ヒトラーの側近たち

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2012/05/03(木)
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国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、独: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称: NSDAP)とは、ドイツ国の政党。

1919年に結成され、アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、1933年に政権を奪取したが、1945 年のドイツ敗戦にともない解党した。一般に「ナチ党」、「ナチス党」、「ナチス」などと呼ばれる。

名称

創設当初、党名は「ドイツ労働者党」であった。入党後のヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングがオーストリアのオーストリア・ナチス党(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)の命名パターンに従うことを要求した。

討議の結果、1920年 2月21日に党名は正式に Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (ナツィオナールゾツィアリスティシェ・ドイチェ・アルバイターパルタイ)となった。2月24日ミュンヘンのビアホール「ホフブロイハウス」で開かれた党大会には聴衆2000人が集まり、綱領とともに正式採択された。

正式党名の和訳は「National」の解釈の違いにより「国家社会主義ドイツ労働党」、「国民社会主義ドイツ労働者党、「民族社会主義ドイツ労働者党」などと訳される。

また、国家社会主義はフェルディナント・ラッサールを代表とする社会主義思想である state socialism の訳語、またはナチズムの訳語としても用いられる。略して呼ぶ場合は後述の「ナチス」の他、同時代には「国粋社会党」「国民社会党」の表記も使われた。

各国語では下記の通り翻訳されている。

* 英語:The National Socialist German Workers' Party
* 仏語:Le Parti national-socialiste des travailleurs allemands
* 西語:El Partido Nacionalsocialista Obrero Alemán
* 中語:民族社會主義意志工人黨、國家社會主義意志勞工黨

通称の「ナチ(独: Nazi (ナーツィ))」は Nationalsozialist の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、当時の対抗勢力がナチ党員および国家社会主義者に付けた蔑称であり、本来はいわゆる「ナチ公」に相当する言葉である。

また「ナチス(Nazis (ナーツィス))」はその2格(属格)および複数形であり、集合的にナチ党の意味でも用いる。ちなみにドイツ社会民主党員および社会主義者も同様に Sozialist を短縮して「ゾチ(Sozi (ゾーツィ))」と蔑称されていた。

したがって、映画などでナチ党員が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分たちにナチおよびナチスという呼称を用いる事は無かった。自称としては党名のイニシャルを略して NSDAP (エンエスデーアーペー) 或いは NS (エンエス) と呼んでいた。 しかしながら日本では、ナチおよびナチスの呼称は当時から使用されている。

現在は他の非ドイツ語圏でも Nazi Party や Nazi Germany のようにドイツ語の Nazi がそのまま使用されている。ドイツ語にも同様の Nazi-Deutschland などの言い方はあるが、現在は Nazi よりも中立的な Nationalsozialismus (英: National Socialism)の略号である NS (エンエス) を接頭語にして、例えば NS-Deutschland (エンエス・ドイチュラント) のように造語される。

思想

党の思想として一貫して存在しているのは「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」、「反共」、「指導者による独裁」等であり、ヒトラーの著書「わが闘争」が党の聖典視された。しかし党の実際の行動においてはこれらの思想と矛盾する事態もしばしば起こった。しかし指導者に対する忠誠と服従が優先され(指導者原理)、党員は疑問をさしはさむことは許されなかった。

歴史

黎明期

1918 年初頭に「ドイツ労働者の平和に関する自由委員会(Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」がブレーメンで結成された。錠前師で自称詩人でもあったアントン・ドレクスラーは同党の支部を1918年3 月7日にミュンヘンで結成した。

10月2日にはカール・ハラーとドレクスラーは「政治的労働者サークル」を結成し、ドイツ労働者党の結成準備を行った。1919年1 月5日、ハラーを第一議長とするドイツ労働者党(DAP)」が成立した。当時の党綱領はドレクスラーの手によるものであり、民族主義と中産階級の成立が強調されていた。

創設当初の党はわずか40人ほどの小さな政治的サークルに過ぎなかった。しかし党は右派組織全ドイツ連盟(de)やゴットフリート・フェーダー、ディートリヒ・エッカートを会員とするトゥーレ協会といった右派組織の支援を受けており、エルンスト・レームのような軍とドイツ義勇軍の関係者も党員であった。

第一議長ハラーやその背後にいた全ドイツ連盟の指導者は「フリーメーソンやユダヤ資本らの陰謀」を防ぐため、閉鎖的なサークルの状態から政治運動に間接的な影響を与えることが望ましいと考えていた。

ヒトラーの台頭

当時アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国防軍が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしていた。上官であるカール・マイヤー大尉に命ぜられて同党が1919年9月12日に開いた集会に参加し、数日後に入党した。

ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は555番であり(番号は501番から始まる。)、この番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、名簿作成以前の正式な記録が無いため明確になっていない。

ヒトラーはドレクスラーに見込まれ、たちまち党に不可欠な巧みな演説者となった。ヒトラーは軍の仕事から離れ、党務に専念するようになった。 1919年12月、ドレクスラーとヒトラーは党規則を改定することで議長(党首)であったハラーを追放し、ドレクスラーが新議長となった。

1920年1 月5日、ヒトラーはドレクスラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義などを訴える25カ条綱領を作成した。。2月には党名が変更され、6月にハーケンクロイツの党章を採用、12月には売りに出されていた週刊紙『フェルキッシャー・ベオバハター』を買い取り、党の機関紙とした。

ヒトラーは軍とのパイプを持つエルンスト・レーム大尉やエッカートらの支持もあって党内で勢力を拡大した。ヒトラーは党内一番の人気弁士であり、数千人の聴衆を集めることが出来た。党財政においてもヒトラーは欠かせない存在になっていた。

1921年7 月、ヒトラー色を薄めようとする党内の動きに対して自らを唯一絶対の指導者とする独裁権(指導者原理)を要求するに至る。党内には反発もあったが、離党をちらつかせたヒトラーに屈し、7 月29日に開かれた幹部会議で認められた。

ドレクスラーは名誉議長に棚上げされ、ヒトラーが議長となった。このころからヒトラーはエッカートやヘスといった支持者から指導者を意味する「Führer」(フューラー)と呼ばれるようになり、党内に定着した。この「Führer」はヒトラーの終生の肩書きとなった。

同年8月には党内組織「体育スポーツ局(Sportabteilung)」がレームによって設立された。同組織は10月に「突撃隊」と改称し、他党の同種団体との市街戦の主力となった。突撃隊の幹部は禁止されたドイツ義勇軍(フライコール)エアハルト海兵旅団から派遣されており、やがて一定の独立性を持った突撃隊を形成していくことになる。

またこの頃から党勢の拡大を見た実業家からの寄付も相次ぎ、党勢はさらに拡大した。1921年に3千人だった党員が1922年1月には党員6千人となった。この年の3月8日にヒトラー・ユーゲントの前身となるナチ党青年同盟が設立された。8月16日にはハーケンクロイツの党旗が公の場ではじめて用いられた。10月にはユリウス・シュトライヒャー率いるニュルンベルクのドイツ社会党が合流し、ますます党勢が拡大した。

しかし11月18 日にはプロイセン州においてナチ党が禁止され、ザクセン州、チューリンゲン州等でも禁止されたため、ナチ党の発展はバイエルン州に限られることになった。しかしドイツの不景気とインフレはナチ党を含む右派への支持をさらに高めた。

1923年には党員数3万5千人を数え、バイエルン州でも有数の政党になっていた。2月には国防軍が主導する極右派政党・義勇軍の連合「祖国的闘争同盟共働団」に参加し、有力な構成団体となった。このころから突撃隊の軍隊化が進められ始めた。

ミュンヘン一揆

1923 年1月にヴェルサイユ条約の賠償金の支払い遅延を理由にフランス軍がドイツの工業地帯であるルール地方を占領した(ルール問題)。ヴィルヘルム・クーノ首相の政府はサボタージュによる抵抗を呼びかけ、工業の停止と、占領によって生じた損害への補償のためインフレーションがさらに激化した。

ナチ党は消極的な抵抗しか行えない政府を批判するとともに、突撃隊を拡充してフランス占領軍に対抗しようとした。2月に第一次世界大戦の英雄ヘルマン・ゲーリングが突撃隊司令官となったのはその流れの一つで、3月からは本格的な軍事訓練が行われた。

5月26日には党員の一人シュラゲター(Albert Leo Schlageter)がフランス軍に捕らえられ、軍法会議にかけられた上で処刑された。このシュラゲターの死をナチスが喧伝したことにより、ドイツ国内はもとより世界でも英雄視された。これらのことが有利に働き、集団入党や献金が相次ぎ、ナチ党は更に勢力を拡大した。

しかし5月3日にはレームが参謀将校から左遷され、軍のドイツ義勇軍援助はエーリヒ・ルーデンドルフ将軍の影響下にある、ヘルマン・クリーベル大尉の指揮下に置かれることになった。このため元軍人が多い突撃隊へのヒトラーの影響力は弱まった。9月には突撃隊と共働団参加団体が連合し、「ドイツ闘争連盟」が組織された。クリーベルが議長であり、ヒトラーも指導者の一人になった。

不穏な空気は9月26日のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、反ベルリンであったバイエルン州政府と中央政府の対立の構図が生まれた。しかしバイエルン州の実権を握ったグスタフ・フォン・カール主導のベルリン進軍は、ヒトラーにとって受け入れがたいものであった。ドイツ闘争連盟は州政府を掌握し、その上でベルリンに進軍するという中央政権打倒計画を立案した。

11月8日、ビアホールビュルガーブロイケラーにおいてヒトラー自らカールらを軟禁し、州政府の建物を占拠した。ヒトラーはルーデンドルフにカールらの説得を依頼し、一時は進軍への協力を承諾させた。しかしカールらは逃亡し、ドイツ闘争連盟の鎮圧に乗りだした。11月9日、ドイツ闘争連盟は市の中心部にあるオデオン広場に向けてデモを行い、2000~3000人がこれに従ったが、同広場の入口で警察隊に銃撃されて、デモは壊滅した。

首謀者ヒトラーを初め、党員らは逮捕され、国内に残った幹部はローゼンベルクなどわずかなものになった。ナチ党と突撃隊は非合法化され、一時解散することになった。しかしその後の裁判はヒトラーの独演場と化し、かえってヒトラーと党の知名度は高まることとなった。

ヒトラーはランツベルク刑務所で城塞禁固刑を受けることになるが、彼のもとには差し入れが相次いだ。その後も反ワイマール共和国の気運の高まりは衰えることはなく、ナチス党のいくつかのダミー団体が活動を続けた。

ヒトラーが指名した運動の指導者はローゼンベルクであったが、彼の政治力は乏しく、幹部同士の争いが激化した。党内左派の中心人物であるグレゴール・シュトラッサーはヒトラー無き党内で勢力を拡大した。

1924年4月、主にドイツ北部と西部において元党員を組織した偽装政党「国家社会主義自由党」を結成した。同党は「ドイツ民族自由党」と共同した連合「国家社会主義ドイツ自由運動」を結成し、1934年5月の選挙で32議席を獲得した。シュトラッサーは共産主義に対抗するためには統制経済が必要と考えており、合法的な政権交代に路線転換し、既存勢力(産業界・軍部・貴族階級)との融和を考えたヒトラーとの間に溝を深めることになる。

ヨーゼフ・ゲッベルスはこの頃にシュトラッサーの秘書として党活動を始め、シュトラッサーの有力な腹心となった。同年12月の選挙では国家社会主義自由運動の議席は14議席に低下し、これまでナチ党と密接な関係を持っていたルーデンドルフとの関係も悪化した。

また突撃隊も禁止されたが、レームがドイツ闘争連盟の隊員を結集してフロントリング(Frontring)という組織を結成した。 1924年8月28日に同組織はフロントバン(de:Frontbann)と改称された。

党勢の拡大

1924年12月20日、ヒトラーが監獄から釈放され、投獄を免れた幹部も恩赦を受け帰国していた。1925年1 月4日にはバイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトとヒトラーの会見が行われ、2月16日には再結成が許可された。ヘルトはヒトラーの恭順姿勢に「この野獣は飼いならされた。もう鎖を解いてやっても心配ないだろう」と感じた。フロントバンの大半もナチ党に合流し、再結成後のナチ党は合法活動による政権獲得を主軸として行うこととなる。

しかし2月27日に行われた再結成党集会には四千人が集まるなど影響力は強いことが明らかとなり、州政府から一年間の演説禁止措置を受けた。4月、レームがフロントバンの指揮権を確認する手紙をヒトラーに送ったが、ヒトラーは指揮権が自分にあることを表明した。レームは失脚し、政界から引退した。

7月18日にはヒトラーの初の著書「我が闘争」が発売された。高い値段設定にもかかわらず1万部を売るなど順調な売り上げであった。すでにヒトラーとナチ党はドイツ全体に知られた存在であり、バイエルン州以外でも支持が広がりつつあった。

しかしレンテンマルクの導入によるインフレの沈静化と、ドーズ案受け入れによる好景気は極右勢力全体への支持を減少させていった。一方で北部を管轄していたシュトラッサーは労働者に対して呼びかけることで党員を増やし、勢力を拡大していった。

8月21日にはシュトラッサーらが「国民社会主義通信」という独自の新聞の発刊を行い、独自活動を始めていた。9月21日、再結成された突撃隊の下部組織として「親衛隊」が設立された。当初はヒトラーのボディーガードであったが、次第に党内警察としての立場を固めていくことになる。

1926 年、シュトラッサーは当時問題となっていた旧ドイツ帝国諸邦王室の財産没収を支持し、企業の国営化を進める、領土回復のためのソ連との連携など、左派色の強い綱領改定案を呈示した。しかし、富裕層からの政治献金が無視できない額となっており、またソ連と組む案はヒトラーにとって受け入れられる案ではなかった。

ヒトラーは2月14日にバンベルクで招集されたバンベルク会議において、25ヶ条綱領を不変の綱領とし、「指導者原理」による指導者への絶対服従を認めさせた。シュトラッサーは屈服したが、全国組織指導者に任じられ、独自の出版社運営を認める懐柔も行われた。しかしシュトラッサーの右腕であったゲッベルスがヒトラーに懐柔され、シュトラッサーの勢力は縮小した。7月3日にはヴァイマールで党大会が開かれた。この大会でヒトラー・ユーゲントの成立と、各種等団体の成立、そして突撃隊の再結成が行われた。

この年の暮れには党員が5万名に達していたとされるが、フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツが党員番号を通し番号にして脱退者数をわからなくしたために、実際の党員がどの程度であったかはわかっていない。

1927 年も好景気の影響でナチ党の活動は停滞し、資金難で党大会や集会が中止される事もあった。1928年5 月20日、ナチス党として初めての国政選挙に挑んだが、12人の当選に留まった。しかしその後のドイツ経済の悪化と、ヴェルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が合意されるとドイツ国民の反発を呼び、極右と極左、特にナチス党は支持を集めていく事になる。

1930年、ナチス党の伸長を恐れたブリューニング内閣は政治団体構成員が公の場で制服を着用することを禁じた。これは事実上の突撃隊禁止命令であったが、同年9月の選挙では107議席を獲得し、第二党に躍進した。政府側からはナチ党の取り込みを図る動きもあったが、ヒトラーの首相就任を求めるナチ党は協力しなかった。この後ナチ党は中央党、ドイツ国家人民党とともにハルツブルク戦線(en)という連合を組み、ブリューニング内閣への攻撃を強めた。

しかし躍進はしても末端の突撃隊員には恩恵が及ばず、1931年3月には東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス大尉が公然と党中央を批判し、突撃隊と親衛隊の間で衝突が起こるようになった。ヒトラーは南米からレームを召還して突撃隊の鎮撫に当たらせたが、突撃隊の独自傾向は強まるばかりであった。

1932年4月には大統領選挙が行われ、ヒトラーが大統領候補として出馬した。現大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルクが圧倒的な票を集めて勝利したものの、ヒトラーも30%以上の票を集めた。ブリューニング内閣は倒れ、大統領の側近であったシュライヒャー中将の策謀によりパーペン内閣が成立した。

7月の選挙でナチ党は全584議席中230議席を獲得し、ついに第一党の座を占めた。パーペンはナチス党と協力して議会運営を行おうとするが、首相の座にこだわるヒトラーは拒絶した。しかもヒトラーは首相の座に加え、全権委任を要求したから(のちに全権委任法として現実の物となる)、ヒンデンブルクやパーペンにとって、とうてい呑める要求ではなかった。さらにナチス党提出による内閣不信任案が可決され、進退窮まったパーペン首相は11月に再度選挙を行った。選挙の結果、ナチ党は34議席を失ったが、引き続き第一党の座を占め続けた。

ナチス党内閣成立

11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。

この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーと大統領官房長オットー・マイスナーを味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933 年1月30日にヒトラー内閣が発足した。

発足当時、入閣したナチス党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州内相に就任したゲーリングが国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。

独裁権力確立

組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。

選挙の結果、ナチス党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州国家代理官のゲーリングを始めとする地各方の党員は鉤十字の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。

この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味してした。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法に定められた基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には最後の国会選挙が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められた。

1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊参謀長レームや党内左派など党内外のヒトラー反対派を一斉に粛清(長いナイフの夜事件)し、独裁権力は確実なものとなった。ドイツ国防軍や資本家とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。

8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグなどを襲撃・放火している(水晶の夜)。

党による全国支配

1933年4月7日、州政府にナチ党幹部が国家代理官(Reichsstatthalter)として送り込み、民主主義的な地方自治を停止させた。 党の組織上の単位である大管区、管区、支部、細胞、班 はそのまま国民支配の行政単位になった。党の組織は生活の大部分に浸透し、労働組合に代わる「ドイツ労働戦線」や、下部組織の「歓喜力行団」などによって、労働・教育・余暇など私生活の隅々まで党によって支配されていた。

また青少年はヒトラー・ユーゲントへの加入が義務づけられた。これらの組織は第二次世界大戦では防空や治安維持なども担当し、大戦末期には本土防衛のために老人・子供から成る非正規軍の「国民突撃隊」の母体にもなっている。

敗戦後

1945年4月30日にヒトラーが総統地下壕で自殺した後、遺言によってマルティン・ボルマンが「党担当大臣」に任命された。しかし遺書は広く知られなかった上に、まもなくボルマンは消息を絶った。ヒトラー亡きナチ党は統制能力を失い、事実上解散状態となった。この間にヒムラーら一部の幹部は逃亡を図っている。

1945 年5月8日にドイツが連合国軍に降伏し、軍政下に置かれた9月10日には党の存在自体が法律によって禁止され、「ニュルンベルク裁判」により「犯罪的な組織」と認定された。

幹部

指導者

党の組織は階層化されており、それぞれの階層の指導者がその階層以下を支配し、党首にあたる指導者(総統)アドルフ・ヒトラーは、党のすべてにわたる独裁権を握っていた。

* 指導者(総統)-アドルフ・ヒトラー

全国指導者

全国指導部(Reichsleitung)は、職能別に党務を分担して指導者ヒトラーを補佐する17~20人の全国指導者(de:Reichsleiter)から構成された(1934年時点の党組織図では18名が挙げられている)。全国指導者には、1933年の政権奪取後のヒトラー内閣で国務大臣を兼務する者が多く含まれていた。

* ルドルフ・ヘス - 指導者代理(副総統や総統代理という訳もある。以下同じ)(Stellvertreter des Führers)。無任所大臣兼務。
* ヘルマン・ゲーリング - 指導者後継者(総統後継者)。空軍総司令官・航空大臣兼務。
* マルティン・ボルマン -党官房長(Parteikanzlei)。 無任所大臣待遇(1941-)、ヒトラーの遺言によってナチ党担当大臣に指名。
* フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ-財政全国指導者(Reichsschatzmeister der NSDAP )。
* フィリップ・ボウラー -指導者官房長(Chef der Kanzlei des Führers und Vorsitzender)。 ナチス文芸保護審査委員会会長を兼務。T4 作戦の責任者。
* ヴァルター・ブーフ(Walter Buch)-党最高裁判所長(Oberstes Parteigericht der NSDAP)。
* ヴィルヘルム・グリム(Wilhelm Grimm)-党第2最高裁判所長(Der Stellvertretende Vorsitzender des Obersten Parteigerichts / Der Vorsitzende der 2.)。
* グレゴール・シュトラッサー - 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長)(1926 - 1929)。
* ヨーゼフ・ゲッベルス - 宣伝全国指導者(Reichspropagandaleiter)(党宣伝部長)(1929 - )。国民啓蒙宣伝大臣・ベルリン大管区指導者・ 国家文化院総裁兼務。
* マックス・アマン -出版全国指導者(Reichsleiter für die Presse)兼 党機関紙指導者(Der Leiter der Parteipresse der NSDAP)。 国家出版院総裁兼務
* オットー・ディートリヒ -新聞全国指導者(Reichspressechef)。
* リヒャルト・ヴァルター・ダレ - 農政全国指導者(Dar Leiter des Amtes für Agrarpolitik)(党農業政策局長)、後に全国農民指導者(Reichsbauernführer)に改称(1933 - 1943)。食糧大臣兼務。
* ヘルベルト・バッケ -全国農民指導者(Reichsbauernführer)(1943 - 1945)。食糧大臣兼務。
* リッター・フォン・エップ -国防政策全国指導者(Leiter des Wehrpolitischen Amtes)・植民政策全国指導者( Leiter desKolonialpolitischen Amtes der NSDAP)。
* ヴィルヘルム・フリック - 国会議員団長。内務大臣兼務、次いでベーメン・メーレン保護領総督兼務。
* カール・フィーラー -書記全国指導者(Schriftführer der NSDAP)後に地方行政本部長(Leiter des Hauptamts für Kommunalpolitik)。
* グレゴール・シュトラッサー - 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局長)(1929 - 1932)。ナチス左派の幹部、1932年に離党
* ロベルト・ライ - 組織全国指導者(Reichsorganisationsleiter)(党組織局)(1932 -1945)。ドイツ労働戦線指導者・無任所大臣兼務。
* ハンス・フランク -司法全国指導者(Der Leiter des Reichsrechtsamtes)。 無任所大臣兼務、ポーランド総督兼務
* アルフレート・ローゼンベルク -対外政策全国指導者。 東方占領大臣兼務。
* エルンスト・レーム -突撃隊幕僚長(Der Stabschef der SA)(1930 -1934)。無任所大臣兼務、長いナイフの夜で粛清。
* ヴィクトール・ルッツェ - 突撃隊幕僚長(1934 - 1943)。
* ヴィルヘルム・シェップマン - 突撃隊幕僚長(1943 -1945)。
* ヨーゼフ・ベルヒトルト-親衛隊全国指導者(Reichsführer des SS)(1926-1927)。
* エアハルト・ハイデン-親衛隊全国指導者(1927-1929)。
* ハインリヒ・ヒムラー -親衛隊全国指導者(1929 - 1945)。1936年から全ドイツ警察長官、1943年より内務大臣兼務。
* カール・ハンケ -親衛隊全国指導者(1945)(ヒトラーの遺言による指名)。
* バルドゥール・フォン・シーラッハ-青少年全国指導者(Reichsjugendführer)(1930 - 1940)。
* アルトゥール・アクスマン-青少年全国指導者(1940 - 1945)。
* コンスタンティン・ヒール(Konstantin Hierl) - 国家社会主義義勇労働奉仕団団長。労働次官とde:Reichskommissar für den Arbeitsdienstを兼務。

さらに詳しく → アドルフ・ヒトラー 国家社会主義ドイツ労働者党



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