スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose) - インド独立への立役者

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2010/08/24(火)
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スバス・チャンドラ・ボース (Subhas Chandra Bose, デーヴァナーガリー文字:スバース・チャンドラ・ボース सुभाष चन्द्र बोस , ベンガル文字:スゥバシュチョンドロ・ボスゥ সুভাষচন্দ্র বসু , 1897年1月23日 - 1945年8月18日)はインド独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人。ネータージー(指導者:नेताजी, Netāji。ネタージ、ネタジ とも)の敬称で呼ばれる。

プロフィール

生い立ち

1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のベンガル州カタク(現在のオリッサ州)に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でイギリスのケンブリッジ大学に留学した。

独立運動家

しかし1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じ、1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧したイギリスの植民地政府の手により免職された。その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、1937年と1939年には国民会議派議長を務めた。この間、国民会議派内に前進同盟を結成した。その後、ガンディーら穏健派と対立し国民会議派を除名される。

ドイツへの亡命

第二次世界大戦勃発後、1941年密かにインドを脱出して陸路アフガニスタンを経て、ソ連でスターリンに協力を要請するが、断られたため、ソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命した。ヒトラーやイタリアのムッソリーニにも協力を要請するが、ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」と言われ協力を拒否された。また、このころドイツ人女性と出会い一女をもうけるが、政治的な問題で結婚はしていない(ボースは社会主義者だった)。ドイツでは主に北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募りインド旅団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成し、イギリスと戦火を交えるドイツに協力していた。ボースのベルリンからの反英ラジオ放送は有名である。

日本への移動

日本の対英開戦の知らせを聞いたボースは、日本に協力を願い出ることを望むが、すでに独ソ戦が始まっており、往路と同じルートを取りインドへ戻ることは不可能だった。しかしこれを聞いた日本が、イギリスが支配を続けるインドへの影響力を考え、ボースとの協力と日本への移送を承諾した。日本からドイツへの要請で、ドイツ海軍の潜水艦U180で密かにフランス大西洋岸のブレストを出航、インド洋でUボートから日本海軍の巡潜乙型伊号第二九潜水艦に乗り換えて東京に到着した。

自由インド仮政府

東京では、以前から日本を拠点に独立運動を行っていたラース・ビハーリー・ボース(「中村屋のボース」)やA・M・ナーイルらと合流、日本の支援により同年10月21日に日本統治下のシンガポールで「自由インド仮政府首班」に就任。同年に行われた大東亜会議にオブザーバーとして参加する。

また、英領マラヤ・シンガポールや香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任した。インド国民軍は1944年日本軍とともにインパール作戦に参加したことを皮切りに、連合軍と主にビルマで戦った。

なお、ドイツのインド旅団、すなわち自由インド軍団は、チャンドラ・ボース日本脱出後も欧州戦線でドイツ軍側で活動していた。また、当時の日本の首相である東條英機はボースを高く評価し、たびたび会談していた。東條自身、ボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。

事故死と生存の「噂」

日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取ることが不可能となった。ボースは東西冷戦を予想し、イギリスに対抗するためソ連と協力しようとした。しかしソ連へ向かおうとした時、台湾の松山飛行場で搭乗していた九七式重爆撃機が離陸に失敗した事故により死去した。ボースの臨終の言葉は「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」。ボースの遺骨は東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っている。

インドでは、「チャンドラ・ボースは生きている」という噂が長く語られた。インド政府は過去3度にわたって調査委員会を組織し、1956年・1970年・2006年にそれぞれ報告書を作成している。最初の2回(実施時の政権与党はいずれもインド国民会議派)は「飛行機事故で死亡し生存の可能性がない」と結論づけた。しかし、インド人民党が与党であった1999年に組織した3度目の調査委員会は「飛行機事故は連合軍によるボースの追跡をかわすために日本軍が作り上げた」とし、蓮光寺の遺骨はボースのものではなく、ボースがすでに死亡していることは間違いないものの死因については「説得力のある証拠がない」として具体的に言及しなかった。

この報告書が発表された2006年には政権与党は再びインド国民会議派などによる連立政権に移っており、発表時のインド政府は「調査結果に同意しない」と表明した。また、ボースの甥の妻は「政府の考えに賛成だ。墜落死には多くの証拠があり、遺骨はボースものだ」とコメントした。だが、特にインドにおいてボースの事故死を信じない者が多いことは事実であり、英語版記事では「その後」についても詳述されている。

ラース・ビハーリー・ボースと血縁関係はないが、遺骨が安置されている蓮光寺では、ビハーリー・ボースの側近が住んでいた家の近くにあり、密かに行われた葬儀の際はビハーリー・ボースのそれとして行われ、中村屋の菓子が供えられたという。その後蓮光寺には、インドのプラサード大統領、ネルー首相、インディラー・ガンジー首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。また、多くの在日インド人も訪れている。

評価

インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が掲げられている。また現在もコルカタの国際空港がボースの名前を冠しているほか、コルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)もあり、記念館となっている(2007年に安倍晋三首相が訪問した)。2005年にはインド映画『Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero』が公開された。インドでは現在も人気の高い政治家である。

前進同盟は戦後に政党全インド前進同盟として再結成されチャンドラ・ボース流の民族主義的な社会主義を唱えて活動しており(現在はインド共産党マルクス主義派などとともに左翼戦線を構成)、ボースの出自にあたる西ベンガル州を中心に根強く支持されている。ほかマレーシア・インド人会議も党の行事でボースの活動を顕彰している。

さらに詳しく → スバス・チャンドラ・ボース



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(2009/04)
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