都市爆撃の真実

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2010/06/27(日)
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日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、第二次世界大戦に於いて日本本土に対して行われた連合国軍による空襲。特に1944年末頃から熾烈となった。その結果、日本全国の主要都市の殆どが灰燼に帰し、空襲は1945年(昭和20)8 月15日の終戦当日まで続いた。また、末期には機動部隊艦載機や硫黄島から飛来する単発機による爆撃や機銃掃射も行われた。なお、幾つかの都市では、空襲とあわせて艦砲射撃も行われた。

日本本土の初空襲は1942年4 月18日のドーリットル空襲で、航空母艦から陸上機であるB-25中型爆撃機を発進させ、空爆を成功させた。この空襲は大本営に危機感を抱かせ、ミッドウェー海戦に繋がった。その後、B-29戦略爆撃機による本格的な大規模空襲は1944年6月より北部九州に対して中国大陸の基地から行われた。同月マリアナ諸島が陥落すると、東京をはじめ日本本土の大半が爆撃圏内に入り、1944年末頃から空襲は熾烈化した。但し、B-29の航続距離限界から北海道に対する空襲は 空母艦載機及び艦砲射撃に限定された。

軍需工場が主たる目標となっていたが高高度爆撃であったために精度が低く被害は限定的で、爆撃を指揮していたヘイウッド・S・ハンセル准将は人道的な配慮から民間施設への空襲は行わなかったが効果が低かった為更迭され、1945年1月に無差別爆撃を主張するカーチス・ルメイ少将のグアム島第21爆撃集団司令官への着任以降、無差別爆撃へと移行した。

その結果、日本のほとんどの主要な都市が空襲に遭い、特に主要な都市は大規模空襲に遭った。また、釜石、室蘭、日立、清水、浜松など、製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市は艦砲射撃によっても破壊された。中でも同年3月10日の東京大空襲は一夜にして死者10万人という未曾有の被害を出した。

しかし、その中で京都は、大都市にもかかわらず大規模空襲に遭っていない(後年誤解されがちだが、まったく空襲がなかったわけでは無い。後述するように京都も何度か空襲の被害を受けている)。これは原爆投下目標の候補の一つであったためであり、投下目標都市の広島・京都・小倉・新潟には大規模空襲が禁止されていた。だが陸軍長官スティムソンが、宗教・文化の中心である京都の破壊による戦後処理への影響を考慮して京都案に反対。最終的に投下目標都市は広島・小倉・新潟・長崎となった。

また文化財保護の目的で作成されたウォーナーリストによって京都の大規模空襲が避けられたという逸話が戦後すぐに日本国内で流布されたが、このリストは文化財返還および賠償弁済のための資料であったという説も主張されている。ドレスデン爆撃やモンテ・カッシーノ寺院空襲の例もあるように、アメリカ軍は歴史文化財へ特別な考慮を払っておらず、京都が大規模空襲に遭わなかったのはアメリカ軍の歴史文化への敬意に基づくものではない。

アメリカ軍による民間人への無差別爆撃は明らかに戦時国際法違反であるが、サンフランシスコ講和条約によって日本国政府がアメリカへの補償請求権を放棄したため、無差別爆撃に関する補償は行われていない。

日本軍の防空体制

当時の防空航空部隊は、海軍航空隊と陸軍航空隊に分かれており、防空指揮や、その使用機材にも、あまり情報交換や協力関係が見られなかったために戦力を分散使用する結果となり、1944年以降の戦争末期(昭和19年以降)の日本本土防空戦で実質的な敗北を喫し、国土は焦土と化し、制海権も失った。

 戦力としては、海軍側では、大戦を通じて主戦力であった有名な零戦を、後継機種開発が後手に回った結果、使い続けなければならなかった。 零戦の高高度性能は低く(元々、敵地侵攻用の艦上戦闘機であり、高高度戦闘を視野に入れず設計されていた為)、低・中高度での対戦闘機はともかく、対B- 29戦の主要飛行高度(約1万m)まで20分位かけて上昇しても、高度を維持するのが精一杯で、戦闘機動を行うと、高度が急激に落ち、元に戻すのに四苦八苦する有様であった。これは、迎撃戦闘専用に開発され、6,000m位の高度までなら優れた上昇力を発揮した雷電や紫電、紫電改も、高空での飛行特性は五十歩百歩であったし、それぞれ生産数が少なすぎて有効な戦とはなり得なかった。

 一方、本土防空の責任をより重く負わされていた陸軍航空隊は、海軍とは異なり、旧式の隼の後継機として、雷電同様の迎撃機鍾馗、重武装の戦闘爆撃機屠龍、スマートかつ頑丈な飛燕、そしてアメリカ軍にも警戒された高性能機疾風(中国戦線やフィリピンでの戦いでは、アメリカ軍の最新戦闘機を向こうに回して、制空権を一時的に奪取した立役者)など、戦闘機の更新は適時行っていたが、やはり高空性能が今一つな機種ばかりで、対アメリカ艦載機戦はともかく、対B29戦では比較的高空性能と速度性能が高い、陸軍の戦略偵察機、百式司令部偵察機までをも武装させて借り出していたが、B29戦には大苦戦を強いられた。

それは、高高度を500Km/h近くの速度で飛行可能で、対戦闘機用にほぼ死角なく機関銃を配置し、与圧システムと防弾システムによる乗員の疲労軽減や生存性に最大限の配慮を行った設計のB29に対しては、それを高空で迎撃する為に必須な、排気ガスによるタービン過給機付エンジン(排気タービン、今で言うターボ)を、材料の欠如や当時の工業レベルの低さゆえ実用化出来なかった為で、例えば、陸軍では、屠龍の後継機であった高空用迎撃機キ102甲型が約25機のみの生産、同じく五式戦闘機の2型が試作3機のみ(昭和20年の9月より量産開始する予定ではあったらしい)、また比較的高空性能の良好な飛燕2型(10,000mで580Km/h程度の速度と編隊飛行の出来る安定性はあったらしい)は、90機程度の量産に過ぎなかった。 一方、海軍に至っては、まともに実用化の目途を付けた機種が一機もなかった。

 当時の軍用機開発方針には陸海軍共に一貫性が無く、例えば屠龍の改良発展型でキ102の前身キ96は、昭和18年中に試作機がそこそこの性能を記録しており(ツインエンジン単座の戦闘機で最高速度600Km/h、ツインエンジンで複座の屠龍は540Km/h、そしてキ102は580Km/h)、これを量産していれば、屠龍よりはましな戦闘が出来たと思われるが、性能を欲張り過ぎ、また適した用途を見つけられずに、結局量産しなかったにも関わらず、ほぼ同じ機体構成で複座の戦闘爆撃機仕様のキ 102を再度作り直させ、時間を浪費している。キ96を量産し、その後に派生型として最小限の改造でキ102を生み出していれば、双方共に戦力化出来たと悔やまれるが、同様の例は、陸海軍共に多数見受けられる。

また、海軍の雷電などは上昇力も良く、対B29戦の戦果も良く、改良していけば優れた迎撃機になったと思われるが、振動やコクピットからの視界の狭さ(欧米の戦闘機に比べれば標準的なレベル)等の細かな欠点に拘泥し(戦後のテストでは、アメリカ軍の基準では問題にならなかった)海軍のきまぐれで少数生産で終わっている。 機材に関しては、特に海軍は極端な高性能機の開発に拘泥し、次善の策を良しとせず、結果として海軍戦闘機部隊の大半は、すでに旧式化していた零戦を最後まで使用せざるをえなかった。

 戦争前半に、南太平洋戦線にて低・中高度で来襲するB17(B29の前の主力爆撃機)にすら手を焼いており、それを遥かに上回る性能のB29を、相対速度差がより少ない高空で、敵より少ない機数で迎撃していたのであるから、戦果が上がるわけもなかった。また対B17戦の教訓が防空軍全体の教訓として活かされた節はなかった様である。

与圧された旅客機に乗っていてさえ、着陸の際に圧力の変化で耳が痛くなるのに、急激な機動を行う戦闘機に与圧装置がなく、更にレーダー管制網や優れた誘導システムも当然なかったのである。当時の戦闘機パイロット達の苦労は想像を絶するのだが、戦闘機自体の劣悪な性能や周辺機器の不備、攻撃側より少ない機体数等の、劣悪な、というより絶望的な状況下で、ともかく500機以上のB29を撃墜していたのであるから、日本のパイロット達は良く戦ったというべきであろう。 その戦果の大半は、戦争前半までに創設され、迎撃訓練を積んで来た一部の部隊、陸軍の244戦隊や47戦隊、海軍の302航空隊(厚木航空隊)が挙げたものであった。

1941年の「バトル・オブ・ザ・ブリテン」で、イギリス軍はレーダー網と防空司令部での集中管制により効率よく迎撃戦を行っており、それに引き換え、何故戦争の終盤になって日本軍が同様の事が行えなかったのであろうか? まず機材の問題で、1945年頃の日本軍は性能の低いレーダー「電波警戒機甲型」しか実用化出来ていなかった為に、本来は待ち伏せ攻撃で有利な体制で戦闘が出来るはずの防空戦にもかかわらず、逆に探知が遅れてアメリカ軍に奇襲をかけられ、不利な戦闘を強いられる事が多かった。ドイツから技術供与された高性能対空管制用マイクロ波レーダーであるウルツブルグレーダーは輸入品以外になく、最後まで国産化できなかった。

また、空軍が独立していたイギリスやドイツと異なり、陸軍または海軍付属の航空部隊という位置づけでしかなかった日本の航空部隊は(戦前に空軍創設の構想は、若手将校を中心に、陸・海軍共にあったようだが、それぞれの権益に拘泥する上層部が握りつぶした模様)、統一の防空指揮系統や連携訓練などが出来ておらず、各部隊が個別に散発的に戦闘を行っていた様で、戦力を上手に発揮出来なかった様である。 一方、戦争の初期に問題であった無線機の性能の低さは、この頃には改良型が投入された為に、実用レベルには達した模様であった。

昭和20年3月の硫黄島陥落後には、アメリカ軍の最優秀戦闘機P-51ムスタングの護衛が付く様になり、B-29撃墜の戦果は大幅に低下していった。また圧倒的な戦力差により、パイロット達の戦意も低下していった。 また、航空燃料欠乏により、沖縄戦以後(6月以降)は、本土決戦に備えて出撃を控える様になり、それがアメリカ軍を増長させ、地方都市への無意味な虐殺的な爆撃が繰り返される事となった。

さらに詳しく → 日本本土空襲  Wikipedia 太平洋戦争



本土空襲を阻止せよ!―従軍記者が見た知られざるB29撃滅戦本土空襲を阻止せよ!―従軍記者が見た知られざるB29撃滅戦
(2007/09)
益井 康一

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