ベトナム戦争当時のハノイ(北ベトナム)の様子 - 田英夫

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2012/06/07(木)
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ベトナム戦争(ベトナムせんそう、英:Vietnam War、越:Chiến tranh Việt Nam )は、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一を巡って起こった戦争である。

概要

ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、ベトナム人同士の統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もある。1975年4月30日のサイゴン陥落時が終戦である。

ベトナム戦争の本質として、独立戦争の終結時にフランスとアメリカ合衆国がベトナム全土の共産化を抑止するために、傀儡国家の南ベトナムを建国し、ジュネーヴ協定が定めた統一選挙が行われず、分断国家状態が継続されていたので、アメリカ合衆国の傀儡国家である南ベトナムを打倒してベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求める戦争という観点と、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」という観点もあり、二つの本質を合わせ持った戦争だった。

第一次インドシナ戦争終結後も北ベトナムが南ベトナムを執拗に攻撃し続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣していたものの、ジョン・F・ケネディ政権下では南ベトナムに滞在するアメリカ合衆国の「軍事顧問団」や「軍事援助司令部」の軍人は16000人に増加し、併せて多数の武器弾薬を南ベトナムへ送り、「軍事顧問団」や「軍事援助司令部」の軍人は南ベトナム軍とともに、反政府武装勢力である南ベトナム解放民族戦線に対する掃討作戦を遂行した。

ただし、トンキン湾事件が起こる前まではアメリカ軍が「南ベトナム軍を支援する」という名目であり、アメリカ軍が公式に前面に出て戦うようになったのは、1964年8月2日のトンキン湾事件以後である。

なおアメリカの他には、SEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である大韓民国やタイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムを支援して派兵している他、スペインは医師を含む兵士13名を派遣し、パラグアイとニカラグアが同盟国であるアメリカを支援するための派兵を申し出ている。

ソビエト連邦や中華人民共和国は北ベトナムに対して膨大な軍事物資支援を行うとともに、正規軍人からなる多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。さらにソビエト連邦は西側諸国で行われた反戦運動に様々な形での支援を行っていた。また、北朝鮮が北ベトナム側で飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。

開戦の背景

冷戦と独立運動

1945年8月15日に日本軍が連合国に対して降伏すると、アジアやアフリカにある多くの植民地で、支配国である連合国の疲弊を好機と見て、軍事行動を伴う激しい独立運動が発生した。この動きは、植民地の維持を目論む連合国と、植民地からの解放を欲する植民地国民の間で紛争が頻発した。

アジアやアフリカ、特にアジアの独立運動は、戦勝国であるソビエト連邦政府とアメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。ヨシフ・スターリン政権のソビエト連邦は、ハリー・トルーマン政権のアメリカに対抗する為に、世界各地の共産主義を名目とする勢力を支援した。そして、米ソ共に核兵器を保有していることから、直接戦争を起こすことを避けて、「冷戦」と呼ばれる構造が成立した。

この米ソの対立は、ベルリン封鎖や朝鮮戦争やキューバ危機に見られるように、「代理戦争」という形で表面化した。資本主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国の成立や、東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入するようになった。

独立の画策

1940年8月に、日本軍がフランスの植民地であるフランス領インドシナに進駐すると(仏印進駐)、第二次世界大戦が終わるまで、フランス領インドシナはフランス軍と日本軍による領有権戦争の最中にあった。

その後、1945年8月15日に日本政府がポツダム宣言の受諾を布告すると、2日後の8月17日にはベトナム八月革命が勃発し、コミンテルンの構成員で、ベトナム独立同盟の指導者の地位にあったホー・チ・ミンは、日本軍政下で独立していたベトナム帝国(元首:阮朝皇帝のバオ・ダイ。首班:チャン・チョン・キム)を倒し、日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関の接収に成功した。

その後、ホー・チ・ミンが率いる革命軍は、日本政府が連合国に対して降伏文書に調印した9月2日に、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)を樹立し、国民からの支持が高かったバオ・ダイ帝を「最高顧問」に迎えつつ、共産主義を基礎にした国家建設を目指した。

分離独立

しかし、1945年7月に連合国によって開かれたポツダム会議で、インドシナの処理は決まっていた。北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めないという内容である。

これを受けて、9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には慮漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月21日にはイギリス海軍艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した。

その後も、連合国の一員であり、インドシナを日本政府から奪還して植民地支配を続けようとするフランス政府は、ホー・チ・ミンらが目論んだインドシナ全土の独立を認めず、1946年3月6日にベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員としてのみ認める合意に達した。

この協定によりフィリップ・ルクレール将軍指揮下のフランス軍部隊がハノイに入り、5月までにラオスにも兵力を配置するなどインドシナ一帯に再進駐すると、ベトナム民主共和国からコーチシナを分離する目的で、1946年3月にインドシナ南部に傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。

第一次インドシナ戦争

更にフランス軍は、1946年12月19日にベトナム民主共和国へ武力攻撃を開始し、ここに第一次インドシナ戦争が勃発した。またフランスは、1948年に「ベトナム臨時中央政府」を発足させ、1949年6月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を成立させて首班にバオ・ダイ帝を据え、ベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。

なお、バオ・ダイ帝は上記のように、ベトナム国の成立以前にホー・チ・ミンによりベトナム民主共和国政府の「最高顧問」に任命されたが、その後意見の対立からフランスに亡命していた。

その後フランスは、同じインドシナのラオスを1949年7月に、カンボジアを1949年11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性を強調しようとした。しかし、翌1950年1月にソ連と、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない中華人民共和国が、ベトナム民主共和国を正統政権と認証し、武器援助を開始した。

アメリカからの軍事援助

ハリー・S・トルーマン政権下のアメリカはこれに対抗し、1950年12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース公使、ベトナム国のチャン・バン・フー首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカはフランス軍とインドシナ三国に軍事援助を開始した。

アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億ドルに及び、ドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。

また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。

その後もアメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスチャン・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6000人の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。

ディエンビエンフーの戦い

しかし、現地兵とモロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、敢闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、劣勢に立たされた。

1953年11月20日には、「カストール作戦」が実施され、ベトミンが展開するラオス国境に近いディエンビエンフーを制圧することで、ベトミンの動きを封じようとしたものの、1954年5月にディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。なお、アメリカの統合参謀本部はこれに対し、フィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれを棄却した。

ジュネーヴ会談

これに先立つ4月26日にはスイスのジュネーヴに関係国の代表が集まり、インドシナ和平会談(ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。

なおディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍に攻勢を仕掛け、ジュネーブ会談中も手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。

南北分離独立

フランス軍の敗北が避けられないものとなった7月に、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立した。これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認されることになった。そして北緯17度を南北の軍事境界線とし、1956年7月に南北全土で自由選挙を行い統一を図ることが決定された。

しかし、アメリカのジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジア台頭(ドミノ理論)を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させた。また、宗教の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ難民として逃れた。

経過

アメリカによる支援

ジュネーヴ協定成立の翌年の1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支援した反共産主義者のゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、アメリカの支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。

これに伴いバオ・ダイ帝は退位し、ベトナム国は消滅した。ゴ・ディン・ジエムはジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否したため、この選挙に勝てると踏んでいたベトナム民主共和国との対立が先鋭化することになる。

アイゼンハワー政権下のアメリカは「ドミノ理論」を根拠に、反共主義的な姿勢を堅持したジエム政権をフランスに代わり軍事、経済両面で支え続け、南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始するなど、本格的な支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめることとなり、ジエム大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。

南ベトナム解放民族戦線

ジュネーブ協定に基づく統一選挙が行なわれなかったことを受け、1959年に北ベトナムは、南ベトナムの武力解放を検討し始めた。この北ベトナムの姿勢や南ベトナムの政情不安により、1960年12月に、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」で「National Liberation Front」の略)が結成された。

NLFは「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動を本格化させ宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。

南ベトナム解放戦線はベトミン勢力が中心であり、実質的に北ベトナムのベトナム労働党政府が主導していたが、共産勢力のみならず、南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していた。

なお南ベトナム解放戦線は、北ベトナム軍を経由して中華人民共和国やソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けていた。

ケネディによる派兵増強

1960年1月にアイゼンハワーを継いでアメリカの大統領に就任したジョン・F・ケネディは、就任直後に、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナムについての提言を求めた。

これを受けて特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言した。

これらの報告を受けてケネディ大統領は、正規軍の派兵は、キューバで起きた「ピッグス湾事件」や「キューバ危機」、西ドイツで起きた「ベルリン危機」などの他の地域において起きていた対立を通じて、世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国を「過度に刺激する」として行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、アメリカ軍の正規軍人から構成されたアメリカ軍「軍事顧問団」の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定した。

この決定に併せてケネディ大統領は、J・ウィリアム・フルブライト上院外交委員会委員長に対し、「南ベトナムとラオスを支援するために『アメリカ軍』を南ベトナムとタイ王国に送る」と通告し、併せてこの決定を正当化させるために、リンドン・ジョンソン副大統領とロバート・マクナマラ国防長官をベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。

ジョンソン副大統領はベトナム視察の報告書の中で、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」として迅速な支援を訴え、同じくマクナマラ国防長官も、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーン将軍への支持を表明した上に「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し、ケネディ大統領の決定を支持した。

その後ケネディ政権は、アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナムに駐留するアメリカ軍「軍事顧問団」を、1961年末には3,164人に増加させ、さらに1963年11月には16,263人に増加させた。

併せて1962年2 月にケネディ政権は「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、「軍事顧問団」を、その規模、内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさせた。さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的に、タイ王国内の基地に数百人規模の海兵隊を送ることを決定した。

ケネディ政権はアメリカ軍「軍事顧問団」の増派と、南ベトナム軍への軍事物資支援の増強という形の軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ大統領やジョンソン副大統領、マクナマラ国防長官の思惑に反して、アブバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍「軍事顧問団」が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、一向に事態は好転しなかった。

仏教徒弾圧

1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。

1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。

これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。

ジェムとケネディの対立

南ベトナムの状況のさらなる悪化を受け、ケネディ大統領がゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の更迭をジェム大統領に提言するが、ただちに拒否されるなど、ベトナムへの軍事介入と併せて、南ベトナム政府への内政干渉を強化するケネディ大統領とジェム大統領の関係は悪化していった。

これに対して国務省は両者の関係を修復させることを画策し、ジェム大統領からの信任が高かったものの、その後ジェム大統領の独裁的な指向と、それに対する南ベトナム国民の反発の拡大を指摘していたCIAのサイゴン主席駐在員であるエドワード・ランズデールを駐南ベトナム大使に任命し、ジェム大統領の「方向修正」を行うことをケネディ大統領とジョンソン副大統領、マクナマラ国防長官に提案した。

しかし、ケネディ大統領とマクナマラ国防長官は、ランズデールが「ホワイトハウス内で無名の人物であり」、「地位が比較的低い」ことを理由にこれを拒否し、かつては政敵だったものの、ケネディ大統領との関係が深かったヘンリー・カボット・ロッジJr.を駐南ベトナム特命全権大使に任命した。

ロッジ大使は8 月24日にサイゴンに着任し、その後直ちにジェム大統領に対してヌー秘密警察長官の更迭を再度求めるべく会見を求めたが拒否された。なおケネディ大統領はロッジ大使に対して「もしジェム大統領がヌー秘密警察長官の更迭を拒否したなら、『(アメリカは)ジェム自身を保護できない可能性に直面すると警告せよ」との訓令を授けていた。

この様に内政干渉を繰り返すケネディ政権を、完全に敵対視するようになったジェム大統領に対して、ケネディ大統領は9月 2日にウォルター・クロンカイトとのインタビューの中で

「サイゴン政府(ジェム大統領)が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ」

とジェム大統領に対して警告した上で

「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」

と述べ南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。

段階的撤収計画

この様にアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収には反対したものの、ジェム大統領率いる南ベトナム政府への単純な軍事支援を続けることに限界を感じていたケネディ大統領とマクナマラ国防長官は、対立が深まりアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジェム大統領への揺さぶりをかけることも踏まえて、これまでのようなアメリカ軍「軍事顧問団」の増強方針から一転して、10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる予定」であることを発表した。

そして11月には、マクナマラ国防長官が年内の1,000人の「軍事顧問団の引き上げ予定」を再確認するとともに、「アメリカ軍『軍事顧問団』を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、自らが拡大した軍事介入を縮小させると発表することで、最大の支援国であるアメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。

しかしケネディ政権は、「軍事顧問団の段階的な撤収計画」の概要こそ発表したものの、「軍事顧問団」完全撤退後の具体的なベトナム政策については何も発表していなかった上、上記のように、ケネディ大統領自体が南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤退論に対してあからさまな嫌悪感を表明していたため、このアメリカ軍「軍事顧問団」の段階的撤収作戦が、ケネディ政権と対立を深めるジェム政権に揺さぶりをかけるためだけのものであったのか、それとも本気で段階的に撤収しようとしていたかという点については議論が別れる。

なお、後に国務長官となり、泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、自著の中で「ケネディ政権のかつてのメンバーの中には、ケネディがアメリカ軍(軍事顧問団)を完全撤退させる決定を1964年の大統領選挙の後にするつもりだったと論じている人もいるが、その他の同様の要職に就いていた人はこれを否定している」とケネディ大統領とその政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定している。

ジェム大統領暗殺

この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェムクーデターが計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた。

11月2日にはクーデターが発生し、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は反乱部隊により政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で頭部を撃たれて殺害された。

これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部は国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。なお当初、「ジェム大統領は自殺した」と伝えられていたため、ジェム大統領が信仰心の篤いカトリック教徒であることを知っていたケネディ大統領は、「『自殺した』との報告に非常に大きな衝撃を受けていた」とマクナマラ国防長官は証言している。

ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれているが、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との声明を出すように指示した。  

南ベトナム政府とクーデター

南ベトナムはその後約2年間の間に、戦争中にも関わらず13回ものクーデターが発生するという異常事態に陥る。この様な状況下において、親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1 月30日にグエン・カーン将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国のタイ王国へと追放されることとなった。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り2月8日に大統領の座に復帰する。

アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、1965年2 月25日にグエン・バン・チューら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。その後同じく親米的な軍人であるグエン・カオ・キが首相に、チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。

カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は1968年に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。

なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューにかわり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった。

この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得競争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士官から兵士に至るまで士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。

ケネディ暗殺とジョンソン大統領就任

ジェム大統領が殺害された20日後の11月22日に、テキサス州ダラスを1963年11月の大統領中間選挙の遊説のために訪れていたケネディ大統領が狙撃され、その後まもなく死亡した。ケネディの死去に伴い、ケネディ政権の副大統領であったジョンソンが大統領に就任した。

かつてケネディ前大統領が発表した、南ベトナムからのアメリカ軍軍事顧問団の段階的撤収計画は、この計画発表の原因となったジェム大統領の暗殺とジェム大統領と対立していた対立するケネディ前大統領の暗殺、そしてジョンソン政権移行後の政策の見直しを受けて実行に移されることはなかった。

さらに、ケネディ政権でベトナムへの軍事介入政策拡大を推し進めたマクナマラ国防長官やラスク国務長官などの主要閣僚がジョンソン政権に留任したこともあり、その後ジョンソン政権は、かつてケネディ前大統領やマクナマラ国防長官らが推し進めた軍事介入拡大政策をそのまま転換することなく、ベトナムへの軍事介入政策拡大をさらに推し進めて行くこととなる。そして、1963年11月には、ベトナムへの正規軍による介入計画の検討が開始されている。

なお、2003 年に公開されたマクナマラ国防長官の自伝的ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー、マクナマラ元国防長官の告白」において、大統領就任後のジョンソン大統領とマクナマラ国防長官との電話の録音記録が紹介され、「ジョンソン大統領自身が南ベトナムからのアメリカ軍軍事顧問団撤収計画に強く反対であった」ことの証拠であるとされた。

しかしこの映画は、ケネディ政権とジョンソン政権下でベトナム戦争への軍事介入政策を推し進めた直接的な責任者で、後にベトナム戦争における「失敗」の最大の責任者と言われることになるマクナマラ国防長官の自己弁護、そして政権末期に対立を深めたジョンソン大統領への責任転嫁の要素が強いことに注意が必要である。

実際に、映画内においてマクナマラ国防長官は、「自身もケネディ政権末期に南ベトナムからのアメリカ軍軍事顧問団撤収計画を推し進めた」と主張したが、実際にはマクナマラ国務長官は、ケネディ政権末期においても、ジョンソン政権発足時においても、南ベトナムからのアメリカ軍軍事顧問団の「部分撤収」は主張したものの、上記のキッシンジャーの発言にあるように「完全撤収」を主張することは一切なく、この時点においてアメリカ軍軍事顧問団の完全撤収を主張したのは、ジョージ・ボール国務次官補ただ1人だけであったことが明らかになっている。

トンキン湾事件

その後アメリカ軍は、1964年8月 2日と8月4日にトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月 5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。

この軍事行動はアメリカ国民からの支持を受け、8月 7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、民主党と共和党の議員の多くがこれを支持しジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。

なお、1971 年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ捏造した事件であったことを暴露し、マクナマラ国務長官も1995年に同様の内容を告白している。捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることが北ベトナム側も認めている。

ジョンソンの再選

この様にベトナムにおけるアメリカの軍事活動が拡大していく状況下において、同年11月3日にアメリカ大統領選挙の一般選挙が行われた。

ケネディ前大統領の暗殺を受けてわずか1年足らず前に大統領職を継いだジョンソン大統領は、公民権法制定などの実績をアピールしつつ、対立候補である共和党のバリー・ゴールドウォーターを、「人種差別主義者(ゴールドウォーターは公民権法制定時に反対票を投じていた)」、「1930年代に創られた社会福祉プログラム(例えば社会保障)の廃止を望んでいる右派議員だ」とうまく色づけもした上に、「ゴールドウォーターならばこの国をソビエト連邦との核戦争に突入させるかもしれないと」主張した。なお、この時点においては南ベトナムに送られたアメリカ軍や軍事顧問団の死傷者数もそれほど大きくなかったこともあり、ベトナム政策が選挙の大きな争点となることはなかった。

ジョンソン大統領はこれらの要素をうまく働かせて、50州のうち44州とコロンビア特別区を制し、一般投票が初めてアメリカ全体に広げられた1824年以降最大の得票率を獲得し破り、改めてアメリカ国民からの信任を得た形となった。

ジョンソン大統領は自らが圧勝しただけでなく多くの共和党議員も落選させ、議会で保守派連合に打ち勝つ多数派与党を確保させた。なお、ジョンソン政権の第二期においても、マクナマラ国防長官やディーン・ラスク国務長官などの、ケネディ政権とジョンソン政権第一期でベトナムへの軍事介入を推し進めた主な閣僚は引き続き留任することとなった。

ソ連からの軍事援助

アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、1965年2 月にはソ連のアレクセイ・コスイギン首相がハノイを訪問し、北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明した。

なお、これまで北ベトナム軍への支援を行っていた中華人民共和国からは、軽火器の供給は豊富にあったが重火器の供給はほとんどなかったため、ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかったものの、これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給や軍事顧問団の派遣を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現することとなった。

これ以降北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍だけでなく、南ベトナム軍へ「軍事顧問団」の派遣を行っているアメリカ軍へも向くこととなる。コスイギン首相の北ベトナム訪問が行われた1965年2月には、南ベトナム解放戦線がブレイクのアメリカ軍基地を爆破し、多数のアメリカ軍将校を殺害した。

なお、初のアメリカの正規軍との戦闘となったトンキン湾事件では、アメリカ軍側に死者を出している報告はなく、この事件でアメリカ軍に多くの死者を出した。つまり先に北ベトナムが南ベトナムに対して戦争活動を起こした上に、先に北ベトナム軍がアメリカ軍人を殺害したのである。この事がアメリカの北爆を始めとする無差別爆撃や枯葉剤使用の大義名分となった。

北爆開始

ブレイクのアメリカ軍基地が攻撃を受け、将校が多数殺害されたことに激怒したジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の正規空母の「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイやハイフォン、ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を命令した。

またその後の3月26日には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のノースアメリカンF-100 やマクドネルF-105戦闘爆撃機などで爆撃させた。

当初アメリカ軍による爆撃は、北ベトナムの発電所やダムのみならず、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。これは、当時北ベトナムを支援していたソ連の軍事顧問団の存在がこれらの各施設内および周辺に確認されており、万一誤爆しソ連の軍事顧問団の将官が死傷した場合は、米ソ直接対決やアメリカの国内世論の猛反発を受けるのが必至とされていたからであった。これは防空体制が貧弱な北ベトナム軍にとって極めて有利な状況に働いた。

この様な状況を受けて、北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。

北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、ミコヤンMiG-17やMiG-19、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍パイロットに操縦訓練を施すために派遣されたソ連人パイロットが操縦していたことが確認されている。

これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(さらに4 月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器を殆ど運用していなかった当時の海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さとパイロットの損失の多さを認め、1967年4月末には殆どの制限が撤廃された。

これは直ちに効果をあげ、その後北ベトナム軍は空軍基地や飛行場がアメリカ軍による大規模な爆撃を受けたために、迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のF-111戦闘爆撃機の他、当時、「死の鳥」と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(「ビッグベリー」改造を受けたD型が主力)を投入、ハノイやハイフォンなどの大都市のみならず、北ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。

なお、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で「操業」していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。

その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイやハイフォンをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。

また、これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は、影響下にあった西側諸国のマスコミや市民団体を通じ、「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後の西側諸国における大規模な反戦活動への土台を整えた。

地上軍の投入と戦線拡大

ジョンソン大統領は大権を行使し、1965年3月 8日に海兵隊を南ベトナムのダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。 アメリカはケネディ政権時代よりに南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は 1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7 月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。なお、地上部隊を派遣したのは南ベトナム国内だけで、北ベトナム領内には中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。

一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。

アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。

11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH- 1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。

しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。

アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は、航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、アメリカ軍兵士による村民への暴行を引き起こすこととなった。

その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。

アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出す為に「枯れ葉剤」を撒布した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾が現在も大量に埋まっており、現在に至るまで住民に被害を与えている。

韓国軍の参戦

大韓民国の朴正熙政権は、アメリカの要請により1964年に最初の海軍部隊を派遣した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって韓国は高度成長を果たした。

1965年8月13日に、韓国国会がベトナム派兵に同意する。 1965年10月には、陸戦部隊である「猛虎師団」1万数千を派兵して本格的に参戦、国内の最精鋭部隊を投入し、1966年9月3日には白馬部隊もベトナムに上陸する。

結果的に韓国は、1973年3 月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺害、ベトコンとの戦闘での損害比は36:1(アメリカ軍は12:1)であり、北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘は避けるように通達したほどであった。また、アメリカの新聞にも「Demon-Hunter」と紹介されるなどした。韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。

タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどを含むSEATOの加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。

これは、米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、軍事統制権をアメリカが持っており自身に権利が無かったこと、さらに韓国自体が、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。

この派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、南北ベトナム軍やアメリカ軍と同様に、韓国軍兵士によるベトナム人住民虐殺や強姦も起こった。生存者の韓国軍の行為に関する証言で共通な点は、無差別機銃掃射や大量殺戮、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などが挙げられている。、また韓国人とベトナム人女性との間に多数の韓越混血児が生まれたことが確認されている。

南ベトナム解放民族戦線によるテロの増加

1964年1月のクーデター以来、南ベトナムは度重なるクーデターで政権交代が繰り返され、南ベトナム政府による都市や村落への支配力はきわめて不安定となった。アプバクの戦いで政府軍を下し、勢いに乗った南ベトナム民族解放戦線は、この権力の空白状態に乗じて治安撹乱を目的にした無差別テロ攻撃を全国各地で繰り返し行い、サイゴンはじめ都市部の治安状態までもが悪化した。

テロの対象は南ベトナム軍やアメリカ軍の基地と関連施設、南ベトナム政府の関連施設のみならず、南ベトナム政府軍兵士やアメリカ人が出入りする(当然南ベトナム人の民間人も出入りする)映画館やレストラン、ホテルやディスコにまで広がった。

南ベトナム政府の発表によれば、1962年には1719人、1963年には2073人、1964年には1611人、1965年の1月から5月には539人の南ベトナム市民が南ベトナム民族解放戦線による攻撃の犠牲となっている。アメリカ国務省の発表では、1964年には官吏や村長が436人と民間人1350人が各地でベトコンによる攻撃の犠牲になったとしている。

これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、士官学校の校長、南ベトナム軍の情報部将校などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。

チュー大統領就任

戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9 月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。

なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。なおチューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。

反戦運動

南ベトナムにおける反戦運動
戦争の現場である南ベトナムでは、南ベトナム解放民族戦線の後援(つまり北ベトナム政府の後援)を受けた左翼的志向を持つ市民を中心に反戦運動が行われていた。反対に戦争支援の運動も、南ベトナム政府とアメリカの大掛かりな支援のもと数多く行われていたといわれている。

アメリカ国内における反戦運動
戦地から遠く離れているものの、多くの軍人を戦地に送り、かつテレビ中継により多くの国民が戦闘を目の当たりにしていた「戦争当事国」のアメリカでは反戦運動が高揚していた。

また、1963 年に奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心にした黒人(アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が活発化していたこともあり、これらの公民権運動が転じて反戦運動に同化するケースも多くみられた(なお公民権法は、人種差別を嫌い公民権法の制定に精力的であったジョンソン政権時代の1964年7月に制定された)。

そのような中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制や文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれらの若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピープルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。

なお、ベトナム戦争の副産物として、ベトナムで共に戦った黒人と白人の若者がそれまで完全に分け隔てられていた人種間の融和の促進剤となっていった(ベトナム戦争は、1964年にジョンソン政権下で制定された公民権法の施行を受けて、アメリカ史上初めて「黒人部隊」が組織されず、黒人と白人が同じ戦場で同等の立場で戦う戦争でもあった)。この点についてキング牧師は生前「皮肉な結果である」と述べていた。

1967 年には最大で50万人を超えるアメリカ兵がベトナムに投入されたが、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線と対峙するアメリカ軍および南ベトナム軍にとって戦況の好転は全く見られなかった。

さらにアメリカは、莫大な戦費調達と戦場における士気の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや新聞、雑誌などの各種メディアによる反戦的な報道に苦しむことになった。1967年4月にはニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、10月21日に首都のワシントンで最大規模の反戦大会が催された。さらに翌年1月にはテト攻勢(後述)によって反戦運動は大きく盛り上がった。

これらの反戦活動はベトナム戦争で戦うアメリカ軍兵士の士気の低下にも大きく影響し、1971年には、ベトナム戦争にも参戦していたアメリカ海軍の正規空母「コーラル・シー」の艦内で乗組員による「Stop Our Ship(SOS)」と名づけられた反戦運動が計画され、少なくとも1000人が参加した。さらに同年11 月6日には、同艦の乗組員300人がサンフランシスコ市内で反戦デモに参加した。

除隊した帰還兵による反戦運動も盛り上がりを見せた。1967年にはベトナム反戦帰還兵の会(VVAW)が結成された。VVAWは最盛期には30,000人以上を組織化し、ロン・コーヴィック(『7月4日に生まれて』の著者)やジョン・ケリー(2004年民主党大統領候補者)のような負傷兵が中心となって反戦運動を行った。しかし、 12度逮捕されたコーヴィックのように違法なデモなどを行ったこともあり、高い支持を受けることはなかった。

著名人による「反戦運動」

なお、「戦争当事国」のアメリカでは、作家や評論家などの文化人や、俳優や女優、歌手などの芸能人による反戦運動も盛んに行われた。

その代表的な例として、1970年のビートルズ解散後のイギリス人歌手のジョン・レノンも、ビートルズの解散後に活動拠点を置いていたアメリカを中心に「反戦活動」を行った。この際に行われた「ベッド・イン」などの過激なパフォーマンスは、事前告知を入念に行った上、人気歌手によるものであることもありマスコミも大きく取り上げ、単純かつ過激であることから若者への影響力が強かった。

アメリカ国内においても人気の高かったレノンの行う「反戦活動」に対して共感するファンも多く、当時レノンがイギリスで大麻所持により逮捕されたためにアメリカへの再入国が許可されなかったことを、「レノンの『反戦活動』による若者への悪影響を嫌うニクソン政権による嫌がらせ」と勝手に解釈する向きもあった(アメリカでは通常、近年内に麻薬での逮捕歴がある人間の入国は拒否される)。

また、1972年に「反戦活動家」のトム・ヘイドンと共に、「アメリカ兵のための反戦運動」と自称して北ベトナムを訪れたアメリカ人女優のジェーン・フォンダは、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶり高射砲の照準器を覗き込むポーズをとった。

この時の写真は内外のマスコミを通じて世界中に配信され、この後長年に渡りベトナムから帰還したアメリカ軍兵士やその家族を中心に「裏切り者」や「売国奴」、「ハノイ・ジェーン」などと批判する勢力も大きかった。フォンダは1978年には、ベトナム帰還兵の問題をテーマにした主演映画「帰郷」(Coming Home )で、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。

テト攻勢

旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したものの、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1 月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。

サイゴン市内やダナンなどの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始した。物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月 1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言し間もなく戦闘は終結した。テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。

テト攻勢は軍事的には大きな失敗であったが、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都のサイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。

また、テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校の、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていたとはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争(と南ベトナム政府)に対する各国の世論に大きな影響を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。

フエ事件

テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれたフエでは、1 月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。

この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと言われている。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2000人以上であると言われている。

テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と解放戦線の攻防戦が続けられていた(なお当時の新聞表記は「ユエ」である)。なおこの事件は、南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある(詳細はノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照)。

ソンミ村虐殺事件

一方で、アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サイゴン周辺などの南ベトナム国内を主として度々村落の焼き討ちと、南ベトナム解放民族戦線兵士「容疑者」への虐殺を繰り返した。

ジョンソン退陣とアメリカの内政混乱

結果的にベトナムにおけるアメリカ軍による戦闘の拡大を招いてしまったアメリカのジョンソン大統領は、アメリカ国内外のマスコミから連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。

この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して勝利したが、ジョン・F・ケネディの弟で、ケネディ政権とジョンソン政権の司法長官を務めていたロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明したこともあり、世論調査で最低の支持率を記録した。

また、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、北爆の中止をめぐってジョンソン大統領と意見が対立したマクナマラ国防長官が1968年2 月29日に辞任することとなった。

これらの影響を受けて、3 月31日にジョンソン大統領は、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対する反戦運動などによるアメリカ国内の世論分裂の拡大を挙げた。

この後も反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4 月4日に白人のジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月 5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。

相次ぐ暗殺事件にその後アメリカ国内の情勢は混乱を極めたが、8 月26日から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会がシカゴ市内のホテルで行われた。これに合わせてシカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J ・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。

なお、ジョンソン大統領は自らが所属する党の大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソン大統領は10月に北爆を全面停止させる。

ニクソン登場と和平交渉開始

同年に行われた大統領選本戦では、民主党はユージーン・マッカーシーやジョージ・マクガヴァンを破り大統領候補に選出されたヒューバート・ホレイショ・ハンフリーを候補に立て戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1 月20日にニクソンが大統領に就任した。

ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。

なお、就任以前から段階的撤退を画策し、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する"秘密の方策"がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させた。

「サイレント・マジョリティ」

民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選したニクソン大統領は、ブームと化した反戦運動に反感をもつ、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。

ニクソンの支持母体は、アメリカにおけるマジョリティ(多数派)である、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。

彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部のホワイトカラーのリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピー、そしてこれらの「徴兵されることがない人々」を中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた。

彼らはニクソンの呼びかけに応えて声を上げ、各地で過激化する反戦団体とぶつかり合った。こうした白人保守派層の巻き返しもあり、反戦運動は、当初中心をになっていた理想主義的なインテリ層や現役大学生の手を離れ、単にブームに乗っただけのヒッピーなどを代表とする理念に欠けるものに変質し次第に弱まっていった。

この年の7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進をおこなう、静かなものに変わりつつあった。

中ソ対立の激化とデタント

ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民軍部隊が対峙する事態になった。

1969 年3月2日に、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月 8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。

この様な状況を受けて、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国をけん制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年4 月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。

ホー・チ・ミン死去

フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)及び政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、東ドイツや中華人民共和国などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。

戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、 1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果になった。

ホーチミンが述べた言葉として『中国人の糞を100年喰らうよりフランス人の糞をしばらく喰らった方がましだ』というのが有名である。、中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。

カンボジア侵攻

南北ベトナムの隣国のカンボジアでは、1970年3 月に、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあり「容共的元首」であるとしてアメリカが嫌っていたノロドム・シアヌーク国王の外遊中に、アメリカの援助を受けたロン・ノル国防大臣と、シハヌークの従兄弟のシソワット・シリク・マタク殿下(副首相)率いる反乱軍がクーデターを決行し成功させた。反乱軍はその後ただちにシアヌーク国王一派を追放し、シアヌークの国家元首からの解任と王制廃止、共和制施行を議決し、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言した。

4月26日には、ロン・ノルの黙認の元、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナム及び南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くための目論見でもあった。

カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早速と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。

また、南ベトナムとアメリカ両軍のカンボジア侵攻前後、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。

なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。

シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の独裁者の金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

北爆再開

アメリカ軍は講和条件を有利にする為、カンボジア領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、講和を急いだニクソン大統領は1972年5月 8日に北爆を再開することを決定した(ラインバッカーI作戦)。

この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」(英表記;Ho Chi Minh Trail)を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。

アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。

特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦では、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃で北ベトナムの都市に対して2週間で20,000トンの爆弾が投下され、ハノイやハイフォンを焼け野原にし、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。

さらに新たに前線に投入された超音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペーブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイといったハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。

海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。

港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、その殆どは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。

北爆の成功

アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被い、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底し、継戦不能な事態に陥った。

この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。

アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せてただでさえ貧弱な北ベトナムのインフラにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。

北ベトナム軍にとって幸いなことに再度の北爆は国際世論の反発を受け短期間で中止されたが、アメリカ政府の目論見通り、この空爆の成功は北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追いこむことに成功した。

米中接近とパリ協定調印

上記のように、就任以前から泥沼化していたベトナム戦争からの段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1 月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航した。

1972年4月に、ニクソン大統領は北ベトナムの主な支援国の1つである中華人民共和国を電撃訪問し、毛沢東国家主席と会談する。なお、ニクソン大統領はかねてからキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に中華人民共和国との水面下での交渉を行わせていた。

ニクソン大統領が共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、当時ソ連と対立していた中華人民共和国に近づくことでソ連をけん制するのみならず、中華人民共和国が、国境を接する北ベトナムや、同じく隣国のカンボジアのポル・ポトを軍事的に支援し深い関係を持ち、影響力を持っている事が関連していると考えられた。

また、中華人民共和国としても、ニクソン政権下でソ連と友好的な関係を保っていたアメリカと接近することは、文化大革命全盛期の1969年に勃発したダマンスキー島事件以降、関係が極度に悪化していたソ連を牽制するという意味があった。

なお北ベトナム政府は、米中両国の接近を「自国に対する中華人民共和国の裏切り行為」と受け止めた。以後、北ベトナム政府は中華人民共和国と対立するソ連との関係を強化し、北ベトナムと中華人民共和国との関係悪化は決定的になった。なお戦争終結後、北ベトナム政府は国内の中国系住民(華僑)への抑圧政策を開始し、1979年に勃発した中越戦争の遠因となった。

この様に、ベトナム戦争のみならず、アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、秘密交渉開始から4年8か月経った1973年1 月23日に、フランスのパリに滞在する北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。

そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。

なお、この「和平協定」調印へ向けて様々な調整を行った功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は、「ベトナム戦争が終結していないこと」と、「ベトナム統一が実現していないこと」などを理由に受賞を辞退した。

アメリカ軍の全面撤退

パリ協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し、1月29日にニクソン大統領は「ベトナム戦争の終戦」を宣言した。

その後、パリ協定に基づきアメリカ軍は南北ベトナム全土から一斉に撤退を開始し、併せてハノイの有名な戦争捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が次々に行われた。

なおアメリカ軍は、パリ協定の調印を前にすでにベトナムからの全面撤退の準備を進めていたこともあり、「終戦宣言」からわずか2か月後の3 月29日には撤退が完了した。しかし、ケネディ政権時代から南ベトナムに派遣されていたアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、航空機や戦車、重火器などの軍事物資の供給も行われていた(なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)。

アメリカ軍撤退後の戦況

なお、パリ協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍はすぐさま補給路を回復し南ベトナム侵攻のための体勢を立て直した。これに対して、パリ協定が締結されアメリカ軍が南ベトナムより全面撤退した結果、本来増えるはずのアメリカからの南ベトナム軍への軍事支援の規模は激減していたため、前線における南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦力の格差は決定的に広がることとなる。

しかし、パリ協定において「停戦」が謳われたため、これを反故にした結果のアメリカ軍の再介入を恐れ、北ベトナム軍はしばらく南ベトナム軍側に対して大規模な攻勢は行わなかったが、まもなくパリ協定における停戦協定を無視した北ベトナム軍による南ベトナム軍に対する攻撃のペースは増加し、兵士の士気も落ちた南ベトナム軍の死傷者数も増大して行った。

また、1974 年1月には勢いを増した北ベトナム軍が隣国のカンボジアの首都プノンペンに迫る。9月以降はソ連や中華人民共和国からの軍事援助を受け、力をつけた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後も南下を続け、勢いが減ることはなかった。

なおこの渦中に、中華人民共和国の中国人民解放軍が、南北ベトナム間の戦線から遠く離れた西沙諸島に駐留する南ベトナム軍を攻撃し(西砂海戦)、独立以来の南ベトナム領で当時石油などの地下資源があると推測されていた西沙諸島一帯を占領した。その後のベトナム戦争の終結と南北ベトナムの統一、中越戦争を経た現在に至るまで、中国人民解放軍による不法占拠(実効支配)状態が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争案件となっている。

ニクソン退陣

同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件の責任をとって辞任、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、混迷を続ける内政の立て直しと中間選挙に集中しなければならず、これらに集中するためもあり、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とはデタントを推し進めたニクソン政権同様、積極的な宥和政策を継続し続けることになった。

その上に、ニクソン政権が残したウォーターゲート事件の後始末や、ケネディ政権が推し進めたアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞やベトナム戦争に対する膨大な戦費と不況の関係などの国内問題に国民の関心が移り、アメリカは、もはやベトナム情勢に対する興味を失いつつあった。

実際に、フォード政権に移行して以降のアメリカ政府は、パリ協定で実施が約束されたはずの統一総選挙実施への働き掛けどころか、パリ協定違反である「停戦」後の南ベトナムに対する北ベトナム軍の攻撃を止めるための働き掛けすら行わなくなった。さらに、同年8月には南ベトナム政府からの再三の働き掛けを受けて、議会が最後の南ベトナム政府への資金援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低かった。

北ベトナム軍の全面攻撃

この様な状況を受けて、北ベトナム政府は「アメリカの再介入はない」と判断し、南ベトナムを完全に制圧し、南北ベトナムを統一すべく1975年3 月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した(ホー・チ・ミン作戦)。

この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港であるダナンが、南ベトナム軍同士の同士討ちや、港や空港に避難民が押し寄せるなどの混乱のもと陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。

4 月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落した。この様な状況を受けてグエン・バン・チュー大統領はアメリカに対して軍事支援を要請したものの、完全に南ベトナム政府を見捨てたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。

4月中旬には南ベトナム政府軍が「首都であるサイゴンの防御に集中するため」として、これまで持ちこたえていた戦線も含め主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、アメリカからの軍事援助も途絶え装備も疲弊していた上に士気も落ちており、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、まもなく北ベトナム軍はサイゴンに迫った。

このような状況を受けて、アメリカ政府は南ベトナムの戦災孤児をアメリカやオーストラリアに運び、養子縁組を受けさせる「オペーレーション・ベイビー・リフト」を4月 4日に開始した。

しかしその第1便となるアメリカ空軍のロッキードC-5「ギャラクシー」貨物機が、マニラに向けてタンソンニャット国際空港を離陸した後に墜落し、乗客乗員328人中153人が死亡し多数の戦災孤児が死亡するという悲劇が起き、北ベトナム政府はこれを「人さらいの上での虐殺である」と非難した。しかしこの作戦はサイゴン陥落直前の4 月26日まで続けられ、3300人の戦災孤児が混乱する南ベトナムを離れた。

なお隣国のカンボジアでは、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるクメール共和国政府軍と、中華人民共和国などの支援を受けたクメール・ルージュの内戦の末、4月17日に首都のプノンペンが陥落し、直前にアメリカのジョン・ガンザー・ディーン大使などが隣国のタイへ逃亡したほか、ロン・ノルもインドネシア経由でハワイ州へ逃れた。

土壇場での混乱

4月21日には、グエン・バン・チュー大統領がテレビとラジオを通じて会見を行い、これらの事態の責任を取り辞任することを発表した。後任には、南ベトナム政府の長老の1人で、1960年代に大統領や首相を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。

穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いとみられたフォン大統領との和平交渉を4 月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4 月29日に、就任後わずか8日で辞任した。後任として同日に同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン新大統領による土壇場での和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。

首都であるサイゴン陥落による混乱を恐れたベトナム政府上層部の家族や富裕層は、4月中旬以降次々と民間航空便で国外への脱出を図っていたが、この頃になると、サイゴン北部のタンソンニャット空軍基地にも攻撃が及んできたために、同空港を発着するベトナム航空やパンアメリカン航空、シンガポール航空などの民間航空機の運行や、「オペーレーション・ベイビー・リフト」も4月26日を持って全面的に停止した。また、一般市民も南ベトナム政権の崩壊を予測し、南ベトナムの通貨であるピアストルを金やダイヤモンド、アメリカドルに交換したため、ピアストルの価値が暴落した。

サイゴン撤退作戦

この時すでに南ベトナム軍の前線は各方面で完全に崩壊し、それとともに北ベトナム軍によるサイゴン市内の軍施設などの重要拠点への砲撃や、北ベトナム空軍機による爆撃などが続いた為に、サイゴン市内の一部は混乱状態に陥った。

その後まもなく四方からサイゴン市内へ向けて進軍した北ベトナム軍の地上部隊により、南ベトナム軍のタンソンニャット空軍基地も完全に包囲された。さらに北ベトナム軍の攻撃を受けて同空港の滑走路や各種設備が破損したために、南ベトナム軍機の発着は完全に途絶し、北ベトナム軍と交戦中の南ベトナム地上軍への援護も不可能になった。

サイゴン陥落は避けられない状況となり、アメリカ政府および軍は4 月28日に国家安全保障会議を開き、アメリカ軍や政府の関係者と在留アメリカ民間人、アメリカと関係の深かった南ベトナム政府上層部のサイゴンからの撤退方法についての緊急討議を行い、その後のサイゴンからの撤退作戦である「フリクエント・ウィンド作戦」を発令した。

作戦開始後、市内のアメリカ政府やアメリカ軍、南ベトナム軍の関連施設からアメリカ軍や政府の関係者と、グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元首相をはじめとする南ベトナム政府上層部やその家族、在留アメリカ人らが、サイゴンの沖合いに待機する数隻のアメリカ海軍の空母や大型艦艇に向けて南ベトナム軍やアメリカ軍のヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続け、空母の甲板では、立て続けに飛来するヘリコプターを着艦するたびに海中投棄し、次に飛来するヘリコプターや軍用機の着艦場所を確保した。

しかし、在留日本人は、アメリカ人や南ベトナム人の撤退を行うことだけでアメリカ軍が手一杯なことや、日本が直接参戦していないことなどから、たとえ日本人がベトナムに残っても北ベトナム政府や市民などから迫害を受ける可能性が低いことなどを理由に、アメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された。

また、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように政府専用機や軍用機による自国民の救出活動が全く行われなかったことや、パイロットや客室乗務員の労働組合の反対で日本航空の救援機も運航されなかったために、混乱下のサイゴンに取り残された。

なおこの際に、かつてはアメリカ軍とともにベトナム戦争に参戦していた韓国人は、「アメリカ人や南ベトナム人の退去活動で手一杯であること」を理由に日本人と同じくアメリカ軍機による撤退への同行が拒否され、その結果駐南ベトナム大使以下の在留韓国人の殆どが、反韓感情が根強く残るサイゴンに取り残されることとなった。なお、サイゴンに取り残された韓国人は、国際赤十字指定地域とされた市内の病院に避難し迫害を受けることはなかったものの、その後しばらく帰国することができなかった。

「フリクエント・ウィンド作戦」に関するアメリカ軍の公式記録では、述べ682回にわたるアメリカ軍のヘリコプターによるサイゴン市内と空母との往復が記録され、1300人以上のアメリカ人が脱出に成功、その数倍から十数倍の南ベトナム人も脱出した。なお作戦中に海中投機されたアメリカ軍や南ベトナム軍のヘリコプターは45機に達した。

サイゴン陥落と南ベトナム崩壊

4月30日の早朝には、最後までサイゴンに残ったグエン・バン・チュー元大統領ら南ベトナム政府の要人や軍の上層部とその家族、アメリカのグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム特命全権大使や大使館員、アメリカ人報道関係者などの南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが、サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで、海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出した。

しかし、撤退計画がサイゴン市内の混乱を受けて遅延したこともあり、北ベトナム軍はアメリカ政府の国際赤十字社の要請を受け、サイゴンに在留するアメリカ軍人および民間人が完全に撤退するまで、サイゴン市内に突入しなかった。なおアメリカ軍およびアメリカ大使館は、撤退後に北ベトナム政府に渡らぬよう計360万アメリカドルを撤退前に焼却処分にした。

同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が、大統領官邸から南ベトナム国営テレビとラジオで戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後残留南ベトナム軍と北ベトナム軍の間に小規模な衝突があったものの、午前11時30 分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った南ベトナム政府の閣僚は北ベトナム軍に拘束され、サイゴンは陥落。南ベトナムは崩壊した。

少数の南ベトナム軍の将校はサイゴン陥落後に自決した。なお、サイゴン陥落の約2週間後には、クメール・ルージュが政権を握った隣国のカンボジアで「マヤグエース号事件」が勃発し、人質の解放に向かったアメリカ軍とクメール・ルージュの間で起きた戦闘により多数のアメリカ軍兵士が死亡している。

南北ベトナム統一

サイゴン陥落とそれに伴う南ベトナム政府の崩壊後、1969年に南ベトナム解放民族戦線と民族民主平和勢力連合、人民革命党によって結成されていた南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナム全土を掌握した。しかし臨時政府は、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立したものであり、主要閣僚職はいずれも南ベトナム解放民族戦線内の労働党員に占められていた傀儡政権であった。

南ベトナム解放民族戦線には仏教徒や自由主義者、リベラルな学生なども多数参加していたが、ベトナム統一後、それらの影響は排除された。なお亡命せずに国にとどまった約10万人にのぼる南ベトナム軍と旧政府関係者らは、当局への出頭が命ぜられ「再教育キャンプ」と呼ばれた強制収容所に送られ、階級や地位に応じてそれぞれ数週間から10年以上をキャンプで過ごした。

1992年時点で10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年以上キャンプに収容されていた4万5000人については本人の希望した場合アメリカが家族とともに受け入れる事を同意した(当時国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカへ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求した)。

南ベトナム共和国臨時政府は正式な政府に発展すること無く、1976年4 月にジュネーブ協定以来の懸案であった南北統一選挙が行われ、7月1日、南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立(北ベトナムによる南ベトナムの吸収)が宣言され、「南ベトナム共和国」はサイゴン市陥落から1年余りで消滅した。

統一後はピアストルとドンの通貨の統合や行政、官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。また、その後旧サイゴン市に周辺地域を統合して北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」が新たに制定された。

損失

南北ベトナム

1960年代前半よりベトナム人自らの意思を無視した形で始められ、その後10年以上続けられた戦争によって、南北ベトナム両国は100万を超える戦死者と数百万以上の負傷者を出した。

このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。

また、共産主義政権による武力統一、および統一後の性急な社会主義経済の施行は、フランス統治下時代より活発に行われていた資本主義経済と、それがもたらす消費文化に長年慣れ親しんだ南ベトナム経済の混乱を招き、また統一後の言論統制などが都市富裕層や華人の反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。

なお、南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により処刑されるか再教育キャンプ送りになった。解放戦線はサイゴン陥落直後、人民軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。わずかに解放戦線議長を務めて統一に貢献したグエン・フートが戦後に実権のない名誉職である国会議長を務めた程度である。

南ベトナムの元司法大臣のチュン・ニュー・タン(チュオン・ニュ・タン)は、『裏切られたベトナム革命――チュン・ニュー・タンの証言』(友田錫著、中央公論社)、『ベトコン・メモリアール――解放された祖国を追われて』(吉本晋一郎訳、原書房)で、サイゴン陥落から自ら亡命するまでの実態を告白している。『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』(ステファヌ・クルトワ他著、恵雅堂出版、ISBN 4-87430-027-8)によれば、統一後現在までのベトナムでの死者は100万人に上るという。

アメリカ

アメリカはこの戦争で、戦死者58,000余名(派兵数全体の約10%)と1,700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果必要となった膨大な戦費負担は、同時期に巻き起こったオイルショックなどと併せてアメリカ経済を直撃した。

しかしながら、この戦争によりボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスやノースロップ・グラマンやリング・テムコ・ボート、ヒューズエアクラフトなどの多くの軍需関連企業は「特需」で大きな利益を手にし、ヒューズエアクラフトなどのいくつかの破産寸前だった企業は息を吹き返した。

また、戦争をめぐっての国内世論の分裂や、事実上の敗北による挫折感は既成の価値観を崩壊させ、アメリカ国内では犯罪の増加や麻薬の増加、教育の崩壊・貧困の増加などがおきた。反戦活動の高まりによる兵士の士気の低下や徴兵拒否の増加を受けて、アメリカ軍がベトナムから撤退した 1973年には徴兵制が廃止された。

他にも、「勝利」を獲得できなかったベトナム帰還兵への非難や中傷が社会問題化した。またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープル、難民を数十万人受け入れた。

日本への影響

ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、7年6ヶ月間に亘って日本の総理大臣を務めた佐藤栄作(1964年秋~1972年春)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀、横田などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970 年には安保条約を自動延長させた。その見返り的に、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県のアメリカからの返還を実現した。

左翼の一部はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、一般市民による反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自ら行う「反戦」(事実上の反米)運動や、破壊活動をともなう過激な学生運動も盛り上がりを見せた。なお、ベ平連などの反戦団体のいくつかがソ連などの共産圏の政府から金銭、物資面の後援を受けていたことが戦後当事者の証言によって明らかになっている。

また、ベトナム戦争終結後、1989年までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、ボート・ピープルは大部分が華僑であったことが使用言語などから分かっている。

和解

ベトナム戦争の終結から20年後の1995年8月 5日に、ベトナムとアメリカは和解し、国交を回復した。その後の2000年には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードやゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出した。

その後、上記のような大企業を中心とした多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。なお、ベトナムにとって、現在アメリカは隣国の中華人民共和国に次いで第二の貿易相手となっている。

また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れた事や、2000年代以降はベトナム政府がアメリカなどに亡命したベトナム人の帰国を、外貨獲得の観点からほぼ無条件に許したことから人的交流も盛んになっている。また枯葉剤問題は賠償はしていないものの、アメリカ政府とフォード財団は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。これは貿易関係であるために、アメリカが一歩譲ったと思われる。

評価

ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さを全世界に伝えた。アメリカ国内では史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナの地で何のために兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ政府に集中した。

かつてベトナムを侵略・支配していたフランスでもシャルル・ド・ゴール大統領は「ベトナム戦争は民族自決の大義と尊厳を世界に問うたものである」と述べている。ただしド・ゴールは、1954年に自国がインドシナから撤退したことについては「不本意だった」と語っている。

ベトナム戦争終結と共に、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことでインドシナ半島は全て共産主義化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。

ただし、アメリカがインドシナ半島に軍事介入して10年間持ちこたえたからこそ東南アジア全体の共産化が阻止されたとする見方もある。逆にアメリカのインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。

この地はその後も安定せず、ベトナムは無差別虐殺を繰り返していたポル・ポトによる独裁の打倒を掲げてカンボジアに侵攻し内戦が再燃、対して中華人民共和国がベトナムに侵攻して中越戦争が起き、不安定な状況が継続した。その背景にはインドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあった。

ベトナム戦争終結から34年後の2009年現在では、カンボジアでは選挙により政権は民主化し、ベトナムとラオスでは依然として共産主義政党による一党独裁統治が継続しているものの、経済的には、社会主義的政策の行き詰まりからドイモイ政策などにより国家による管理統制経済を破棄して、市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れざるを得なくなっている。

さらにベトナム、カンボジア、ラオスは東南アジア諸国連合に加盟し、ベトナムはWTOに加盟して、東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれざるを得なくなり、経済的な状況に限れば、アメリカが戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。

これは、東南アジア諸国連合加盟諸国の目覚しい経済成長が達成されたことや、ソ連を盟主とする共産主義陣営とアメリカを盟主とする資本主義陣営間の冷戦が終結し、ソ連や東欧諸国の共産主義体制が崩壊して、共産主義体制の行き詰まりが明白になったことによる結果である。

また、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中におこなった数々のテロリズムは批判の槍玉に上がることがある。なお、アメリカ政府は枯れ葉剤などの環境破壊や人的被害に対して正式に謝罪はしていないものの、様々な形で反省の意思を示しており、2006年にティム・リーザー補佐官が

『アメリカが戦争中に行った行為に関して、我々は様々な面においてベトナム国民を支援する責任がある。枯葉剤など化学物質の使用もこの(戦争中の行為の)一つである』

と述べ、かつて共産化を防ぐために軍事介入したことに贖罪意識を持ち、様々な支援が施されている。なおベトナム政府も同様に、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し、何ら謝罪するコメントを出していない。

ベトナムは多大な被害を受けたのに極端な反米感情が見られずベトナムには親米的な者が多いとされる。しかし南北間に対立があり、例えば取り残された南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配してしまった。さらに南ベトナム人の家屋敷を召し上げ北の要人がそこに住むに至って、南ベトナム人の北ベトナム人に対する悪感情は強い。

報道

ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。北ベトナムと南ベトナム(とアメリカ)の双方がカメラマンや新聞記者の従軍を許可し、南北ベトナムやアメリカなどの当事国以外にも日本やフランス、イギリスやソビエト連邦など多数の国の記者が取材した。

彼らは直に目にした戦場の様子をメディアを通じて伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。さらに感情的かつ一方的な報道は、西側諸国における反戦運動や反米運動の拡大を招いた。またベトナム戦争は、史上初のテレビでの生中継が行われた戦争であった。

特に当事国のアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、その残虐さや影響の大きさからテレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まったが、北ベトナムの場合も、取材とその報道内容についてはアメリカのそれと比べ物にならないほどの大幅な制限がかかった。

これらの映像による報道の影響の大きさを受けたアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を初めとしてメディアコントロールに力を注いでいくこととなる。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。

さらに詳しく → ベトナム戦争


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