日本の防衛 - 戦車編

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2010/08/05(木)
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61式戦車(ろくいちしきせんしゃ)は日本の陸上自衛隊が運用していた戦後第1世代戦車に分類される戦後初の国産主力戦車である。第二次世界大戦後、初めて開発された国産戦車であり、戦後第1世代に分類される。開発・生産は三菱日本重工業(1964年から三菱重工)が担当し、それまで供与されていたアメリカ製戦車との共同、もしくは置き換えにより全国の部隊に配備された。

1955年(昭和30年)に開発が開始され、1961年(昭和36年)4月に制式採用された。採用された西暦の下二桁の年をとり、61式戦車と命名された。主砲に52口径の90mmライフル砲を装備し、鉄道輸送を考慮して当時の国鉄貨車に搭載できるよう車体が小型化されている。1974年(昭和49年)に74式戦車が採用されるまで560輌が生産され、2000年(平成12年)に全車が退役した。

開発までの経緯

第二次世界大戦終結後、GHQにより全ての軍需産業を廃された日本は、戦前から培ってきた戦車や装甲車の技術を失ってしまった。後に朝鮮戦争の勃発により極東情勢が変化し、日本はGHQに再武装を指示されて1950年(昭和25年)に警察予備隊が創設された。1952年(昭和27年)にはアメリカ軍から供与されたM24軽戦車が、当時編成中の4個管区隊の各普通科連隊内に編成された戦車中隊に配備された。朝鮮戦争において国連軍と対峙したT-34-85戦車に対してM24軽戦車では対抗できず、退役したものが日本に送られている。その後、自衛隊に改組された1954年(昭和29年)にM4A3E8戦車約200輌が供与された。

当時供与された戦車は第二次世界大戦や朝鮮戦争の中古品であり、日本人の体格にあわないことや、整備業務を効率化できなかったことから故障が頻発していた。また、当時、世界各国で戦後第一世代の戦車の開発配備が進んでおり、特に第二次世界大戦後期には既に能力不足が指摘されていたM4や、朝鮮戦争でT-34/85に完敗したM24の更新が課題となっていた。

90ミリ戦車砲を搭載するM47やM48戦車の導入を支持する声も存在したが、その当時のアメリカ陸軍は朝鮮戦争の結果をうけて戦車ならびに対戦車兵器の更新に取り組んでおり、ヨーロッパ第一主義の方針もあって日本に戦車を供与する余裕を完全に失っていた。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い在日米軍駐留経費の日本への返還がおこなわれることになり、またアメリカによる対外援助(MSA協定)により開発費用の目処が立ったため、国産開発が検討されることとなる。その際には当時の貧弱な国内道路網を勘案し、鉄道輸送が可能な車体容積であることが要求事項に盛り込まれた。

1955年(昭和30年)4月の防衛分担金減額に関する日米共同声明によって国産兵器の開発が促進されることとなり、ここに新中戦車試作の方針が決定された。同年5月に防衛庁長官より新型戦車の開発指示がなされた。

開発

要求された性能

正式には1955年(昭和30年)にSS(後の60式自走105mm無反動砲)と共に研究開発がスタートした。戦後十年の空白があったものの、開発を担当した三菱日本重工業は朝鮮戦争中の朝鮮半島から後送されてくる戦車や車輌の修理やオーバーホールで技術を蓄積していた。

警察予備隊創設当時から国産戦車の希望はあったものの、具体化したのは自衛隊に改組した1954年(昭和29年)になってからで、この年に陸上幕僚監部、富士学校等の装備計画委員による議論が始まり、翌1955年(昭和30年)1月に次の開発目標案が示された。

* 重量 25トン
* 火砲 90ミリ砲
* 強力なエンジンと低接地圧
* 装甲は以上を実現する範囲で忍ぶ

25トンという重量とそれを実現するために不可欠な軽装甲は、朝鮮戦争におけるバズーカ砲や無反動砲の成形炸薬弾等の歩兵用携行対戦車兵器の活躍や、世界初の対戦車ミサイル(SS10)の開発などによるフランスを中心とした装甲無用論を受けたもので、当時の陸上自衛隊内部においては一定の勢力を持っていた。また、創設期から四次防策定まで防衛官僚として強い影響力を発揮した海原治も、生産単価が安くなる戦車の軽量化を強く主張していた。国道でさえ砂利道であった当時の国内の道路事情や、山地や水田の多い国情における低接地圧による機動性の確保が求められたことも、要求性能における軽量化の一因であった。

しかし基礎設計を行ったところ25トンの重量には収まらず、相当に装甲を薄くしても30トンは必要だと明らかになり、同年中頃に「90ミリ砲搭載、30トン」を主軸とした要求性能が陸幕長から防衛庁長官に上申され、協議の上で32トンに修正された。重量増による機動性の問題も、M24とM4A3E8を用いた踏破試験において必ずしも重量が問題となるわけではなく、むしろM4A3E8の方が良好であったことから沙汰やみとなった。

当初陸幕では76ミリ砲搭載の20トン戦車を予定したものの、朝鮮戦争でM24軽戦車がT-34に対抗できなかった戦訓から90ミリ砲が必要とされた。90ミリ砲はアメリカ軍よりM36駆逐戦車を試験用に供与を受け研究した結果、国産も可能であるとされ日本製鋼所で試作された結果、61式52口径90ミリ戦車砲として制式化された。

開発中にT-54が出現したこともあり、より強力な砲を求める声もあったが、当時の西側の主体はイギリスの20ポンド砲とアメリカの90ミリ砲で、日本独自の大口径新型砲の開発は時間と経費の問題から断念され、射撃精度とHEAT、HVAP等の砲弾の改良で対抗するとした。

エンジンは新たに高馬力の空冷ディーゼル・エンジンを開発する事となり、変速機は当時としては斬新なトルクコンバータ付きオートクラッチ機構の導入と戦後の西側戦車同様にエンジンと変速機を直結して車体後部に収めるパワーパック方式の後輪駆動が望まれたが、技術的問題や車幅の不足、さらに当時の自衛隊にパワーパックを丸ごと交換できる機材と技術が無かったために断念された。最終的に乾燥多板式高低速用二列クラッチと前進5段、後進1段の常時噛合歯車式トランスミッションを車体前部に置く前輪駆動方式が採用された。

同年10月、三菱日本重工東京製作所でモックアップの検討会が開かれた際、富士学校から臨時で参加した機甲科の砲術、ならびに操縦担当者、整備担当者がこれに対し「姿勢が大きく、装甲が薄く、これでは戦車らしい働きをする前に敵の弱小火器の餌食となってしまう」「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することは同意し難い」との意見を表明した。委員ではない、いわば部外者の意見ではあったが装備研究委員長はこれを受け入れ、富士学校、技術研究所、三菱重工を交えた要求性能の練り直しを行った。最終的に「車重35トン、最高速度時速45キロ、90ミリ砲搭載、車高2.5メートルでなるべく低くする」とし、12月に、防衛庁長官に対して再度の要求性能の変更が上申された。

中特車の試作

自衛隊内の装備審議会の結果、90ミリ砲を搭載する30トン程度の中特車を試作することが決定した。 分類上は中戦車だが、当時の国内の政治的状況から戦車ではなく「特車」と呼び変えていたもので、1962年(昭和37年)1月から「戦車」と呼ばれるようになった。前提とされたのは、敵からの発見を避けるため出来うる限りの低姿勢と、鉄道輸送時に求められる鉄道限界を超えないため車幅を3m以下とする二点だった。

開発ではまずSTA-1、STA-2という二種類の試作車が作られた。大きな違いは車高で、STA-1は低姿勢(高さ2.2m)を追求したため全長は長く、材質は普通鋼板で製作され1956年12月に完成した。STA-2は高さ2.5mでSTA-1より全長が短くなり、空冷ディーゼル、トーションバーサスペンション、トルクコンバータ、動力付き操縦装置などを搭載、防御鋼板で製作され1957年2月に完成した。エンジンはまだ開発中だったため、既存の民生用ディーゼルエンジンを改造したものが搭載されていた。当初の予定ではこの2輌の試作車だけで要求性能を達成、量産準備の為の増加試作に入る予定であったが、第1次試作の2輌は要求性能に達しなかった。

STA-1の低車高は評価されたものの、低姿勢を求めて砲塔の旋回時にエンジン室の張り出しを避けるため車体が細長くなってしまい、履帯の接地長に対して相対的に軸間が狭くなってしまった。これは装軌車では旋回時などに抵抗が増し、運動性に悪影響を与えるため、実用化にはエンジンとトランスミッションの更なる小型化が必要であるとしてSTA-1の案は採用されず、STA-2の車高2.5メートルの配置が採られた。またSTA-1にて新型エンジンのテストが行われ、結果オートクラッチのパワーロスが大きい事が判明、機械式2段クラッチに変更された。

1956年末から約1年かけて行われた技術試験と実用試験の結果、第2次試作が決定され、STA-3が1960年(昭和35年)1月、STA-4が 1959年(昭和34年)11月に完成し、1960年4月に防衛庁に引き渡された。砲口制退器の変更、エンジン出力の増強、携行機関銃弾の増加、制限重量までの余裕を防御装甲に振り向ける、半自動装填装置の採用などが行われたが、両車の違いはSTA-3に防楯付き砲塔機関銃、STA-4にM48戦車と同型の密閉型銃塔が設けられたことである。

制式採用

第2次試作車両のテスト結果、さらなる装甲の増強、砲塔を後方にずらして操縦席に余裕をつくる、測遠器の新型化などのほか、細部の変更も加えたものが1961年(昭和36年)4月、61式特車(後に61式戦車と改名)として制式化され量産(量産第1号車は1962年10月に完成)と配備が開始された。

特徴

基本構造は鋳造砲塔と鋼板溶接車体の組み合わせで、主砲は52口径90mmライフル砲(携行弾数50発)を搭載し、主砲同軸機銃に7.62mm機関銃(携行弾数4000発)、砲塔上面の銃搭にリモコン式の12.7mm重機関銃M2(携行弾数525発)を各一挺装備した。主砲の使用弾種は榴弾(HE)、曳光対戦車榴弾(HEAT-T)、曳光高速徹甲弾(HVAP-T)、曳光被帽徹甲弾(APC-T)、発煙弾(WP)などがある。製造は日本製鋼所が行い、開発の際はアメリカ軍の砲弾との共有化が図られている。

動力系は戦後設計された戦車では唯一、車体後部のディーゼルエンジンと前部の変速機とをドライブシャフトで接続する方式の前輪駆動が採用されている。そのため車高を低くする事ができず、また車体前部装甲板が変速機の交換整備のためにボルト留めになっているなど、防御性能において不安を抱える事となった。

操縦席は日本の交通法規に合わせて車体右側に配置されていたが、砲塔内の車長・砲手と合わせて車輌右側に乗員4人中3人が偏在するためリスクコントロール面で問題となり、74式戦車では車体左側に移されている。操縦は左右2本のレバー操作式で、変速機の歯車の回転が少しでもずれると変速できないなど、米軍から供与されたM24軽戦車やM41軽戦車に比べて操縦が難しく、乗員から「世界一操縦が難しい戦車」と言われたことがある。また、操縦する際に左手に腕時計をしていると、変速に失敗した際に弾き戻されるシフトレバーが左手に当たり腕時計が壊れるため、操縦する際は腕時計を右手に付け替えた、という話が伝えられている。

配備

最初に第2次試作車輌を基とした10輌が発注され、1962年(昭和37年)から1966年(昭和41年)までの第二次防衛力整備計画に90輌が発注された。さらに40輌が追加され、1973年(昭和47年)までの製造終了までに560輌が生産された。

本車は1961年(昭和36年)の制式採用から39年後の2000年(平成12年)、90式戦車の配備に伴い全車退役した。この間、61式戦車はスモークディスチャージャー(煙幕弾発射機)を増設するなどの細かい部分を除き、大きな改良が施されることはなかった。実戦を経験する事なく退役を迎えている。

派生型

67式戦車橋
61式戦車をベースとした戦車橋

70式戦車回収車
61式戦車の車体を流用した戦車回収車。

87式自走高射機関砲の開発にあたって車体を流用する案が計画されたが、性能面で要求水準を満たせないと判断され、74式戦車の車体に変更された。

さらに詳しく → 61式戦車  74式戦車  90式戦車



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