【日韓併合100年】 国家と個人の謝罪の違い 【井尻千男】

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2010/08/03(火)
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韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。

韓国併合によって大韓帝国は消滅し、大日本帝国はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮支配は終了した。「韓国併合」というとき、条約の締結により大韓帝国が消滅し、朝鮮が大日本帝国の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮を領有した継続的事実を含意する場合もある。(例:日韓併合時代)

併合条約に対する日韓両国の見解

第二次世界大戦後の日本側は韓国併合に関しては韓国併合ニ関スル条約の締結自体合法であったと考えている。これに対し第二次世界大戦後に大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国として成立した両政府とも、韓国併合ニ関スル条約は大日本帝国と大韓帝国の間で違法に結ばれた条約であるとして、同条約とそれに関連する条約すべてが当初から違法・無効であり、大日本帝国による朝鮮領有にさかのぼってその統治すべても違法・無効であるという立場を崩していない。

この点について、日本国と大韓民国の間で1965年の国交回復時に結ばれた日韓基本条約では、その条文第二条において「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とすることで合意に達した。しかし、両国で解釈が異なるなど、見解の相違が解決したわけではない。日本国政府はこの条約についての「もはや無効である」という表現は日本側の立場をいささかも損なうものではないと表明している。

時代背景と大日本帝国・朝鮮国(大韓帝国)の世論

当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。日本による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の「天皇」を使用していたこともあり、長らく中華秩序の一翼を担ってきた朝鮮側からは、中華秩序に対する挑戦と受け取られた。朝鮮側は、日本政府による近代化の要請を内政干渉としたほか、李氏朝鮮では日本の民間知識人による近代化のアドバイスも侵略的意図があるものと捉えられ、朝鮮王朝内部における政争の一因となった。

西欧列強や、朝鮮を取り込もうとするロシア・日本は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを容認せず、日本は江華島事件を機に李氏朝鮮に不平等条約である日朝修好条規を締結し、これを契機に李氏朝鮮は列強諸国とも同様の条約を結ぶことで開国を強いられた。日本側は条約締結の際、朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執したが、これは冊封体制に依存していた朝鮮王朝や朝鮮側知識人にとって容易には理解しがたいものであった(誤解されがちだが、冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」とは、即「属国・保護国」を意味しているものではないことについての認識の差が両政府間に存在した)。

また西欧列強が非ヨーロッパ圏の諸民族・諸文明に押し付けていた自国の価値観を、日本も同様に李氏朝鮮へ押し付けようとしたため、必然的に朝鮮側から反発を招くこととなった。 自力で維新した日本による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君と閔妃は守旧的態度を採り続けた。大日本帝国は自国の主導による朝鮮半島の政治改革を目指したが、清国側はあくまでも「李氏朝鮮は冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。

朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。日清両国はそれぞれ、「乱の鎮圧」を名目に朝鮮半島に出兵したが、既に農民勢力と政府の間には和約が結ばれ日清両軍は出兵の口実を失った。しかしこれを朝鮮への清国の影響力を排除する好機と捉えた陸奥宗光など大日本帝国政府側は「李氏朝鮮政府の内政改革勢力からの駐兵要求」など、新たに口実を設けて自軍の駐留を続けた。清国も同様に軍の駐留を続行し、1894年日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は清国との間に下関条約を締結した。日本が朝鮮での独占的利権を得るために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより日本の権益の障害となる朝鮮半島での清国の影響力を排除することに成功した。

日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し帝政ロシアに接近したため、政争が過激化した。閔妃暗殺もこの時期である。1896年に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執う異常事態となった(露館播遷)。この事態は李氏朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあったことや朝鮮の自主独立を目的とする民間団体である独立協会からの還宮要請に応えるため、高宗は1897年2月に慶雲宮に還宮し、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から高宗は1897年10月に皇帝に即位し国号を大韓帝国と改めた。高宗は皇帝専制による近代化を志向し、光武改革とよばれる上からの改革が行われた。

1898年「光武量田事業」とよばれる土地調査・改革が行われ、日露戦争によって中止に追い込まれるまで土地登録者に地券に相当する「地契」を発行するなど土地所有権保護と国家による近代的地税賦課を可能にする土地改革が韓国全土の三分の二にあたる218郡で実施された。また政府財政確立のため税源の拡大を図り、官営の電気、鉄道、電信・電話事業や官立各種学校や模範工場の設立など殖産興業政策を行った。1899年8月には「大韓帝国国制」を制定し、皇帝による絶対主義君主支配を明確にした。しかし皇帝専制は市民的改革路線を排除するものであり、独立協会や進歩会(のちの一進会)などの改革派を排除・弾圧が行われ、近代化に向けた国論の統一が奏功しなかったことや国外からの干渉などから大韓帝国が独自に近代化を進めることは困難だった。日露戦争により帝国主義列国の相互牽制による独立維持という韓国の外交方針は崩れ、日本による韓国の保護国化が強行され、光武改革は潰えた。

ハーグ密使事件以降、日本国内では対韓強硬論が起こり、「我が国上下輿論沸然として鼎の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という状況となった。これにより朝鮮の自国領土への編入を望む日本政府と世論は合致した。

韓国統監であった伊藤博文らは対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。伊藤は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせている。伊藤暗殺時にはもはや日本政府内において日韓併合に反対する政治勢力は存在しなかった。

保護国化の進行

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を取りつつあった。当初、日本側は外交努力で衝突を避けようとしたが、帝政ロシアとの関係は朝鮮半島や満州の利権をどちらが手に入れられるかで対立した。日本とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが両国の緊張は頂点に達した。1904年には日露戦争の開戦にいたる。

大日本帝国政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、中立を宣言していた大韓帝国に軍による威圧をかけた上で1904年2月23日に日韓議定書を締結させた。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、日本による保護国化を進めていった。一方で、高宗は日本側の影響力をあくまでも大韓帝国から排除しようと試み、日露戦争中においても帝政ロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していたという説もある。

日露戦争の勝利により朝鮮半島における影響力をさらに増大させた大日本帝国政府は1905年11月、第二次日韓協約(大韓民国では乙巳保護条約と呼ぶ)を大韓帝国に締結させ、12月には韓国統監府を設置して大韓帝国の外交権を支配下に置いたが、第二次日韓協約の締結を認めない高宗は「条約締結は強制であり無効である」と訴えるため、1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約自体は当時の帝国主義国間で認められていた国際協約であったためこの訴えは第2回万国平和会議から拒絶された。この事件に対して韓国統監であった伊藤博文をはじめとした大日本帝国政府首脳は高宗を排除すべく活動し、李完用らの協力を得て、7月20日には半強制的に高宗を退位に追い込み、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。

これを不満とした元兵士などを中心として抗日目的の反乱が起きたが、兵のほとんどが旧式の装備しか持たず、兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。武力抵抗の排除を目的とする軍隊の解散でもあったが、残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。この抗日義兵闘争は韓国全土に広がり、朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』(1913年)という日本側の公式統計だけでも1907~1909年の期間で韓国人に16,700人もの死者が出る大規模なものだった。

大日本帝国統治時代

韓国統監府を辞して帰国していた伊藤は併合自体は将来的な課題として、早期併合に慎重であったが、1909年には併合容認へと転じた。また同年3月 30日には小村寿太郎外相が桂太郎首相に「適当な時期に於て韓国の併合を断行すること」を方針とする対韓大方針案を提出し、これは7月6日に閣議決定され、同日明治天皇の裁可を得た。10月26日、伊藤がハルピンにおいて義兵闘争の指導者安重根により暗殺されたが韓国併合はそれ以前に既定の方針だった。伊藤が元勲の1人だったことも相まって、日本国内の世論は併合へ大きく傾いた。

12月4日には大韓帝国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出された。この上奏文は大韓帝国内で反感を呼び、国民大演説会などが開かれるなど一進会糾弾と排日機運が高まり、在朝鮮日本人新聞記者団も一進会の行為を非難した。日本側では併合は日本政府が決定することで「寸毫モ韓国民ノ容喙ヲ許サス」という方針であり韓国側の意思を受け入れるものではなかった。「韓日合邦を要求する声明書」は大韓帝国と大日本帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、大日本帝国にとって到底受け入れられない提案であり、また大韓帝国の世論を硬化させる結果を招いたことで、統監府からは集会および演説の禁止命令が下された。

1910年6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、大勢は併合調印賛成に傾いており、8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年8月22日に日韓併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、大日本帝国は大韓帝国を併合した。

これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで大日本帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。

朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は地主の申告通りに所有権が認められた(認められない場合もあった)、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された多くの土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。李朝時代の特権商人が変化に対応できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭した。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。

大韓民国における大日本帝国統治時代の呼称

大日本帝国統治時代を韓国側が日帝強占期(韓国の公共放送KBS=韓国放送公社=ではこの呼称に最近統一しようとしている)、日帝時代または日政時代などと呼ぶ事が知られている。前者2つには、韓国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する大日本帝国の支配を単なる軍事占領とする認識による。また、日本植民地時代という呼称も用いられるが、韓国併合条約、大日本帝国による朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するという観点から、近年では忌避される傾向にある。

大韓民国における大日本帝国統治時代の評価

独立後の韓国の歴史学者・学会は、大日本帝国による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。彼らの言うところの「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。そうした雰囲気もあって、大日本帝国統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、大日本帝国による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が現れた。一方、評論家で作家の金完燮や、日本の保守層を代弁する人物として拓殖大学の教授で済州島出身である呉善花などは、大日本帝国による統治を肯定的に評価する本を執筆している。ソウル大学教授の李栄薫は、大日本帝国の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示するが韓国国内では少数派である。

近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定している。また韓国の外では、ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートが、韓国での萌芽論は「論理ではなく日本国を弾劾することが目的のもの」としており、近代化萌芽論を強く否定し、韓国の資本主義は植民地化の中で生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は大日本帝国の近代化政策を模したものであるとの研究を公表している。エッカートは大日本帝国による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などをあげ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている。

大日本帝国統治下の朝鮮を植民地と呼ぶかどうかについての論争

植民地という呼称は、新規の領土を旧来の領土に比して特殊な政治制度の下におき政治的従属状態においているものを呼ぶことが多い。現実例から抽出されたモデルに現実に用いられた呼称を適用することからはじまったが、先行モデルを中心に価値判断を排除すべく概念規定されつつある。これは先行する事実をモデルにしないかぎり、名称をつけられず、議論も不可能であるためである。

ただし、欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく「日本型」植民地支配がどのようなものであったかについては継続して論争が続いている。のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。この立場からは、日本の朝鮮支配について「植民地」という表現を用いるべきではないという主張がなされることがある。

大日本帝国政府は朝鮮に対し、法的に特別な呼称(植民地、外地など)を用いなかったが、公文書においては植民地、外地とも使用例が見られる。戦前の在野の学者や思想家の間では朝鮮が植民地であるか否かについては議論があり、憲法学者の美濃部達吉、植民政策学者の新渡戸稲造、矢内原忠雄など社会科学者は概ね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や思想家の北一輝などは植民地ではないとしていた。

現在においては、外務省条約局による「内地の法体系とは異なる外地法によって外地法令が適用された地域」という外地の定義を援用し、朝鮮において大日本帝国憲法が適用されず、日本内地とは異なる法体系で治められていた点をもって、植民地であったとする主張がある。なお、小渕内閣時に出された日韓共同宣言においては、村山内閣時の「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(村山談話)を踏襲し、過去の日本の朝鮮統治について、「植民地支配」という表記を用いている(日本の戦争謝罪発言一覧も参照)。また、国交のない北朝鮮との間で出された日朝平壌宣言においても同様に「植民地支配」表記が用いられるなど、現在の日本政府の公式見解となっている。

日本内地への影響

日本内地へ多くの朝鮮人が流入したことによって日本内地の失業率上昇や治安が悪化したため、日本政府は朝鮮人を日本内地へ向かわせないよう満洲や朝鮮半島の開発に力を入れるとともに日本内地への移住、旅行を制限するようになった。また、朝鮮半島から廉価な米が流入したため、東北地方などの生産性の低い地域では米価の低下によって農家が困窮することとなった。

さらに詳しく → 韓国併合



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(2010/04)
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