牛島満(Mitsuru Ushijima) - 証言から知る沖縄戦での最期

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2010/10/10(日)
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牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。鹿児島県鹿児島市出身。沖縄戦において、第32軍を指揮し、自決した。温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、指揮官としても、歩兵第36旅団長として武漢、南京攻略に参加し、功績を挙げた。

年譜

* 1908年(明治41年)5月 - 陸軍士官学校卒業(20期)。
    o 12月 - 少尉に昇進。近衛歩兵第4連隊附。
* 1911年(明治44年)12月 - 中尉に昇進。
* 1916年(大正5年)5月 - 陸軍大学校卒業(28期)。
* 1918年(大正7年)8月 - シベリア出兵(~1920年8月)。シベリア派遣軍野戦交通部参謀。
    o 12月 - 大尉に昇進。
* 1919年(大正8年)4月 - 近衛歩兵第4連隊中隊長。
* 1920年(大正9年)8月 - 陸軍歩兵学校教官。
* 1924年(大正13年)3月 - 少佐に昇進。歩兵第43連隊大隊長。
* 1925年(大正14年)4月 - 歩兵第45連隊附(第一鹿児島中学校配属)。
* 1928年(昭和3年)3月 - 歩兵第23連隊附。
    o 8月 - 中佐に昇進。
* 1930年(昭和5年)8月 - 下関要塞参謀。
* 1932年(昭和7年)8月8日 - 大佐に昇進。陸軍戸山学校教育部長。
* 1933年(昭和8年)3月18日 - 陸軍省高級副官。
* 1936年(昭和11年)3月28日 - 歩兵第1連隊長。
* 1937年(昭和12年)3月1日 - 少将に昇進。歩兵第36旅団長。
    o 12月5日 - 陸軍予科士官学校幹事。
* 1939年(昭和14年)3月9日 - 陸軍予科士官学校校長。陸軍戸山学校校長(兼任)。
    o 8月1日 - 中将に昇進。
    o 12月1日 - 第11師団長。
* 1941年(昭和16年)10月15日 - 陸軍公主嶺学校校長。
* 1942年(昭和17年)8月8日 - 陸軍士官学校校長。
* 1944年(昭和19年)9月26日 - 第32軍司令官。
* 1945年(昭和20年)5月22日 - 南部撤退を決定。
    o 6月23日 - 早朝、摩文仁の丘洞窟内で長勇参謀長らと自決(同日は沖縄県慰霊の日。自決は22日だったとする説もある)。同日付けにて陸軍大将に特進。

沖縄戦

沖縄戦において、牛島は万事を長勇参謀長ら部下に一任し、自らは責任のみ負うとした。しかし、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしば他の参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因ともなった。また、大打撃を受けた5月4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長勇参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。

また、牛島個人としては、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。これは一億玉砕を唱える当時の軍部の方針に反するものであった。八原高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持した。(一方で、北部にある密林地帯、同地域で「やんばる」と呼ばれるその一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調、最悪で餓死者が出るということは容易に想像が出来たのではないか、とする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死であった。ただ、牛島としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にも漏らしている。)。また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。

しかし、大本営が沖縄作戦を本土作戦のための時間稼ぎと考えており、牛島もこの方針に従い指揮していたことや、南部撤退の過程で県民に多数の犠牲を出したことが批判される。首里から撤収中、牛島は民間人の遺体を見るたびに合掌し、野ざらしになった死骸、親を失って泣き叫ぶ幼児、爆撃で黒焦げた親子の遺体を見るにつけ、「なぜ、このような惨状を事前に見通せず、喜屋武半島撤退計画に安易な決裁を与えたのか。軍司令官としての沖縄県民に対する責任を、いかにして償えば良いか」と苦悩し、首里撤退の誤りを認めている。

牛島は5月、沖縄県庁幹部とも協議し、非戦闘員である住民を戦闘に巻き込まぬよう知念半島に避難させるよう命じている。そのため、6月上旬には、米軍に軍使を送るとともに、知念半島の非武装化を提案した。米軍も一旦それに同意したが、米軍の軍使が日本軍の狙撃兵によって殺されたため、また住民への命令不徹底により計画は頓挫した。しかし、米公刊戦史によれば、知念半島において住民1万人を保護したという記録が残っている。

最近、米国立公文書館から、牛島が自決の直前に鉄血勤皇隊の情報宣伝隊(千早隊)の隊長に、遊撃戦により戦闘を続けるよう命令する「訓令」の文書が大田昌秀・元沖縄県知事によって発見された。当時、千早隊隊長が隊員に対し同様の命令をしており、「訓令」は、米国国立公文書館の米第10軍の戦闘記録に含まれていた。鉄血勤皇隊の解散前後の1945年6月18日付で発令され、千早隊隊長の益永董陸軍大尉あてに「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じている。

最期

6月23日午前4時30分、牛島は長勇中将、佐藤三代次大佐と摩文仁洞窟にあった司令部壕で割腹自決をした。自決の直前、牛島は長参謀長と共に東方を拝して「天皇陛下万歳」を三唱。頬には涙が伝っていたという。午前 4時頃、牛島は幕僚と共に、洞窟から外に出て眼下に広がる沖縄の空と海を見渡し、再度洞窟に引き返した。当初は摩文仁の丘の上で自害するつもりであったが、米軍の攻撃が激しく断念している。その夜は壕にいた生存者全員が集められ、牛島は皆に「笑って別れよう」と語り、一人ずつに酒とパイナップルの缶詰を振舞い、今までの労をねぎらった。

牛島の評価

アメリカ軍事評論家のハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」と評し(田中とは、第二水雷戦隊司令官であった田中頼三海軍中将のこと)、牛島の采配を高く評価している。また、日本の軍事評論家である伊藤正徳は「小学校の校長によし、大学の総長にしてもよし。およそ校長として牛島ほど似合いの人は無い」と天性の教育者であったと評している。

しかし日本国内では、島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行った硫黄島の栗林忠道陸軍大将や、沖縄戦において、玉砕前に戦後の沖縄県民に対して配慮の要望を記述した『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の惜別電文を打った大田実海軍中将と比較すると、沖縄戦での牛島の采配に対しては評価が分かれている。(ただし前者については当時の沖縄県と硫黄島では人口が明らかに違ううえに、船舶の確保が難しい情勢および対馬丸撃沈に代表される制海権・制空権喪失による安全な疎開船運航ができない状況では、単純な比較は難しい)

また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが死傷または行方不明となったり自決したことの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったこと(ただし、この文を実質作成したのは長野英雄作戦参謀で、『生きて虜囚の~』の件は長参謀長が付け加えた)から、戦後、沖縄県民には牛島に対し厳しい見方があった。

昭和史家の半藤一利も、自著「指揮官と参謀」の中で牛島個人の人間性や武勇を評価しつつも、「悠揚秦然と微笑をうかべるのみではいけなかった」と第32軍司令官として全てを参謀まかせにしたことを批判している。

ただし、元陸軍少佐の奥田鑛一郎は、同じく首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と述べている。

牛島は、戦闘に汚れた服から礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座した。牛島は手に銘刀「来国俊」を持ち、刀を腹に突き当てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官、坂口勝大尉が軍刀を牛島の首に振り落とした。遺体は鍾乳洞の自然の穴に埋めたと言われているが、今日まで正確な場所は分かっていない。また、介錯した牛島の首の行方についても、当番兵が抱えたまま手榴弾で自爆した、米軍の砲弾で吹き飛ばされたなどの諸説がある。

一方、元沖縄県知事の大田昌秀は、米国立公文書館から牛島と長勇の最期の様子を記録した文書と二人の遺骸の写真を発見したと主張し、二人の遺骸とされる写真を見る限り、切腹や介錯した後は確認できなかったとし、文書では、牛島と長は青酸カリを含んだ注射器によって服毒自殺したと記されているという。写真の遺体の人物については、牛島と長では無いとの意見もある。

辞世の句

「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」


牛島の逸話

* 昔から戦場で用便を済ます癖があり、必ず見晴らしのいい場所などを選んでいたらしい。中国戦線では用便中に中国軍の1個分隊が目の前に現れたが、その1個分隊を捕虜にしたというエピソードも残っている。

* ある日、自宅に酔っ払いが表札の「牛島」を「牛鳥」と読み間違え、料亭と間違えて上がって来た事があったが、牛島は嫌な顔をせずに酔っ払いと深夜まで飲み明かしたという。

* 牛島満の慰霊碑が、鹿児島市加治屋町の甲突川河川敷に建立されている。周囲には桜が植樹されており、鹿児島市民には花見の名所として人気がある。

* 牛島に接したことのある沖縄県民の間では彼の人柄を懐かしむ声は多い。司令部壕掘りを手伝っていた人物の回想では、「穏やかな人で、敬礼すると『学生さん、ご苦労』と言っていた。靴がすり切れたので、はだしで作業をしていたら、『靴はどうした』と聞いて、早速新しい靴を持ってきた」という。また、32軍幹部の馬の世話をしていた獣医部の回想では、ある日指定時間に遅れて牛島の馬を連れてきた際、怒鳴られるのを覚悟したが、牛島は「私の方が早く来すぎたから」と語り、怒るどころかにこやかに答えたという。第32軍通信部に配属された鉄血勤皇隊員は、「あの人は先生になるべきだった」と戦後、牛島の妻に語ったと述べている。

* 孫に当たる牛島貞満は東京で小学校の教師をし統合教育に尽力している。

さらに詳しく → 牛島満



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タグ : 牛島満 沖縄戦 沖縄の戦い 大東亜戦争 太平洋戦争 大日本帝国

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