人間魚雷 回天 (Kaiten)

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2010/05/03(月)
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回天(かいてん)は、旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるよう、九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷。炸薬量は1.55トンあり、一撃で戦艦でも撃沈できるとされた。的(てき)、〇六(マルロク)との別称もある。「回天」は、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味。必死必殺の救国兵器として考案された。

概要

回天は甲標的搭乗員であった黒木博司大尉、仁科関夫中尉らが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期、日米の隔絶した工業力の差から、戦局を打開するためには「有人の水中兵器(ゆくゆくは航空機)を主体とした特攻」による敵艦隊撃滅以外にはないと提唱したことにはじまる。しかし海軍は当初生還の見込みの無い出撃は許可しないとして、彼らは海軍内で孤立した。

人間魚雷の構想はガダルカナル島での敗北後、日本海軍内で複数上がっていた。一つは竹間忠三大尉で、「戦勢の立て直しは必中必殺の肉弾攻撃である」としてその構想を軍令部の井浦翔二郎中佐に送り、井浦中佐が実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。次に1943年(昭和18年)12月、伊一六五潜水雷長入沢三輝大尉と航海長の近江誠中尉が、戦局打開の手段として「人間魚雷の独自研究の成果」を軍令部と連合艦隊に献策したが、受け入れられなかった。

こうしたなか、黒木博司大尉と仁科関夫中尉が1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)に2回にわたり、軍令部や軍務局の要員を歴訪、軍務局第一課長の山本善雄大佐をうごかし、 1944年2月26日に「乗員の脱出装置なしでは兵器として絶対に採用しない」との条件付で試作が認められた。1944年7月25日の試作機の試験が大入島発射場で行われたが、脱出装置は未完成のため装備されなかった。

兵器として特性に問題があると指摘された、その主なものは、

1. 魚雷改造の艇のため後進ができないこと。
2. 旋回半径が大きすぎること。
3. 最大80mしかない潜航深度が母艦の大型潜水艦の深度を制限し水中機動の妨げになること。

等であった。が、改善されることなく1944年8月1日に海軍大臣の決裁により正式に兵器として採用され、黒木の提案どおり「回天」と命名された。戦局が押し迫るなか、3つの問題点は最後まで解決されなかった。

1944年9月1日、山口県の大津島に基地が開隊。5日より、全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が始まっていった。一方、肝心の回天の生産は、8月末までに100基の1型を生産する計画が、9月半ばまでに20基、以後日産3基が呉工廠の限界であった。これは米軍による海上輸送の破壊による資材の不足、損傷艦の増大、この頃より本格化したB-29爆撃機による本土空襲、工員の不足や食料事情の悪化が生産を妨げたためである。回天のベースになった九三式三型魚雷は、酸素を使用するので整備に非常な手間がかかり、1回の発射に地上で3日の調整が必要であった。十分な訓練期間がない以上、回天の整備隊は3日で2回のペースで調整するよう督促された。

そして、9月6日には訓練中に提唱者の黒木大尉が事故死したが、これは逆に「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高めた[2]。搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。

1944年9月半ばからは回天も徐々に数を増やし、困難を人員の努力で補い戦力化がはかられた。10月初めからは、回天搭載の改造を終えた第15潜水隊の3隻の潜水艦により、周防灘で最後の総合訓練を実施、10月下旬には連合艦隊司令長官から回天による特別攻撃命令が発せられた[3]。これにより第6艦隊司令部で「玄作戦」が立案され、攻撃隊(残された主力潜水艦のほぼ総戦力による特別編成隊)は「菊水隊」と命名された。このうち、ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ(Mississinewa)を撃沈して初戦果をあげた。

以後は次第に米軍の停泊地の警備が厳重となった為、洋上攻撃へ作戦変更を余儀なくされた。菊水隊以降、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、 轟隊、多聞隊と終戦の1週間前まで、計148基の回天が出撃した。すでに制海権も制空権も完全に敵の手中にあり、母艦となる大型潜水艦は次々と撃沈されていった。

1945 年3月以降は敵本土上陸に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の巡洋艦や駆逐艦、一等輸送艦からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった。なお、回天は人間魚雷と呼ばれ「一旦出撃すれば帰れない」ものとされた。そのため戦中は機材の故障で出撃できなくても隊内で白眼視されると感じて再出撃を余儀なくされ、帰還搭乗員は多くの苦しみを味わった。

また、戦後は「強制的に搭乗員にさせられた」、「ハッチは中からは開けられない(実際は中から開閉できた)」、「戦果はほとんどなかった」等、数々の歪曲的な伝え方をされてきたが、搭乗員は操縦の特異性から転用ができないため、全てが回天戦のために選抜され訓練を受けた優秀な若い志願兵であった。そのため戦死者・殉職者の遺族、また生き残った搭乗員は、戦後多くの精神的な苦しみを得たとされる。兵器の非人間性の一方で、国や同胞を救おうと国難に立ち上がったその志については、生き残った搭乗員やそれを知る関係者が共に認めるところである。

広島と長崎に落とされた原子爆弾(核部分)をテニアン島まで運び、帰路にあった重巡洋艦インディアナポリスを撃沈したのは、この回天特別編成隊の多門隊・伊五八潜によるものだった。ただし、会敵時は暗く回天戦は困難であり橋本以行艦長の判断で回天は予備に置かれ、通常の雷撃で行われた。多門隊の回天は後に沖縄海域で故障艇1を除き全て出撃した。

搭乗員

海軍兵学校、海軍機関学校出身者は、加賀谷武大尉(兵71)、帖佐裕大尉(兵71)、久住宏中尉(兵72)、河合不死男中尉(兵72)、村上克巴中尉(機53)、福田斉中尉(機53)、都所静世中尉(機53)、豊住和寿中尉(機53)、川崎順二中尉(機53)が、潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。以上は黒木、仁科が最初に何らかのかたちで接触をはかった者と思われる。上別府宜紀大尉(兵70)、樋口孝大尉(兵70)は特四内火艇の後、志願参加。近江誠大尉(兵70)、三谷與司夫大尉(兵71)、橋口寛中尉(兵72)も回天と同様の特攻兵器の意見書を提出後、志願参加。それ以外は指名による(本人の配属希望を考慮し選考)。

予備士官、予科練出身者は募集による志願。ただし、作戦は奇襲で、軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な事柄には一切触れられなかった。募集要綱には「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」、「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。それ以上の説明は口頭でなされた。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者を基準に100名が選抜された。

なお、最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。

黒木博司(機51・殉職)、樋口孝(兵70・殉職)、上別府宣紀(兵70・菊水隊)、仁科関夫(兵71・菊水隊)、加賀谷武(兵71・金剛隊)、帖佐裕(兵71・第三回天隊◎)、久住宏(兵72・金剛隊)、河合不死男(兵72・第一回天隊)、石川誠三(兵72・金剛隊)、川久保輝夫(兵72・金剛隊)、吉本健太郎(兵72・金剛隊)、福島誠二(兵72・多々良隊)、土井秀夫(兵72・多々良隊)、柿崎実(兵72・天武隊)、小灘利春(兵72・第二回天隊◎)、福田斉(機53・菊水隊)、村上克巴(機53・菊水隊)、都所静世(機53・金剛隊)、豊住和寿(機53・金剛隊)、川崎順二(機53・千早隊)、宇都宮秀一(東大・菊水隊)、今西太一(慶大・菊水隊)、近藤和彦(名古屋高工・菊水隊)、佐藤章(九大・菊水隊)、渡辺幸三(慶大・菊水隊)、原敦郎(早大・金剛隊)、工藤義彦(大分高商・金剛隊)、前田肇(福岡第二師範・天武隊)、池淵信夫(大阪日大・轟隊)、小林好久(長岡工業専門・殉職)、藤田克己(予・多聞隊◎)、永見博之(予・第五回天隊◎)、上杉正俊(予・転属)、松岡俊吉(予・転属)。(注・予=予備士官で出身校不明、◎=生還)

昭和63年2月回天名簿によると、最終的には、兵学校、機関学校122名、予備士官244名、兵科下士官10名、予科練1050名の、計1426名(うち転出51名)が着任した。

回天について

回天は艦隊決戦型の駆逐艦、巡洋艦用に採用された超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造したものである。九三式三型魚雷は、直径61センチ、重量2.8トン、炸薬量780キログラム、時速約90キロで疾走する無航跡魚雷であり、主に駆逐艦に搭載された。回天は、この酸素魚雷を改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8 トンで、魚雷の本体に外筒をかぶせて、気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブをつけ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5トンとして、最高速度時速55キロで23キロメートルの航続力があった。当初突入前に乗員の脱出装置のハッチがあったが,航行安定に悪影響をもたらすこと、脱出後は敵の捕虜になること、また脱出装置自体の製作がまにあわなかったことから結局は廃止された。俗説では「ハッチは外からしか開閉できない」と言われているが、実際には内部から露頭していれば手動でハッチが開閉可能である。

また、潜水艦は敵と遭遇し攻撃を受けた場合、深度を深くとって攻撃を回避することが有効であるが(伊号潜水艦は100 m 以上の潜水が可能であった)、回天は最大でも80 m の耐圧深度しかなく、母艦潜水艦の水中機動も妨げられ、優れたアメリカ軍の対潜兵器とあいまって、出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈された。

1944年7月に呉工廠で2基の試作がなされた回天は、搭乗員が突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる(命中させる)ように射角を設定。突撃開始から命中までに要するであろう時間も予想しておく。そして潜望鏡を下ろし、ストップウオッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、ふたたび潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法をとり、訓練もその方向で行われた。しかし、攻撃目標となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間、しかも潜望鏡とジャイロスコープでの推測航法では目標まで到達することは充分な訓練を経ても難しかった。泊地攻撃での回天による戦果は、発進20基のうち撃沈2隻(給油艦ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻であった。 最初の攻撃で給油艦ミシシネワが撃沈された際、アメリカ軍は一時的に航空燃料の補給の不安に陥った。なお、アメリカ軍はこの攻撃を、当初2人乗りの特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と考えていた。艦上の兵士はこれよりいつ回天が襲ってくるかという恐怖にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという。(出典:特攻兵器「回天」と若人たち~ウルシー礁内の大恐慌)。敵の防備が強化され、泊地攻撃が難しくなってからは、水上航行中の船を攻撃する作戦に変更され、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

実戦では当初から懸念されたとおり、回天の母体の九三式三型魚雷は長時間水中にあることは予定されておらず、魚雷内の燃焼室と気筒に水圧がかかってエンジンが故障してしまい、エンジンに点火できず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでプロペラが回る「冷走」状態におちいり、出撃時には使用不能になっていることもあった。この場合艦上では修理が難しく、出撃不能となる。また、最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかった為、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。 潜水艦を母艦として運搬されて運用された回天も、のちの本土決戦では水上艦を母艦としての作戦が計画されていた。そのため、海上挺進部隊の軽巡洋艦北上をはじめとして駆逐艦や一等輸送艦が改造された。

黒木博司大尉は黒髪島沖で指導訓練中、事故により殉職、仁科中尉も1944年11月20日、菊水隊としてウルシー環礁で伊号第四七潜水艦より他艇と共に発進、戦死している。初期の回天は黒木、仁科両名のリーダーシップが大きく、その後の搭乗員の養成は分隊士(最初期に着任した搭乗員の中から選ばれた)があたったが、隊員の士気の維持は困難な場面もあったと想像される。

戦歴

初陣

1944年11月8日、「玄作戦」のため、大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として、伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣である。 菊水隊の回天搭載潜水艦3隻のうち、伊三六潜と伊四七潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地を、伊三七潜はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。

回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が1944年11月20日決行された。20日、伊四七潜から4基全て、伊三六潜からは4基中の1基の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇めざして発進した。 しかし、伊号第四七潜水艦の帰着直後の報告により作成された「菊水隊戦闘詳報」によると、「3時28分から42分、伊四七潜は回天4基発進。発進地点はマガヤン島の154度12海浬」とホドライ島の遥か南より発進させている。そのためプグリュー島の南側で2基の回天が珊瑚礁に座礁して自爆することとなった。

伊三六潜は、4時15分発進予定地点のマーシュ島105度9分5浬に到着し、3基は故障で潜水艦から離れず、今西艇だけが4時54分発進した。 その後、これらの回天のうち、1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没。残る2基が、泊地進入に成功。1基が5時47分ミシシネワに命中(混載していたガソリンに引火して爆発炎上、1時間後に沈没、戦死50名)。 その後、最後の1基は軽巡洋艦モービルに向けて突入、潜望鏡が2 - 4ノットの速力で直進してくるのを発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、のちに護衛駆逐艦ロールの爆雷攻撃により6時53分に完全に破壊した(隊員と女学生が彼に差入れた座布団が海面に上がった)。

伊三七潜を母艦とした菊水隊のうち、パラオ、コスソル水道に向った4基の回天は、パラオ本島北方で米設網艦ウインターベリーに8時58分浮上事故(ポーポイズ運動を行った)のために発見通報された。米護衛駆逐艦「コンクリン(Conklin)」・「マッコイ・レイノルズ(McCoy Reynolds)」が9時55分現場付近に到着した。両艦はソナーで探索を開始、午後も捜索を続け15時4分コンクリンが探知し、レイノルズは15時39分ヘッジホッグで攻撃13発の攻撃を行ったが効果なく、目標を見失った。16時15分コンクリンが探知し攻撃、ヘッジホッグを発射し、小さい爆発音(命中音?)らしきもの1を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)、接近したところ17時01分、海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。以後反応無く撃沈と判定された。伊三七潜の乗員と隊員は後に総員戦死と認定。なお、のちにコンクリンは金剛隊を搭載した伊四八潜も撃沈している。

この菊水隊の泊地攻撃で、アメリカ軍の泊地の警戒が厳重になったが、黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更されたのは、金剛隊による泊地攻撃の後であった。

その後の出撃

1944年11月8日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊ののべ28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が、複数回の出撃を行っていたり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが1 回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄諸島にかけてである。

搭載母艦

* 菊水隊、伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜(1944年11月8日出撃)。
* 金剛隊、伊五六潜、伊四七潜、伊三六潜、伊五三潜、伊五八潜、伊四八潜(1944年12月1日 - 1945年1月9日出撃)。
* 千早隊、伊三六八潜、伊三七○潜、伊四四潜(1945年2月20日、21日、22日出撃)
* 神武隊、伊五八潜、伊三六潜(1945年3月1日、2日出撃)
* 多々良隊、伊四七潜、伊五六潜、伊五八潜、伊四四潜(1945年3月28日 - 4月3日出撃)
* 天武隊、伊四七潜、伊三六潜(1945年4月20日、22日出撃)
* 振武隊、伊三六七潜(1945年5月5日出撃)
* 轟隊、伊三六一潜、伊三六三潜、伊三六潜、伊一六五潜(1945年5月24日 - 6月15日出撃)
* 多聞隊、伊五三潜、伊五八潜、伊四七潜、伊三六七潜、伊三六六潜、伊三六三潜(1945年7月14日 - 8月8日出撃)

基地回天隊

回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われ、また敵の本土上陸が現実問題となってきたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。第一回天隊8基および搭乗員、整備員、基地員の全127名は1945年3月に第十八号一等輸送艦で沖縄に向け進出したが、同18日に沖縄南西の慶良間諸島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅(推定)した。

第二回天隊8基は1945年5月に伊豆諸島の八丈島の2ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた。その後アメリカ軍命令で壕ごと爆破処理されたが、現在は壕は発掘され説明看板が立てられている。そのほか第三・第五・第八・第九回天隊は宮崎県、第四・第六・第七回天隊は高知県、第十一回天隊は愛媛県、第十二回天隊は千葉県、第十六回天隊は和歌山県に配備された。

回天戦の戦果

総合戦果

回天の総合戦果は、アメリカ側の秘密文書公開と戦後の「全国回天会」の調査により、以下が判明されている(魚雷攻撃よる戦果も含まれる)。なお、一回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニアを撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にはペンシルベニアは大戦を生き延び、戦後のビキニ原爆実験における二度の核爆発さえも耐え抜いて沈まずに解体処分されている。

* 回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
    o 1944年11月20日 給油艦ミシシネワ撃沈
    o 1945年1月12日 輸送艦ポンタス・ロス小破
    o 1945年1月12日 歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
    o 1945年1月12日 弾薬輸送艦マザマ大破
    o 1945年1月12日 戦車揚陸艦LST225小破
         o 1945年7月24日 駆逐艦アンダーヒル撃沈[5]
     o 1945年7月24日 駆逐艦R・V・ジョンソン小破
    o 1945年7月28日 駆逐艦ロウリー小破

* 潜水艦(魚雷)による攻撃
     o 1945年6月24日 工作艦エンディミオン撃破
    o 1945年7月29日 重巡洋艦インディアナポリス撃沈

回天戦の戦果は、撃沈4隻と日本軍が考えていた程にはアメリカ軍の被害記録がなく、アメリカ軍が意図的に戦果を隠蔽していると疑問視している旧軍の回天関係者(隊員や潜水艦長、参謀)がいた。一方、いまだに調査されていない秘密文書もあり、また民間輸送船に関してはアメリカ軍での記録がないため、以上は現在確認されているものということになり、これから新しい戦果及び戦闘状況が判明される可能性もある。

日本軍側が認識していた戦果と実際の戦果の乖離する理由については、日本軍側は潜水艦の聴音による爆発音の確認で戦果を認識していたのがその主な理由である。(なお、発進から30分以内での爆発音は、突入時刻と一致するため敵突撃の可能性は濃厚と考えられた。燃料のきれる1時間前後での爆発音は自爆の可能性が高い。)

搭乗員は突撃の際には安全装置を外し、敵艦への突入角度が足りなくても、その衝撃で信管が作動するよう自爆装置に腕をかけていた。衝突してから数秒以上後に、搭乗員が内部から自爆装置を起動させ爆発させたと思われる例があるのは、そこまでの衝撃がなかったためか、あるいは何らかの理由で自爆装置に腕をかけていなかったためと推測される。その場合は、回天と敵艦船との距離は既に離れているため、敵への被害は損傷程度にとどまっている。

回天戦の戦没者

終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。

元搭乗員から見た戦後の回天戦(評価)

これまで出版された本などから、海軍兵学校出身者、予科練出身者は概ね肯定的である一方、予備学生出身者の中には批判的、否定的な発言をしている者もいる。ある予備学生搭乗員が本を出版した際、あまりに粉飾がすぎるとして元搭乗員の間からも非難の声があがったというエピソードがある。また、自分が元搭乗員であることを家族にも話さないまま晩年を迎えた者もいる。元甲標的搭乗員の間では、創始者黒木大尉が甲標的から回天に転向したことから、批判的な見解(書籍等)をする傾向がある。

さらに詳しく → 回天  人間魚雷



回天の群像回天の群像
(2008/08/01)
著:宮本 雅史

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タグ : 特攻兵器 回天 人間魚雷 太平洋戦争

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