ベレンコ(Viktor Belenko)中尉亡命事件

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2010/06/29(火)
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ベレンコ中尉亡命事件(ベレンコちゅういぼうめいじけん)は、冷戦時代の1976 年9月6日、ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコが、MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機で日本の函館市に着陸し、亡命を求めた事件である。ミグ25事件とも呼ばれる。

経緯

ミグ25の本土侵入

1976 年9月6日、ソ連防空軍所属のMiG-25戦闘機数機が、ソ連極東のウラジオストク近くにあるチェグエフカ空軍基地から訓練目的で離陸。そのうちのヴィクトル・ベレンコ空軍中尉が操縦する1機が演習空域に向かう途中で突如コースを外れた。これを日本のレーダーが午後1時10分頃に捉え、領空侵犯の恐れがあるとして急遽航空自衛隊千歳基地のF-4EJがスクランブル発進した。

航空自衛隊は地上のレーダーと空中のF-4EJの双方で日本へ向かってくるMiG-25を捜索した。しかし、レーダーサイトのレーダーはMiG- 25が低空飛行に移ると探知することができず、またF-4EJのレーダーは上空から低空目標を探す能力(ルックダウン能力)が低かった。そのためMiG-25は自衛隊から発見されないまま北海道の函館空港に接近、市街上空を3度旋回したあと午後1時50分頃に滑走路に強行着陸した。

このとき着地点を誤って滑走路の中程寄りに接地したために、ドラッグシュートを使用したにもかかわらずオーバーランし、前輪をパンクさせて滑走路先の草地にあるILSローカライザーの手前で停止した。燃料の残りはほぼ限界に近いほどに減っていたという。

着陸時の一部始終は空港敷地内で工事をしていた現場監督が撮影していた。監督は撮影しながら機体に近づいたが、現れたパイロットが銃を取り出して空に向けて発砲したため危険を感じてフィルムを差し出した。のちにベレンコ中尉は、抵抗の意思がないことを示すためだったと証言している。

そして午後2時10分頃に警察が到着すると共に函館空港周辺は、北海道警察によって完全封鎖された。当時は縦割り行政の体制が現在よりも強固であり、警察によって封鎖された現場に、陸上自衛隊員は管轄権を盾に締め出された。

領空侵犯中は軍事に関わる事項であるが、空港に着陸した場合は警察の管轄に移ると言うことであろう。その後の取り調べでべレンコ中尉はアメリカへの亡命を希望し、「当初千歳空港を目指したが、千歳空港の周辺は曇っていたため断念し函館空港に着陸した」と語った。

自衛隊の非常態勢

米ソ冷戦はデタントの時代で、緊張は緩和されていたとはいえ、予断を許していたわけではない。また、ソ連軍(特殊部隊など)が「機体を取り返しに来る」や「機密保全のため破壊しに来る」との噂が広まり、函館に駐屯する北部方面隊第11師団隷下の第28普通科連隊は作戦準備にかかった。

実際に、函館駐屯地で開催予定だった駐屯地祭りの展示用として用意されていた61式戦車、35mm2連装高射機関砲 L-90が基地内に搬入され、ソ連軍来襲時には戦車を先頭に完全武装の自衛隊員200人が函館空港に突入、防衛戦闘を行う準備がされていた。

海上自衛隊は大湊地方隊を主力に3隻を日本海側、2隻を太平洋側に配置して警戒に当たり、函館基地隊の掃海艇は函館港一帯の警戒、余市防備隊の魚雷艇は函館空港付近の警備に当たった。同時に大湊航空隊のヘリコプターは常時津軽海峡上空で警戒飛行に当たり、上空にはF-4EJが24時間哨戒飛行を実施した。

この際、海自の竜飛警備所内に、陸自東北方面隊の対戦車隊が集結し、64式対戦車誘導弾と106ミリ対戦車無反動砲を用意して、ソ連艦艇が強行侵入した場合の迎撃担当として待機していた。

ソビエト連邦からは機体の即時返還要求があり、親ソ連の当時の最大野党であった日本社会党もこれに同調したが、日本(と同盟国のアメリカ)は、9 月24日に、慣例上認められているとされる機体検査のためにMiG-25を分解し、アメリカ空軍のC-5Aギャラクシー大型輸送機に搭載して百里基地(茨城県)に移送した。機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が掲げてあった。

移送の際、航空自衛隊の戦闘機が函館から百里まで護衛に当たっている。機体検査の後、11月15日に機体はソ連に返還された。ベレンコ中尉はその後、希望通りアメリカに亡命した。事件終結後、日本政府は対処に当たった陸上自衛隊に対し同事件に関する記録を破棄するよう指示したが、これに対し当時の陸上幕僚長三好秀男は自らの辞意をもって抗議した。

亡命理由

ベレンコの亡命理由については諸説挙げられている。ベレンコが元々CIAのエージェントだったとも言われるが、証拠は無い。本当の理由は「待遇の悪さと、それに伴う妻との不和による衝動的なもの」という説が有力である。

事件の影響

この事件はパイロットの亡命要求であることが幸いしたが、仮に攻撃目的の軍用機だった場合でも、同様に自衛隊の防空網を突破されてしまう危険が露呈した。このため、日本のレーダー網の脆弱性が批判され、日本の防衛能力は必要最低限にすら達していないという声が上がった。この事件を契機に日本における防衛論議の流れに変化が生じ、従来は予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの購入もなされた。

一方のソビエト側は、レーダーサイトが敵、味方機を識別するЯСС(Я - свой)暗号を変更せざるを得なかった。また当事件の調査のためチュグエフカ空軍基地を訪れた委員会は、現地の生活条件の劣悪さに驚愕し、直ちに5階建ての官舎、学校、幼稚園などを建設することが決定された。この事件は、極東地域を始めとする国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの待遇改善の契機ともなった。

また、この事件によって低高度侵入の有効性と、ルックダウン能力の低い戦闘機の問題点が浮き彫りにされてしまったため、当のMiG-25自身を時代遅れにしてしまうという皮肉な結果を招いた。MiG-25は高高度・高速侵入する敵機の迎撃が主目的で、低高度侵入する敵機への対処能力は自衛隊のF- 4EJよりさらに劣るからである。後にソ連は、大幅に改良したMiG-31戦闘機を開発する事になる。

アメリカは、これまでMiG-25を超高速戦闘機として恐れており、それを意識する形もあってかF-15を開発していた。しかし、実際にはMiG-25はそれほどの脅威と呼ぶに値しなかった。特にそれまで耐熱用のチタニウム合金製と考えられていた機体が、実はステンレス鋼板にすぎなかったこと、真空管などを多用した電子機器が当時の水準としては著しく時代遅れなことに驚愕し、対ソ連軍事戦略にも大きな影響を及ぼした。しかし「真空管を使うのは時代遅れ」との説、「MiG-25をアメリカが脅威視していた」という説には異論もある。

さらに詳しく → ベレンコ中尉亡命事件



ソ連とは何だったかソ連とは何だったか
(1994/09)
塩川 伸明

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