【討論】こんなに楽しい!?共産主義

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2010/09/05(日)
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共産主義(きょうさんしゅぎ、英: Communism、露: Коммунизм)は、資本家的私的所有の廃絶を目指す思想および運動である。この思想に基づく体制も共産主義と呼ばれる。運動としての共産主義社会主義の一つの潮流であるが、マルクス・レーニン主義では「社会主義社会」は共産主義社会の低い段階を指す語としても使われる。

概要

共産主義的思想の歴史は古く、キリスト教などの宗教における財産の共有や空想的社会主義と呼ばれる潮流もその思想の流れの一つとされる(キリスト教共産主義)。しかし19世紀後半にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共産主義思想を体系化して以降、「マルクス主義」が共産主義思想のもっとも有力な潮流となった。また十月革命の成功によるソビエト連邦の成立は、ウラジーミル・レーニンらのレーニン主義の影響力を大きく高め、マルクス主義の中でも代表的なものとなった。

マルクス主義では、生産手段(会社など)を私的所有から社会的所有に変え、人間による人間の搾取を廃止することによって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会が可能になるとしている。(『共産党宣言』)

歴史

黎明期の共産主義思想

共産主義の概念は、古代に遡ればプラトンにも見られるが、歴史上、現在使われる文脈とほぼ同じ意味で“共産主義”という語を用いた最初の人物はフランソワ・ノエル・バブーフである。この語の由来はラテン語で共有、共通、共同を意味する“communis”であり、歴史的に最も早い使用例はシルヴィ父子によって書かれた『理性の書』(1706年)である。その後、フランスにおいて社会主義、共産主義が20世紀に使われたような文脈で初めて使用された。19世紀・フランスにおける共産主義思想をドイツに紹介した人物はローレンツ・フォン・シュタインであった。カール・マルクスはシュタインの著作である『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(1842年)を読み、ここから自身の思想を展開することになる。

空想的社会主義

19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモン、シャルル・フーリエ、ロバート・オウエンといった思想家達が、ユートピア抗構想に基づく社会主義的理論と、共同体の運営実験を行った。ロッチデール先駆者協同組合やニュー・ラナークはその試みの例である。彼らの思想はマルクスやフリードリヒ・エンゲルスにも影響を与えたが、エンゲルスは後に彼らの思想を「空想的社会主義」と呼ぶことになる。

共産主義者同盟

1834年、パリで君主主義に反対するドイツ人亡命者の秘密結社、追放者同盟(de:Bund der Geächteten)が結成された。1937年にカール・シャッパー、ヴィルヘルム・ヴァイトリングらが分裂し、正義者同盟を結成した。1838年に同盟では共産主義的綱領が採択され、最初の共産主義団体となった。やがて合法活動に転じたシャッパーと武装蜂起路線をとるヴァイトリングの対立が表面化し、同盟は分裂状態に陥った。

1846年2月にマルクスとエンゲルスはブリュッセルでブリュッセル共産主義通信委員会を結成した。マルクスらとシャッパー派は連携し、正義者同盟の再編を行った。1847年6月に正義者同盟は共産主義者同盟と改称し、再スタートを切った。シャッパーはマルクスとエンゲルスに綱領的文書の作成を依頼し、シャッパーの校閲を経た上で発表された。これが『共産党宣言(共産主義者宣言)』である。

この文書において資本主義社会をブルジョアジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)の階級対立によって特徴づけ、ブルジョア的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の目的とした。この革命によって階級対立の解消、国家権力の止揚へと向かい、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会を形成することが共産主義の目標であるとした。またこの中で、共産主義者はこれまでの一切の社会秩序が暴力的に転覆されることによってのみ自己の目的が達成される、と宣言した。ただし、1872年の時点でマルクスは「労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。」と述べている。

第一インターナショナル

1866年、ジュネーブで社会主義者の国際組織第一インターナショナルが初開催された。この組織の中でマルクスの理論は次第に影響力を強めていくが、ピエール・ジョゼフ・プルードンやミハイル・バクーニン等の無政府主義者と対立した。1872年にはマルクス派がバクーニンを除名し、第一インターナショナルは分裂した。同じ頃ピョートル・クロポトキンは無政府主義の延長上にある無政府共産主義(en)を唱え、幸徳秋水を始めとする世界の思想家に影響を与えた。

資本論

1873年に出版された『資本論』第二版には、「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体(Assoziation)」についての言及がある。社会的分業の一環としての労働が私的な労働として行われる商品生産社会を乗り越えた社会についての記述であり、事実上の共産主義論と見なされている。また、直接言及した箇所には第一版の「共産主義社会では、機械は、ブルジョア社会とはまったく異なった躍動範囲をもつ」、第二版の「共産主義社会は社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう。」がある。

1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。また、資本主義社会から共産主義社会への転化の時期において、プロレタリア独裁がおこなわれるとした。

エンゲルスは、1880年に出版された『空想から科学への社会主義の発展』において、生産手段の国有化によって計画生産を実施することをプロレタリア革命の課題とした。また、唯物史観と剰余価値説によって社会主義は科学となったとし、自らの立場を空想的社会主義ではない科学的社会主義と称した。

社会民主主義の成長と挫折

1889年にはマルクス主義派が中心となって第二インターナショナルが設立された。中心的な役割を果たしたのはドイツ社会民主党であり、カール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。しかし同党では1890年代にプロレタリア独裁や暴力革命を否定するエドゥアルト・ベルンシュタインらによる修正マルクス主義とカウツキーらの論争(修正主義論争)が勃発した。後に修正主義の路線は社会民主主義の思想を生み出すことになる。

マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなった。ロシア社会民主労働党のウラジミール・レーニンは、ボリシェヴィキと呼ばれる分派を形成し、マルクス・レーニン主義と呼ばれる思想を形成しつつあった。彼の思想に対する有力な反論者がドイツ社会民主党のローザ・ルクセンブルクであり、激しい論争が起こっている。

しかし1914年に第一次世界大戦が始まると、加盟政党は国際主義的な戦争反対の主張を放棄してそれぞれ自国政府の戦争を支持し、第二インターナショナルはばらばらになった。戦争反対を貫いたのはボリシェヴィキのほかには、カウツキー、ベルンシュタイン、ルクセンブルクらが結成したドイツ独立社会民主党をはじめとするごく少数だった。

ロシア革命の成功と世界革命支援

ボリシェヴィキは1917年10月にロシアで武装蜂起を成功させ(十月革命)、権力を獲得した。1918年には党名をロシア共産党に変更し、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱した。土地の社会化や労働者統制などの政策を実施した。

一方ドイツでは、1918年11月12日に皇帝ヴィルヘルム2世が退位すると、独立社会民主党のカール・リープクネヒトによって社会主義共和国の成立が企てられたが、戦争中から和平に転じた社会民主党が機先を制し、社会民主党主導の政府が成立した。同年12月、独立社会民主党から分裂したルクセンブルクとリープクネヒトによってドイツ共産党が成立し、ドイツ革命を目指したが翌年1月に鎮圧された(スパルタクス団蜂起)。

ロシア共産党は1919年にコミンテルンを設立して世界各地の革命を支援した。この結果生まれたのがハンガリー・ソビエト共和国等であったが、大半が短期間のうちに消滅した(参照)。しかしコミンテルンの革命支援・共産党に対する指令の動きはその後も継続された。コミンテルン書記のカール・ラデックは、革命を起こすために各国の右派との連帯を目指すナショナル・ボルシェヴィズム(en)路線を提唱し、ルール占領に反対するストライキなどで右派政党との協調路線をとらせた。

ペルーではホセ・カルロス・マリアテギがペルー共産党を結成したが、彼の理論はコミンテルンに受け入れられず独自路線を歩むことになった。彼は原住民の復権を唱えたインディヘニスモ運動を起こし、センデロ・ルミノソやトゥパク・アマル革命運動などのラテンアメリカ各地の左派運動に影響を与えることになる。

スターリンによるマルクス主義の修正

内戦終結後の1922年にソビエト連邦が成立した。1924年、ソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた世界革命の思想をソ連の現実に合わせる形で修正した(スターリニズム)。

マルクスやレーニンにとっては、共産主義革命とは世界革命であった。後進国の革命は先進国の革命と結びつくことによってのみ共産主義へ到達できるものとされていた。しかしスターリンは、1924年に発表された「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、ソ連一国だけでも社会主義を実現することが可能だとする一国社会主義論を主張した。そして、1936年のスターリン憲法制定時に、ソ連において社会主義は実現されたと宣言した。コミンテルンの指導部もスターリンの影響下に落ち、社会民主主義を「ファシズムの双生児」と定義した社会ファシズム論が主張されるようになった。スターリンとの権力闘争に敗れたレフ・トロツキーは党を追われて亡命し、コミンテルンに対抗した第四インターナショナルを結成した。彼らの思想はトロツキズムと呼ばれる。

スターリンは農業集団化を強引に進め、農民の抵抗が激しくなると、スターリンは1930年に、「共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう」というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、「共産主義へ向かえば向かうほどブルジョアジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない」とした。

1935年、コミンテルンは左派の連帯をとる人民戦線戦術へと転換し、スペイン内戦で人民戦線政府を支援した。しかし1936年から1938年には大粛清がはじまり、共産党幹部を含めた数百万の人々が犠牲になった。コミンテルンの活動家も例外ではなく、ハンガリー革命の指導者クン・ベーラを始めとする多くの活動家が処刑された。

第二次世界大戦にあたっては、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』以来の国際主義を放棄し、ロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまずロシア民族の健康のために乾杯する。それは、ロシアの民族が、ソヴィエト連邦を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。また連合国の警戒心を解くため、1943年にコミンテルンを解散した。

社会主義国家陣営の成立

冷戦時の共産主義圏。赤はソビエト連邦及び親ソ派の共産党政権(衛星国含む)。黄色は中華人民共和国及び親中派の共産党政権(アルバニアと民主カンボジアのみ)。黒は中ソいずれにも属さない共産党政権(ユーゴスラビア、北朝鮮、ソマリアのみ)。

1945年の独ソ戦におけるソビエト連邦の勝利は、ソ連の影響下に置かれた社会主義国を多数生み出した。1947年、ソ連を含む東欧諸国の共産党はコミンフォルムを結成し、東側諸国を形成していくことになる。西側諸国との対立は深まり、冷戦が開始された。西側諸国の一部では共産主義者の追放(赤狩り)なども発生した。

1948年にはユーゴスラビア共産党が非同盟運動を提唱してコミンフォルムを脱退、ソ連・東欧諸国とは一線を画した。同時に独自の自主管理社会主義を打ち出し、ソ連型とは異なる分権的な経済システムの構築を始めた。だがユーゴスラビアの経済運営は同国を構成する各共和国や自治州の大きな経済格差や多数の失業などで、ソ連型にかわる有力な代案となるには至らなかった。1949年には中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を成立させた。1950年には朝鮮戦争が勃発し、冷戦期に多く見られる西側と東側の支援を受けた地域紛争の初例となった。

共産主義運動の多様化

スターリンが死んだ3年後の1956年、ソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行ってスターリンの権威を失墜させ、世界中の共産党に大きな衝撃を与えた。ソ連はスターリン体制の改革に動きだし、各国の共産党も追随した。一方、中国とアルバニアはスターリン死後のソ連の変化を、修正主義・社会帝国主義として激しく攻撃し、自らを反修正主義(en)として正当性を主張した。ソ連も毛沢東の個人独裁を非難して、両国は厳しく対立することになった(中ソ対立)。ソ連の指導から離れた中国共産党は毛沢東の指導下で毛沢東思想を形成していくことになる。

しかし同年、ハンガリー動乱においてソ連率いるワルシャワ条約機構軍が民衆の蜂起を弾圧したことは、各国でソ連に対する失望を産むことになった。欧米や日本では新左翼(ニューレフト)と呼ばれる潮流が発生し、トロツキズムも影響力を拡大した。

1959年にキューバ革命が成功すると、ラテンアメリカ、アフリカ、中東におけるソ連派と西側派の抗争が高まった。これらは「代理戦争」とも呼ばれる。ベトナム戦争やコンゴ動乱、アンゴラ内戦、オガデン戦争などきわめて長期間に及ぶ大規模な紛争も発生した。ラテンアメリカでは、マリアテギやチェ・ゲバラ、毛沢東思想等の多様な影響を受けた左派がゲリラを形成した。

1968年にはチェコスロバキアの改革の動き「プラハの春」が始まったが、再びワルシャワ条約機構軍によって鎮圧された。この事件はさらにソ連への失望を産むことになり、西欧の共産党はソ連型社会主義とは一線を画した、所謂「ユーロコミュニズム」と呼ばれる、市場経済や、個人の自由や民主主義を前提とした共産主義を目指して行く。その中心はイタリア共産党であったが、日本共産党も「自由と民主主義の宣言」によって、市民的自由や政権交代を含む多党制の擁護を明確にし、日本型社会主義のビジョンを提起する(ユーロコミュニズムと基本的には同様の傾向をもつが、非同盟と平和主義を正面に押し出した点が異なる)。

1977年頃、アルバニアのエンヴェル・ホッジャはアメリカと接近した中国とも訣別し、アルバニア派(en)と呼ばれる独自のスターリン主義派(ホッジャ主義)を形成した。

ソ連型社会主義の崩壊と各国の動向

ソ連や東欧の共産党政権は、1989年以降に次々と崩壊し、ソ連も1991年に解体した。理由には経済の停滞と、衛星放送の普及などで国民が西側の豊かな生活を知ってしまった事がある。経済停滞の原因には、一党独裁・中央集権による官僚主義や非効率、西側の封じ込め政策である禁輸や軍拡競争などがある。

中国共産党は、毛沢東が主導した大躍進政策や文化大革命によって、人的、物的に多大な損失を経験した後、1970年代後半から小平の指導で改革開放を進め、社会主義市場経済を標榜した。これは、一言で言えば資本主義と社会主義の混合経済であり(実質上は官僚資本主義)、ソ連のネップやアジアNIES諸国のやり方を参考にしている。「発達した資本主義経済が社会主義経済へ移行する」というマルクス主義の経済発展段階の学説に基づき、市場原理の導入によって経済を発展させ、それを基に社会主義社会を通して共産主義社会を目指すとしており、現在は資本主義社会から社会主義社会への過渡期であると主張している。

ベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争においてはアメリカ合衆国を中心とする西側諸国と実際に砲火を交えたものの、その後はカンボジア内戦での親ベトナム政権への対勢力であるクメール・ルージュ(ポル・ポト派)を中共が支援した事や、さらにはこれを巡って越中戦争が勃発した事などから、以降は急速に西側へと接近する。1986年にはドイモイを掲げて市場経済を部分的に導入し、以降他の社会主義国が急速に衰えていく中、逆に高い経済成長率を長年にわたって維持した。ただ、1990年代後半以降、その急激な経済成長が祟って慢性的な電力不足に陥っている。ソ連崩壊後はアメリカや日本など西側先進国との関係を更に深め、社会主義体制であるにもかかわらず、これら西側諸国と良好な状態を保っている。またベトナムは個人に権力が集約されておらず、民主主義の三権分立とは異なる様式であるが、権力の相互監視体制が敷かれているのも特徴である。

北朝鮮は独自のチュチェ思想を標榜し、ソ連・東欧の崩壊に伴う交易環境の悪化にもかかわらず体制を維持したが、経済は破綻、深刻な飢餓によって数十万の死者を出したといわれる。なお、2009年に制定された憲法ではそれまで含まれていた「共産主義」という単語が削除されている。

冷戦終結後に最大の援助国ソ連を失ったキューバは米国の経済封鎖下で深刻な経済危機に直面したが、都市部での有機農法での食料増産や省エネルギー政策で持ち直した。国民には民主化が不十分な事への不満は多いが、無料の教育や医療や、他のラテンアメリカ諸国への医療援助などで一定の支持を得ている。最近ではベネズエラなどのラテンアメリカ諸国との経済交流が進んでいる。

西側諸国では、冷戦期は社会主義に対する脅威もあり、労働法制の強化や、社会保障を充実させるなど、労働者の権利を認めざるを得なかったが、1980年代以降経済的な規制を緩め市場原理主義を推進する新保守主義(新自由主義)が台頭し、再び資本主義国の労働者が過酷な境遇に追い立てられている。新自由主義の影響が強いのは先進国の中ではアメリカ合衆国や英国、ニュージーランド、日本などである。またIMFの介入により韓国、中南米諸国など中進国に導入された新自由主義は、先進国以上に深刻な貧困と社会的な分断を生み出した。

さらに小平による改革開放路線採用以降、社会主義市場経済を標榜する中華人民共和国においても、民工などの過酷な労働者の搾取が存在する。なお北欧を中心としたヨーロッパ大陸諸国では、社会主義の一潮流である社会民主主義が根付いているが、グローバリゼーションの中で多国籍企業への規制と社会への統合は様々な困難を抱えている。

21世紀の共産主義

新自由主義を導入した諸国では市場原理主義を推進し、国家による市場への関与が縮小された結果、少数の富者(巨額の報酬を受ける経営者、投機中心の投資ファンドなど)と大多数の貧者(グローバリゼーションの中で容易には国を変えられない労働者、特に単純作業に従事する低賃金の非正規労働者)という構造ができ、経済基盤が脆弱になった。その結果、2008年以降の世界同時不況で経済に深刻なダメージを受け、特に日本では解雇しやすい非正規労働者を中心に失業者が大量に生み出された。劣悪な環境と低賃金に耐えながらも労働していた非正規労働者たちは一斉に解雇され、職を失った。こうしたことにより、共産主義者だけでなく、様々な立場の人々から新自由主義の破綻が唱えられるようになっている。

ソ連・東側諸国の労働者は、競争力の低い従来の国営・公営企業が崩壊し、海外資本に安い労働力として使われるようになった。また質が低いとはいえ原則無料の住居・医療・教育などが消滅し、混乱期に国民の無知につけこんだ投機詐欺やネズミ講で資産を失うケースも多く、政権やマフィアと結託した新興財閥が経済を支配するようになった。このため「資本主義になれば必ずしも豊かになれる訳では無い」「生活が安定せず貧困から抜け出せない」「西側から二等国扱いされている」などの現実に国民が直面し、共産党やその後継政党が一定の勢力を保っている。

一方、共産主義を標榜する中華人民共和国では一党支配を温存しながら大胆な市場経済の導入を進め、社会保障を充実させないまま国営企業から労働者を大量に解雇した。さらに、中国共産党は本来の共産主義イデオロギーと相容れないはずの資本家の入党を認めており、雑多な階級を含んだ政党に変質している。中国では労働法制が十分に整備されておらず、労働運動や言論の自由も制限されているため、労働者はしばしば資本家に資本主義国よりも露骨な形で搾取されている。

1999年に大統領に当選したベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は「21世紀の社会主義」(en:Socialism of the 21st century)を標榜し、それに基づいた国づくりを行っている。だが、原則的マルクス主義者からみれば、「21世紀の社会主義」は単なるポピュリズムにすぎないという評価もある。こうした背景があるため、21世紀を迎えた今日、共産主義革命の機が熟しつつあると共産主義者は主張する。ソ連やかつての中国とは別の形の、新しい共産主義(社会主義)が模索されている。

さらに詳しく → 共産主義



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(2009/09/17)
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