ルワンダ虐殺(Rwandan Genocide)

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2010/09/30(木)
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ルワンダ虐殺(Rwandan Genocide)は、1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。1994年4月6日に発生したルワンダ大統領のジュベナール・ハビャリマナとブルンジ大統領のンタリャミラの暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調する過激派フツによって、多数のツチと穏健派フツが殺害された。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。

概要

ルワンダ虐殺は、ルワンダ紛争の末期に発生した。ルワンダ紛争は、フツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯をもつ。ルワンダ紛争により、国内でツチフツ間の緊張が高まるとともにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーがひろがり、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない」という主張が過激派フツ側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定が成立したが、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。

1994年4月に生じたハビャリマナの暗殺は、過激派フツによるツチと穏健派フツへの大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、過激派フツ政党と関連のあるフツ系民兵組織、すなわちインテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争とともに終結した。

1994年4月6日までの歴史的背景

ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることがあるが、ここに至るまでには多岐に渡る要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、90年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した93年のアルーシャ協定により自身らの地位に危機感を抱いた過激派フツの存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗、ルワンダ宗教界による虐殺への関与があったことが知られている。以下にこれらの各要因について説明する。

ツチとフツの確立と対立

アフリカへのヨーロッパ人の到来と当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々はフツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流であった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に狩猟民族のトゥワだった。その後、農耕民のフツが10世紀以前にルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた。

この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおける主流の人種思想とハム仮説(Hamitic hypothesis)があった。当時の人類学では旧約聖書の創世記第9章のノアの裸体をハムが覗き見た罪により、ハムの息子のカナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」とモーゼの呪いを受けたとする記述から、全ての民族をセム系ハム系ヤペテ系など旧約の人物に因んだ人種に分けるものがあり、そのうちのハム系諸民族をカナンの末裔とし、このハム系諸民族がアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとするのがハム仮説であった。ルワンダおいて、「ネグロイド」のバントゥー系民族に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ」農耕民族のフツを、「コーカソイド」のハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた。19世紀後半にこの地を訪れたジョン・ハニング・スピークは、 1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことがあげられる。

19世紀末にヨーロッパ諸国によりアフリカが分割され、この地域が1899年にドイツ帝国領ルアンダ・ウルンディとなると、ドイツはハム仮説に従いツチによるルワンダ王国の統治システムを用いて間接統治を行ない、周辺地域の国々を平定して中央集権化した。その後の1919年、第一次世界大戦でドイツが敗れたことで、アフリカ各地びドイツ領は新たな宗主国へ割りふられ、ルアンダ・ウルンディはベルギー領となった。ベルギーはこの国の統治機構を植民地経営主義的観点から積極的に変更し、王権を形骸化させ、伝統的な行政機構を廃止してほぼ全ての首長をツチに独占させたほか、税や労役面で間接的にツチへの優遇を行なった。また、教育面でもツチへの優遇を行ない、公立学校入学が許されるのはほぼ完全にツチに限られていたほか、カトリック教会の運営する学校でもツチが優遇され、行政管理技術やフランス語の教育もツチに対してのみ行われた。さらに1930年代にはIDカード制を導入し、ツチとフツの民族を完全に隔てたものとして固定し、民族の区分による統治システムを完成させることで、後のルワンダ虐殺の要因となる二つの民族を確立した。

第二次大戦後、アフリカの独立機運が高まってくると、ルアンダ・ウルンディでも盛んに独立運動が行われた。宗主国であったベルギーは国際的な流れを受けて多数派のフツを支持するようになり、ベルギー統治時代の初期にはハム仮説を最も強固に支持していたカトリック教会もまた、公式にフツの支持を表明した。ベルギーの方針変化には、急進的な独立を求めるツチに対するベルギー人の反発や、ベルギーの多数派であるフラマン人 (en:Flemish people) がかつて少数派のワロン人に支配されていた歴史的経緯に由来するフツへの同情、多数派であるフツへの支持によってルワンダを安定化する考えがあったとされる。これらの後押しもあり、後にルワンダ大統領となるグレゴワール・カイバンダやジュベナール・ハビャリマナらを含む9人のフツが、ツチによる政治の独占的状態を批判したバフツ宣言と呼ばれるマニフェストを1957年に発表し、その2年後の1959年には、バフツ宣言を行なったメンバーが中心となりパルメフツが結成された。

そんな中、1959年の11月1日の万聖節の日にパルメフツの指導者の1人であったドミニク・ンボニュムトゥワがツチの若者に襲撃された。その後、ンボニュムトゥワが殺害されたとの誤報が流れ、これに激怒したフツがツチの指導者を殺害し、ツチの家に対する放火が全国的に行われた。そしてツチ側も報復としてフツ指導者を殺害するという形で国内に動乱が広がった。なお、この1959年の万聖節の事件が、民族対立に基づいてフツとツチの間で行われた初の暴力であり、この事件に端を発した犯罪への「免責」の文化が、ジェノサイドの原動力であるという説もある。当時、ベルギーの弁務官であったロジスト大佐はフツのために行動することを表明し、フツを利するために行動した。さらに、1960年には普通選挙を開催し、フツの政治的影響力を拡大させた。なお、選挙の投票所にはフツが陣取っており、ツチの有権者に対する脅迫が行われていたことが知られている。

1961年にはルワンダ国王であったキゲリ5世の退位と王制の廃止が決定され、同年10月にグレゴワール・カイバンダが共和国大統領となった。このフツ系のカイバンダ政権は、近隣諸国に逃れたツチによるゲリラ攻撃に悩まされた背景もあり、フツ-ツチ間の対立を政治利用し、暴力的迫害や政治的な弾圧を行なった。なお、1959年から1967年までの期間で2万人のツチが殺害され、20万人のツチが難民化を余儀なくされたことが知られている。1973年、無血クーデターによりカイバンダ政権が倒され、ジュベナール・ハビャリマナが新たな政権が発足した。ハビャリマナ政権は前政権党のパルメフツの活動を禁止し、自身の政党である開発国民革命運動による政治運営を行った。さらに、1978年には開発国民革命運動の一党制を憲法で確立した。また、軍や政権中枢における権力の基盤としてハビャリマナ大統領夫妻の血縁関係者や同郷出身者からなる非公式な組織のアカズが構築された。ハビャリマナ政権下ではツチに対する迫害行為の状況は幾分か改善したものの、周辺国へ逃れた難民の問題や、クウォーター制によるツチの社会進出制限の問題は残った。1980年代には、ルワンダ国外で難民として暮らすツチは60万人に達していた。

隣国のブルンジもまた、ルアンダ・ウルンディとしてルワンダとまとめて扱われていたため、同様のフツとツチ間の問題が生じることとなった。1962年の独立以降、ブルンジ虐殺と呼ばれる2つの虐殺事件が発生した。このうちの一方は1972年のツチ兵士によるフツの大量虐殺事件で、もう一方は1993年のフツによるツチの虐殺事件である。

土地・食料・経済状況などの諸問題

1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラム(en:Enhanced Structural Adjustment Facility:ESAF)により社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった。

また、ルワンダは国土の比較的狭い国であったが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖気候に属しており人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし、1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農地などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった。

ルワンダ紛争

1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された。1981年から1986年まで行われたウガンダ内戦における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動 (NRM) に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。

1990年から1993年までの期間、アカズからの指示を受けたフツにより、雑誌の『カングラ』が作られた。この雑誌はルワンダ政府に批判的なツチ系の雑誌『カングカ』を真似たものであり、政府への批判を一応は行ないつつも、主たる目的はツチに対する侮蔑感情の煽動であった。また、この雑誌のツチに対する攻撃姿勢は、植民地時代以前の経済的優遇を非難することよりも、ツチという民族そのものを攻撃することが中心であった。同誌の設立者であり編集者でもあったハッサン・ンゲゼは、数々の煽動的報道で知られており、特にンゲゼの書いた「フツの十戒」はフツ・パワーイデオロギーの公式理念と呼ばれ、学校や政治集会などの様々な場で読み上げられた。1992年には、ハビャリマナ大統領の宥和的姿勢に反発した権力中枢部により、極端なフツ至上主義を主張する共和国防衛同盟 (CDR) が開発国民革命運動から分離する形で結成された。また同年には、開発国民革命運動の青年組織としてインテラハムウェが、共和国防衛同盟の青年組織としてインプザムガンビが設立された。後にこの両組織はルワンダ虐殺で大きな役割を果たす民兵組織となる。なお、共和国防衛同盟はルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ合意を結ぶことを強く反対した結果、1993年8月に成立した同協定と、協定に従い設立された暫定政権から排斥された。このフツ過激派政党である共和国防衛同盟をアルーシャ協定から排除する方針にはハビャリマナ政権と国際社会の反対があったものの、ルワンダ愛国戦線がこれを強固に主張したため最終的に排斥される形となった。

1993年にはアルーシャ協定に従い、停戦による哨戒活動のほか武装解除と動員解除を支援する目的で、国連平和維持軍が展開された。同年3月時点の報告書によれば、1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが判明している状況であった。 1993年8月、国連軍の司令官であったロメオ・ダレール少将は、ルワンダの状況評価を目的とした偵察を行なった後に5000人の兵員を要請したが、最終的に確保できたのは要請人数の約半分にあたる2548人の軍人と60人の文民警察であった。なお、この時点のダレールは、ルワンダでの任務は標準的な平和維持活動であると考えていた。

組織的虐殺の準備

近年の研究では、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている。ルワンダ国内では、近所ごとに様々な任務を行なう代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請によってAK-47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能であった。なお、インテラハムウェやインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなくマチェーテやマスといった伝統的な武器で武装していた。

ルワンダ虐殺当時の首相であったジャン・カンバンダは、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する"と話していた」と証言している。カンバンダはさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であったテオネスト・バゴソラ大佐やオーギュスタン・ビジムング少将、ジャン=バティスト・ガテテといった軍や政府高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれると述べた。

ベルギーの植民地時代以降、ルワンダに暮らすツチとフツには出自民族を示すIDカードが与えられていたが、このIDカードがルワンダ虐殺の際にインテラハムウェが出身民族をチェックする指標の1つとなった。また、民族の"識別"には皮膚の色も一般的な身体的特徴として利用され「肌の色が比較的薄い者が典型的なツチであり、肌の色が比較的濃い者が典型的なフツである」とされた。また、独立以降のルワンダでは、ツチの男性、女性、子供は一般住民と多くの場合区別されており、時にはフツの奴隷となることを強いられることもあった。ツチ族女性は、フツから「ジプシー」と呼ばれて蔑まれたほか、頻繁に性的暴力の被害に遭っていた。さらに、政府指導者は全国地域から選出された様々な国民組織の代表者や、「共に立ち上がる(or 戦う or 殺す)者」を意味するインテラハムウェや、「同じ( or 単一の)ゴールを目指す者」を意味するインプザムガンビと呼ばれる民兵からなる軍事組織と意思疎通を行なった。これらの組織では、特に若者がその暴力行為の大半を担った。

メディア・プロパガンダ

研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行なった。当時のルワンダ国内メディアは、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行ない、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990 年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。現在進行中のルワンダ国際戦犯法廷では、カングラの背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(What shall we do to complete the social revolution of 1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発した(なお、このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化した)。

カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行なった。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画 (Tutsi colonization plan)」などがある。

ルワンダ虐殺当時、ルワンダ国民の識字率は50%台であり情報リテラシーが低かったことや、歴史的な封建主義的社会のシステムに由来する権力への盲追傾向から、政府が国民にメッセージを配信する手段としてラジオは重要な役割を果たした。ルワンダの内戦勃発以降からルワンダ虐殺の期間において、ツチへの暴力を煽動する鍵となったラジオ局はラジオ・ルワンダとミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン (RTLM) の2局であった。ラジオ・ルワンダは、1992年3月に首都キガリの南部都市、ブゲセラ (Bugesera) に住むツチの虐殺に関して、ツチ殺害の直接的な推奨を最初に行なったラジオとして知られている。

同局は、コミューンの長であったフィデール・ルワンブカや副知事であったセカギラ・フォスタンら反ツチの地方公務員が主導する「ブゲセラのフツはツチから攻撃を受けるだろう」という警告を繰り返し報道した。この社会的に高い地位にある人物らによるメッセージは、フツに"先制攻撃することによって我が身を守る必要がある"ことを納得させ、その結果として兵士に率いられたフツ市民やインテラハムウェのメンバーにより、ブゲセラに暮らすツチが襲撃され、数百人が殺害された。

また、1993年の暮れにミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、フツ出身のブルンジ大統領メルシオル・ンダダイエの暗殺事件についてツチの残虐性を強調する扇情的な報道を行ない、さらにンダダイエ大統領は殺害される前に性器を切り落とすなどの拷問を受けていたとの虚偽報道を行なった(なお、この報道は、植民地時代以前におけるツチの王の一部が、打ち負かした敵対部族の支配者を去勢したという歴史的事実が背景にある)。

さらに、1993年10月下旬からのミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは「フツとツチ間の固有の違い、ツチはルワンダの外部に起源を持つこと、ツチの富と力の配分の不均一、過去のツチ統治時代の恐怖」などを強調し、過激派フツの出版物に基づく話題を繰り返し報道した。また、「ツチの陰謀や攻撃を警戒する必要があり、フツはツチによる攻撃から身を守るために備えるべきである」との見解を幾度も報じた。 1994年4月6日以降、当局が過激派フツを煽り、虐殺を指揮するために両ラジオ局を利用した。特に、虐殺当初の頃に殺害への抵抗が大きかった地域で重点的に用いられた。この2つのラジオ局はルワンダ虐殺時に、フツ市民を煽動、動員し、殺害の指示を与える目的で使用されたことが知られている。

上記に加え、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ツチ系難民を主体としたルワンダ愛国戦線のゲリラを、ルワンダ語でゴキブリを意味するイニェンジ (inyenzi) の語で呼び、同ゲリラが市民の服装を着て戦闘地域から逃れる人々に混ざることに特に注意を促していた。これらの放送は、全てのツチがルワンダ愛国戦線による政府への武力闘争を支持しているかのような印象を与えた。また、ツチ女性は、1994年のジェノサイド以前の反ツチプロパガンダでも取り上げられ、例えば1990年12月発行のカングラに掲載された「フツの十戒」の第四には「ツチ女性はツチの人々の道具であり、フツ男性を弱体化させて最終的に駄目にする目的で用いられるツチの性的な武器」として描写された。

新聞の風刺漫画などにもジェンダーに基づくプロパガンダが見られ、そこでツチ女性は性的対象として描かれた。具体的な例として「ツチの女どもは、自分自身が我々には勿体ないと考えている (You Tutsi women think that you are too good for us)」とか「ツチの女はどんな味か経験してみよう (Let us see what a Tutsi woman tastes like)」といった強姦を明言するような発言を含む、戦時下の強姦(en:war rape)を煽るような言説が用いられた。また、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、堅苦しい国営放送のラジオ・ルワンダと異なり、若者向けの音楽を用いた煽動にも力を入れていた。シモン・ビキンディによるフツの結束を訴えた曲、『こんなフツ族は嫌い』が代表的な作品として知られている。なお、同様のメディア・プロパガンダにより、隣国のブルンジでも1993年のンダダイエ大統領暗殺によりブルンジ虐殺が発生し、約5万人の市民が殺害され、約30万人が難民化した。

ハビャリマナ大統領の暗殺から虐殺初期まで

1994年4月6日、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の搭乗する飛行機が、何者かのミサイル攻撃を受けてキガリ国際空港への着陸寸前に撃墜され、両国の大統領が死亡した。攻撃を仕掛けた者が不明であったため、ルワンダ愛国戦線と過激派フツの双方が互いに非難を行なった。そして、犯行者の身元に関する両陣営の意見は相違したまま、この航空機撃墜による大統領暗殺は1994年7月まで続くジェノサイドの引き金となった。

4月6日から4月7日にかけて、旧ルワンダ軍 (FAR) の上層部と国防省の官房長であったテオネスト・バゴソラ大佐は、国際連合ルワンダ支援団のロメオ・ダレール少将と口頭で議論を行なった。この時ダレールは、法的権限者のアガート・ウィリンジイマナ(en:Agathe Uwilingiyimana)首相にアルーシャ協定に基づいて冷静に対応し、事態をコントロールするよう伝えることをバゴソラ大佐へ強く依頼したが、バゴソラはウィリンジイマナの指導力不足などを理由に拒否した。最終的にダレールは、軍によるクーデターの心配はなく、政治的混乱は回避可能であると考えた。そしてウィリンジイマナ首相を保護する目的でベルギー人とガーナ人の護衛を送り、7日の午前中に首相がラジオで国民に対して平静を呼びかけることを期待した。しかし、ダレールとバゴソラの議論が終わった時点でラジオ局は既に大統領警備隊が占拠しており、ウィリンジイマナ首相のスピーチは不可能であった。この大統領警備隊によるラジオ局制圧の際、平和維持軍は捕虜となり武器を没収された。さらに同日の午前中、ウィリンジイマナ首相は夫とともに大統領警備隊により首相邸宅で殺害された。この際、首相邸宅を警護していた国際連合ルワンダ支援団の護衛のうち、ガーナ兵は武装解除されたのみであったが、ベルギー小隊の10人は武装解除の上で連行された後、拷問を受けた後に殺害された。

この事件に関しては、2007年にベルギーブリュッセルの裁判所において、ベルギー兵の連行を命じたベルナール・ントゥヤハガ少佐(en:Bernard Ntuyahaga)が有罪判決を受けた。また、首相以外にも農業・畜産・森林大臣のフレデリック・ンザムランバボ(Frédéric Nzamurambaho)や労働・社会問題大臣のランドワルド・ンダシングワ(en:Lando Ndasingwa)、情報大臣のフォスタン・ルチョゴザ(en:Faustin Rucogoza)、憲法裁判所長官のジョゼフ・カヴァルガンダ(en:Joseph Kavaruganda)、前外務大臣のボニファス・ングリンジラ(Boniface Ngulinzira)などのツチや穏健派フツ、あるいはアルーシャ協定を支持した要人が次々と暗殺された。このジェノサイド初日の出来事に関して、ダレールは自著『Shake Hands with the Devil 』にて以下のように述べている。

私は軍司令部を召集し、ガーナ人准将のヘンリー・アニドホ(en:Henry Kwami Anyidoho)と連絡を取った。アニドホはゾッとするようなニュースを私に伝えた。国際連合ルワンダ支援団が保護していた、ランドワルド・ンダシングワ(自由党の党首)、ジョゼフ・カヴァルガンダ(憲法裁判所長官)、その他多くの穏健派の要人が大統領警備隊によって家族と共に誘拐され、殺害された……(中略)…… 国際連合ルワンダ支援団は首相のフォスタン・トゥワギラムングを救出し、現在はトゥワギラムングを軍司令部で匿っている。

上記のように、共和民主運動の指導者であったフォスタン・トゥワギラムングは、国際連合ルワンダ支援団の保護を受けて暗殺を免れた。なお、トゥワギラムングはウィリンジイマナ首相の死後に首相就任すると考えられていたが、4月9日に暫定大統領となったテオドール・シンディブワボが首相として任命したのはジャン・カンバンダであった。ルワンダ紛争終結後の1994年7月19日、トゥワギラムングはルワンダ愛国戦線が樹立した新政権で首相へ就任した。

ジェノサイド

大量虐殺の社会史』によれば、ルワンダ虐殺はしばしば蒙昧無知な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテやクワなどの身近な武器を用いて隣人のツチを虐殺したというイメージで語られているが、これは適切な見解とは言い難い。ジェノサイドへ至るまでには、1990年以降の煽動的なメディアプロパガンダや民兵組織の結成、銃火器の供給、虐殺対象のリストアップなど、国家権力側による非常に周到な準備が行われていた。この国家権力側による準備と、対立や憎悪を煽られた民衆の協力によって、およそ12 週間続いた期間のうち前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて早いペースで虐殺が行われた。その結果、与野党を含めたフツのエリート政治家の多くが、紛争終結後の裁判によりジェノサイドの組織化を行なった罪で有罪とされている。

虐殺

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別に関わらず全て殺害した。また、穏健派フツは裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。大半の国が首都キガリから自国民を避難させ、虐殺初期の時点で同国内の大使館を放棄した。状況の悪化を受けて、国営ラジオのラジオ・ルワンダは人々に外出しないよう呼びかける一方で、フツ至上主義者の所有するミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンはツチと穏健派フツに対する辛辣なプロパガンダ放送を繰り返した。国内各地の道路数百箇所では障害物が積み上げられ、民兵による検問所が構築された。

大々的にジェノサイドが勃発した4月7日にキガリ内にいたダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーは保護を求めて逃げ込んでくるツチを保護したが、徐々にエスカレートするフツの攻撃を止めることができなかった。この時、過激派フツはミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道を受けて、ダレールと国際連合ルワンダ支援団メンバーも標的の1つとしていた。4月8日、ダレールはニューヨークへ、過激派フツを虐殺行為へ走らせる推進力が同国の民族性であることを暗示した電報をニューヨークへ送っている。また同電報には、複数の閣僚を含む政治家や平和維持軍のペルギー兵が殺害されたことも詳述されていた。ダレールはまた、この現在進行中の虐殺行為が極めて組織立ったもので、主に大統領警備隊によって指揮されていると国連に報告している。

4月9日、国連監視団はギコンドのポーランド人教会にて多数の児童が虐殺されるのを目撃した。同日に、高度に武装化した練度の高い欧州軍の兵士1000人が、ヨーロッパ市民の国外避難を護衛するためにルワンダ入りした。この部隊は国際連合ルワンダ支援団を援護するための滞在は一切行わなかった。9日になると、ワシントン・ポスト紙が同国駐在員を恐怖させた事件として、国際連合ルワンダ支援団の職員が殺害された事実を報道した。また、4月9日から10日にかけて、アメリカのローソン駐ルワンダ大使と250人のアメリカ人が国外へ避難した。

ジェノサイドは速やかにルワンダ全土へ広がった。虐殺の過程で一番初めに組織的に行動したのは、国内北西部に位置するギセニ県(現西部州)の中心都市、ギセニの市長であった。市長は4月6日の夜の時点で武器の配布を目的とした会合を行ない、ツチを殺すために民兵を送り出した。ギセニは暗殺されたハビャリマナ大統領の出身地であるほかアカズの拠点地域でもあり、さらに南部地域がルワンダ愛国戦線に占領されたことから数千人のフツが国内避難民として流れ込んでいたため、反ツチ感情の特に激しい土地となっていた。なお、4月6日から数日後にはブタレ県内を除いた国内のほぼ全ての都市で、キガリと同様のツチや穏健派フツ殺害を目的とした組織化が行われた。

ブタレ県知事のジャン=バティスト・ハビャリマナ(Jean-Baptiste Habyarimana)は、国内で唯一ツチ出身の知事で虐殺に反対したため、彼が4月下旬に更迭されるまでは大規模な虐殺が行われなかった。その後、ハビャリマナ知事が更迭されて過激派フツのシルヴァン・ンディクマナ(Sylvain Ndikumana)が知事に就任すると、ブタレでの虐殺が熱心に行われていなかったことが明らかとなったため、政府は民兵組織のメンバーをキガリからヘリコプターで輸送し、直ちに大規模な虐殺が開始された。この際に、旧ルワンダ王室の皇太后であり、ツチの生ける象徴として国民から慕われていたロザリー・ギカンダがイデルフォンス・ニゼイマナの命令により射殺されている。なお、更迭されたハビャリマナ知事も大統領警備隊によって後日に殺害された。
ムランビ技術学校は現在記念館となっており、虐殺犠牲者の遺体展示を行っている。

4月下旬にはキブンゴ県のニャルブイェにおいて大規模な虐殺が発生し、およそ2万人が虐殺された。この虐殺は、フツ出身の市長であるシルヴェストル・ガチュンビチ (Sylvestre Gacumbitsi) の勧めを受けて多数のツチが市内にあったニャルブイェカトリック教会へ逃れたが、その後市長は地元のインテラハムウェと協力し、ブルドーザーを用いて教会の建物を破壊し、教会内に隠れていたツチは老若男女を問わずにマチェーテで叩き切られたり、ライフルで撃たれて大半が虐殺されるという経過で行われた。なお、地元のカトリック司祭であったアタナゼ・セロンバはルワンダ国際戦犯法廷において、自身の教会をブルドーザーで破壊することに協力したため、ジェノサイドと人道に対する罪で有罪となり、無期懲役の判決を受けた。その他では、約2000人が避難していたキガリの公立技術学校 (École Technique Officielle) を警護していた国際連合ルワンダ支援団のベルギー兵が避難民を放置して4月11日に撤退した結果、ルワンダ軍とインテラハムウェによって避難民全員が虐殺された事件が発生している。この事件は2005年に『ルワンダの涙』として映画化された。

犠牲者の大半は自身の住んでいた村や町で殺害され、直接手を下したのは多くの場合隣人や同じ村の住人であった。なお、民兵組織の一部メンバーにはライフルを殺害に利用した者もあったが、民兵は大半の場合マチェーテで犠牲者を叩き切ることで殺害を行なった。犠牲者はしばしば町の教会や学校へ隠れているところを発見され、フツの武装集団がこれを虐殺した。一般の市民もツチや穏健派フツの隣人を殺すよう地元当局や政府後援ラジオから呼びかけを受け、これを拒んだ者がフツの裏切り者として頻繁に殺害された。『虐殺へ参加するか、自身を虐殺されるかのいずれか』の状況であったという。また、ラジオやヤギ、強姦の対象となる若い娘といったツチの"資産"は、虐殺参加者のために事前にリストアップされており、殺害する前後に略奪もしばしば行われた。また、キガリ近郊の女性議員の1人は、ツチの首1つにつき50ルワンダフランを報酬として与えて、ツチの殺害を奨励していたという。各地に構築された民兵組織による検問では、ツチやツチのような外見を持つものが片っ端から捕らえられて虐殺された。多くの場合で、犠牲者は殺害される前に略奪され、性的攻撃を受け、強姦され、拷問を受けた。川や湖は虐殺された死体で溢れ、または道端に積み上げたり、殺害現場に放置された。また、1992年にはフツ至上主義の政治家であったレオン・ムゲセラはツチの排斥を訴え、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう主張したが、1994年4月にこの川は虐殺されたツチの死体で溢れ、下流のビクトリア湖の湖岸へ幾万もの遺体が流れ着いている。

ハビャリマナ大統領が暗殺された4月6日からルワンダ愛国戦線が同国を制圧する7月中旬までのおよそ100日間に殺害された被害者数は、専門家の間でも未だ一致が得られていない。ナチス・ドイツが第三帝国で行なったユダヤ人の虐殺や、クメール・ルージュが民主カンボジアで行なった虐殺と異なり、ルワンダ虐殺では殺害に関する記録を当局が行っていなかった。ルワンダ解放戦線からなる現ルワンダ政府は、虐殺の犠牲者は107万1000人でこのうちの10%はフツであると述べており、『ジェノサイドの丘』の著者であるフィリップ・ゴーレイヴィッチ(en:Philip Gourevitch)はこの数字に同意している。一方、国連では犠牲者数を80万人としているほか、アフリカン・ライツ(African Rights)のアレックス・デ・ワール(en:Alex de Waal)とラキヤ・オマー(Rakiya Omar)は犠牲者数を75万人前後と推定し、ヒューマン・ライツ・ウォッチアメリカ本部のアリソン・デフォルジュ(en:Alison Des Forges)は、少なくとも50万人と述べている。イージス・トラスト(en:Aegis Trust)の代表であるジェイムズ・スミス(James Smith)は、「記憶する上で重要なのは、それがジェノサイドであったことだ。それは男性、女性、子供全てのツチを抹殺し、その存在の記憶全てを抹消しようと試みたのだ」と書き留めている。

ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたという。これは、一日あたり1万人が、一時間あたり400人が、1分あたり7人が殺害されたに等しい数字である。また、ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという。また、夫や家族を殺害され寡婦となった女性の多くが強姦の被害を受けており、その多くは現在HIVに感染していることが明らかとなっている。さらに、数多くの孤児や寡婦が一家の稼ぎ手を失ったために極貧の生活を送っており、売春で生計を立てざるを得ない女性も存在している(詳しくはルワンダにおける売春を参照のこと)。

虐殺に際しては、マチェーテや鍬といった身近な道具だけではなく、AK-47や手榴弾といった高度な武器もジェノサイドに使用された。ルワンダ政府の公式統計によると、ルワンダ政府の調査によれば、ルワンダ虐殺の犠牲者の37.9%はマチェーテで殺されたという。このマチェーテは1993年に海外から安価で大量に輸入されたものであった。また、犠牲者の16.8%はマスで撲殺された。なお、キブエ県は虐殺にマチェーテが用いられた割合が大きく、全体の52.8%がマチェーテにより殺害され、マスによる犠牲者は16.8%であったとされる。

また、ルワンダ虐殺では莫大な数の犠牲者の存在とともに、虐殺や拷問の残虐さでも特筆すべきものがあったことが知られている。ツチに対して虐殺者がしばしば行った拷問には手や足を切断するものがあり、これは犠牲者の逃走を防ぐ目的のほか、比較的背の高いツチに対して「適切な身長に縮める」目的で用いられた。この際、手足を切断された犠牲者が悶え苦しみながら徐々に死に至る周囲で、多数の虐殺者が犠牲者を囃し立てることがしばしば行われたという。時には犠牲者は自身の配偶者や子供を殺すことを強いられ、子供は親の目の前で殺害され、血縁関係者同士の近親相姦を強要され、他の犠牲者の血肉を食らうことを強制された。また、多くの人々が建物に押し込まれ、手榴弾で爆殺されたり、放火により生きたまま焼き殺された。さらに、犠牲者を卑しめる目的と殺害後に衣服を奪い取る目的で、犠牲者はしばしば服を脱がされ裸にされた上で殺害された。加えて多くの場合、殺害されたツチの遺体埋葬が妨害されてそのまま放置された結果、多くの遺体が犬や鳥といった獣に貪られた。アフリカン・ライツが虐殺生存者の証言をまとめ、1995年に刊行した『Rwanda: Not So Innocent - When Women Become Killers 』には、

ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―。

といった報告が数多く詳細に収録されている。このほか、被害者の多くがマチェーテや猟銃、鍬などの身近な道具で殺害されたことから、生存者のその後の日常生活においてPTSDを容易に惹起する可能性を指摘する声もある。

なお、ルワンダ虐殺のさなかに虐殺を食い止め、ツチを保護するための活動を行っていた人々もおり、ピエラントニオ・コスタ(en:Pierantonio Costa)、アントニア・ロカテッリ(en:Antonia Locatelli)、ジャクリーヌ・ムカンソネラ(en:Jacqueline Mukansonera)、ポール・ルセサバギナ、カール・ウィルケンス(en:Carl Wilkens)、アンドレ・シボマナ(André Sibomana)らによる活動がよく知られている。

ルワンダ虐殺下の強姦

1998年、ルワンダ国際戦犯法廷はルワンダにおける戦時下の強姦をジェノサイドの構成要素の1つであるとする画期的な判断を下した。裁判の席で「性的暴行はツチの民族グループを破壊する上で欠かせない要素であり、強姦は組織的かつツチの女性に対してのみ行われたことから、この行為がジェノサイドとして明確な目的を持って行われたことが明らかである」との判断が下された。しかしながら、組織的な強姦や性的暴力の遂行を明確に命じた文書は見つかっておらず、軍や民兵の指導者が強姦を奨励したか命令した、あるいは強姦を黙認したという証言のみが提示されている。ルワンダ虐殺における強姦は、女性に対する残虐さの著しい度合いや、強姦が非常に一般的に行われるといったツチ女性に対する性的暴力が煽られた原因として、組織的プロパガンダが大きく寄与していることが、他の紛争下の強姦と比較して際立っていると指摘されている。

ルワンダの国連特別報告者、ルネ・ドニ=セギ (René Degni-Ségui) による1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外はなかった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定できる。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している。2000年に行われたアフリカ統一機構主催のルワンダ国際賢人会議 (Organization of African Unity’s International Panel of Eminent Personalities on Rwanda) では、「我々は、ジェノサイドを生き残ったほとんどの女性が、強姦もしくは他の性的暴力の被害に遭った、あるいはその性的被害によって深く悩まされたことを確信できる」との結論が出された。

強姦の犠牲者の大半はツチ女性であり、未成年の少女から高齢の女性まで幅広く被害に遭ったが、一方で男性に対する強姦はほとんどなかった。また、穏健派フツの女性もフツの裏切り者とされ、強姦の被害を受けた。男性に対する性的暴行例は少ないが、殺害時の拷問として男性器の切断が多数行われ、この切断した性器はしばしば群衆の前で晒された。なお、ルワンダ虐殺下における強姦を主体となって行なったのはインテラハムウェなどのフツ民兵らであったが、大統領警備隊を含む旧ルワンダ軍 (RAF) の兵士や民兵のほか、民間人による強姦も行われた。また、2008年にはルワンダ法務省により、「フランス兵はツチ女性に対する強姦を複数行なった」とする声明が出されているが、これについては現在のところ実証されていない。

ジェノサイド下におけるトゥワ

ジェノサイドにおけるトゥワの役割に関する研究は未だ進んでいない。この原因としては、1994年時点のトゥワの人口がおよそ3万人とルワンダの1%弱でしかなかった点と、トゥワの社会的地位が低かったことが挙げられる。推計によれば、トゥワの3分の1が虐殺で死亡し、3分の1が近隣諸国で難民と化したとされる。また、トゥワは虐殺の犠牲者となった者も多くいた一方で、民兵組織に参加して加害者となった者も存在した。しかしながら、ルワンダ虐殺への参加の程度は未だ明らかとなっていない。なお、ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』によれば、トゥワはツチ女性への強姦に民族的侮蔑の意味を与える目的で、強姦要員として民兵に加えられていたという。

ジェノシデール

ジェノシデールとは、ルワンダにおいてはルワンダ虐殺に参加した者を指す言葉である。このジェノシデールの人数は研究者によって大きく異なり、約1万人とする説から約300万人とする説まで存在しているが、多くの場合でこれらの数字は憶測に基づいたものであった。2006年に報告された実証的研究によれば、1件以上の殺人を行ったジェノシデールの数は、17万5000から21万人であると推定されており、これは当時のフツ成人の7-8%、フツ成人男性の14-17%に相当する値である。2000年の時点では、拘留され被告人となっているジェノシデールは11万人であったが、2006年にはガチャチャ裁判の進行などにより約8万人となった。なお、ジェノシデールの大多数は男性であり、女性は全体の3%程度である。国家レベルから地域レベルに至るまで、ジェノシデールは社会のあらゆる階層の人々から構成されており、このジェノシデールを煽動・指揮していたのは政治、軍事、あるいは行政の有力者らであった。ジェノシデールの大半は普通のルワンダ男性であり、教育、職業、年齢、子供の数など、何ら特異性のない一般的な社会集団から構成されていた。この一般的なジェノシデールは比較的教育水準が低い若者が多かったのに対し、煽動や指揮を行っていた者たちは比較的教育水準が高く、社会的地位の高い者が多かったことが報告されている。

ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言

アルーシャ協定によりキガリへ駐屯していたルワンダ愛国戦線の大隊は、大統領の搭乗する飛行機の撃墜を受け、キガリからの脱出と北部に展開するルワンダ愛国戦線本隊との合流を目的とした軍事行動を即座に開始した。また事件翌日の4月7日に、ルワンダ愛国戦線は"大統領機の撃墜は大統領警備隊によるものである"として全軍に対してキガリへの進軍を命じた。その結果、ルワンダ政府軍とルワンダ愛国戦線による内戦と、ツチ過激派によるジェノサイドが7月初頭まで続くこととなった。そのため、海外の報道員にはジェノサイドが行われていることがすぐには分からず、当初の頃は内戦の激変期として説明されていた。そんな中でBBCニュースのキガリ特派員であったマーク・ドイル(en:Mark Doyle (journalist))は、1994年4月下旬点でこの入り組んだ事態の説明を行おうと試み、以下のような報道を行なった。

ここで2つの戦争が行われていると解釈して頂かなくてはなりません。それは武力戦争とジェノサイド戦争です。この2つは関連しておりますが、一方で別個のものでもあります。武力戦争は通常通りの軍隊同士によるもので、ジェノサイド戦争は政府軍と政権を支持する市民の側に立った政府に関係する大量虐殺です。


ルワンダ愛国戦線は1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリを制圧、その二日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行なった。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。

余波

虐殺に「加担あるいは傍観」した約200万のフツが、殺害や家への放火といったツチによる報復を恐れてルワンダ国外へ脱出し、大部分がザイールで、一部がブルンジ、タンザニア、ウガンダで難民となったが、難民キャンプの劣悪な環境により、コレラや赤痢といった伝染病が蔓延して数千人が死亡した。アメリカは1994年の7月から9月にかけて、オペレーション・サポート・ホープ(en:Operation Support Hope)として難民キャンプの状況改善を目的とした食料や水、生活必需品の空輸による援助や、空港整備などを行なったほか、多国籍軍による支援活動も行われた。また、1994年に難民キャンプが結成されると、その後すぐに200以上のNGOが現地で活動を行ない、1996年までの期間に10億ドル以上が難民支援に支出された。

このルワンダ難民キャンプ支援には、日本の自衛隊が国際平和協力法に基づいて自衛隊ルワンダ難民救援派遣として派遣された。1994年9月、2度に渡るルワンダ難民支援のための調査団の派遣と緒方貞子国連難民高等弁務官からの要請を受け、日本政府はルワンダ難民支援の実施計画と関連する法令を閣議決定し、翌月の10月2日から12月23日までザイール及びケニアで活動を行なった。

なお、ザイールを含め各地の難民キャンプには旧ルワンダ政権の武装集団が紛れており、ルワンダ解放軍(ALiR)を結成してルワンダ愛国戦線率いる現ルワンダ政府に対し攻撃を行なったため、ルワンダ政府はローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) と手を結び、傘下のザイール東部に暮らすツチ系民族のバニャムレンゲ(en:Banyamulenge)に軍事訓練・共同作戦を行なった。1996年10月にローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合が叛乱を起こして第一次コンゴ戦争(en:First Congo War)が勃発すると、ザイールの南北キヴ州などにある難民キャンプは、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ・ザイール解放民主勢力連合の兵士らによる攻撃の対象となった。その翌月の11月にルワンダ政府が難民の帰国を認めたため、同月中に40万から70万もの難民がルワンダへ帰国した。さらに1996年12月の終わりには、タンザニア政府の立ち退き活動により50万を超える難民が帰国した。その後も旧ルワンダ政権側の流れを汲む過激派フツ系の後継組織が2009年5月22日までコンゴ民主共和国東部に存在していた。

政治的展開

ルワンダ愛国戦線は1994年7月に軍事的勝利をおさめた後、ルワンダ虐殺以前にジュベナール・ハビャリマナ大統領が設立した連立政権と同様の連立政権体制を構築した。挙国一致内閣と呼ばれるこの内閣の基本的な行動規範は、憲法、アルーシャ協定、各政党の政治的宣言を基礎に置いていた。旧政権与党であった開発国民革命運動は非合法化された。また、新たな政党の結成は2003年まで禁止された。さらに政府は民族、人種、宗教に基づく差別を禁止し、出身民族を示すIDカードの廃止を行なったほか、女性の遺産相続権限の許可や女性議員の比率増加を目的としたクウォーター制の導入といった女性の権利の拡大、国民の融和などを推進している。なお上記のクウォーター制導入により、ルワンダ政府は2010年3月時点で女性議員の割合が56%と世界で最も高いことが知られている。

1998年3月、アメリカ大統領のビル・クリントンはルワンダを訪問し、同国のキガリ国際空港の滑走路へ集まった群衆に対し、「我々は今日、我々アメリカと世界各国が出来る限りのことをせず、また、発生した行為を抑えるための行動を十分に行わなかった事実も踏まえた上でここへ訪れました。」と述べ、さらに虐殺当時のルワンダに対し適切な対応を行わなかった点に関して自身の失敗を認め、現在では"クリントンの謝罪" (Clinton's apology) として知られる謝罪を行なった。もっとも、この謝罪はその後に発生した国際紛争や虐殺の抑制には何ら影響を与えなかったと言われるが、ルワンダ国内ではジェノサイドの企てに対する国際社会からの強い叱責と受け止められ、同国民に肯定的な驚きを与えた。

ルワンダは大規模な国際的援助を受け、政治改革を行なった上で、外国人と地元投資者による投資の促進や、農業生産力の向上、国内民族の融和促進といった課題に取り組んでいる。2000年3月にパストゥール・ビジムング(en:Pasteur Bizimungu)が大統領を辞職するとポール・カガメがルワンダ共和国大統領へ就任した。2001年3月にはルワンダ虐殺以後初となる秘密選挙形式の地方選挙が行なわれた。また、2003年8月には初の複数候補者による大統領選挙が、同年9月から10月にかけて上院・下院の議員選挙が行われ、結果として大統領選挙でカガメが当選し、議員選挙ではルワンダ愛国戦線が過半数を獲得した。その後、2008年9月にも下院議員選挙が行われ、ルワンダ愛国戦線が勝利を納めている。現在は、大規模な難民の帰還による人口の急増や、過激派フツ武装勢力によるゲリラ攻撃への対処、および近隣のコンゴ民主共和国で1996年から2003年にかけて行われた第一次コンゴ戦争(en:First Congo War)および第二次コンゴ戦争(en:Second Congo War)とその後の余波への対処などに取り組んでいる。

経済的展開と社会的展開

ルワンダに樹立された新政権が直面した問題には、近隣諸国に暮らす200万人以上の難民の帰還、国内の北部地域や南西部地域で行われている旧ルワンダ政府軍やインテラハムウェなど民兵組織の戦闘員とルワンダ国防軍間の停戦、中長期的な開発計画の迅速な立案などがあった。また、ルワンダ虐殺下の犯罪行為により刑務所へ収容される人数の増大も将来的に差し迫った課題であり、1997年末の時点で収容者は12万5千人にまで達したことから、刑務所内の劣悪な環境や刑務所の運用コストが問題となった。

さらにルワンダ虐殺下における強姦被害者らは、社会的孤立(強姦に遭うことは社会的汚名とされるため、強姦された妻から夫が去ったり、強姦された娘は結婚の対象外とされたりした)や、望まぬ妊娠や出産(一部の女性は自身で堕胎を行なった)、梅毒、淋病、HIV/AIDSといった性行為感染症への感染といった、長期に渡る甚大な被害を受けた。ルワンダ虐殺問題の特別報告官は、未成年の少女を含む25万から50万の女性が強姦され、2000人から5000人が妊娠させられたと推定している(ルワンダにおけるHIV/AIDSも参照のこと)。ルワンダは家父長制社会であり、子供の民族区分は父親から引き継がれることから、ルワンダ虐殺における強姦被害者の多くはツチの父親を持つ女性であった。 ルワンダの再建にあたり大きな問題となっているのは、強姦や殺人、拷問を行なった者と同じ村で、時には隣人として暮らすという事実である。個人個人が虐殺に関与したにせよしなかったにせよ、ジェノサイド直後のツチにとってフツを信頼することは非常に困難であった。

また、ルワンダのジェノサイドは、未成年のトラウマという形でも社会に甚大な影響を残すこととなった。ユニセフの調査によれば、ルワンダ虐殺当時、子供の6人中5人は流血沙汰を目撃したとされる。また、10代の若者約5000人が虐殺に関与した嫌疑で2001年まで拘留されていた。拘留による教育の欠如や、模範とすべき親世代との隔絶は、未成年に好ましくない影響を及ぼしたと考えられる。また、これらの未成年が家族の下に戻る際にはしばしば問題が生じる。家庭の経済的な問題やジェノサイドへの関与したことに対する恐怖から、多くの場合で少年らは家族から拒絶されるのである。

ルワンダ国際戦犯法廷

1994年11月8日、国連安保理決議第955号によりジェノサイドの責任者とされる政府や軍の要人を裁くための国際法廷が設置が決定され、1995年2月22日の国連安保理決議第977号により法廷はタンザニアのアルーシャに設置されることが決定された。なお、ルワンダ新政府は国内で裁判を行おうと考えていたが、国連はこれを拒否して代わりにユーゴスラヴィア国際戦犯法廷の下にルワンダの文字を付け加えたという背景から、ルワンダ新政府は国連で同法廷設置に反対している。その後、実際の運用が始まったのは1996年5月30日のことで、公立技術学校の虐殺などに関与したインテラハムウェ全国委員会第二副議長のジョルジュ・ルタガンダ(en:Georges Rutaganda)がジェノサイドおよび人道に対する罪により起訴されたのが第一号となった。また同年8月7日にはルワンダ国内でも虐殺に関与した現地指導者や一般住民を裁くための法律が成立し、1990年1月1日から1994年12月31日までの行為が対象とすることが決定された。その後、コンゴ民主共和国からの大量の難民の帰還を受け、1996年12月からルワンダ虐殺の裁判を手探り状態で開始した。

さらに2001年には、政府は9万人を超える留置者へ対応するため、ガチャチャ(en:Gacaca court)として知られるルワンダの一般住民による司法制度を開始した。このガチャチャは、膨大な数の囚人数を減らすこと、民族の融和を国際社会に強調すること、4 つの犯罪区分のうち最も重罪となる虐殺扇動者(カテゴリ 1)を除く犯罪者(カテゴリ 2, 3, 4)を大幅に減刑し、早期に釈放することで政権支持基盤を確保する目的があるという。ガチャチャについては、本来は窃盗などの事件を解決するための和解が目的であり、重罪を処理する制度ではないため、効果が疑問視されてもいる。

かつては国連とルワンダとの間で死刑の是非をめぐって緊張関係を招いたが、2007年にルワンダ政府が死刑廃止を決定したことでこの問題は大筋で解決した。しかしその一方で、虐殺生存者の多くは死刑の廃止に反対している。

なお、アルーシャ法廷では開始から10年間で判決に至ったのはわずか20人に過ぎない。2003年には、2008年末までに一審を終わらせ、全裁判を2010年までに完了するため、ハッサン・ブバカール・ジャロウ(en:Hassan Bubacar Jallow)がルワンダ国際刑事裁判所の主席検察官として4年間の任命を受け、2007年には2010年まで任期が延長された。

2008年12月18日の木曜日、国防省官房長であったテオネスト・バゴソラ(en:Theoneste Bagosora)が人道に対する罪で有罪となり、国連の裁判官であるエリック・モーセ(en:Erik Møse)により無期懲役の判決を受けた。同法廷はさらに、1994年4月7日に暗殺されたアガート・ウィリンジイマナ首相およびベルギーの平和維持部隊員10人の死は、バゴソラに責任があることを認定した。

追悼施設

ルワンダでは1995年以降、海外からの援助を受けて全国各地でジェノサイドの記念施設が設立された。ルワンダでは毎年、4月7日からの一週間はルワンダ虐殺の追悼の週として、全国各地の施設で式典や慰霊祭が行われ、喪に服し、記憶し、反省し、学び、二度と虐殺を繰り返さないための誓いが立てられる。2004年、この追悼記念施設の中心となるキガリ虐殺記念センターがルワンダの首都キガリで開館した。このセンターは約25万人が滞在可能な宿泊所を備える大規模な施設である。なお、一部の施設は2005年時点でも建設中であった。ルワンダには現在、7箇所の中央記念施設と約200箇所の地域の記念施設が存在している。これらの記念施設は、ルワンダ虐殺の期間に多数の人々が虐殺された場所に設置されている。

なお、これらの記念施設は、その政治的な目的性や様々な矛盾から非難を受けている。多くの記念施設では、ジェノサイドを否定したり平凡化することを防止するために数百人分の遺体や遺骨が展示されており、これらが大規模な暴力行為が行われたという具体的な証拠となっている。しかし、虐殺犠牲者の遺体を公開する行為は特に国内外からの非難を呼んでいるほか、この展示行為は"遺体は可能な限り迅速かつ目立たないように埋葬を行うべき"とするルワンダの伝統的な方針に反している、記念施設に埋葬されるのが専らツチのみでフツが排斥され差別されているなどの問題が存在している。また、フツもルワンダ内戦や難民化などにより多くの被害を受けたにも関わらずほとんど省みられることがない点に関して、多くのフツが怒りを感じている。さらに、現在のルワンダ政府は、ルワンダ虐殺の記念館を開発協力資金の勧誘の手段として利用しているとの指摘もあるが、その一方で国際援助機関が虐殺記念館の設立や維持に援助を行うことで、1994年4月から7月までの消極的な姿勢をとったことに関して国際社会が感じる疚しさを埋め合わせているという面も存在している。

メディアと大衆文化

ルワンダの専門家であり、1994年のルワンダ虐殺をジェノサイドとして最も早くに断言したアリソン・デフォルジュは、1999年にルワンダ虐殺の報告書として『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版した。なお、同報告書の内容はヒューマン・ライツ・ウォッチのホームページにて閲覧可能である。また、国際連合ルワンダ支援団司令官であり、最も著名なジェノサイドの目撃者となったロメオ・ダレールは、2003年に『Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda』を共著で発行し、その中で自身の体験したうつ病やPTSDについて記述した。この"Shake Hands with the Devil"は2007年に映画化された。さらに、国境なき医師団代表者の1人でありルワンダ虐殺を体験したジェームズ・オルビンスキー(en:James Orbinski)は"An Imperfect Offering: Humanitarian Action in the Twenty-first Century"を執筆した。

映画評論家から絶賛を受け、2004年度のアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされた『ホテル・ルワンダ』は、キガリのホテルオテル・デ・ミル・コリンの副総支配人であったポール・ルセサバギナが、一千人以上の避難民をホテルに匿い命を救ったという体験に基づいた物語であり、この作品はアメリカ映画協会による感動の映画ベスト100の第90位にランクインした。なお、2006年にはルセサバギナの自伝となるAn Ordinary Man(邦題『ホテル・ルワンダの男』)が発行された。また、2006年には、ジェノサイドの生き残りであるイマキュレー・イリバギザ(en:Immaculée Ilibagiza)が、自身の体験をまとめた手記、Left to Tell: Discovering God Amidst the Rwandan Holocaust (邦題『生かされて。』)を刊行した。この本では、イリバギザが牧師の家の狭く湿ったトイレに他の7人の女性とともに隠れ、91日間に渡る虐殺の日々を奇跡的に生き抜いた様が描かれている。

アリソン・デフォルジュはルワンダ虐殺から11年目となる2005年、ルワンダに関して扱った2本の映画に関して「50万人を超えるツチが命を奪われた恐怖への理解を大きく進めた」と述べた。また、2007年にメディア・フォーラム「ポリス」のディレクターとして知られるチャーリー・ベケット (Charlie Beckett) は、「どれだけの人が映画"ホテル・ルワンダ"を見たのだろうか? 皮肉にも、今や大多数の人々はこの映画によってルワンダに触れるのである」と評した。パンク・ロックのバンドであるランシドが2000年に発表したアルバム(en:Rancid (2000 album))収録曲Rwanda は、ルワンダ虐殺を題材としている。

修正主義への批判

1994年のルワンダ大虐殺における事実関係については、歴史学的論争の争点となっているが、否定的見解を示す論者はしばしば否認主義として非難される。フツに対するカウンター・ジェノサイド(counter-genocide)に従事したツチを非難する内容を持つ"ダブル・ジェノサイド"(double genocides)論は、2005年にフランス人ジャーナリストのピエール・ペアン(en:Pierre Péan)により出版されたBlack Furies, White Liars内で提唱され議論を呼んだ。これに対し、ペアンの書籍内で"親ツチ派圧力団体"の活発な会員として描かれたジャン=ピエール・クレティエン(Jean-Pierre Chrétien)は、"驚くべき歴史修正主義者の情熱"としてペアンを批判している。

ルワンダ虐殺に関する修正主義者として非難された人物としては、カナダ人ジャーナリストのロビン・フィルポット(en:Robin Philpot)が知られている。フィルポットはルワンダ虐殺に関する権威として知られるジェラルド・キャプラン(en:Gerald Caplan)により、2007年に『グローブ・アンド・メール』紙の記事で「1994年に多数の人々が両陣営によって殺害されたことを以て、ジェノサイドを実行した者とその対象となったものが道徳的に等しい」と評された。キャプランはさらに「旧ルワンダ軍と過激派フツ民兵による、100万人の無防備なツチに対する一方的な謀略ではなかった」とするフィルポットの主張を非難し、「フィルポット氏は、主張が証拠と完全に矛盾していることが明らかになって以降、真実を否定する揺るぎない決意により、もっぱら噂や推測から構成される支離滅裂で奇妙な主張を量産している。」と述べている。

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