九七式中戦車 "チハ" (Type 97 medium tank "Chi-Ha")

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2010/09/22(水)
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九七式中戦車(きゅうななしきちゅうせんしゃ)は、第二次世界大戦時の日本軍の戦車。八九式中戦車の後続中戦車として1930年代後半に採用された。チハとも呼称されるが、これは 「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネーム。開発は三菱重工業。1939年(昭和14年)のノモンハン事件で初陣を飾った。

概要

1936年(昭和11年)、帝国陸軍において歩兵の直接支援のための戦車(歩兵戦車)として開発が開始された。1両あたりの単価が高くついても性能の充実を求める声と、軽量安価な車輌で忍んでも数量の充実を優先する意見の双方があり、やむなく双方のコンセプトに沿った車輌を試作し比較試験するという異例の事態となった。

試験の結果はどちらもおおむね良好とされたが、「高価だが性能に優れる」三菱製のチハが制式採用された。「安価で大量生産」を目指した大阪砲兵工廠製のチニは試作のみで中止されることになった。比較的高価な本車がチニを抑えて採用されたのは日中戦争(支那事変)により予算に余裕ができたのも一因とされる。

他の多くの国ではガソリンエンジンが主流だった時代に、空冷ディーゼルエンジンを搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは燃料に揮発性の高いガソリンでなく軽油を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、またオクタン価など燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。

さらに空冷方式の採用は、当時の日本の工作技術では、技術的に複雑な水冷エンジンの量産が難しかったという事情があった。また、想定戦場である満州では、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であった。

しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率が大きくなる欠点もあった。本車の場合のみならず、自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本の技術では、エンジン系統の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。

車体前方右寄りに砲塔が設置され、主砲として九七式57mm戦車砲を搭載した。機関銃は口径7.7mmの九七式車載重機関銃を砲塔後部と車体前方に搭載した。

本車の出現当時の外国製戦車(初期のIII号戦車やBT-5など)と比較して、装甲厚や主砲口径などは一見同程度であるが、実際は対戦車戦闘能力や、操作性などに大差があった。もともと対戦車戦闘を考慮した設計ではなく、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。

本来、歩兵支援を行い、敵陣地銃座の破壊を目的とした九七式57mm戦車砲の装甲貫通力があまりにも貧弱であることに加え、通常交戦距離で国産の九四式37mm速射砲の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)も薄すぎ、中国国民党軍の装備するPaK 35/36や、ソ連労農赤軍の19-K 45mm対戦車砲によって、容易に貫通撃破されてしまった。

太平洋戦争(大東亜戦争)以前の敵対戦車砲や戦車との戦いで問題点が指摘されながらも、防御力に関して十分な改善は行われなかった。日中戦争では戦車や有効な対戦車兵器の少ない中国国民党軍相手には有効な兵器であった。

また、緒戦のイギリス軍相手のマレー作戦等南方作戦では、空からの支援と自動車化歩兵との協同など電撃戦を行い活躍したものの、連合軍のM3軽戦車との戦車戦では非常な苦戦を強いられた。攻撃力の面では主砲を長砲身47ミリ戦車砲に換装した九七式中戦車 新砲塔チハが開発され、M3軽戦車には対抗できるようになったものの、戦争中盤からは75mm砲を装備したM4中戦車が投入されたため、対戦車戦では非常な苦戦を強いられた。

九七式中戦車 新砲塔チハ

対戦車戦闘力を上げるため、貫徹力が不十分だった九七式57mm戦車砲を、貫徹力が向上した一式47mm戦車砲に換装されている。なお新砲塔という呼称は、終戦後の連合軍への引渡しの際に便宜上付けられたものともいわれ、戦時中は在来型のものと区別せずに九七式中戦車と呼ばれていたという。現在では九七式中戦車改やチハ改などとも呼ばれることがあるが、これらも戦後になってから生まれた俗称である。

主力中戦車である八九式中戦車、九七式中戦車は、歩兵支援重視の考え方から榴弾威力が高く軽量な短砲身の搭載砲を装備していた。戦車の目的は陣地突破、火点制圧、追撃といった歩兵支援であり、対戦車戦闘は速射砲(対戦車砲)が行うものとされていたためである。しかしノモンハン事件等での長砲身45mm砲を装備したソ連軍戦車、装甲車との不利な戦闘経験から、戦車にあっても対戦車性能の向上が望まれた。

ノモンハン事件では対戦車砲である九四式37mm速射砲が相応の戦果を挙げ、比較的装甲貫徹力が高い九四式37mm戦車砲を装備した九五式軽戦車も敵軽戦車・装甲車の撃破を記録した。この戦訓を生かして1939年から新型戦車砲の開発が始まり、これを搭載できる新型砲塔の開発も始められた。1942年(昭和17年)に一式47mm戦車砲として制式化された。

なお、49口径57mm戦車砲(初速810~830m/s)の採用も検討されていたが、一式機動47mm速射砲との砲弾共用が不可能なため断念された模様である。九七式中戦車の車体には設計余裕があり、従来の砲塔より大型化した新砲塔も無理なく採用できた。

初陣は太平洋戦争初期の1942年5月5日、フィリピン攻略戦・コレヒドール島の戦いに戦車第7連隊(7TK)所属として1個中隊分が送られているが、翌6日にアメリカ極東陸軍は降伏しており戦闘機会はなかった。以降、本車は旧砲塔車から改編ないし協同運用されることになる。

なお換装されたのは砲塔及び砲だけであり、装甲厚・機関出力等はそのままであった。また連合軍は大戦後半、従来のM3軽戦車、M3中戦車に代えて長砲身75mm砲を搭載したM4中戦車を太平洋戦線にも投入したため、一式47mm砲を装備する日本軍戦車及び対戦車砲の劣勢は最後まで変わることがなかった。

防護力

九七式中戦車の前面装甲は表面硬化鋼を使用し厚さは25mmである。側面は25mmから20mm、後面は20mm、上面は10mm、底面は8mmであった。この25mmという厚みは、37mm対戦車砲の近距離からの射撃に耐えるものとして、射撃試験を経て採用されたものである。ただしこの装甲板は、射撃試験において九四式37mm戦車砲を使用した際には150mの射撃に耐えて合格であったものが、ラインメタル社製の3.7cm対戦車砲Pak36を使用した際には射程300mで容易に撃ち抜かれるという事態が起きた。これは中国軍から鹵獲した砲を1939年春ごろに試験したものである。

本車の組み立ては、砲塔と車体がリベット留め、車体底板と側板に溶接が用いられた。車体形状を構築するフレームにリベットで接合された車体は被弾時に鋲がちぎれて飛び、乗員を殺傷した。そのため、九七式を再設計した一式中戦車では溶接構造に変更している。

1945年(昭和20年)7月に発行されたアメリカ軍の情報報告書には、鹵獲・調査された新砲塔チハに対する保有各種火器による射撃試験結果が掲載されている。 それによると口径12.7mmのブローニングM2重機関銃では射距離100ヤードにおいて、あらゆる装甲箇所を貫通させる事は出来ず、射距離50ヤードにおいては、一番装甲の薄い箇所である車体側面下部で35%が貫通したとしている。

また新砲塔チハ正面部分の装甲は、射距離35ヤードからでは機銃ボールマウント部分以外は貫通しなかったとしている。この報告書では結論として新砲塔チハに対しては、M2重機関銃では射距離50ヤード以内での射撃が有効であるとしている。

よって九七式中戦車(新砲塔チハと砲塔以外の装甲厚がほぼ変わらない)に対しては、当時の敵対国が使用していた通常の小銃弾(徹甲弾など特殊な弾薬を除く。アメリカの.30-06弾など当時の7.7mm級小銃弾の威力は、M2重機関銃の12.7mm×99弾と比較した場合、ジュール換算で約20~30%前後の銃口威力しかない)の威力では、最も薄い装甲箇所ですら貫通する可能性は低いと思われる。

攻撃力

本車には主砲として九七式五糎七戦車砲が搭載された。この砲は八九式中戦車に搭載された九〇式五糎七戦車砲の改良型で、薬室を増大、弾薬の発射装薬の改善がなされている。このため初速が350m/sから420m/sとなった。発射速度は標準10発毎分であるが熟練した戦車兵は15発を発砲した。

本砲は砲架に付属されている肩付け用の器具で砲手に担がれ、指向照準された。本砲の俯角・仰角操作、防盾旋回範囲での左右への指向は人力である。砲塔はハンドル操作のギアによって旋回する。砲手は照準操作しつつ片手で砲弾を装填する。したがって砲本体、弾薬などは一人で操作できうる程度の、軽量の兵装であることが要求された。砲本体重量は107kg、砲架は47kgである。九〇式榴弾の弾薬筒重量は2.91kg、一式撤甲弾で3.25kgであった。このような操砲を要求する機構は、一種奇異なようにも思われるが、M3軽戦車の戦車砲も肩付け式の砲である。

肩付け式の砲の長所は行進射(動きながらの射撃)が可能な点であった。帝国陸軍の戦車兵(機甲兵)は低速の行進射、機動・停止・機動の合間に行う躍進射を徹底して訓練し、動目標に対しても非常に高い命中率を発揮した。熟練度の一例をあげるならば、八九式中戦車の搭載した九〇式57mm戦車砲の半数必中界は、距離500m、行進射、中程度の技量という条件下で、上下155cm、左右83cmであった。日本軍戦車隊が交戦距離と想定していたのは500m 程度の近距離であるにせよ、スタビライザーと火器管制のない戦車で行進射を行い得たのは戦車兵の熟練度を示すものである。

本砲の装甲貫徹能力は距離500mで20mm程度である。対戦車戦闘は想定していない砲であり、あくまでも軟目標やトーチカ銃座破壊のための砲であった。1942年4月、ビルマのラングーンにて鹵獲M3軽戦車に対する射撃試験を実施したところ、側面でさえ距離200mから100mでも貫通はできず、3両から5両が集中射撃を加えたところようやく装甲板が裂けた、という程度の威力しかもっていなかった。

新砲塔チハには一式47mm戦車砲が搭載された。この砲も肩付け式を踏襲しているが、重量増により俯仰にはハンドルを用いた。装甲貫徹能力は射程 100mで55mm、射程1000mで30mmから35mmである。したがってM4中戦車の車体側面・後面(装甲厚約38mm)やM3軽戦車の正面装甲に正撃に近い形で当たれば貫通できた。

アメリカ軍の情報報告書において、一式47mm戦車砲はM4A3の装甲を射距離500ヤード以上から貫通することが可能(貫通可能な装甲箇所は記述されておらず不明)と記述され、実戦では一式47mm戦車砲による約30度の角度からの射撃(射距離150~200ヤード)によりM4中戦車の装甲は6発中5発が貫通(命中箇所不明)したとの報告の記述がある。また同報告書では、最近の戦闘報告から47mm砲弾の品質が以前より改善されたことを示している、との記述がある。射撃速度は毎分10発を射撃可能であった。行進射の半数必中界は射程500mで上下92cm、左右75cmであった。

機動力

エンジンは三菱ザウラー式SA一二二〇〇VD空冷ディーゼルが用いられた。これは、九五式軽戦車に搭載されたA六一二〇VDe(空冷直列6気筒)をV型12気筒化し、スイスのザウラー(Saurer)社。の技術を導入した物で、複渦流式DI(ダイレクト・インジェクション)、ボア×ストローク=120mm×160mm、4ストローク、最大出力は170馬力/2000回転(定格150馬力)、重量は1.2tであった。

さらに変速機と操行装置の重量を加えると全部で2.5tにもなった。V型にしたことで高さは抑えられたが、燃料噴射装置の出来が悪くトラブルが多発し、大重量で、大容積の割に出力が低いエンジンであった。また騒音や排煙も酷かった。一二二〇〇とは12気筒200馬力の意味である。

量産体制も整っていたとはいえず、三菱の他に日立製作所など複数メーカーに製造が分担された結果、制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。異なる燃料噴射ポンプ(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ社製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射ポンプを使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。また戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。

1942年5月6日、戦車第7連隊の新砲塔チハがコレヒドールの戦いに参加、海岸から上陸を試みた。海岸前面は45度以上の傾斜で容易に登坂ができなかった。砲爆撃の崩れを利用したものの前進は難航、工兵隊が障害物を爆破したが失敗した。鹵獲したM3軽戦車で登坂を試みたところ成功したため、M3の牽引によって新砲塔チハ車を引き上げた。

戦車第1連隊(1TK)、戦車第6連隊(6TK)はマレー作戦において長駆進撃を行った。58日で1,100kmを移動。1944年(昭和19年)後半に行われた大陸打通作戦では、戦車第3師団が 1,400kmを30日で移動している。これは255両が参加、うち行動不能車両は約30%に達した。第1装軌車修理隊はこれらの戦車の回収と修理に活躍した。行動不能に陥った理由は、それ以前の作戦で酷使された車両を作戦に投入していること、部品の融通がきかないことなどがあげられる。しかし、機械的信頼性に関しては優れない点もあったものの、作戦を達成した事実は乗員、整備員の連携や技量の高さを示している。

無線

戦車の組織運用に重要な装備として無線がある。当時の戦車では指揮官車しか装備していないことも多かったが、本車はアンテナを標準装備している。砲塔の上面についている環状のものがそれである(通称「鉢巻アンテナ」)が、新砲塔チハではアンテナ位置が変更され環状アンテナは撤去されている。 また指揮用に、主砲を37mm砲に換装したシキ車が存在する。

戦後の運用

終戦後には大陸において日本軍の装備の多くが共産党軍に接収され、九七式中戦車も国共内戦で使用され国民党軍相手に戦果を挙げている。 日本国内では、砲塔を外し、障害物撤去用のドーザーを取り付けた警察の改造装甲車両が東宝争議で出動した。

現存車輌

日本国内に現存する九七式中戦車の実車は、戦後サイパン島より還送された戦車第9連隊(9TK)所属の実車が靖国神社の遊就館及び静岡県富士宮市の若獅子神社(陸軍少年戦車兵学校跡地)に展示されている。また、2005年に神奈川県三浦市の雨崎海岸の土中より車台部分の残骸が発見された。

新砲塔チハの実車は、アメリカメリーランド州のアバディーン性能試験場に硫黄島の戦いでほぼ無傷で鹵獲された1輌、中国・北京市の中国人民革命軍事博物館に国共内戦でも使用された保存状態良好の1輌(功臣号)、オーストラリアのRAAC戦車博物館の1両、ロシアのクビンカ軍事博物館の1両など比較的多くの車両がそれぞれ保存・展示されている他、占守島などいくつかの旧戦場において擱座・廃棄された状態の車輌が存在し、サイパン島には修復されていない数輌が展示されている。

性能諸元

全長 5.55 m
全幅 2.33 m
全高 2.23 m
重量 15 t
懸架方式 独立懸架およびシーソー式連動懸架
速度 38 km/h
行動距離 210 km
主砲 九七式57mm18.5口径戦車砲
副武装 7.7mm九七式車載重機関銃×3
装甲 25 mm
エンジン 三菱SA一二二〇〇VD
    空冷V型12気筒ディーゼル
    170 馬力
乗員 4 名

さらに詳しく → 九七式中戦車



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