第一次中東戦争の背景と推移 (1948 Arab–Israeli War)

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2010/08/22(日)
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第一次中東戦争(だいいちじちゅうとうせんそう)とは、1948年から1949年にかけて行われたアラブ諸国とイスラエルとの戦争のことである。パレスチナ戦争ともいう。イスラエル側の呼称は「独立戦争」(ヘブライ語:מלחמת העצמאות)で、アラブ側の呼称は「アン・ナクバ(大災害)」(アラビア語: النكبة )である。イスラエルはこの戦争に勝利し、独立国としての地位を固めた。

背景

第一次世界大戦以降、パレスチナにおいては、パレスチナ人と入植してきたユダヤ人との間で嘆きの壁事件など散発的な衝突が発生していた。第二次世界大戦中ユダヤ人はイギリスにナチス攻撃のため協力していたものの、大戦終結後にパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に前向きでないイギリスに対し、武力闘争を開始する。

国連決議

1945年後半より、パレスチナにおいてユダヤ人組織のレヒやイルグン・ツヴァイ・レウミ、パルマッハによる武力闘争が活発化する。イギリスは陸軍部隊を派遣し、治安維持活動を行うもののなかなか成果はあがらなかった。そこで1946年6月29日にユダヤ人組織の一斉拘禁を行い、3,000名以上を逮捕する。しかしユダヤ人組織イルグンがこれに反撃し、7月22日にイギリス軍司令部があるエルサレムのキング・ダビテ・ホテルを爆破する。これにより司令部要員多数が死亡した。

このためパレスチナ統治に困難を覚えたイギリス政府は、1947年1月にパレスチナ統治問題を国際連合に依頼すると発表した。国連での討議においてアメリカとソビエトがアラブ人とユダヤ人の分割統治を推したため、11月29日に国連決議181号としてパレスチナの分割統治案が決議された。

これはパレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域(エルサレム周辺)に三分割するものであった。しかしこの分割案はアラブ人に対して極わずかな人口のユダヤ人に、パレスチナの三分の一以上を与えるというものであったため、アラブ人は一斉に反発した。

決議の翌日より、パレスチナは事実上内戦状態となった。決議に反発したアラブ人による襲撃・焼き討ちなどが行われ、ユダヤ人も同様に反撃した。イギリス軍はもはや治安維持能力が無く、内戦状態は放置されるままであった。この状態が手に負えなくなったイギリス軍は、1948年5月15日までに撤退することを決定した。

戦争準備

この内戦状態を見てアラブ側の義勇兵が各国より集まり、1948年2月にアミーン・フサイニーやアブドゥル=カーディル・アル=フサイニーなどが率いるアラブ救世軍が結成された。またファウズィー・アル=カウクジ率いるアラブ解放軍も結成された。また、アラブ連盟のアブドゥル=ラフマーン・ハサン・アッザーム事務総長は、『我々の攻撃はモンゴル人や十字軍の蛮行と並び称されるような徹底的な虐殺と根絶の戦いになるだろう』と発言し、アラブ大衆の反ユダヤ感情を煽った。

ユダヤ人側も民兵組織ハガナーを中心に召集をかけ、また海外在住の従軍経験のあるユダヤ人にも勧誘を行い、7万人ほどを動員した。また武器については大戦終結直後の欧州各地より購入したり、詐欺まがいの方法で入手した。特に従軍経験のあるユダヤ人の参加は、ユダヤ人側の軍事的能力を大いに高めた。

1948年3月頃よりアラブ人部隊はエルサレムを包囲し、ユダヤ人の輸送トラックを襲撃するようになった。このためアラブ人部隊とユダヤ人部隊の衝突は続き、デイル・ヤシーン事件やハダサー医療従事者虐殺事件などの双方による虐殺事件も起きた。特にデイル・ヤシーン事件は当地在住のアラブ人に大きな恐怖感を与え、パレスチナからの脱出・難民の発生が始まった。

戦争推移

勃発

イギリス軍がパレスチナを撤退する1948年5月14日に、ユダヤ国民評議会はテルアビブにおいてイスラエル国の独立宣言を行った。そしてこの日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国は戦争を宣言した(後にサウジアラビア、イエメン、モロッコも部隊を派遣)。連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が勃発した。アラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差であった。

アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍である。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていた為、ゲリラ部隊ハガナーがチェコスロバキアなどから密輸していた小銃などで応戦していた。5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏した。

しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていた。そこへの補給をめぐり、ラトルン要塞などで激戦が行われた。結局要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路を設定しエルサレム新市街への補給に成功する。

第一次休戦

ここで国連が停戦を呼びかける国連決議を可決、双方はこれを受け入れ6月11日より4週間の休戦となった。この期間中にイスラエル側は部隊の再編成を行った。この時点でのイスラエル武装組織は、主力のハガナーの他にシュテルンやレヒなど複数に分かれており、指揮系統が一本化されていなかった。そのためハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し、全武装組織の指揮系統を一本化することとした。しかし、これにイルグンが反発し、ついには武器輸送船「アルタレナ号」をめぐり6月21日よりイスラエル国防軍と戦闘となった。イルグンは国防軍に制圧され、イスラエルは指揮系統の一本化に成功した。次いでチェコスロバキアからメッサーシュミット戦闘機を中心とした武器が到着し、反攻の準備を整えていった。アラブ側も各国がこの期間に調整を行ったものの、思惑の違いから調整は成功しなかった。

戦闘再開

停戦終了の7月9日、イスラエル国防軍はアラブ軍へ反攻を開始、戦闘が再開された。これに対し国連は再び停戦決議を可決、7月18日より第二次休戦が行われた。しかしこの停戦はすぐに小競り合いをきっかけに消滅し、全面的な戦闘が再開された。第一次停戦期間中に再編成を行い軍備を強化したイスラエル軍は強力であり、アラブ側を各地で撃破していった。特に中古戦闘機によって制空権が確保されたが、パイロットは第二次世界大戦で米軍や英軍として戦った経験を生かした。しかし、9月17日にスウェーデン赤十字総裁のフォルケ・ベルナドッテがエルサレムでユダヤ人組織・シュテルンに暗殺される事件があり、国際世論がイスラエルに厳しくなる面もあった。

1948年12月にイスラエル軍は南部ネゲブ砂漠で攻勢に出て一時シナイ半島に侵攻したが、ここでエジプトを影響圏としていたイギリスの警告を受けてそこより撤退した。

停戦

1949年1月から戦争に疲弊した各国は停戦交渉を開始し、2月23日にイスラエルとエジプトの停戦協定が結ばれたのを始めとして、7月までに各国と停戦協定が結ばれた。

パレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得したが、停戦時にエジプト軍が保持していたガザ地区はエジプト領になり、ヨルダン軍が保持していたエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区は、12月に部分的なパレスチナ人の賛同とトランスヨルダン議会の決議により、トランスヨルダン領に編入され、国名をヨルダン・ハシミテに変更した。このとき確定した国境線はグリーンラインと呼ばれ、現在もユダヤとアラブの境界線として国際的に解釈されている。聖地エルサレムは東をヨルダン、西をイスラエルが領有して、中間を国連が監視する非武装中立地帯とした。しかし、ユダヤの聖地は東側の旧市街にあり、巡礼することのできなくなったユダヤ人右派の不満は募った。

さらに詳しく → 第一次中東戦争



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