台湾沖航空戦 - 誤報が生んだ悲劇

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2010/06/12(土)
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台湾沖航空戦(たいわんおきこうくうせん、1944年10月12日 - 10月16日)は、太平洋戦争大東亜戦争)における戦闘のひとつ。レイテ島の戦いに先立って台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を、日本軍の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍の損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認したまま大本営発表を行い、続いて生起したレイテ沖海戦に重大な影響を与えた。

背景

1944年6月、日本海軍は、マリアナ沖海戦に敗北して空母機動部隊の主力を喪失したため、今後日本近海に迫るであろうアメリカ軍に対する防衛作戦で使用する航空兵力の主力を基地航空部隊とした。日本海軍は航空戦力の中核として各部隊から優秀な搭乗員を抽出し、特別編成の「T攻撃部隊」を編成した。Tとは台風を意味し、敵が航空機を運用できず上空が無防備となる夜間や悪天候の時を狙って索敵機が高空より照明弾を投下し、これに照らし出された敵艦隊に雷撃機が殺到、殲滅すべく訓練を積んだ精鋭部隊であった。

アメリカ軍はマリアナ諸島の占領に成功し、次の攻略目標をフィリピン奪還に定め、その進攻計画として最終的にキングII作戦を実行した。アメリカ軍の最初の上陸予定地点はレイテ島であったが、同作戦は幾つかの段階に分かれ、上陸作戦に先立って周辺空域の制空権・制海権を確保するため、アメリカ海軍空母機動部隊は沖縄・台湾・フィリピン北部にかけて点在していた日本軍の航空基地を空爆した。10月5日に第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼーが太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツから受けた命令は「台湾の軍事施設と港湾施設へ恒久的損傷を与えよ」というものであった(カール・ソルバーグ『決断と異議』P94)。

参加兵力

日本軍

* 第一航空艦隊(司令長官:寺岡謹平中将)
* 第二航空艦隊(福留繁中将)

日本海軍の部隊は制度上「艦隊」と称するが、このときの両部隊は陸上基地の航空機部隊である。

* 第一機動艦隊(小沢治三郎中将)

艦載機のみ。陸上基地より作戦。

* 第五艦隊(志摩清英中将)

誤報戦果により残敵掃蕩の任を帯びて日本本土より出撃したが、空振りに終わる(下記)。

アメリカ軍

* 第3艦隊(司令長官:ウィリアム・ハルゼー中将)
    o 第38任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将) - 空母17隻他総数95隻。航空機約1,000機
        + 正規空母:エセックス、ホーネット、フランクリン、レキシントン、ワスプ(以上エセックス級)
        + 正規空母:エンタープライズ
        + 軽空母:インディペンディンス(インディペンデンス級)他

戦闘経過

10月10日・11日

1944年10月10日、アメリカ軍第38任務部隊が沖縄本島並びに周辺の島々の日本軍拠点に対して航空攻撃を行った。このときの空襲は沖縄本島では十・十空襲として記録されている。翌10月11日、アメリカ艦隊は南下してフィリピン諸島を攻撃した。

10月12日

10月12日、上空に低い雲が垂れ込める中、第3艦隊は台湾に延べ1,378機を投入して大空襲を行った。同日、日本軍はT攻撃部隊を投入し、アメリカ艦隊への攻撃を開始する。海軍爆撃機「銀河」や艦上攻撃機「天山」、陸軍爆撃機「飛龍」などからなる航空機90機余りが出撃したが、照明弾による照明が雲のためまったく不十分であり、攻撃に手間取った。そこへアメリカ軍の対空射撃を受け54機が未帰還となった。一方、第3艦隊の搭乗員は翌日の攻撃の事もあり、十分な睡眠が取れなかったと言う。

10月13日

第3艦隊は延べ947機を攻撃の為出撃させた。なお、太平洋艦隊司令部にあげられたウルトラ情報を回送されたことで、第3艦隊は豊田副武連合艦隊司令長官が台湾におり、反撃を指示して兵力の集結を図っていることを察知していた。このため新竹にも攻撃が加えられた。ただし、第38任務部隊指令マーク・ミッチャーは「数が多いので全ての飛行場を破壊するのは不可能かもしれない」と述べたと言う。

10月14日

10月14日は、第3艦隊は転送されたウルトラ情報により日本軍機が集結しつつあることを知った。また、前日被害を受けた巡洋艦キャンベラの待避を掩護すると決めたため、台湾に3群、北部ルソンに1群をふり向けて早朝より攻撃を行ったが、前日より更に早く空襲を切り上げたため、出撃機は146機に減少し、喪失機の増加から日本軍の抵抗が強化されつつあると判断した。日本側は敵艦隊は前日までの攻撃によって防御力を喪失したと判断して380機による航空総攻撃を敢行し、昼間にも攻撃を行った。この攻撃は昼間に行われたため、敵艦隊の上空を守る艦載機による激烈な迎撃と対空射撃をうけ、240機が未帰還となった(柳田が防衛庁戦史部の調査結果として引用した帰還数は 244機)。この日を以って第3艦隊は台湾への攻撃を打ち切った。

作戦を予定通り終えた第3艦隊は、17日頃にはレイテ島近海に集結しつつあった第7艦隊のレイテ島上陸を支援するために、14日夜にはフィリピン東方沖に南下をはじめた。ここで艦隊は2つのグループに分かれ、第4群は15日よりマニラ周辺の空襲を開始し、第2群と第3群は燃料補給の為に給油海域に後退しつつあった。第1群は台湾東方沖に踏みとどまった。アメリカ軍は戦果を赫赫と伝える日本の放送を傍受し、第3艦隊はニミッツが中継した通信傍受情報を受け取り、虚報を信じ込んでいる事を把握していた。そのため、被害を受け、味方の魚雷で処分されてもおかしくなかった2隻の巡洋艦の曳航を命じ、これを囮として、追撃をかけてくるであろう日本軍に更なる打撃を与える準備をしていた。実際、志摩清英中将率いる第五艦隊が遭難中の日本海軍操縦士の救助及び残敵掃蕩のために派遣されることが決まっていた。しかしこの掃蕩方針も、14日にはアメリカ側に漏れていた。

10月15日以降

日本軍航空隊は16日まで反復して昼夜問わず攻撃を行ったが被害は大きくなるばかりだった。しかし、航空隊からの電文は「空母を撃沈」「戦艦を撃破」といった華々しい大戦果を報告するものばかりだった。この間、大本営では前線部隊からの過大な戦果報告を信じて疑わず、そのまま集計して発表したため、大戦果を大本営発表する結果となった。10月19日、日本軍は「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。アメリカでは、投資家の一部が大本営発表の内容を信じたために、一時株価が大暴落するという事態も発生した。

実際の第3艦隊の物理的損害は、下記のように僅少なものに過ぎなかった。ただし、4日連続で攻撃を継続し、更にフィリピン空襲や防空戦闘も継続していたため、艦隊の将兵には疲労が蓄積しつつあり、第2群は群司令官がハルゼーに具申した窮状を認められ、空母バンカー・ヒルが後退した。これにより同群は同艦を欠いた状態でレイテ沖海戦に臨んだ。一方、第1 群のワスプや第3群のレキシントンのように具申したものの後退が認められなかった例もあった。ハルゼーの脳裏には士気に及ぼす影響があった。

16日、ハルゼーはニミッツに宛てて「ラジオ東京が撃沈と報じた第3艦隊の全艦艇は、いまや海底から蘇って、目下、敵方へ向けて退去中」という電文を発信した。カール・ソルバーグによればこれはアメリカ側では有名な報告だと言う。

損害

日本軍

* 航空機 312機

アメリカ軍

* 航空機89機、搭乗員約100名
* 大破:キャンベラ(重巡洋艦)、ヒューストン(軽巡洋艦)
* 小破:ハンコック(正規空母)

大本営発表の推移

昭和19年10月12日17時20分
「本10月12日7時頃より優勢なる敵機台湾に来襲、15時半頃彼我交戦中なり。我部隊の収めたる戦果中13時までに判明せる撃墜敵機約100機なり」

昭和19年10月13日11時30分
「一、我が航空部隊は10月12日夜台湾東方海面に於て敵機動部隊を捕捉し夜半に亙り反覆之を攻撃せり。我方の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの左の如し」

* 撃沈 航空母艦1隻 艦種不詳1隻
* 撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻

「二、我方若干の未帰還機あり」

昭和19年10月14日17時
「我航空部隊は爾後引続き台湾東方海面の敵機動部隊を猛攻中にして現在迄に判明せる戦果(すでに発表せるものを含む)左の如し」

* 轟撃沈 航空母艦3隻 艦種不詳3隻 駆逐艦1隻
* 撃破 航空母艦1隻 艦種不詳1隻

昭和19年10月15日15時
「台湾東方海面の敵機動部隊は昨14日来東方に向け敗走中にして、我が部隊は此の敵に対し反覆猛攻を加へ戦果拡充中なり。現在までに判明せる戦果(既発表のものを含む)左の如し」

* 轟撃沈 航空母艦7隻 駆逐艦1隻(註)既発表の艦種不詳3隻は航空母艦3隻なりしこと判明せり
* 撃破 航空母艦1隻 戦艦1隻 巡洋艦1隻 艦種不詳11隻

昭和19年10月16日15時
「我部隊は潰走中の敵機動部隊を引続き追撃中にして現在迄に判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し」

* 轟撃沈 航空母艦10隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 駆逐艦1隻
* 撃破 航空母艦3隻 戦艦1隻 巡洋艦4隻 艦種不詳11隻

昭和19年10月17日16時
「我航空部隊は明16日台湾東方海面に於て新たに来援せる敵機動部隊を追撃し、航空母艦、戦艦各1隻以上を撃破せり」

昭和19年10月19日18時
「我部隊は10月12日以降連日連夜台湾及「ルソン」東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり」
「(一)我方の収めたる戦果綜合次の如し」

* 轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻
* 撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻

「(二)我方の損害 飛行機未帰還312機」
「(註)本戦闘を台湾沖航空戦と呼稱す」

昭和19年10月21日19時
「大元帥陛下には本日大本営両幕僚長を召させられ南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対し左の勅語を賜りたり」
「勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ」

日本軍の敗因

戦後、この戦いを取り上げた研究者などにより、敗因分析が進められた。最も触れられる点が多いのはT部隊による誤報の訂正がなされず、最終的に日本中がその戦果を事実であると信じ込んでしまった事である。そして、そのような結果を招いた過程について各人が評価を行っており、誤報の原因の重み付けなど細部で異なりを見せる部分もある。柳田邦男は、著書にて公刊戦史(戦史叢書)が多くの資料を提供していると述べ、その他に航空隊の戦闘詳報を挙げ、下記の3つに区分して分析している。

1. 目撃の問題
2. 申告と記載の問題
3. 司令部の判断の問題

また、概要として言われるのは、もともと、航空戦の戦果認定は過大になる傾向があったことである。しかし、この戦いの日本軍の誇大戦果は取り分け大きなものであった。参加した日本軍の前線部隊では、夜間雷撃と言う戦果確認が困難な手法を用いて攻撃を行った。そのため、味方機が撃墜された際の火柱を敵艦のものと誤認したり、炎上した敵艦を別々の機が重複して数えたりしたと推定されている(生還者の証言もあるが、多くが戦死している為推定によらざるを得ない面がある)。さらには緊迫した状況下で兵は「撃沈できたかわからない」とは言えず、上官は「撃沈したとは限らない」とは言えない精神的重圧下にあった。華々しい大戦果の報告はこのような環境で生じたものだったとされる。

カール・ソルバーグは米軍側から見た印象として12日夜の一式陸上攻撃機による攻撃を挙げ、組織的な空襲と言うよりは調整の取れない散発的なものであるというレーダー員の感想を示している。

影響

出撃した第五艦隊がほぼ無傷のアメリカ艦隊の存在を察知して中央でもはじめて、大戦果の発表内容に疑問が持たれた。そして再調査の結果、戦果はどう甘く見ても空母4隻撃破、撃沈なし程度という結論に到達した。しかし、日本海軍首脳陣は当初の大戦果の報を捨て去ることができず、10月17日にフィリピン攻略に襲来したアメリカ艦隊を「台風から避難中の残存艦隊」であると希望的に観測し、第一遊撃艦隊及び機動部隊に捷号作戦を発動した。これにより発生したレイテ沖海戦で、日本海軍は武蔵を含む戦艦3 隻、瑞鶴を含む空母4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、航空機180機を喪失した。

戦果誤認の事実を海軍から知らされなかった陸軍は、ルソン島での迎撃方針をレイテ島での決戦に変更し、第1師団、第26師団をはじめとする決戦兵力をレイテ島へ輸送した。しかし、第1師団を除く大半が輸送途中に空襲を受け、重装備や軍需品を海上で喪失、懸命に積み上げてきた決戦準備は水の泡となった。さらに、ルソン島で兵力が引き抜かれた穴を補うため、台湾から第10師団をルソン島へ投入、玉突きで沖縄から第9師団を台湾へ移動させた。こうして結果的に沖縄戦での戦力不足の原因ともなった。

大本営情報参謀であった堀栄三の回想によれば、台湾沖航空戦中にたまたま鹿児島に滞在していたところ、鹿屋で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行い内容に疑問を持ち、「当該戦果は重巡数隻程度と推測」と戦闘中に既に大本営情報課に連絡し、その後情報課から作戦課へ報告がされたが、省みられることがなかったという記録がある。この戦果が虚報であることはフィリピンの山下奉文大将に出張時に報告され、現場と、虚報を前提にして作戦立案した大本営との方針対立を招く一因となった。

なお、この海戦の報道以降「第3艦隊」とか「第5艦隊」、「第58任務部隊」などという記述が見受けられるようになったが、第3艦隊と第5艦隊が単にトップと幕僚と一部艦船の差異だけで実質同一艦隊であるということに、日本海軍情報部は気付いており、1944年10月11日の電報で各艦隊司令長官宛に通知している。しかし、当時の海軍軍人を含む大部分の日本人は、第3艦隊と第5艦隊を別と認識していたようである。海戦の翌年、第58任務部隊(第38任務部隊)が硫黄島攻略戦援護で関東方面を空襲した際の報道にも、「台湾沖航空戦で第3艦隊が潰滅した後、急遽残存艦船を以て第5艦隊を編成し・・・」という新聞記事もある。

この戦闘結果が最も影響を与えたものとしては、日本軍の特攻戦術採用の決定打になってしまったことである。既にこの海戦が始まる前から特攻戦術の研究が日本軍の中では進んでおり特攻兵器の開発や部隊配備も進みつつはあったが、未だに投入時期は明確ではなかった。この戦いにおいて在フィリピンの第一航空艦隊(一航艦)は戦力約150機のうち約7割にあたる110機以上を失っており、連合軍艦隊との決戦のためフィリピンに突入してくる連合艦隊の上空直掩という任務を与えられていた一航艦は、この戦闘の結果その任務遂行能力を失ってしまった。10月 4日に一航艦長官の辞令が発せられフィリピンに向かっていた大西瀧治郎中将は、この戦闘の為台湾で足止めを受けており着任したのは戦闘終了直後の17日であった。そして着任した大西中将はこの戦闘結果と自軍の残存戦力を見て直後に特攻隊の編成を命じ、10月21日神風特別攻撃隊が初出撃することになるのである。

戦後

柳田はアメリカの戦史研究家サミュエル・モリソン(en:Samuel Eliot Morison)は、『モリソン戦史』(History of United States Naval Operations in World War II)から、日本軍の空襲を最も激しい規模であると評価しつつ、「わが空母部隊の防御力が、、自らを護るのに十二分であることを、六月に続いて再度立証した」という一文を紹介している(『零戦燃ゆ』5巻P223)。

作戦終了後、海軍軍令部のトップが集まり作戦の結果を精査する会議が行われた。4人がその場に参加しており、その内の1人が約50年後にNHKが製作したテレビ番組『幻の大戦果 大本営発表の真相』のインタビューに答えている。各質問に明瞭に答えていたが、この会議で話し合われた内容について問われると、「覚えていない。そういうこともある」と非常に苦悶に満ちた表情を見せて答えていた。

さらに詳しく → 台湾沖航空戦



日本陸軍将官総覧日本陸軍将官総覧
(2010/04/23)
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