ケネディ大統領暗殺事件

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2010/05/16(日)
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ケネディ大統領暗殺事件ケネディだいとうりょうあんさつじけん)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが1963年11月22日(金曜日)現地時間(中部標準時)12:30(18:30 UTC)にテキサス州ダラスで暗殺された事件である。

事件概要

テキサス遊説の背景

ケネディ大統領は11月22日のダラス遊説を三つの理由から決定した。

* 1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
* 再選へ向けての選挙活動の開始。
* ケネディ-ジョンソンのテキサス州での辛勝(ダラスでは共和党に敗北した)から、政治的に対立していたテキサスの民主党有力メンバーとの関係回復のため。

ダラス郊外の「ダラス・トレードセンター」でスピーチを行うために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過することが計画された。

防弾カバー使用拒否

ケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻らがラブフィールド空港から乗車した車は、1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンであった。当初、所轄のダラス市警とシークレット・サービスは、ケネディ批判者などによる銃撃に対する安全面の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。

実際に11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上には、ケネディ批判者達による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されていたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近により、この主張は退けられた。このケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、その後のケネディ大統領の命運を大きく左右することとなった。

パレード

ラブフィールド空港からのパレードにおけるケネディ大統領の同乗者は妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリー、その妻ネリー、ホワイトハウスのシークレット・サービス第三助手ロイ・ケラーマン、シークレット・サービスでドライバーのビル・グリアーであった。

リンカーン・コンチネンタルを中心にしたパレードの車列は12:00少し前にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を時速10マイル(時速16キロ)前後のスピードを保ったまま「ダラス・トレードセンター」に向かってゆっくりと進んだ。ダラスの至る所、特にパレードルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために二度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に一人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。

12:30にケネディのリムジンはテキサス教科書倉庫の正面にゆっくり接近した。次にリムジンはゆっくりと120度方向を変え、教科書倉庫の直接前からわずか20メートル離れた位置にあった。

狙撃

リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫を通過した時、およそ6~9秒の間にケネディは狙撃された。暗殺の間リムジンの時速は9マイルから13マイルであった。ウォーレン委員会はその後、三発の銃弾の内一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通しコナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも二発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認める。

第一射の後群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。コナリー知事が負傷後「ノー、ノー、ノー、彼らは私たち全員を殺す」と叫び、それによってドライバーのビル・グリアーは状況を知った。狙撃の最中にグリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認し、再び前方を見た。彼は再び後方を振り向き(この時点でリムジンのブレーキランプが点灯している様が撮影されている)頭部に致命傷を負ったケネディを実際に目の前で目撃したただ1人の人物であった。

ケネディが頭部を銃撃されたとき、彼はわずかに前進し25~50mm倒れた。次に起こった事態は暗殺調査が継続されることになった一つの原因である。彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになった。その後彼は後部座席のクッションに垂直にぶつかり、死んだように崩れ落ち、彼の胴体はすぐに妻のいた後方左側に移動した。ケネディが致命傷を負った後、リムジンは速度を上げディーリー・プラザを出てパークランド・メモリアル病院へ向かった。

負傷者

大統領のリムジンに同乗していたジョン・ボウデン・コナリー知事は重傷を負ったが生き残った。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。「魔法の銃弾」参照)。医師はコナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったとその後語った。ジェームズ・ターグ(James Tague/暗殺を目撃した観衆の一人)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。

記録された暗殺

パレード車列が通過する地点は重要なものと考えられなかったため、ラジオ及びテレビは暗殺現場を生で中継しなかった。KBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方に位置したメディアを除いて、ほとんどの報道機関は「ダラス・トレードセンター」でケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディーリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの8mmフィルムに26.6秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。486コマのこのフィルムが多くの研究に用いられたのは、暗殺の直接の資料になるからである。

ザプルーダー・フィルムはビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)などで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、後方に動いている。その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、この映像はオズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。その際、飛沫は前方に飛び散っている。直後に大統領夫人が動揺した様子で後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、後方に吹き飛んだ大統領の頭部破片を拾うために這い出たことを後に裁判で証言している。実際、彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。ザプルーダー・フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある。

下院暗殺調査委員会(1976年ー78年)によると、暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーン(H・B・McLain)の無線は「送信」状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダー(プラスチックベルト)に記録されたとされる。下院暗殺調査委員会は、この口述録音機用録音テープの証拠の研究から、銃声は4発であるとして、狙撃者はオズワルド以外にもう一人いた可能性が高いと結論した。このテープはアメリカ国立公文書記録管理局に保管されているが、証拠能力には議論がある。下院暗殺調査委員会は音声記録の証拠認定を後に取り消している。

その他の目撃者

暗殺を現場で目撃し、記録した者は、ザプルーダー1人ではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている。写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP 通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。大統領が撃たれた場所の前方の丘の上(グラシー・ノール grassy knoll)に関する複数の一般人の証言がある。

メアリー・モーマン(Mary Moorman ジーン・ヒル(Jean Hill)の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている。)は、グラシー・ノールと頭部に致命傷を受けた直後(約0.17秒後)の大統領をポラロイド写真機(Polaroid Highlander Model 80A)で撮影した 。その際、暗殺犯とその発砲の瞬間(バッジマンと呼ばれる)が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック(Gary Mack)は「モーマン写真」を拡大すると「バッジを付けた人物と煙かマズルフラッシュ(発射炎)のような像」が確認できることを発見した。この説は 1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」でも紹介された。この像が本当に人間であるかどうかには議論がある。ゴードン・アーノルド(Gordon Arnold)の証言やロスコー・ホワイト(Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官)と結びつける主張もある。

オズワルドの逮捕と射殺

リー・ハーヴェイ・オズワルドは、警官J・D・ティピットを殺害した容疑で、ケネディ暗殺の80分後に現場近くの劇場で逮捕され、その夜遅くケネディ暗殺容疑で再逮捕された。暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。なお、この時の模様はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万人のアメリカ人が生中継でこの瞬間を見ることになった。

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会はおろかマスコミでさえその不可解さを取り上げることはなかった。しかも、この事件とも何の関係もない、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入り込めたのかという理由について、ウォーレン委員会はダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、その理由については最終的に満足な説明は何一つ為されなかった。

また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を随時追いかけていたことが複数の人物から証言された。なお、ルビーはこの事件について多くを語らないまま4年後にがんにより獄中で死亡した。

ケネディの死亡宣告

ケネディを担当したパークランド病院第一外傷室の係員は、ケネディが「瀕死」状態だったと語った。これは病院到着時既に生存の可能性がなかったことを意味する。午後1:00に心拍が停止し、立ち会った司祭が病者の塗油(終油の秘跡)を与えた後に大統領の死亡が宣告された。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。ケネディの病者の塗油を行った司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたとニューヨーク・タイムズに語った。司祭はひたいに油を塗るために顔にかけられたカバーを開けなければならなかった。ケネディの死亡は午後1:38に公式発表された。コナリー知事は緊急外科に運び込まれ、その日の内に二度の手術が行われた。

午後2:00数分過ぎ、10~15分の武装したシークレット・サービスとのいざこざの後、ケネディの遺体はパークランド病院からエアフォース・ワンに搬送された。遺体はテキサス州法下のダラス検死官による検死(殺人は州犯罪で、テキサス州法管轄下で生じた)が行われる前に病院から搬出された。副大統領リンドン・B・ジョンソンはケネディの2台後ろの自動車に乗っていたが、大統領の死に際しアメリカ合衆国大統領に昇格することとなり、ジョンソンはラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンの機内で離陸前に就任宣誓を行った。

ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワンがワシントンD.C.郊外に着陸した後、ケネディの遺体は検死のためにベテスダ海軍病院に搬送された。検死は3人の軍医によって行なわれ、30人以上の軍人が目撃した。2人のFBI捜査官が、ケネディは右側頭部に大きな傷を受け、別の傷はスーツのエリの部分から5.5インチ下、背骨の右部分にあり、三番目の傷は彼の喉仏の下の部分にあったことを明らかにした。数枚の写真及びレントゲン写真が検死のために撮影された(それらの数枚は公式記録から消えた)。

暗殺への反応

銃撃後ケネディの死が公表されるまでの間、大きな混乱が巻き起こった。冷戦下の時代でもあり銃撃が、アメリカ合衆国に対する大規模な攻撃の一部なのか、また、副大統領ジョンソンは無事なのかはっきりしなかった。ワシントンD.C. では、午後1:43 EST(ダラス時間12:43)に電話網が59分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。

ケネディ暗殺のニュースは世界中に衝撃を与えた(ヨーロッパにも波及した。小説『オデッサ・ファイル』の冒頭でも描写されている)。ニューヨークを始めとして世界中で多くの男女が公然と泣き、多くの人々がテレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を下校させた。また「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。 暗殺直後、ソ連が「我々が手を下したのではない」と国際表明を行っていることからみても、その衝撃は大きなものであった。日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間のテレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた。

ベテスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体は埋葬の準備がなされ、ホワイトハウスに移送され東の部屋に24時間安置された。翌日ケネディの国旗に覆われたマホガニーの棺は国会議事堂まで運ばれた。昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。ケネディの弔問をするため、10時間もの間、凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。

ケネディの追悼式は直ちに組織され世界的に行われた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国的に喪に服す日とすることを宣言した。葬儀にはソ連を含む92か国の220人の高官が参加した。追悼式の後に、棺は埋葬のためにケーソンに載せられアーリントン国立墓地に運ばれた。ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時~8時(JST)に放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5%の視聴率を記録した。

暗殺の背景と陰謀説

暗殺者と暗殺の背景については多くの説があり、いまだに結論が得られていない。暗殺者については「リー・ハーヴェイ・オズワルド単独犯行説」、「リー・ハーヴェイ・オズワルドを含む複数犯行説」、また「オズワルドを替え玉とする説」などがある。証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるとする説もある。例えば、暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺された。この射殺事件やジャック・ルビーの死亡とは別に、ケネディ暗殺事件の多くの目撃者、関係者が変死しているとする説がある。

これらの不可解な状況が相次いだことにより、「マフィア壊滅作戦を嫌ったサム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説」、「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」、「ニキータ・フルシチョフの命を受けたKGB主犯説」、「暗殺されそうになったことに激怒したフィデル・カストロ主犯説」、「ピッグス湾事件の失敗を恨む亡命キューバ人主犯説」、「解任されたことを根に持った元CIA長官のアレン・ダレス主犯説」、「FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァー主犯説」、さらには「大統領の座を狙ったジョンソン主犯説」から「大統領選挙で敗れたニクソン主犯説」など、今日までに多くの仮説、陰謀説が提示されている。全体的にはCIA、FBIを実行部隊にした政府内部が中心になって進め、マフィアが実行した犯行であるとする説が多い。

「マフィア主犯説」は、かつてジアンカーナらがケネディ本人や父のジョセフ・ケネディ・シニアによる依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人であるフランク・シナトラらとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである。

なお実際に、ケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアのカルロス・マルセロらは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。

「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南べトナムからのアメリカ軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力が、大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。また、南ベトナムから軍事顧問団の完全撤収した場合の「戦争特需」激減を恐れた軍産複合体と、ケネディの下で働くことが我慢できなかったとされるジョンソン、大統領選挙で敗れたニクソン、FBI、CIAが関係して実行したという「批判勢力連帯説」もある。

しかし、ケネディ自身が自らの大統領就任以降にアメリカ軍の軍事顧問団の増派を推し進めてきた(人数だけでも約20倍に上る増派を推し進めた)上に、その事に対してアメリカ国内での批判が高まり、最終的に「軍事顧問団の段階的な撤収計画」の概要こそ発表したものの、「軍事顧問団」完全撤退後の具体的なベトナム政策については何も発表していなかった上、ケネディ自身が南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤退論に対してあからさまな嫌悪感を表明していたため、このアメリカ軍「軍事顧問団」の段階的撤収作戦が、ケネディ政権と対立を深める南べトナムのゴ・ディン・ジェム政権に揺さぶりをかけるためだけのものであったのか、それとも本気で段階的に撤収しようとしていたかという点については議論が別れる。

なお、後に国務長官となり、泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、自著の中で「ケネディ政権のかつてのメンバーの中には、ケネディがアメリカ軍(軍事顧問団)を完全撤退させる決定を1964年の大統領選挙の後にするつもりだったと論じている人もいるが、その他の同様の要職に就いていた人はこれを否定している」とケネディ大統領とその政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定している。

なお、1963年当時7月1日より1964年の財政年度が始まっていたが、重要な13の予算法案のうち9つが議会を通過せず、議会の議事妨害(フィリバスター)によってケネディ政権は行き詰まっていた。1964年の再選は絶望的とする見方が有力であった。

さらに詳しく → ケネディ大統領暗殺事件



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