ベルリンの壁はこうして建てられた - 東ドイツ(ドイツ民主共和国)の歴史

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2010/07/10(土)
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ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、独: Deutsche Demokratische Republik (DDR), 英: German Democratic Republic (GDR), 通称東ドイツ (Ostdeutschland))は、第二次世界大戦後の1949年に、ドイツのソビエト連邦(ソ連)占領地域に建国された国家。ドイツ西部から南部にかけてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した。

概要

ドイツ民主共和国は、反ファシズムを最大公約とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) が独裁政党として指導権を有していた。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。ソ連軍が駐屯する東西冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソ連の衛星国であった。また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた。

経済では第二次世界大戦の被害と、ソ連による賠償の取り立てを乗り越え、中・東欧の社会主義諸国でも最も発展し、一般家庭への電化製品の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の香港人一般庶民程度)を実現したと言われる。そんな事もあり「社会主義の優等生」「東欧の日本」とも呼ばれていた。一方で社会主義国家らしく、人民議会議員の 3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合といった具合に女性の社会進出も進んでいた。

1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、ガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。また、1987年には死刑を廃止した。

1970年代以降は公共投資が進み、日本の企業も積極的に進出し、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった。もっとも、この間に即金で買うだけの貯金ができるということで、不満ばかりではなかったといわれる。また、経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。

歴史

第二次世界大戦を経て、ドイツは米・英・仏・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9 月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国東ドイツ)の建国が宣言された。

形式的には複数政党制が採られたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) の一党独裁体制であり、計画経済の下で1951年より第1次五カ年計画が開始された。計画実施のために中央集権化が図られ、連邦主義的な州は廃止されて14の県 (Bezirk) へと再編された。

1953 年3月、ソ連のヨシフ・スターリンが死去したことは、東ドイツ指導部を動揺させた。また、抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こっており、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)が、ソ連軍の介入によって弾圧され、6,000 人以上が逮捕された。

無謀な計画経済・農業集団化は、東ドイツ経済を麻痺させていった。東ドイツの将来に絶望した人々は、唯一境界が開かれていたベルリンを経由して西ドイツへ逃亡していった。こうして、青年層、知識人、熟練労働者などの流出が深刻化したため、政府は1961年8 月に西ベルリンとの境界を完全に封鎖、この境界にはやがてベルリンの壁と呼ばれる壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。こうして労働力の流出を強制的に防いだこともあって経済は発展し、1960年代から1970年代初頭にかけて「社会主義の優等生」と呼ばれるまでに成長、1972年には西ドイツと東西ドイツ基本条約を締結し、国交を樹立した。

しかし、1973年のオイルショックなどによって東側諸国全体の経済が停滞する中、エーリッヒ・ホーネッカー政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の東欧革命により他の中東欧の共産主義国が次々と民主化すると、オーストリアとの国境を開放したハンガリーなどを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した(汎ヨーロッパ・ピクニック)。1989年10月9日、南部の都市ライプツィヒでの反政府運動「月曜デモ」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年11月9日、ベルリンの壁の開放に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には通貨統合、そして10 月3日にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。

政治

ドイツ民主共和国は、典型的なソ連型社会主義による一党独裁型の政治体制を採っていた。国会にあたる人民議会 (Volkskammer) があり、そこから選出される国家評議会議長が国家元首であった。また内閣に相当する機関として閣僚評議会が置かれ、閣僚評議会議長が首相に当たる。ただし、「民主共和国」の名とは裏腹に、議会はおよそ民主的とは言えない選挙方法で選ばれたものであり、また国政の実権は他の社会主義国と同様支配政党であるSEDの書記長が握っていた。

政党と選挙

政党

ドイツ民主共和国では、5つの政党が存在し、5つの政党で「国民戦線 (Nationale Front)」を形成していた。しかしドイツ社会主義統一党以外の政党は同党の指導を認めた上で存在する衛星政党であり、「複数政党制」という建前を維持するための飾り物的存在であった。ヘゲモニー政党制の典型例である。

* ドイツ社会主義統一党 (SED) - 支配政党
* ドイツキリスト教民主同盟 (CDU (DDR)) - 旧西ドイツのドイツキリスト教民主同盟 (CDU) とは別政党
* ドイツ自由民主党 (LDPD) - 旧西ドイツの自由民主党 (FDP) とは別政党
* ドイツ国民民主党(国家民主党) - 現在のドイツの極右政党ドイツ国家民主党とは別政党
* ドイツ農民民主党(民主農民党)

東西ドイツ統一後、上記の政党のうちSEDは民主社会党(PDS, 現在の左翼党)と改名して存続し、キリスト教民主同盟・農民民主党は西側のキリスト教民主同盟へ合流、ドイツ自由民主党 (LDPD)・国家民主党は西側の自由民主党 (FDP) へ合流している。

選挙

人民議会の選挙は、予め決められた議席配分リストに対して賛成の場合はそのまま無記入で投票、反対の場合は「反対」の欄に印を書く、というものであった。無記名投票ではあったが、反対の時のみ書かなければいけなかったため、すぐに誰が反対したのか分かるようになっていた。選挙の投票率は常に99% に近く、そのうちの賛成率も99%以上であった。棄権率、反対率は大都市になるほど高くなった。都市では投票の相互監視が比較的薄いからである。1981年からは棄権率、反対率は東ベルリンが最高である(ベルリンは表向き4か国管理となっているために、相互の国会に直接議員を送ることができなかった。東ドイツは1981年よりその慣習を破って人民議会の直接選挙を行った)。

人民議会における議席配分は常に一定され、政党のほかに労働組合や職能団体などに配分されていた。当然社会主義統一党 (SED) が最大勢力になるように配分されている。また各団体はSEDの影響下にあった。

* 社会主義統一党 127議席
* キリスト教民主同盟 52議席
* 自由民主党 52議席
* 国家民主党 52議席
* 民主農民党 52議席
* 自由ドイツ労働総同盟 68議席
* 自由ドイツ青年団 40議席
* ドイツ民主婦人連盟 35議席
* ドイツ文化連盟 22議席
* 計 500議席

民主化後の選挙

1989年秋に大規模な民主化運動が発生し、ホーネッカー体制が崩壊すると、社会主義統一党は国家に対する支配性を放棄して社会主義統一党/民主社会党 (SPD/PDS) と改称した。そして、1990年3 月18日には東ドイツ国家史上初、かつ最後の自由選挙が実施された。この際、西ドイツからの政治家の応援演説や資金提供が容認されたため、社会主義体制下の衛星政党からの脱却に成功したドイツキリスト教民主同盟やドイツ自由民主党の保守・中道政党は西ドイツの同系統の政党から強い支援を受けた。また、1946年に社会主義統一党へと事実上強制吸収されたドイツ社会民主党も元党員も加わる形で再建され、1972年に東西ドイツ基本条約を締結して東ドイツ国民から強く信頼されていたヴィリー・ブラント元首相などが西ドイツ側の社会民主党から支援に駆けつけた。また、民主化運動の中心勢力も独自のグループを結成し、社会主義統一党/民主社会党などとともに選挙に臨んだ。

選挙の事前予想では緩やかな国家統一を主張する社会民主党が優位だったが、首相でもある西ドイツのキリスト教民主同盟党首ヘルムート・コールは精力的に東ドイツ全土を遊説し、東ドイツマルクから西ドイツマルクへの交換レートなどで東ドイツ国民に配慮した公約を行った。これが成功してキリスト教民主同盟が社会民主党を抑えて第一党となり、西ドイツと同様に自由民主党の連立参加を受け、党首のロタール・デメジエールが首相に就任した。一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ(ドイツ民主共和国人民議会1990年選挙)。これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。

外交政策

他の東ヨーロッパの社会主義国同様、ワルシャワ条約機構に属していた。軍隊である国家人民軍の人数は約9万人で、約26万人の在独ソ連軍の3分の1ほどに過ぎなかったが、「棍棒で鍛えられた」とも表現されるその錬度の高さはワルシャワ条約機構軍一と言われ、同軍の武器庫、弾薬庫の鍵は、叛乱を恐れ必ず在独ソ連軍の将校が管理したとも噂された。T-72その他の同軍の兵器はソ連仕様よりも武装や装甲が大幅にスペックダウン(モンキーモデル化)されており、実際にソ連側にとっての叛乱防止の意図があったと見られている。

「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」「東ドイツは約26万人(東欧革命より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。

1973 年、西ドイツと同時に国際連合に加盟。なお、ドイツ民主共和国はナチス・ドイツと戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストに対する責任を負う立場にないとしていた。

さらに詳しく → ドイツ民主共和国  ベルリンの壁



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