八九式中戦車 (89式中戦車、Type 89 Tank)

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2010/09/29(水)
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八九式中戦車(はちきゅうしきちゅうせんしゃ)とは日本陸軍初の国産制式戦車である。

歴史

先の試製1号戦車の大成功を受け、戦車の国産化に自信を深めた陸軍であったが、試製1号戦車が20 t近い大重量となってしまったために、新たに10 t級の軽戦車を開発することを決定した。試製1号戦車の成果を元に、1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考・模倣・改良して開発された。

開発は1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決まり、同年8月に概略設計図面ができあがり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され、1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機にて行われた。試作車の完成年を皇紀で表わした皇紀2589年から、1929年(昭和4年)10月に八九式軽戦車として仮制式化された。

最初の試作車は、予定通り重量が9.8 tにおさまったため軽戦車に分類されたが、部隊の運用経験から度々改修が施され、最終的な完成形では車体重量が11.8 t に増加した結果、分類基準の10 tを超えたために1934年(昭和9年)に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。またイ号とも呼ばれた。この改修によって機動性は悪化してしまっている。

後の九七式中戦車 チハの頃から秘匿名称をつけるようになり、さかのぼって八九式中戦車にもつけられた。甲型はチイ、乙型はチロとされている。この「チ」は中戦車(チュウセンシャ)、「イ」はイロハ順で一番目を意味する。しかし命名が遅過ぎたためか、実際に現場でチイ、チロと呼ばれることはなかったようである。生産数は甲型が220両、乙型が184両以上である。八九式中戦車は1939年(昭和14年)まで生産された。

設計

車体

前期生産車はガソリンエンジンを搭載していたが、ガソリン節約などのため、後期生産車では空冷ディーゼルエンジンに変更された。後にガソリンエンジン搭載型は甲型、ディーゼルエンジン搭載型は乙型と分類された。前期型車体と後期型車体の形状は、全く別物と言ってもいい程、異なった物になっている。甲乙の分類はエンジンの違いによる区分であり、これは必ずしも前期後期の車体形状の違いと一致しない。

日本軍の機密保持が徹底していた為、諸外国では形状が変化した後期型車体の八九式を、新型の九四式中戦車であると誤って認識していた。これは後期型車体が登場したのが1933年(昭和8年)からで、一般に知られるようになったのが1934年(昭和9年)皇紀2594年だからである。当初、八九式は南方での運用を想定して開発されたため、寒冷地での運用は想定されていなかった。そのため前期型車体では通風が良く、寒冷な満州の地では乗員に負担を強いることになった。その点は後期型車体で改善された。

エンジン

甲型のエンジンはダイムラー社が開発した航空機用水冷直列6気筒100馬力ガソリンエンジンを戦車用に転用した物である。これはタウベに搭載された物と同系列で、日本では東京砲兵工廠で1916年(大正5年)にダ式六型の名称で国産化され、モ式六型偵察機に搭載された。1917年(大正6年)に東京砲兵工廠は東京瓦斯電気工業と日本製鋼所に航空機用発動機を試作発注した。1918年(大正7年)に東京瓦斯電気工業ではダ式一〇〇馬力発動機という名称で製造された。日本製鋼所室蘭工業所でも室0号が製造された。これらは日本国内の民間工場初の航空機用エンジンの製造でもあった。日本製鋼所は採算が取れなかったために、わずか20基の生産で航空機用エンジンの生産事業から撤退した。後に室0号は戦車用エンジン開発の参考用に陸軍に譲渡された。

乙型のディーゼルエンジンの搭載は車体形状の変更より遅れ、三菱が1932年(昭和7年)から、アメリカのフランクリン社製「シリーズ15」空冷直列6気筒ガソリンエンジンや、イギリスのデ・ハビランド社製「ジプシーI」空冷直列4気筒ガソリンエンジンを参考に開発を開始し、最初の試作ディーゼルエンジンが1933年(昭和8年)末に完成、1934年(昭和9年)~1935年(昭和10年)頃から、車体に搭載して、耐寒試験、実用試験、耐久試験を行い、エンジンに改良を加え、1936年(昭和11年)に社内記号「三菱A六一五〇VD」は「イ号機」として制式採用となった。燃料直接噴射方式であり、六一五〇とは6気筒150馬力を意味する。

そのため、後期型車体なのにガソリンエンジンを搭載した車輌があり、また逆に前期型車体にディーゼルエンジンを後から搭載した車輌もある。そのため車体形状だけ見て甲型か乙型か直ちに判断することはできない。また前期型と後期型の車体の特徴を折衷した車輌も存在する。

ディーゼルエンジンは燃費がよく、また攻撃や事故で損傷した際に火災となりにくい(実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出した)のが利点だったが、反面、潤滑オイルを多く消費し、排煙、騒音、振動なども酷かった。また始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘り、そこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていた。

一般に同一馬力あたりでは、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに対して大きくて重く、日本のディーゼルエンジンはそれが特に顕著だった。そのためこれを採用した日本の戦闘車輌は、限られた車内空間と積載可能重量を、大きくて重くて低出力のディーゼルエンジンが占めるため、狭い居住性、薄い装甲、貧弱な武装、走行性能の悪化など、様々な面で制約を受けた。また実戦経験に基づいた武装や装甲の強化といった改修を求める意見に対しても車体に余裕が無いため、僅かな改善や能力向上しかできない結果につながった。

武装

本車は歩兵直協用途に開発され、機関銃陣地撲滅を目標としていたため、搭載砲は対戦車戦闘などを想定していない短砲身18.4口径の九〇式五糎七戦車砲であった。これは元々試製1号戦車用に開発された「試製57mm戦車砲」を改修したものである。

照準器の照準距離は500mまでで固定目標限定であった一方、砲の方向射界(左右旋回)の微調整と高低射界(俯仰)の全範囲は砲手の肩付操作で行うことから、ハンドル操作で行うよりもかなり照準は早く、空薬莢も自動排莢され、右片手で弾薬装填を行うので連続射撃もでき、徐行中であれば行進間射撃も可能な、榴弾投射器としてみれば極めて優秀な火砲であった。しかし徹甲弾の貫徹力は20mm以下(射距離500m)と弱かった。なお一部の八九式は短砲身57mm砲ではなく口径37mmの狙撃砲を装備していた。また九〇式戦車砲の替わりに三年式機関銃を主武装とした機関銃装備型の八九式甲型が存在した。副武装として、初期には保弾板給弾方式の三年式機関銃を装備していたが、後に十一年式軽機関銃を車載用に改造した、弾倉給弾方式の九一式車載機関銃を、車体前面と砲塔後面に装備した。

初陣の満州事変以降、中国大陸に於ける戦いでは攻撃力不足が問題となるような深刻な脅威にぶつかることはなかった。むしろ中国大陸に於ける本車への最大の不満はその低い機動力であった。これは、大陸におけるほとんどの戦いが「追撃戦」の様相を呈していたからである。この反省が機動力を重視した九五式軽戦車の開発に繋がった。しかし、後のノモンハン事件や太平洋戦争(大東亜戦争)では対戦車戦闘能力の欠如が問題となった。

装甲

日本製鋼所が1924年(大正13年)に開発したニセコ鋼板を採用した。ニッケル・クローム鋼で、防弾鋼板の他、船舶部品の素材としても使われた。ニセコの名称は公式には日本製鋼所の略であるが、それと同時に、ニッケル・クローム鋼と、日本製鋼所室蘭工場近くの地名であるニセコとをかけたトリプルミーニングである。

溶接技術の発達していない時期の開発のため、本車の装甲板はリベットで接合されていたが、これは装甲板をリベットによって接合する各国の戦車に共通の問題として防御上好ましいものではなかった。リベット接合の場合、リベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内を跳ね回って乗員を傷つける危険性が高かった。

走向装置

これより後の日本戦車が車体前方に起動輪(スプロケットホイール)があるのとは異なり、本車は起動輪が車体後方にある後輪駆動方式である。しかし動力伝達機構がコの字型と、複雑で不合理な配置であった。また履帯外れ防止用に誘導輪(アイドラーホイール)にも歯があった。

本車の車体後部にはルノー FTに見られるような尾橇(ソリ)が付いていた。これは車体の全長を長くすることで塹壕を越える際に落ち込むことを防ぐ以外に土手を登る際に後転するのを防ぐ意味がある。しかし実際にはあまり役に立たず、荷物置き場として使われていた。乗員や歩兵には重宝され好評だったようである。また付いていない車輌も存在した。

甲型と乙型

エンジンが変更された当時から、八九式中戦車は「ガソリンエンジン搭載型を甲型、ディーゼルエンジン搭載型を乙型」としてエンジンを中心に区分されていた。

従来、世間では、エンジン変更の際、同時に車体形状が変化したと思われていたので、「甲型(ガソリンエンジン搭載型)は前期型車体(甲型車体と一般に呼ばれる)であり、乙型(ディーゼルエンジン搭載型)は後期型車体(乙型車体と一般に呼ばれる)である」と、エンジンと車体形状が対応して一致していると思われていた。そのため甲乙といえばエンジンの種類だけでなく、同時に車体形状の型を意味していた。

ところが一見車体形状が乙型でありながらガソリンエンジンを搭載していた八九式が多数存在したことが判明し、エンジンと車体形状が必ずしも対応していないことが知られるようになった。この場合エンジンを中心にした従来の区分だと、この八九式は乙型ではなく、後期型車体の甲型(ガソリンエンジン搭載型)に分類される。これは車体変更が1933年からであり、エンジン変更が1934~1935年頃からと、ずれがあるためである。

そのため従来の、「甲型=ガソリンエンジン搭載型、乙型=ディーゼルエンジン搭載型」というエンジン中心の区分を止め、 新たに、「甲型=前期型車体、乙型=後期型車体」と、車体を中心にした区分に改めようという意見が出されている。その場合エンジンの違いは、「甲型(ガソリン)、甲型(ディーゼル)、乙型(ガソリン)、乙型(ディーゼル)」などのように記述すべきとされる。

前期型車体(甲型車体)と後期型車体(乙型車体)の違い

* 前期型では車体正面の傾斜角度が途中で折れて変わっているが、後期型では同一平面になっている。
* 前期型では操縦手席が車体左側で機銃手席が車体右側に並んでいたが、後期型では操縦手席と機銃手席の位置が入れ替わっている。そのため前方機銃や乗降扉と、操縦手用展望窓の位置も左右入れ替わっている。
* 操縦手が外部視察に使う回転展望窓(ストロボスコープ)の、モーターで回転する円形の板が、前期型の放射状のスリットから細かい穴開き状に変更されている。また板が露出した部分が円形から、上半分を装甲で覆い半円形になっている。
* 前期型では車体側面両側に2つあった前照灯が、後期型では正面中央寄りに1つ埋め込み式に蓋付きで装備している。
* 地面と車体底面の間隔が後期型では前期型より広くなっている。
* 後期型には尾橇(ソリ)が付いている。
* 後期型では超壕能力を増すために、車体前方にある誘導輪(アイドラーホイール)が前方に50cm程突出している。
* 後期型では側方視察用の窓が車体前方両側面に設けられている。
* 前期型砲塔は前面が曲面だが、後期型は平面になっている。
* 前期型砲塔には小型のトルコ帽型車長展望塔がついているが、後期型ではハッチ付きの大型車長展望塔(キューポラ)になっている。
* 車体左右の燃料・水タンクの上面にある蓋の、位置や数が異なる。

戦歴

本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC型戦車の置き換えとして配備された。

1932年(昭和7年)に勃発した第1次上海事変では重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。また同隊にはルノーNC型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(が、当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子」と報じられるようになる)。しかし、中国側の精鋭第19路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。

昭和8年に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺身隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。

初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年のノモンハン事件においては、日本側の中戦車の主力として戦った。この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。特に主砲の貫徹力が低くすぎて、敵戦車を破壊するのが困難であった。そのため、後継の九七式中戦車では対戦車能力を向上させる改良が行われた。(主砲を四七mmに換装した新砲塔チハや、九〇式野砲を搭載した一式砲戦車や三式中戦車など)。しかし、日本は工業力が低く、十分な数な火砲を供給できなかった。特に九〇式のような自縛砲や対戦車転用可能な高射砲の製造能力は慢性的に不足しており、それらを搭載した車両の増産が困難であった。後継戦車ですらそのような状態であるから、八九式の改良は放置され、低い対戦車能力のまま太平洋戦争を戦うことになる。

太平洋戦争では、九七式中戦車への更新がすすみ、主力の地位を退きつつあった。序盤のフィリピン攻略戦 に参加したが、同地にあったアメリカ軍のM3スチュアート軽戦車には歯が立たなかった。ちなみに本車は「中戦車」と呼ばれるものの、M3スチュアート「軽戦車」より軽く(M3は12.4t)、装甲防御力は雲泥の差がある(M3は正面44mm、本車は17mm)。それでも戦争末期のルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。

西住戦車長

本車を語る上で外せないのは「軍神」西住小次郎中尉であろう。彼は戦車第5大隊配下の戦車小隊長として、1937年(昭和12年)の第二次上海事変から徐州会戦中の昭和13年5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、実に30回以上の戦闘に参加した。その中には上海に於ける中国軍の拠点(赤屋根、白壁の家)に対する攻撃や敵前数十mでの9時間にも及ぶ戦闘なども含まれる。彼の死後、1300発にも及ぶ被弾痕の残る戦車は日本本土で展示された。また菊池寛による小説「西住戦車長伝」が東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載されるとこれも好評を博し、1940年(昭和15年)には松竹により映画化、上原謙が西住役として主演している。また司馬遼太郎も戦後に「軍神・西住戦車長」という小説を発表しているが、菊池の小説とは対照的に「西住は取り立てて才能のない、従順そのものの少年であった」とその評価は低い。

現存車両


* 陸上自衛隊土浦駐屯地に保管されている。最近になって自走できるようにレストアされ2007年10月14日の同駐屯地祭でお披露目された。エンジンや電気系統など現代の物を使用しており軽快に走る。砲身は木製の精巧なダミーであるが上下に可動する。
* アメリカのアバディーンにある陸軍兵器博物館に太平洋戦争中に鹵獲された乙型が展示されている。

性能諸元

全長 5.75 m
全幅 2.18 m
全高 2.56 m
重量 11.8t
懸架方式 リーフスプリング方式
速度 25 km/h
行動距離 140 km
主砲 九〇式57mm戦車砲×1(砲弾100発)
副武装 九一式6.5mm車載軽機×2(銃弾2750発)
装甲 最大17 mm
エンジン ダイムラー
      水冷直列6気筒ガソリン
      118 hp/1,800 rpm
乗員 4 名

さらに詳しく → 八九式中戦車



図説 世界戦車大全図説 世界戦車大全
(2010/03/26)
マーティン・J・ドアティ

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