン湾着。輸送船を発見できず、巡洋艦から駆逐艦に燃料を給油。
        * 10月24日
    o 未明、志摩艦隊がコロン湾を出撃。レイテ湾へ向かう。
    o 潜水艦ダーターが帰途途中で座礁、放棄される。

10月24日 シブヤン海海戦

シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時過ぎアメリカ軍第38任務部隊に発見された。この時第38任務部隊は第2群(ボーガン少将指揮、空母5隻基幹)がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群(シャーマン少将指揮、空母4隻基幹)がルソン島の東に、第4群(デーヴィソン少将指揮、空母4隻基幹)がレイテ島付近にいた。また、第1群(マケイン中将指揮、空母4隻基幹)は補給中だった。ハルゼー大将は第2、3、4群の3個群を以って栗田艦隊に対し攻撃を開始した。

10時26分、第2群の空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11)、カボット (USS Cabot, CV-28) からの第1次攻撃隊45機が攻撃を開始し、武蔵と妙高に魚雷1本が命中した。妙高は速度が12ノットに低下し離脱した。12時6分、イントレピッドからの第2次攻撃隊31機が攻撃を開始し、武蔵に魚雷3本、爆弾2発が命中した。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下した。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母レキシントン (USS Lexington, CV-16)、エセックス (USS Essex, CV-9) からの第3次攻撃隊44機が武蔵に攻撃を集中し魚雷5本、爆弾4発を命中させた。また、大和にも爆弾1発が命中した。武蔵の速度は16ノットに低下した。14時30分、第4群の空母フランクリン (USS Franklin, CV-13) からの第4次攻撃隊32機が来襲し、大和に爆弾1発が命中した。14時59分、第2群及び第4群からの第5次攻撃隊67機が来襲。攻撃は武蔵に集中し魚雷 11本、爆弾10発が命中し武蔵は艦隊より落伍、2軸運転となり、大量の浸水により速力は6ノットに低下した。その後機関が停止して午後7時35分に転覆沈没した。他に長門と利根に爆弾2発、駆逐艦清霜に爆弾1発が命中した。

15時30分、栗田艦隊は一時空襲圏外へ退避のため反転し、16時付で電文を発信した。ハルゼーは小沢艦隊の前衛を発見した後の16時20分、栗田艦隊に張り付けていた偵察機を帰還させた。この日の日没は18時17分であり、武蔵艦長だった猪口が艦橋が暗くなって戦闘所見のメモが取れなくなった際、ノートに残された最後の時刻が19時5分であった。このような光線状態の下、栗田艦隊の電測員も見張り員も、敵機らしきものの存在を認めることは無かった。その後連合艦隊からの返電がないまま、17時14分(17時45分とする文献もあり)に栗田の意思により栗田艦隊は再反転した。しかし、栗田艦隊はこの再反転を悟られない為直ちに発信を行わなかった。このため、連合艦隊司令部は他の日本軍部隊と同様に状況をリアルタイムで掴めず、18時15分付で第一遊撃部隊宛に「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文を発信し、その3、40分後に漸く栗田艦隊の16時付の反転電文を受信した。この間連合艦隊司令部は作戦の中止すら検討し、即決が慣例だったことには珍しく2時間も議論に費やした後、結局反転を容認しないという結論に達し、19時55分付けで16時の反転電文を容認しないという内容の電文を返電し、これは23時52分に栗田艦隊で受信された。結果として連合艦隊司令部は栗田艦隊が反転否認を意味する電文により進撃を再開したと考えた。

栗田艦隊の方でも敵情は不明であった為、18時30分付けでラモン湾東方に存在を報告された敵機動部隊に対する攻撃成果を知らせるよう、各航空艦隊、小沢艦隊宛に発信した。しかし、この電文に対する返信を栗田艦隊は把握していない。19時39分付で、栗田艦隊は午前中ミンドロ島サンホセ基地に向け発進させた水上機に宛ててレイテ湾などの敵情を知らせるよう命じる電文を発信し、その中に「進撃中」の言葉を入れたためこれを受信した部隊は栗田艦隊の状況を漸く把握した(以上、電文状況については主に佐藤和正「第九章 混迷の海」『レイテ沖海戦 下』に拠った)。

10月24日の日本側航空攻撃

栗田艦隊の援護のため、新たにフィリピンへ展開していた日本海軍基地航空隊の第二航空艦隊は、第38任務部隊の第3群に航空攻撃を行った。9時30分、軽空母プリンストン (USS Princeton, CV-23) は爆弾が1発命中し爆発炎上、その後軽巡洋艦リノの魚雷で処分された。また、プリンストンの消火作業中に起きた爆発で軽巡洋艦バーミングハム (USS Birmingham, CL-62) が損傷した。

アメリカ第3艦隊は洋上哨戒の穴を突かれたり誤報に振り回されるなどしてルソン島西方など見当はずれな海域を疑うこともあり、24日まで小沢艦隊を発見することが出来なかった。一方、ルソン島東方沖に到達した小沢艦隊は基地航空隊から知らされた第3群に偵察機を送って存在を確認、58機(電報では76機)を出撃させて攻撃し、基地航空隊も日没まで5回に渡る攻撃隊を出撃したが有効な損害を与えることはできなかった(小沢機動部隊から出撃した攻撃隊の戦果は、空母エセックス以下数隻の空母に対して至近弾。その中の1~2隻の喫水線下の船体に軽い損傷を与えたのみ)。だが、基地航空隊と小沢機動部隊の波状攻撃は、第38任務部隊の一番北側に位置する第3群の北方への索敵を遅らせることに成功した。

24日夕方になり、栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡強行突破を危惧したハルゼー大将は、第38任務部隊の3個群から高速戦艦(6隻中5隻)を中核とする水上砲撃部隊を引き抜いてリー中将指揮の第34任務部隊が編成予定であることを全軍に知らせて準備を進めていたが、栗田艦隊の反転を作戦不能なほど損害を与えたためと判断し、戦果報告と栗田艦隊が壊滅して撤退していることを報告した。また、間をおかずに小沢機動部隊を発見、これを日本軍の主力と判断し、栗田艦隊への攻撃を中止、小沢機動部隊攻撃のため、第34 任務部隊を含む3個群を率いて北上した。なお、この時アメリカ側は日本側の決戦計画の基本となったと言われる新Z作戦計画文書を入手していたが、上記の敵情判断や主要参謀の注意が他に向いていたため、その内容を作戦行動に活かすことは無かった(詳細は海軍乙事件参照のこと)。

栗田艦隊は、上記のように再度反転していたが、ハルゼー大将は仮に再び栗田艦隊の残存艦(全艦損傷と報告された)がサンベルナルジノ海峡に迫っても第7艦隊が対処できると判断していたため、栗田艦隊反転の知らせがきても集結と北上を続けた。その後、軽空母インディペンデンスの夜間索敵機が栗田艦隊が12ノットで東進している事を報告し、さらに「ここ数日点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が、今に限ってなぜか点灯している」と決定的な報告をもたらしたが、いずれの報告もハルゼー大将の関心外であった。こうして、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡で待ち伏せに合うことなく通過し、レイテ湾を目指してサマール島西岸を南下した。なお、海峡通過の際、海峡の両岸から狼煙が上がったといわれている(吉田俊雄、半藤一利『全軍突撃 レイテ沖海戦』)。

武蔵の生存者救助には駆逐艦清霜、島風、浜風があたり、20本の魚雷が命中した武蔵は19時35分沈没した。25日1時30分過ぎ、救助を終えた清霜と浜風の2艦はコロン湾へ撤退した。

10月25日未明 スリガオ海峡海戦

10月22日15時30分にブルネイを出撃した西村艦隊は23日、スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった。24日、西村艦隊も第38任務部隊に発見され、9時30分ごろ約20機の空襲を受けたが、栗田艦隊発見の報に北方に移動し被害は2隻の小破にとどまる。

栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れた。同時に突入してアメリカ軍の邀撃戦力を分散するという計画は崩れたが、西村祥治中将は夜戦を企図し、西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断、20時13分付発信の電文にて、25日4時にドラグ沖突入の予定と栗田艦隊に通信を送った。ブルネイでの計画では25日5時半にスリガオ海峡の南口に到着する予定であったため、これは4時間も突入時刻を繰上げていることになる。しかし、この通信に対し、栗田艦隊や連合艦隊司令部からの返信はなかった。後述のように栗田、西村両艦隊の攻撃は計画とは違い調整を欠いたものとなったが、その原因は栗田艦隊側の遅延ばかりでなく、西村艦隊側の繰上げにもよっている。また、これにより志摩艦隊とは最期まで共同行動はおろか、共戦的な行動すらとることはなかった。

一方、アメリカ軍第7艦隊司令長官のキンケイド中将は西村艦隊の接近を察知しオルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入した。オルデンドルフ少将は西村艦隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行うことにした。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻と大きなものであった。マッカーサーは軽巡ナッシュビルで観戦することを望んだがこれは押し留められた。

25日未明に、西村艦隊はスリガオ海峡に接近、1時48分北上を開始した。西村艦隊は魚雷艇の攻撃はかわし、応戦したが2時53分レイテ湾入り口にさしかかった時、駆逐艦部隊に襲撃された。ディナガット島寄りに現れた駆逐艦に照射砲撃を行ったが敵駆逐艦は大量の魚雷を発射。戦艦扶桑が魚雷4本を受け戦線離脱。その後弾薬庫に引火、大爆発を起こし艦体が真っ二つに折れて前後の部分が漂流した。また、駆逐艦山雲も轟沈し、駆逐艦満潮、朝雲も被雷し航行不能となった。戦艦山城にも魚雷1本が命中した。航行不能となった2隻の駆逐艦はその後撃沈された。西村艦隊は3隻になったが北上を続けた。

アメリカ側の記録によると、前日の24日22時36分に索敵中の魚雷艇PT131が西村艦隊と接触、僚艇とともに交戦に突入。以後西村・志摩艦隊は魚雷艇隊の襲撃と触接追尾を受け続け、完全に動向を把握されていた(魚雷艇隊の損害は39隻中10隻)。なお、アメリカ側では当時から今日に至るまで、西村・志摩艦隊を「二群に分かれた(統一指揮された)一つの艦隊」と誤認している。

3時23分、米駆逐隊第二小隊が魚雷14本を発射した。このうち一本が戦艦山城に命中。山城はさらに速力が低下したが、重巡最上、駆逐艦時雨と共に突進を続けた。

3時40分、西村中将が山城から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と命令を下した。これが、旗艦の発した最期の命令となった。

3時51分、接近してきた残りの艦艇にアメリカ軍の戦艦、巡洋艦がレーダー照射による砲撃を開始した。山城が先ず被弾し、最上もレーダーが島影を敵艦影と誤認するなど役に立たず両艦とも正面に見える砲撃の閃光を目標に反撃したが絶好のT字に陣形を組まれ大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を打ち込まれた艦隊は命中弾が相次いだ。山城は駆逐艦からの雷撃を受け速力が低下、その後火薬庫に引火、大爆発を起こした。この時、山城の艦橋が崩れ落ちたのが目撃されている。それでも尚山城は1、2番主砲から反撃の砲撃を行っていたのが米軍から確認されているが間もなく右舷に傾斜し4時19分艦尾より転覆して沈没した。最後尾にいた駆逐艦時雨は反転離脱した。尚、前述の扶桑の残骸は艦首部が4時20分頃沈み艦尾部分が午前5時頃まで転覆したまま浮いていたとされる。最上は微速航行で戦場を脱出した。西村艦隊は駆逐艦時雨を残して壊滅状態に陥り、西村中将も戦死して、レイテ湾への突入は失敗した。

後に続き突入する筈だった志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に到着した。この際魚雷艇隊の攻撃を受け軽巡阿武隈が被雷した(魚雷艇PT137の雷撃)。3時25分、志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始したが、旗艦の那智が最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、8ノットで退避中の最上と衝突した。敵情不明のため志摩中将は突入を断念、海峡外で様子を見ることにして退避をはじめた。

4時10分、オルデンドルフ少将は同士討ちの報告を聞いて砲撃を中止させた。巡洋艦と駆逐艦は残敵の掃討と救助活動をするべく南下を開始した。

当初は多数が海面を漂っていた生存者だが、多くが米軍の救助を拒否して自決、また近くの島に上陸した少数の生存者も丸腰だったため殆どが原住民の襲撃により殺害され、生存者は沈没した全艦合わせて10数人だった。特に最初に大爆発を起こした戦艦扶桑は、想像を絶する被害を受けたらしく、弾薬庫爆発により艦体が真っ二つに折れたあと艦首も艦尾も炎上しつつ一時間以上浮遊していたにもかかわらず艦長 阪匡身少将以下1637名全員が戦死し、生存者は1人もいなかった。同じく戦艦山城も生存者は2名のみ。この両艦のみを見ても乗組員三千余名中生存者がたったの2名。まさしく全滅であった。

阿武隈の護衛に駆逐艦潮を派遣してマニラへ向かわせ、最上には駆逐艦曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じたが、最上はその後空襲を受け最終的に乗員の退艦後、曙の魚雷で処分され、翌日の11時28分、阿武隈もアメリカ陸軍機の空襲を受けて沈没した。志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦はなしでコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。志摩の命令により「2戦隊全滅大破炎上」の報が発信されたのは4時49分であり、栗田艦隊では5時32分に受信した。

なお、スリガオ海峡海戦中の射撃回数については下記のようであった。

* ウェストバージニア (USS West Virginia, BB-48) :一斉射撃回数16回
* メリーランド (USS Maryland, BB-46) :一斉射撃回数6回
* テネシー (USS Tennessee, BB-43) :一斉射撃回数13回
* カリフォルニア (USS California, BB-44) :一斉射撃回数9回
* ミシシッピ (USS Mississippi, BB-41) :一斉射撃回数1回
* ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) :一斉射撃回数0回

スリガオ海峡海戦後の残弾、各艦で発生したトラブルについては後述する。

10月25日 エンガノ岬沖海戦

24日の14時39分、相次ぐ栗田艦隊の被害報告に小沢中将は艦隊の存在をアメリカ軍第38任務部隊に明らかにするため、航空戦艦日向、伊勢からなる松田千秋少将指揮の第四航空戦隊を基幹に前衛隊を編成して第38任務部隊に砲撃戦を試みるべく南下をはじめた。16時過ぎ、艦隊は栗田艦隊のシブヤン海での反転が知らされてから間もなく第3群の偵察機に発見され、小沢艦隊は17時15分、味方部隊に対して触接を受けている旨を発信した。しかしこの電報は栗田艦隊に着電しなかった。アメリカ海軍第3艦隊はその晩の集計により栗田艦隊へ壊滅的な打撃を与えたと判断し、漸く発見した空母機動部隊である小沢艦隊を攻撃するため、日没から深夜にかけてサンベルナルジノ海峡、レイテ島沖から集結して全速力で北上をはじめた。この時ハルゼー大将自ら第34任務部隊(高速戦艦6隻)を率いて先行し、空からだけでなく砲戦を挑んで徹底した攻撃することを目指した。一方小沢中将はアメリカ軍の偵察機に発見されたことから、 25日は空襲を受けると判断し、17時10分に連合艦隊から「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文を受け取っていた事から、栗田艦隊も予定通り進撃を続けていると考えていた。小沢は艦隊を本隊と松田千秋の指揮する支隊の2隊に分け、南東に向け進路を取っていた。しかし、20時頃、16時に栗田艦隊が発信した反転避退の電文が着電した。小沢艦隊司令部は連合艦隊からの突撃命令を受信していた事から栗田艦隊もこの命令で再反転していると予想したが、反転避退のために突入の時間がずれ、両艦隊の連携が上手くいかないと考えた。そのため、小沢艦隊は一旦北上を行った。

小沢艦隊は25日7時12分に第38任務部隊の偵察機を発見し、錬度不十分なため戦力とならない艦載機を直衛用の戦闘機18機を除き残存機を陸上へ退避させ、さらに囮任務を果たすため北上した。8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲した。空母千歳と駆逐艦秋月が被爆沈没。軽巡洋艦多摩は魚雷1本が命中、大破。空母瑞鶴も被雷して速度が低下し、通信機が損傷したため囮成功を知らせる電報が打てなかった。さらに、10時ごろ第2次攻撃隊36機が来襲した。この攻撃で空母千代田が被爆、大破炎上して航行不能になった。10時51分、小沢中将は旗艦を軽巡洋艦大淀に移し、連合艦隊司令部と栗田中将宛てに、「大淀に移乗して作戦を続行」と打電した。12時31分にも空襲を受けて被害が出ていることを大淀から知らせた。

10時過ぎにハワイの太平洋艦隊長官ニミッツ大将から、「第34任務部隊はどこか。全世界は知らんと欲す」と電報を受信し、ハルゼー大将はこの電報に激怒した。11時15分、ハルゼー大将は小沢機動部隊の残存艦に迫っていた第34任務部隊と第38任務部隊の第2群を率いて、レイテ島沖に引き返した。残った2個群にミッチャー中将指揮下で攻撃を続けさせ、第34任務部隊からローレンス・デュボーズ少将指揮の重巡洋艦2隻と軽巡洋艦2隻、その護衛の駆逐艦を引き抜いて巡洋艦部隊を編成して同様に追撃を続行させた。ハルゼー大将はニミッツ大将とキンケイド中将に、「レイテ沖に向けて急進中」と返答を送った。

13時過ぎ、ミッチャー中将に指揮が移った2個群から発進した第3次攻撃隊約200機が来襲、空母瑞鶴と瑞鳳が被爆被雷し、14時14分に瑞鶴は沈没した。15時過ぎになると第4波の約30機が小沢本隊を攻撃し、15時27分、瑞鳳が沈没した。航行不能になっていた千代田も第38任務部隊から分派されたデュボーズ少将指揮の巡洋艦部隊の攻撃で16時55分に撃沈され、小沢機動部隊は空母4隻全てを失った。17時過ぎには第5波と第6波の第4次攻撃隊約150機が来襲、伊勢に攻撃が集中されたが大きな損傷は免れた。ハルゼー大将の反転命令によって多摩を含む損傷艦は復旧と救助活動ための時間を獲得し、千代田の曳航を任されていた軽巡洋艦五十鈴は空襲のため曳航を中止していて、駆逐艦槇と退避していたので難を逃れた。

18時半ごろ、小沢本隊と松田支隊は合同した。瑞鶴の護衛についていた駆逐艦若月と駆逐艦初月は救助を続けていたが、五十鈴が千代田の安否を気遣って引き返してきたので3艦は合同し、五十鈴は初月に千代田の消息を尋ねたが判明しなかったので燃料不足を理由に捜索と所在確認を依頼した。そこに追撃してきたデュボーズ部隊と遭遇し、小沢中将に敵艦隊の発見と千代田の捜索中止を知らせた。五十鈴と若月は煙幕を展張し直ちに反転、撤退したが、初月はそのまま戦闘に突入したと見られ単艦で重巡2、軽巡2、駆逐艦9の13隻を相手をすることとなった。米軍記録によれば魚雷発射体制をとり敵艦隊に回避運動をとらせるなど約2時間の足止めに成功したようで、その間に五十鈴と若月は無事離脱できたが、初月は最終的に被雷し速力の低下したところを米艦隊の一斉砲撃を浴び撃沈されたとされる。

小沢中将はこの知らせを受けて、艦隊に南下を命じたが時間を要した(ほとんどの艦が損傷していたためとされる)。また、急行途上に若月より戦艦2隻を含む艦隊と報告を受けたのでハルゼー大将指揮の高速水上砲撃部隊と誤認、南下を続けた。しかし、デュボーズ部隊がミッチャー中将指揮の2個群と合流するため撤退したので遭遇できず、燃料も残り少なく、再び北へ反転、撤退した。大破した多摩は単艦で退避中に米潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) の雷撃を受け23時5分に沈没。この艦も単艦での沈没のため生存者は一人もいなかった。

翌日の26日の夕方、五十鈴が沖縄南東部の中城湾に、29日の深夜、日向、伊勢、大淀、霜月、若月、槇が呉に帰港。

小沢艦隊は24日に行われた栗田艦隊への攻撃を自艦隊に引きつける事は出来なかったが、25日は第38任務部隊の牽制に成功し、後の目から見れば栗田艦隊は戦艦部隊によるレイテ湾突入を第38機動部隊2~4群の阻止攻撃から開放されていた。しかし、25日22時10分、栗田中将から夜戦の見込みがないと湾内への突入失敗を知らされた。

10月25日 サマール沖海戦

反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は、アメリカ軍第38任務部隊による妨害を受けずに、25日0時30分サンベルナルジノ海峡を通過、サマール島沖に差し掛かっていた。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻であった。6時48分、大和が35km先にマストを発見した。それはサマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")であった。栗田艦隊はこれを正規空母中心の機動部隊、すなわちアメリカ軍の主力と誤認、6時59分攻撃を開始した。

20日の上陸以来、第77任務部隊の護衛空母群は計画通り支援任務に徹し、まともな敵の攻撃を受けてこなかったが、24日になると多数の日本軍機がレイテ湾に飛来してきた。また3つの日本艦隊が報告されており、25日は敵艦隊への攻撃で多忙を極めることは予想されていた。深夜には西村艦隊の接近が報じられたが、栗田艦隊の動静について音沙汰は無かった。6時半、第3集団の艦船は警戒を解除し、第3種警戒(通常配置)に移ってよいとの指示を受けた。栗田艦隊の発見は米側記録によるとその直後の6時41分の航空機によるものであり、数分後には総員戦闘配置が発令されている。やがて各艦のレーダースコープにも大艦隊が映し出された。第3集団の各艦は混乱しながらも、砲撃を回避しつつ待機していた搭載全機の発艦に成功した。なお、第3集団は初動の30分あまりで既に発艦していたものを合わせ100機弱の航空機を発艦させている。これら艦載機は栗田艦隊攻撃の後、主に米軍占領下のタクロバン飛行場に着陸、一部は反転避退する栗田艦隊を再攻撃に回った。

7時10分、夾叉され続けていた護衛空母カリニン・ベイが、最初の直撃弾を受けた。一方、砲撃を受けていたスプレイグ少将は救援を求めたが、第3艦隊も第7艦隊の他の部隊もすぐに救援にいける状態ではなかった。ハルゼー大将は休養と補給中の第38任務部隊第1群を救援に向かわせ、囮であった北方の小沢機動部隊へ攻撃を続けたが、キンケイド中将はスリガオ海峡のオルデンドルフ艦隊と志摩艦隊を追っていた巡洋艦部隊を集結して補給を急いだ。そして、第4 群全体の指揮官であるトーマス・L・スプレイグ少将に対しては避退を明確に禁じ、暗に時間稼ぎの捨て駒になれと命じた。

結局栗田艦隊は攻撃を行ったものの、約2時間の海戦で護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) 、ホーエル (USS Hoel, DD-533)、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) を撃沈したに留まった。この理由は概ね下記に纏められる。

* 第3集団の各護衛空母がスコールを利用して度々姿を晦ましたこと
* 「一度砲弾が落ちた所には、二度は落ちない」という理論(というより兵隊古来のジンクス)にすがって懸命に回避運動を行ったこと
* 各艦が煙幕を展開し駆逐艦が進路妨害のため雷撃をおこなったこと
* 航空機が弾切れにも関わらず投弾のフェイントを行ったり機銃掃射まで行って阻止行動に出たこと

一方、栗田艦隊では"第3集団"の航空隊や駆逐艦、それに他の護衛空母群からの攻撃機などにより主に重巡洋艦が攻撃を受けた。

第3集団の艦載機が半ば空中退避を兼ねた、おっとり刀的発艦であったのに対し、第2集団の護衛空母6隻から8時30分頃までに発艦した79機は、魚雷49本、500ポンド爆弾133発、100ポンド爆弾、ロケット弾各200発以上の本格的な艦船攻撃装備を整えており、主として空母に接近していた重巡に攻撃を浴びせた。その戦果は筑摩に対するものだけだが、かなりの誇大報告がなされた。その他の阻止攻撃を含め鈴谷は至近弾で航行不能となった後、再度爆撃を受け魚雷が誘爆して沈没、鳥海は爆弾が1発命中し航行不能となり、筑摩も魚雷が1本命中して舵を損傷、航行不能に陥った。熊野は駆逐艦ジョンストンの雷撃により落伍し、羽黒も爆撃により第二主砲搭を失ったが、誘爆と火災は防げた。

栗田艦隊の北上

9時11分、栗田中将は分散しきった艦隊に集合を命じた。11時、栗田艦隊はレイテ湾への進撃を再開したが、11時前に南西方面艦隊から栗田艦隊の北100kmの地点「ヤキ1カ」に機動部隊が存在するという電文が届いた。この戦いでの栗田艦隊通算3回目の艦隊針路反転、これが今日まで議論が続くいわゆる「栗田艦隊謎の反転問題」の始まりである。

護衛空母群の空襲を受けて利根が落伍し、11時26分、栗田艦隊は反転し敵機動部隊を求めて北上を開始した。しかしその位置に機動部隊は存在せず、この点は戦後論議の対象となった(詳細は下記)。栗田艦隊は13時に再び反転した。

栗田艦隊のレイテ湾突入意思の喪失が何時起こったかは諸説あるが、最も遅い時点での解釈を採用してもこの時をもって完全に撤退行動に入っている。一般的に伝えられる話としては、最初に反転を進言したのは大谷作戦参謀であり、それを受けて山本先任参謀が栗田長官に伝えた。栗田は自分ひとりで決定したと伊藤正徳に述べたが、小柳は参謀会議を開いて全員一致で決定したと戦略爆撃調査団に陳述している(一般的な決定経過は原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』など多くの書籍に記されている。その議論の詳細は下記)。

小柳の戦略爆撃調査団に語った陳述によれば、反転した理由は下記の6点に纏められる。

1. 志摩艦隊から西村艦隊の全滅を知らされたこと
2. 栗田艦隊のレイテ湾接近が大幅に遅延したこと
3. 米空母から発信されたと思われる増援要請の電話傍受により2時間後に航空機が飛来すると予想されたこと
4. 空母機にレイテ島の野戦基地に着陸するよう命じた電話の傍受により基地機との共同攻撃が予想されたこと
5. 別の機動部隊が北方から接近すると考えられたこと
6. レイテで戦闘を継続した場合、更に多量の燃料を消費すると予想されたこと

当時大和に通信士官として乗り組んでいた都竹卓郎によれば反転北上の頃に栗田艦隊など日本海軍でイメージされていたのは次のような態勢であった。つまり敵機動部隊は北、中央、南の3群に分かれ、南方群が明け方栗田艦隊と交戦、中央群は南方群救援のため南下を開始、昼過ぎから栗田艦隊に攻撃を加えており、また中央群から分かれた北方群が、小沢艦隊に向かいつつあるという構図である。例えば偵察情報だけでも、呉に在泊していた第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、ヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している。ただし都竹はこの情報が大和に届いたか記憶していない。 また、駆逐艦は燃料が極度に不足していた(後述のように撤退時5隻を分離する)。また湾口のスルアン水道通過についても機雷堰が設けられていると推測されており、難題であった。また、上述のイメージがあったため反転北上の報告を聞いた伊藤整一軍令部次長は即座に「それは却って危険だ」とコメントしたと言う。

一方で栗田艦隊の攻撃から解放された米軍のスプレイグ少将は「栗田が反転を決めた理由は単純で、栗田は被害がこのままずっと続くかもしれないと恐れただけなのだ」と見なしていた。その後第3集団も他の護衛空母群と共に特攻機の攻撃を受けた(後述)。他部隊も日本軍の迎撃に追われていたため、沈没艦の溺者救助には時間を要し27日まで待たなければならなかった。第3集団の戦死者は約1200人、負傷者は800人、飛行機の損失は100機であった。

サマール沖海戦に於ける大和の砲撃戦果について

なお、「戦艦大和は遠距離砲撃の初弾を、護衛空母ガンビア・ベイの飛行甲板に直撃させる神業を見せた」という俗説があるが、後世の者による事実誤認であり、艦も異なる。

実際にガンビア・ベイが飛行甲板の右舷艦尾に最初の直撃弾を受けたのは、かなり遅れた8時10分のことであった(どちらも大和の砲撃かどうかは不明)。一方、ガンビア・ベイについては戦後この艦をテーマとした本『空母ガムビアベイ』が出版、邦訳され、その中で乗組員が「大和が火を吐いていた」のを目撃し、その後同艦を狙った砲弾が「隔壁に穴」を空けるのを目撃した旨の記述は存在する(『空母ガムビアベイ』17 砲火の下で)。ただし、その艦が本当に大和だとしても、乗組員が大和を肉眼で視認できた、すなわち大和がかなり肉薄した後での話である。

なお、都竹によれば当の米海軍側の史料には、「極めて優秀な射撃であった」、「砲術科士官が望み得る最高の弾着」といった、至極簡明な評言がさらりと記されているだけであり、日本側の評論家による批判のうち砲弾数と命中弾数で単純に割った例を示した後、次のように切って捨てた。

戦後、相手が正規の機動部隊ではなく、いわばマイナー・リーグ級の弱敵と判ったことが妙な先入観となって、戦史研究家を自任する一部「有識者」が、日本海軍の砲術技量そのものにまで、底意地の悪い疑いの目を向けているが、海洋という2次元面上での視界と気象の関係とか、1発必中方式ではない公算射撃の仕組みも、皆目弁えぬ素人談議でどうも戴けない。

– 都竹卓郎, 「大和」艦橋から見たレイテ海戦(2)」『なにわ会ニュース』98号


しかしながら米軍の報告書では次のような記述が見られる事を付記しておく。

USS Hoel comments:The enemy surface fire seemed to be much inferior to the standard of our navy. USS Kalinin Bay comments: Salvos were accurate in range but poor in deflection.

駆逐艦ホエールの意見:敵の水上射撃は我々の海軍の水準より著しく劣るように見受けられる。 空母カリーニン・ベイの意見:斉射の距離測定は正確だったが偏差測定が正確ではなかった。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令部作成『Battle Experience: Battle of Leyte Gulf』87頁


第3艦隊の追撃と栗田艦隊の撤退行動

9時20分頃、ハルゼー大将にキンケイド中将から二度目の高速戦艦・機動部隊派遣の要請と、栗田艦隊の兵力、オルデンドルフ艦隊の弾薬欠乏が知らされた。ハルゼーは第1群を送ったこと、第34任務部隊は北方の小沢機動部隊を追って前進中であることを返電し、その後9時55分に第2群に反転を命じ、 10時15分に自ら率いる第34任務部隊も反転した。リーは当初20ノットでの航進を命じたが、高速の機動を繰り返していた為第34任務部隊は小型艦の燃料に支障をきたし、12時から12ノットに減速して給油を行なった。給油は15時22分に完了し、ハルゼー大将は第7戦艦戦隊の戦艦2隻、第14巡洋艦戦隊の軽巡3隻、他駆逐艦8隻を抽出して第34任務部隊第5群を臨時に編成、アイオワに座乗するバッジャ少将を指揮官に命じ、リーの本隊はこの後詰という形になった。

一方、栗田艦隊は反転後、第1群の攻撃隊100機や、タクロバン飛行場で補給した護衛空母群の攻撃隊などに数度にわたる空襲を受けた。第1群の攻撃隊はアメリカ海軍史上最長の600km近い距離を飛行して参陣したものであり、攻撃後タクロバンに強行着陸した機体などもあった。これにより駆逐艦早霜が損傷し、結局レイテ湾への突入は断念し、北上を続けてサンベルナルジノ海峡へ向かった。利根は艦隊に復帰したものの、19時15分に栗田中将は落伍した艦とその護衛の駆逐艦に、自力航行できない艦は処分してコロン湾に向かうように指示を出し、航行不能な筑摩と鳥海は修理が完了せず、筑摩は自沈、鳥海は駆逐艦藤波の魚雷で処分された。

ハルゼーは16時1分に速力28ノットを命じ続いて夜戦準備を下令、26日1時に海峡に到達する事を予告した。第2群には東方海上で待機し航空機による支援体制を整えた。これによってバッジャの第5群は撤退しつつある栗田艦隊を追ったものの、栗田艦隊は21時5分頃に海峡を通過しており、第34任務部隊第5群との時間差は3時間あった。

第34任務部隊第5群は26日0時54分、筑摩の乗組員救助を命じられ避退が遅れていた野分と会敵し、1時35分これを撃沈したが、栗田艦隊主力の捕捉には失敗した。

夜間にサンベルナルジノ海峡東方沖へ集結した第1群と第2群は払暁前に偵察機を発進、栗田艦隊は発見され、日の出と同時に攻撃隊が発進した。この空襲で能代が沈没、熊野、早霜が損傷、早霜の救援に向かった藤波も撃沈され、無人島で仮泊した早霜は続く空襲で擱座した。

栗田艦隊は28日21時30分、ブルネイに帰投し、萬栄丸、八紘丸、雄鳳丸から一週間ぶりの給油を受けた。

神風特別攻撃隊の初出撃

レイテ沖海戦から「統率の外道」と最初の"発令者"第一航空艦隊司令長官大西中将("発案者"は軍令部との説が有力)自らが呼んだ、神風特別攻撃隊通称「特攻隊」とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施された。これは台湾沖航空戦により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で栗田艦隊のレイテ湾突入援護を行わなければならなかった大西中将が、苦肉の策として発令したものである。人事及び機材改造など準備に時間がかかることから、作戦の一つとして元々軍令部が準備していたことは疑いないが、どのようにして大西中将が特攻戦術導入に至ったのか(彼は元々特攻反対論者であった)等は、彼が終戦直後に何も語らずに自決したことにより未だに謎に包まれている。尚、陸軍は富永恭次中将を司令官とする部隊が"万朶隊"及び"富嶽隊"の2隊を特別攻撃隊として出撃させているが、これは海戦後の11月に入ってからのことであり、海戦時は実行部隊は未だ内地で編成中であった。

21日朝、海軍の神風特別攻撃隊は各地から出撃した。しかし天候不良などで会敵出来ず、24日まで3回出撃して帰還している。そして25日、4度目の出撃が行われ8時ごろダバオを出撃した部隊はレイテ湾の南で第77任務部隊第4群第1集団(コードネーム"タフィ1")の護衛空母群を発見しこれに突入した。護衛空母サンティーとスワニーに特攻機が命中し損傷した。10時45分、栗田艦隊の攻撃を受けた直後の"タフィ3"(第77任務部隊第4群第3集団)の護衛空母群にマバラカットを出撃した関行男大尉率いる零戦五機から成る「敷島隊」が突入した。護衛空母セント・ローに特攻機1機(一説には2機)が命中し、爆弾、魚雷の誘爆でセント・ローは沈没した。1時間後、再び"タフィ3"にセブを出撃した部隊が突入、護衛空母カリニン・ベイに特攻機が命中した。

この攻撃により護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破したが、これを日本海軍は正規空母の撃沈破と誤認。特攻の威力を過大視した日本軍は終戦までこの戦法を正規の戦術として作戦展開していくこととなる。

結果とその後

日本軍はアメリカ軍に一撃を与える最後の機会を逃した。これにより、アメリカ軍はレイテ島に足場を築くことに成功し、フィリピン奪回を進めていくこととなった。また、日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても修理のできない南方に分断され、組織的攻撃能力を失った。さらに本海戦後、戦艦金剛が本土への帰航中に米潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) に雷撃されて沈没、また損傷してマニラに避退していた重巡那智も空母レキシントンの空襲を受けて沈没している。

この海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、再びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった。

アメリカ軍のレイテ島上陸阻止に失敗した日本軍は多号作戦と呼ばれるレイテ島への輸送作戦を行った。9次にわたるこの輸送作戦でも、日本軍は軽巡鬼怒以下多くの艦艇を喪失した。レイテ島を制圧したアメリカ軍は12月15日にミンドロ島に上陸、そして1945年1月9日ルソン島リンガエン湾へ上陸した。ただし、一連の戦いでの抵抗が予想より大きかった為、ルソンへの進攻は2週間遅らされた。なお、統合参謀本部は10月3日に陸軍はルソン島、海軍は沖縄を目指して攻略する決定を下し、レイテ島以降の攻略予定についての論争は終わった。

さらに詳しく → レイテ沖海戦



レイテ沖海戦1944―日米四人の指揮官と艦隊決戦レイテ沖海戦1944―日米四人の指揮官と艦隊決戦
(2008/09)
エヴァン トーマス

商品詳細を見る
関連記事

タグ : レイテ沖海戦 太平洋戦争 大東亜戦争

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/1765-3c38ca40
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ