乙未事変(을미사변) - 今も残る日韓の深い溝

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2010/07/19(月)
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乙未事変(いつびじへん、을미사변)とは李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10 月8日に暗殺された事件。朝鮮語ではウルミ、俗に「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。

概要

親露に傾いていく閔妃に不満を持つ高宗の父・興宣大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒されていたなか、1895年10 月8日、何者かによって閔妃は景福宮にて殺害され、遺体も焼却された。

日本政府の対応

この事件では朝鮮が親露化によって日本の影響力が低下することを恐れた日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者48人を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放した。また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。

朝鮮政府の対応

朝鮮政府は「王妃殺害を今回計画したのは、私です」などの証言もあったため李周会(逮捕)、朴銑、尹錫禹 3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑している。さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗は、露館播遷後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の6名の処刑を勅命で命じている。閔妃暗殺の2日後(10月10日)、興宣大院君の意向により、閔妃は王后の地位を剥奪され、平民に落とされる。(興宣大院君と閔妃の権力闘争は興宣大院君#略歴と年表を参照)

事件の影響

閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたとも言われるが、具体的には大院君への怨念ともいえる確執の政治姿勢で貫かれていた。これらの政策が逆に仇となり大院君に代表される反対派勢力による暗殺を呼び込むことになった。閔妃暗殺後、日本は朝鮮の保護国化政策を進めていくようになる。

事件の首謀者

実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確ではない。

首謀に関しては、国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」によれば、当時の日本政府による計画的な策謀でないことは判明している。加えて 殺害の実行犯に関しても様々な説はあるが、統監府文章に収録されている該当年の往電第31号によると、殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。この禹範善は、純宗が放った刺客、高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺された。これに関して1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期、魯允明に12年の刑が言い渡され、判決が確定している。

なお、2005年、ロシア科学大学の教授が、偶然、Aleksey Seredin-Sabatin (Алексей Середин-Cабатин) というロシア人による事件についての報告書を発見した。Seredin-Sabatin は大韓帝国政府に仕えており、同様に契約によって大韓帝国政府に仕えていたアメリカ人将軍のWilliam McEntyre Dyeの指揮下で働いていた。 なお、この記録は韓国においては2005年5月11日付に公開されたが、それに先立ち、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている。

Seredin-Sabatinは以下のように記録している:「王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。…複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。…私は…日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた…また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。…私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。」

「殺人犯」の子孫の謝罪

2005年5月10日、暗殺に関わったとされる日本人(家入嘉吉、国友重章)の子孫が「明成皇后を考える会」の会員10人とともに事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座(「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた) して謝罪をしている姿を韓国の報道機関は伝えた。墓地を訪れていた皇后の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた王妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った。

「明成皇后を考える会」は2004年に熊本出身の元教師を20人によって結成された組織で、閔妃殺人犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明をしている会であるという。韓国の報道機関などは暗殺に関わったとされる日本人の子孫を「殺人犯」として伝えたが、上述のように誰が暗殺したのかは不明であり、なにをもって「殺人犯」として伝えたのかは不明である。

また、韓国の市民団体が櫛田神社に対して、玄洋社の藤勝顕が1895年に『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつたものなり』と奉納した肥前刀を、韓国に差し出すか、処分するかを要求しているまた、この市民団体は「明成皇后が暗殺され、その凶器が日本の神社に保管されている事実を日本社会に広く伝え、日本の戦争犯罪を糾明し、誤った歴史認識を正すべきだ」とも主張している。

さらに詳しく → 乙未事変



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