朝鮮半島出身、BC級戦犯達の記録

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2012/02/16(木)
*

B級戦犯(ビーきゅうせんぱん)およびC級戦犯(シーきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。A級と同様に、B、Cは戦争犯罪の類型(分類)である。

日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約 1000人が死刑判決を受けたとされる。なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった人がいた。

由来

ナチス・ドイツのポーランド侵攻以降、ナチス・ドイツによる残虐行為に関して各国政府やその代表などから非難の声があがっていた。この声はその後、ロンドン-セント・ジェームズ宮殿における宣言において責任者の裁判による処罰の言及に発展し、1943年10 月の連合国戦争犯罪委員会発足の契機となった。

1943年11月1日にはモスクワ宣言が発表され、その中でナチス・ドイツの戦争犯罪人の処罰は犯罪が行われた国で裁判にかけ、地域が限定されない戦争犯罪人(主要戦争犯罪人)は連合国の判断に委ねることが宣言された。

連合国戦争犯罪委員会による1944年10 月の提言では、組織的かつ大規模な残虐行為に伴う主要な戦争犯罪には国際法廷を、それ以外の戦争犯罪には軍事法廷を開くことが記されていた。この提言はイギリスによって否定されたが、後の国際軍事裁判所条例におけるA~C項目の戦争犯罪類型の原型となった。極東国際軍事裁判所条例では、この戦争犯罪類型の一部を変更して取り入れている。

* A項「平和に対する罪」((a) Crimes against Peace) に関連する犯罪は、ドイツ-ニュルンベルクの国際軍事裁判所と日本-東京の極東国際軍事裁判所で審理され、それ以外のB項「通例の戦争犯罪」・C項「人道に対する罪」を主とした犯罪は、各地の連合国軍と犯罪が行われた各国において審理された。

* B項「通例の戦争犯罪」((b) Conventional War Crimes) とは、戦時国際法における交戦法規違反行為 (Namely, violations of the laws or customs of war) を意味する。

* C項「人道に対する罪」((c) Crimes against Humanity) とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義されたが、この法概念に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。

一又正雄(国際法学者)は、東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社、1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」においてB級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵士、軍属であるという主旨の説明をしている。

なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例(英: Charter of the International Military Tribunal for the Far East)における単なる分類であり、「級」という語が使われているためしばしば誤解されるが、罪の軽重を指しているわけではない。

戦争犯罪人のリストアップ

連合国は戦時中・戦後と戦争犯罪に関する情報を収集していた。これらの情報は連合国戦争犯罪委員会に提出され、それを基に1948年3 月までに36,529名(日本人容疑者は440名)の容疑者リストを作成した。また、日本の戦犯を対象として、中華民国の重慶に設置された同委員会極東太平洋小委員会では3,158名、連合軍東南アジア司令部では1945年11月10日までに1,117名のリストが作成された。これらのリストは戦犯の捜査機関を持っている各地の連合軍や各国に配布され、戦犯の逮捕に利用された。リストに載っていない者であっても、各捜査機関の判断により逮捕・調査が行われることもあった。

日本での戦争犯罪人の逮捕

ダグラス・マッカーサー元帥は厚木に到着すると真っ先にエリオット・ソープ准将に東條以下の戦争犯罪人を逮捕するよう命じた。GHQは、1945年9 月11日に東條英機など43名をはじめとして、1948年7 月1日までに2,636名の逮捕令状を出し、2602名の容疑者を逮捕・起訴した。

イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は1946年5 月の時点で8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では1946年10 月上旬の時点で約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。

日本はジュネーヴ条約を批准していなかった(適用すると連合国側には約束はしていた)事から、参謀本部や軍令部にも条約への意識が無く、捕虜の扱いについて指示がまちまちとなった。その結果、各部隊に捕虜の人権への理解が届かずに処刑や虐待に繋がり、必然的に訴追対象者の増加にも繋がっている(九州大学生体解剖事件、油山事件など)。

戦後の海軍反省会では軍令部の高級参謀達が当時を振り返り、「捕虜であろうと敵は一人でも多く殺せ」という空気があり、それが軍全体に行き渡ったのだろう」と証言している。この中で元大佐の大井篤は中国三竈島における海軍の民間人掃討を例に、日本兵の人権、人命軽視は日中戦争の頃より醸成されて麻痺してしまっていた事も影響したと指摘している。

また、連合軍軍用機の搭乗員の捕虜に対する扱いも問題となった。田中宏巳「BC級戦犯」(ちくま新書)では、「航空機と地上部隊の戦いは『一方的に航空機が攻撃を加え地上部隊は無力感と憎悪が高まる』という具合になりやすい。この状況で軍用機が墜落して搭乗員が捕虜となった時に、ついさっきまで空中から一方的に自軍を殺戮していた者が『捕虜になった以上ジュネーヴ条約で守られる権利がある』ということなど戦場の兵士にはとうてい受け入れられない」と述べている。同書によると、石垣島で米軍機搭乗員3人が捕虜となった後殺害された件で(後に減刑されたが)死刑判決42人という事例もあり、軍用機搭乗員捕虜の殺害では全体的に死刑判決が多くなる傾向にあったという。

戦犯逮捕の過程では、敵軍の裁きを潔しとしないという理由で自らの命を絶った者もいた。主なものを挙げると、杉山元(元帥、陸軍大将、開戦時の参謀総長)は拳銃自殺、橋田邦彦(文部大臣)、近衛文麿(元首相)の2名は服毒自殺、小泉親彦(東條内閣の厚生大臣、軍医中将)、本庄繁(元関東軍司令官、陸軍大将)は割腹自殺を行っている。なお東條英機(元首相、陸軍大将)は自殺を図ったが未遂に終わっている。

朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人

BC級戦犯の中には、旧植民地出身の朝鮮人・台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。

連合国が、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待を特に重視していたこと(ポツダム宣言の第10項)、日本軍が、東南アジアの各地に設置した捕虜収容所の監視員に朝鮮人・台湾人の軍属を充てたこと、連合国各国が朝鮮人・台湾人を、「敵国に使用された臣民」と見なし、日本人として裁いたこと、上官の命令に基づく行為でも責任を免除されないとしたことが、多くの朝鮮人・台湾人の戦犯を生み出した要因となった。

泰緬鉄道建設の例に見られるように、日本政府が「ジュネーヴ条約」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われたのである(厳密には「準用」は「遵守」に比べて実行側の裁量の余地が大きいのだがそういう主張が通る状況ではなかった)。

朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。残る129人全員が、捕虜収容所の監視員として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。

尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている。朝鮮人については「日本の正規軍より凶暴だった」「体罰では、日本兵よりも彼ら(韓国人)を遥かに恐れた」「日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは日本国籍を持つ韓国人であった」などをはじめ、その凶暴性についての証言が数多く出ている。

台湾人軍属は、ボルネオ捕虜収容所に配属された。オーストラリア法廷で多くの台湾人が戦犯として裁かれており、うち7人が死刑、84人が有期禁錮となった。ちなみに、朝鮮人・台湾人の戦犯は、日本人が「内地送還」になる際、一緒に日本へ送還され、巣鴨プリズンに収容される事となった。

戦犯収容所

戦犯容疑者たちは、収容所で私的暴行を受けたと証言する者が多く、暴行で死亡した者がいたという証言もある。

裁判

法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』によれば、起訴件数は2,244件、5,700名が起訴されたとなっている。ただし、この数字には、ソビエト連邦と中華人民共和国での数字が含まれていない。

軍事法廷という形式上、裁判は一審制であったが、通常の軍律裁判とは違い弁護人が付けられた。特に中国、ソ連、オランダによる法廷では、杜撰な伝聞調査、虚偽の証言、通訳の不備、裁判執行者の報復感情などが災いし、不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされる事例も多数あったと言われる。

特に、この主張は被疑者を含め、日本側の関係者を中心に見られる。(例として、栄養失調の捕虜にごぼうを食べさせた。もしくは肩凝り、腰痛の捕虜に灸を据えた収容所関係者が捕虜虐待の罪に問われ有罪とされた、などが挙げられる。ただし、これらの事実が公判で虐待として指摘されたことは確かであるが、これだけで有罪になったのかこれ以外にも虐待の事実があったがゆえに有罪の証拠として採用されたのかは不明である)。

米軍における裁判でも山本七平は「“タナカという憲兵がやった”という証言があって、“やったのはこいつだ”と面通しで言われたらもうおしまいで、『私は憲兵でなく砲兵です』といくら言っても無駄だった」と回想している。一方、このような問題を踏まえつつ、弁護人が付けられている点、裁判内容、判決内容などを考察し、一般的な軍律裁判と比較して、正確な裁判が行われていたのではないかとする研究も発表されている。

処罰

A級戦犯約200名が、巣鴨拘置所に逮捕監禁されたのと同時にBC級戦犯約5,600人が各地で逮捕投獄された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1,000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。

国内で戦後逮捕された者は家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が戦犯で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多い。死刑判決を受けた戦犯の多くは遺書・遺髪等を遺すことが許されず、遺骨も秘密裏に焼却・埋葬された。

戦犯達は隠し持った鉛筆あるいは自分の血で紙切れやトイレットペーパーに密かに遺書を書き、教誨師などに託して遺族に届けてもらったが、それも一部の者だけであった。1952年、サンフランシスコ講和条約発効後、戦犯死没者の遺書は巣鴨プリズンの巣鴨遺書編纂会によって取りまとめられ『世紀の遺書』として1953年に出版された。

また捕虜の処刑など、軍幹部に責任が問われそうな事案は昭和天皇への訴追に繋がるため、第二復員省が現地司令官に責任をとどめる弁護方針を立て、法務官などの証人を予め隠すなど秘密裏の工作を行った。そのために上層部の命令を遂行しただけにも関わらず、責任を問われて処刑された佐官の被告もいた。

「再審」

軍事法廷は一審制で、被告人に控訴(上告)の権利はなかった。ただし、たとえば米軍による裁判では、死刑判決が出た場合は、必ず連合国軍最高司令官(マッカーサー)の書類審査を受けることになっていた。他国でも、イギリスなどでは同様の書類審査が行われた。このように、死刑判決の後、書類審査で減刑され死刑を免れたケースも多い。これらを、便宜上再審による減刑とも呼ぶ。裁判自体をやり直したケースはほとんど無く、加藤哲太郎が死刑判決を破棄され改めて終身刑に、さらに禁固30年に減刑されたのがある程度である。

その後

戦犯として死刑に処されて刑死又は獄死した者は公式には法務死亡者と呼ばれ、靖国神社では「昭和殉難者」と呼ばれる。昭和34年、処刑されたBC級戦犯は靖国神社に合祀された。

米軍管轄下のスガモプリズン

1947年2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯、60歳以上の高齢者、病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備、運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に一回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で体力の落ちた戦犯たちには重労働で「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。

この重労働が2年続き、完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞、雑誌、本などの閲覧、上野図書館からの借り出しも許可された。ラジオも定期聴取出来、映画も週に一回鑑賞出来た。

すがも新聞

1948 年6月5日に創刊された獄中紙。巣鴨プリズンの労務担当ビンセント中尉が、新聞の発行を提案し、各階で一人選ばれ、15人が担当する事になった。当時スガモには英語を初めとする外国語の堪能な人物が多かった為、随時翻訳された。編集方針は、「主義主張は特に無いが、民主主義を根本とし、左右いずれにも偏せず」とあり、占領政策批判、死刑囚、A級戦犯には抵触しないという条件だった。1952年3月29日まで、全193号が発刊され、その紙面は、翻訳班の手で英訳したうえで、発行前に検閲を受け、GHQやアメリカの国務省にも送付された。

発行日は、原則として土曜日だった。ここで、秋季運動会にて韓国旗などを揚げた事をクローズアップするなどして、朝鮮戦争で心を痛める朝鮮人や台湾人戦犯の葛藤を分かち合えた場とも言える。巣鴨プリズンが日本へ移管された後には、『すがも』が1952年11 月1日に活版で創刊されたが、10号で休刊となった。

さらに詳しく → BC級戦犯



BC級戦犯裁判 (岩波新書)BC級戦犯裁判 (岩波新書)
(2005/06)
林 博史

商品詳細を見る
関連記事

タグ : 太平洋戦争 大東亜戦争 BC級戦犯 スガモプリズン 戦犯

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/1451-e1f2a7fa
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。