大日本帝国海軍③ - 真珠湾攻撃からスラバヤ沖海戦

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2010/09/24(金)
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スラバヤ沖海戦(スラバヤおきかいせん)とは、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月27日から3月1日にかけて、インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合国軍が迎撃した海戦である。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった。

海戦の背景

1942年、日本軍は資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標としていた。2月になると、その中心地であるジャワ島占領を目的として、行動を開始した。そのため、陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として重巡洋艦を中心とした第5戦隊を派遣した。日本船団は東西に分かれて進撃し、東部ジャワ攻略部隊として第48師団と坂口支隊が輸送船40隻に分乗していた。これを護衛する艦艇も含めると、総数67隻に及ぶ大規模な船団であった。これらはスラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下、ジャワ海を航行していた。

一方、連合軍はそれを阻止するために、カレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成した。しかし、この艦隊は急遽編成された、アメリカ(American)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australian)の各国で構成された多国籍の混成艦隊であった。

また、ABDA連合は既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能として撤退を始めていた。2月25日の時点でジャワにはドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカ、オーストラリアの少数の航空機が残されているのみで、ABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており、残っているのはオランダ軍だけであった。

戦闘経過

海戦前夜

ドールマン少将は2月25日、バウエアン島に日本軍襲来との報を得て、機関故障を起こしていた米駆逐艦「ポープ」以外の全艦でスラバヤより出撃した。しかし、この報は事実ではあったものの日本軍はまだ進軍途中で、彼の出撃が早すぎたために会敵に至らず一旦ドールマン少将はスラバヤに帰投する。26日になって再び日本軍接近中との報を得て出撃するも、未だ日本軍は当該海域に達しておらず、26日、27日と索敵行動を続けたものの日本軍は発見できなかった。彼の艦隊は日本艦隊との海戦は夜戦になると見て水上偵察機(水偵)を陸揚げして出撃していた。また連日の戦闘配置によって乗員の疲労も高まっていた。そこで彼は一旦補給のため、再びスラバヤに帰投することとして艦隊を帰投進路に向けた。

しかしその直後の2月27日1150(11時50分)、バリクパパン基地所属の日本軍偵察機が連合軍艦隊を発見、触接し日本軍艦隊にその位置を通報した。

第一次昼戦

「敵艦隊発見」の報を受けたとき、日本艦隊は味方船団の北方40海里、連合軍艦隊の北方120海里に位置していた。日本艦隊指揮官、第五戦隊司令官高木武雄少将は直ちに敵方に向かって増速、進撃命令を出した上で旗艦の重巡「那智」の水偵による偵察を下令。「那智」機は1405、連合軍艦隊を発見、日本艦隊に位置を通報した。

一方で連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ、総司令部より日本軍船団発見の報が入ったため反転、当該海域へ向かった。これらの動きは全て上空触接していた「那智」機によって逐一日本艦隊へ送信されており、日本艦隊は連合軍艦隊による船団攻撃阻止のために敵艦隊との会敵予想針路を取った。

1659、第二水雷戦隊(二水戦)旗艦「神通」が「敵艦隊発見」を報ずる。一方で連合軍艦隊も先頭を行く英駆逐艦「エレクトラ」が「敵艦隊発見」を報じた。両軍とも直ちに戦闘速度に増速し、敵艦隊方向へと互いに針路を取った。1720、「神通」「那智」「羽黒」から相次いで弾着観測機が射出された。

日本艦隊は連合軍艦隊に対して右から左へ斜めに前を横切るいわば「T字戦法」を取ろうとしたが、これを嫌ったドールマン少将は艦隊針路をやや左に変針して、日本軍と同航砲戦を取る形とした。1745、まず「神通」が距離約17,000mで初弾を発砲。これらは連合軍艦隊先頭を行く英駆逐艦3隻を挟叉したが命中弾は得られなかった。

英駆逐艦群も撃ち返すが、搭載していた12センチ砲には距離が遠すぎて日本艦隊へまともに届かなかった。二水戦が攻撃を始めている間に第五戦隊の「那智」「羽黒」は連合軍艦隊へ針路を並行とし、距離26,000mで砲撃を開始。これに対して1748、連合軍艦隊の巡洋艦部隊が反撃を開始する。英重巡「エクセター」以下が最も近距離の二水戦に向かって猛然と砲撃を始めた。初弾から挟叉を浴びた二水戦司令田中頼三少将は形勢不利と判断。1750、「神通」は煙幕を展張して離脱を図り、二水戦は一旦戦域からの避退針路を取った。

ここで入れ替わりに第四水雷戦隊(四水戦)が戦域に到着し、連合軍艦隊に接近戦を仕掛ける。連合軍艦隊も新手に向けて砲撃を開始した。四水戦は15,000mで一斉に27本の魚雷を発射。発射後直ちに煙幕を展張、避退する。しかしこれらは一本も命中せず、さらにこのうち1/3が航走中に自爆してしまった。これは九三式魚雷の信管が鋭敏すぎたため波の衝撃で反応したためである。この爆発を日本軍は連合軍敷設の機雷の爆発と考えたために接近戦戦法を取るのを諦めた。一方で第五戦隊は連合軍艦隊との距離を維持し、砲撃を続けつつ1822、魚雷を八本ずつ隠密発射した。1835、それまで両軍の砲弾は殆ど外れていたが、遂に「羽黒」の砲弾が「エクセター」の機関部に命中。これが「エクセター」の缶室8基のうち6基を破壊し「エクセター」は急激に速度を落とした。

これに対して続航していた米重巡「ヒューストン」が取舵を取って回避。これを見て先頭を航行していた旗艦蘭軽巡「デ・ロイテル」も取舵を取るなど、連合軍艦隊の隊列が混乱した。そこへ、先ほど「羽黒」が放った魚雷が殺到。このうち一本が蘭駆逐艦「コルテノール」に命中。竜骨を折られた「コルテノール」はV字型に折れ轟沈した。この混乱を見たドールマン少将は一旦戦場を離脱し、体勢を立て直すことを決断。直ちに針路を南東へ向け、戦域離脱を図った。

第二次昼戦

連合軍艦隊の変針を見て、高木少将は直ちに「全軍突撃せよ」を下令。これを見て西村祥治少将の四水戦が真っ先に突撃を始めた。四水戦旗艦、「那珂」は連合軍艦隊に距離12,000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退した。四水戦の子隊である、第二駆逐隊、第九駆逐隊は肉薄攻撃をかけるために突撃した。この間に四水戦に続いた二水戦が戦場に到着し、まず田中少将座乗の「神通」が距離18,000mで魚雷を発射し反転離脱。子隊の第七、第一六駆逐隊は 9,000mまで接近して魚雷を発射、神通の後を追い離脱する。「那智」「羽黒」はアウトレンジからの砲撃を続けた。しかし、これら発射した魚雷は連合軍艦隊が再び煙幕を張りつつ大回頭をしたため全て外れ、また砲撃も距離が遠すぎてまともに命中弾が出なかった。一方で連合軍艦隊は体勢を立て直すために避退運動を続けていた。

こうした膠着状態を打破したのは、連合軍艦隊に肉薄攻撃を仕掛けた四水戦子隊であった。第二駆逐隊は7,500mまで接近すると魚雷を発射し反転離脱。しかし第九駆逐隊は隊司令 佐藤康夫大佐が発射命令を出さず、敵艦隊に接近し続けた。友軍各部隊が次々と遠距離での発射、離脱をしてしまったため既に敵艦隊に接近し続けていたのは第九駆逐隊のみとなっており、旗艦「朝雲」では水雷長が司令に「司令、早く撃ちましょう」と何度も催促したが、佐藤大佐は発射命令を出さなかった。たまりかねた艦長 岩橋透中佐が早期の発射、反転を具申すると佐藤大佐が「艦長、後ろを見るなッ!前へ!」と大喝するシーンもあったという。連合軍艦隊と日本艦隊の間には既に連合軍艦隊が展張した煙幕が漂っており、接近しなければ照準は難しい状態であった。距離5,000mに接近しようやく佐藤大佐は「発射はじめ」の号令をかけ、「朝雲」「峯雲」の両艦は一斉に魚雷を発射。これらの魚雷は結局命中しなかったが、第九駆逐隊はそのまま反転離脱せず、さらに接近を試みた。

これに対してドールマン少将は被弾し速力の低下した英重巡「エクセター」の避退を援護するため、英駆逐艦「エンカウンター」と同「エレクトラ」に対し第九駆逐隊への阻止攻撃を下令。これを受け両艦は第九駆逐隊の行く手を阻むが、距離が余りにも接近しすぎており、彼我の距離3,000mという至近距離での砲撃戦が始まった。この英駆逐艦隊は相手の日本駆逐艦隊に比べて船の数こそ同数であったが、砲の門数も口径も劣っており、圧倒された「エンカウンター」は一斉射しただけで反転離脱。しかし「エレクトラ」は単艦で突撃してきた。これに対して日本駆逐艦2隻は砲撃を集中した。「エレクトラ」は缶室に被弾して航行不能となるが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中。「朝雲」も航行不能となる。「エレクトラ」は尚も反撃を続けるが、「峯雲」の砲撃は正確で遂に全ての砲を撃破されてしまう。「エレクトラ」は既に被弾した損害箇所からの浸水が始まり沈みつつあった。艦長C・W・メイ中佐は総員退去を命じ、自身は1954、艦と運命を共にした。

この戦闘が行われている間に「エクセター」をはじめ連合軍艦隊は全艦戦域を離脱し、また1950、戦闘海面は日没して暗くなり、2005、これ以上の追撃は危険と判断した高木少将は追撃を中止し、麾下の各艦に対し集結し夜戦準備を整えるように下令した。

第一次夜戦

避退した連合軍艦隊ではあったが、その動向は触接し続けていた「神通」機により逐次、報告されていた。高木少将は敵艦隊の位置と味方船団の中間に自艦隊を置きつつ、昼間に発進させた「那智」「羽黒」の水偵の回収作業を命令した。また、避退した敵艦隊が今後どのような行動を取るか不明確なことから、上陸地点に向かっていた味方船団に対して反転するよう命令。これに従い船団は一時反転した。

一方、ドールマン少将は損傷した英重巡「エクセター」に蘭駆逐艦「ヴィテ・デ・ヴィット」を護衛につけてスラバヤへ帰投させると共に、自艦隊の隊列整理の時間稼ぎのため、米駆逐艦4隻に対し敵艦隊に対して攻撃し自艦隊の援護をするように命令した。これを受けた米駆逐艦4隻は反転北上し、第5戦隊を発見すると距離9,000mで両舷の魚雷を全弾発射したが、魚雷は第5戦隊まで届かず沈んでしまった。当時のアメリカの魚雷では距離9,000mは射程ギリギリの距離であり、これにより米駆逐艦群は全ての魚雷を射ち尽してしまった。因みに日本艦隊は米駆逐艦隊が接近してきたことも、魚雷を発射したことも一切気付かなかった。

ドールマン少将は日本艦隊が追いかけてこなかったことから、日本艦隊は船団護衛のため一旦後退したものと考えて、敵船団攻撃のため反転、進撃を始めた。しかしこの行動は触接していた「神通」機によって全て日本艦隊に筒抜けだった。 日本側では、先の昼戦で敵艦隊の主だった艦に損傷を与えられなかったことから、敵艦隊は反転、攻撃してくるものと判断していた。

2016、「神通」機から「敵針310°」と通報が入る。明らかに味方船団攻撃に反転したと判断した高木少将は、麾下の部隊に対して、敵艦隊を夜戦にて迎え撃つことを通告し、直ちに準備に入った。ところが、肝心の第5戦隊が丁度先の命令の水偵揚収作業にかかり始めたところであった。

2052、両軍はほぼ同時に敵を発見した。しかし、第5戦隊は水偵の揚収作業がようやく終わりかけたところで、停船したままだったので慌てて航進を開始する。一方で偵察機を持たない連合軍艦隊にとっても、敵情不明のままだったのでこの会敵は想定外だった。距離12,000mで触接していた「神通」機が照明弾を投下する。連合軍艦隊も「ヒューストン」と豪軽巡「パース」が第5戦隊目掛けて照明弾を発射する。第5戦隊は形勢不利と見て煙幕を張りつつ避退行動に移った。これに対して連合軍艦隊は急斉射したが、照準が不正確で結局一発も当たらなかった。この間、二水戦が敵艦隊に対して突撃をかけた。そして「神通」が距離19,000mで魚雷4本を発射したが、この発射を「パース」が確認しておりすぐに回避行動を取った。後続の艦もこれに倣ったため魚雷は命中しなかった。第5戦隊は一旦戦場から避退し、速力を上げて体勢を立て直してから戦場に戻ってきたが、連合軍艦隊が変針してしまったため見失ってしまった。結局この戦闘は両軍とも互いに一発の命中弾も発生しなかった。

機雷原

連合軍艦隊は一旦南下し、ジャワ島沿岸に向かっていた。しかし、その動向は相変わらず「神通」機によって日本艦隊に通報されていた。2250、「神通」機は「那珂」機と触接を交代する。ドールマン少将は艦隊戦では彼我の戦力差から不利と考えて、ジャワ島沿岸スレスレまで南下し陸沿いに進撃することで日本艦隊の目をくらまし、日本船団に直接突入することを企図していた。ジャワ島沿岸に達すると、ドールマンは燃料が不足してきた米駆逐艦4隻にスラバヤへの帰投命令を発し、艦隊から離脱させた。この分離で「那珂」機は連合軍艦隊を見失ってしまった。「那珂」機が触接を失ったことで日本艦隊は自ら索敵をせねばならなくなり、日本艦隊は各隊に分かれて南下を始めた。

索敵機の目をくらますことに成功した連合軍艦隊はジャワ島沿岸を西進していたが、その先にはオランダ軍がその日の午後に敷設したばかりの機雷原があった。しかし、連絡不達によりその存在をドールマン少将はおろか、連合軍海軍現地司令官のヘルフリッヒ中将すら知らなかった。

2255、最後尾の英駆逐艦「ジュピター」が突如大爆発を起こした。ジュピターは数時間後に沈没した。日本潜水艦からの雷撃と判断(誤認)したドールマン少将は急いで海域を離れるべく艦隊を北上させた。しばらく北上すると昼戦時の戦闘海面に達し、ここに撃沈された「コルテノール」の生存者が多数漂流していたため、艦隊に唯一残っていた駆逐艦「エンカウンター」がこれを救助、スラバヤへ後送するため艦隊を離れた。

こうして連合軍艦隊は軽巡3、重巡1の巡洋艦戦隊だけとなってしまった。しかし、ドールマン少将はあくまでも日本船団に対する攻撃を諦めず、ひたすら日本船団がいると思われる海域へ北上していった。

第二次夜戦

先述したように日本艦隊は索敵のため南下していた。一方で連合軍艦隊は日本船団攻撃のため北上していた。そして28日0033、両軍は会敵した。

連合軍艦隊に最も近かったのは第5戦隊であった。高木少将は0040、それまで針路180度(真南)だった戦隊の針路を反転させ針路零度(真北)とし、同航戦の態勢をとった。ドールマン少将も日本艦隊を認めると直ちに砲撃命令を下した。砲戦距離は12,000m。しかし両軍の砲撃戦は緩慢だった。それまでの海戦で両軍ともかなりの砲弾を消費しており、更に砲員は疲れきっていた。従って互いに交互打ち方、緩斉射で応戦しあった。

0052、「羽黒」が4本、「那智」が8本の魚雷をそれぞれ順次発射する。この発射に連合軍艦隊は気づかず進路を変えなかった。0106、突如「デ・ロイテル」が爆発する。続いて0110、「ジャワ」の艦尾が吹っ飛び急速に沈んでいった。「デ・ロイテル」は弾薬庫に引火し全艦火だるまとなった。

"「ヒューストン」及び「パース」は我が生存者にかまわずバタビアに避退せよ"

これがドールマン少将の最期の命令となった。通信が終わった直後、「デ・ロイテル」は沈没した。ドールマン少将以下殆どの乗員が脱出できず、救出された生存者は「デ・ロイテル」が17名、轟沈した「ジャワ」に至っては2名のみであった。命令を受けた「ヒューストン」と「パース」は反転すると最大戦速で海域を離脱し、バタビアへ避退した。それぞれ単艦に分離し西方へ向かったのである。そして二艦はその後合同するとバタビアに無事入港した。

高木少将は「デ・ロイテル」と「ジャワ」の撃破を確認すると、残敵掃討のため水雷戦隊との合同を図った。そのうちに「ヒューストン」と「パース」を見失ってしまった。慌てて「那智」から水偵を射出し索敵させたが、発見できなかった。これは「ヒューストン」と「パース」が東方のスラバヤへ避退したと誤認したためであり、この二艦が実際は西方のバタビアへ避退したために発見できなかったのである。

三月一日昼戦

以下の戦いを、連合軍側は第二次ジャワ海海戦(en:Second Battle of the Java Sea)と呼称している。 日本側ではスラバヤ沖海戦の一部として分類されている。

スラバヤに帰投した連合軍艦艇は惨憺たる有様で、無事だった米駆逐艦4隻は魚雷を撃ち尽し補給も出来ない状態で実質戦闘不能。英重巡「エクセター」は応急修理でなんとか23ktまで出せるようになったものの、本格的な修理が必要な状態であった。従って戦闘に堪え得るのは、機関故障で残留していた米駆逐艦「ポープ」と「コルテノール」の生存者を後送してきた英駆逐艦「エンカウンター」、「エクセター」を護衛してきたオランダ駆逐艦「ヴィテ・デ・ヴィット」の3隻のみであった。

連合軍海軍司令部は米駆逐艦4隻はバリ海峡を抜けオーストラリアに回航し、「エクセター」は修理のためセイロンに回航、この護衛に戦闘可能な3隻の駆逐艦を随伴させることに決め、2月28日、出港命令を出した。

しかしここで「エクセター」をどうやってインド洋に脱出させるかが問題となった。バリ海峡は深度が浅いため「エクセター」の航行には向かなかった。後はロンボク海峡かスンダ海峡を突破する2通りのパターン(既にシンガポールは陥ちており、マラッカ海峡通過は不可能だった)があったが、先に起きたバリ島沖海戦により日本軍は既にバリ島を抑えていると判断した司令部はスンダ海峡突破を命令した。しかし実際はロンボク海峡には日本軍は殆ど居らず、むしろスンダ海峡を固めていたのである。

28日の日没後、「エクセター」は「ポープ」、「エンカウンター」を従えて出港した。「ヴィテ・デ・ヴィット」は艦長が乗員に半舷上陸の許可を出していたため出港に間に合わなかった(この艦は3月2日、日本軍の空襲により撃沈)。

3月1日0400、連合軍の空襲により一部損害を受けたものの、日本軍はクラガン泊地への敵前上陸に無事成功した。

同時刻、バウエアン島近海で「エクセター」は敵らしきものを発見し、これを反転回避する。これは日本軍第5戦隊の「那智」「羽黒」「山風」「江風」であった。この時日本軍は「エクセター」に気づかず、そのまま遠ざかっていった。しばらくして「エクセター」は再反転すると西進を始めた。

1103、クラガン泊地沖を哨戒していた第5戦隊が「エクセター」隊を発見する。直ちに突撃に移ったが、既に「那智」「羽黒」共に残弾が底をつきかけており、已む無く高木少将は蘭印艦隊司令長官 高橋伊望中将座乗の重巡「足柄」と重巡「妙高」に応援を要請すると共に弾着観測機を射出し、敵艦隊に触接させた。 「エクセター」は戦闘を避けるためジクザク後方を取りながら北西に転針し、戦域から離脱を図った。これを第5戦隊は追撃し始めた。

1140、「エクセター」は前方左、距離31,000mに新たな敵艦隊を発見する。これは高木少将からの連絡を受け、戦場に急行していた高橋中将率いる重巡「足柄」「妙高」駆逐艦「曙」「雷」の別働部隊であった。「エクセター」はこの新たな敵に向かって発砲したがこれは照準が不正確で目標を捉えられない。一方で別働隊も応戦する。狭叉弾が立て続けに「エクセター」の周囲に落下し、態勢不利と見た「エクセター」は東方への逃走を試みた。これを援護すべく「エンカウンター」と「ポープ」が別働隊と「エクセター」の間に割って入り煙幕を展張する。これに対して別働隊は「曙」「雷」が「エクセター」に対して突撃をかけ、距離12,000mで砲撃を始めた。

「エクセター」は必死で東方への逃走を図っていた。行く手にはスコールの雲があり、そこに逃げ込めれば脱出の望みはあった。しかし「エクセター」は損傷で23ktしか出ない。一方、日本艦隊は全艦が30kt以上の速力を発揮可能であった。「エクセター」は北方からは別働隊に、南方からは第5戦隊に砲撃を受け、更に日本駆逐艦が後方から肉薄しつつあった。1240頃、遂に「エクセター」は被弾し始める。そのうちの一弾がまたもや缶室に命中。動力を全て失った「エクセター」は航行不能となり、主砲も動かなくなった。「エクセター」艦長O・L・ゴードン大佐は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めた。 1250、日本艦隊は「エクセター」に向け魚雷を一斉に発射する。このうちの一本が「エクセター」の右舷に命中。止めを刺された「エクセター」は 1330、右舷に転覆し沈没した。

尚も、日本軍は残った「エンカウンター」「ポープ」の追撃を行った。「エンカウンター」は集中砲火を浴び1335、沈没した。「ポープ」はスコールに逃げ込み、日本軍の追撃から離脱することに成功する。「ポープ」はロンボク海峡からオーストラリアに脱出しようと試みるが、スコールを抜けた直後に日本軍の水偵に発見されてしまう。「ポープ」は直ちにボルネオ島南岸に沿って全速で東進し始めた。だが、行き着くところはそこまでだった。カリマタ海峡を南下中だった空母「龍驤」から発進した急降下爆撃機6機が来襲。命中はしなかったものの左舷に落ちた至近弾により船腹に大穴が開き、左舷推進軸が捻じ曲がって使用不能となった。さらに艦上攻撃機6機が来襲。高度1,000mからの水平爆撃を受けたが、幸い命中弾は無かった。しかし回避運動により浸水が酷くなり、遂には艦尾が沈下してしまった。「ポープ」の艦長W・C・プリン中佐は艦を諦めて総員を退去させ、「ポープ」には爆薬を仕掛けて自沈させることにした。

全員が退去し終わった直後、「足柄」と「妙高」が接近してきて、停船している「ポープ」に砲撃を始めた。六斉射目で遂に一弾が「ポープ」に命中。 1540、「ポープ」は大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいった。漂流した「ポープ」乗員は3日後、1隻の日本駆逐艦に救助された。

一方、オーストラリアに離脱を図った米駆逐艦4隻は、バリ海峡突破に成功していた。3月1日午前二時ごろ、バリ海峡西岸スレスレを航行していた米駆逐艦隊は第21駆逐隊(駆逐艦「子日」「初霜」「若葉」)に発見される。日本駆逐艦隊は距離4,500で火蓋を切った。しかし、魚雷を持っていない米駆逐艦隊は戦闘するつもりは毛頭無かった。会敵した場合に備えて十分に缶圧を上げてあった米駆逐艦隊は、直ちに最大戦速に速度を上げると猛スピードで日本駆逐艦隊を振り切り、バリ海峡を突破したのである。そして全艦無事にポートダーウィンに入港した。

評価

この海戦の大きな特徴としては第一次昼戦から「ポープ」の沈没まで、46時間という長時間に及ぶ戦いとなったことであろう。この間に主要な戦闘は5 つ行われているが、太平洋戦争の中で、これだけ長時間の海戦になったのは数えるほどしかない。しかも、対戦した艦艇数から考えると異常ともいえる長さであった。これは、戦力に勝る日本軍がアウトレンジ戦法に固執したため、砲や魚雷の命中率が極端に低下し、致命傷を与えるのに時間がかかったことが主な要因といえる。

日本軍艦船の命中率の低さは驚くべきものがあり、例えば第5戦隊の重巡「那智」「羽黒」は主砲弾を1艦あたり定数2000発(200発/門)、魚雷を24本搭載していたが、戦闘終了時の残弾数は「那智」70発、4本、「羽黒」190発、4本とほぼ全弾撃ち尽くしている。これに対して第5戦隊が与えた有効弾と判断されるのは、「デ・ロイテル」、「ジャバ」、「コルテノール」を撃沈した魚雷3本と、「ヒューストン」に命中した2発(2発とも不発)、「デ・ロイテル」に命中した1発(不発)、「エクセター」の缶室に命中した1発程度である。「エクセター」追撃戦に参加した「妙高」「足柄」もこの海戦のみの参加でたった3隻を撃沈するだけのために1171発もの砲弾を消費している。日本艦隊全体を見ても、命中率、特に魚雷の命中率は惨憺たるものである。艦隊全艦で188本の発射のうち命中したものは僅か4本。命中率2%強という酷いものであった。この戦訓は後に活かされ、1万m以上での魚雷発射は以降の海戦では殆ど見られなくなる。

また、このような戦いとなる指揮を取った、高木少将、二水戦の田中少将の戦術指揮は敢闘精神が足りない等と厳しい批判を受けることとなった。一方で、ドールマン少将の最期まで攻撃態勢を取り続けた敢闘精神に対しては称賛する評価もある。

結局この海戦により、ジャワ近海における連合軍艦船はほぼ壊滅した。本海戦に於ける3月1日昼戦直前にバタビア沖で生起したバタビア沖海戦により、第二次夜戦で戦場離脱した「ヒューストン」、「パース」は既に撃沈されており、この時期、連合軍艦船は全てジャワ近海から消えることとなり、ジャワ島近海の制海権が完全に日本側に移った。これにより日本軍の上陸作戦はほぼ無傷で行われ、また補給を絶たれた連合軍のオランダ領東インドの維持はほぼ不可能となり、日本軍のジャワ島攻略作戦は大きく前進することとなった。

露見した問題

この海戦で妙高と足柄が8本ずつ秘密兵器と言われた酸素魚雷を発射したが、全弾が発射直後に水面から飛び出したりしてまともに進まず、一本も命中しないという事態が発生した。この事態に対して戦闘終了後に詳細な調査が行われたが、原因は開発実験から訓練にいたるまで今まで、艦の速度が30ノットを超える速度での発射を行ったことが無かったため、想定外の34ノットでの魚雷発射を行った結果、水中突入時の蛇行が大きくなりすぎて正常に機能しなかったためであった。 もう一つの原因として深度設定を駆逐艦への命中に備えて4メートルと浅くしたことが上げられている。

敵兵救助作業

平成九年四月二十九日付「英ロンドンタイムズ」に、大東亜戦争中に帝国海軍駆逐艦「雷」(一六八〇トン)に救助された元英海軍士官が、命の恩人である艦長の工藤俊作中佐を紹介しながら、「友軍以上の厚遇を受けた」と言う体験談を掲載した。 投稿者は、元英国海軍中尉で戦後英国政府外交官として活躍したサー・サムエル・フォールである。彼はその功績により英国女王から「サー」の称号を贈られている。

昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流していた。 翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷」に発見されたのだ。

工藤中佐が指揮する「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったが工藤艦長は救助を決断した。

さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。 三.「武士道」は不滅 救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。 「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。 今年七月、サー・フォールは来日し、日本人有志と共に工藤艦長墓前で顕彰祭を挙行する。サー・フォールが戦後六十三年抱き続けた工藤艦長への思いは達成された。

さらに詳しく → スラバヤ沖海戦



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