東洋の銃の歴史

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2010/04/27(火)
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火縄銃(ひなわじゅう、英語:matchlock gun)は、初期の鉄砲の形態のひとつ。先込め式で、黒色火薬を使用する。火縄銃は、15世紀末にヨーロッパで発明されたと考えられ、マッチロック式とも言う。引き金を引くと火をつけた火縄が火皿と呼ばれる部品に落ちる。火はそこから口薬(くちぐすり)と呼ばれる導火線のような役割をする微粉末黒色火薬に引火し(胴薬)(どうぐすり)または玉薬(たまぐすり)と呼ばれる装薬に伝わり、そこで一気に燃焼(爆燃)、弾丸を射出する仕組みになっていた。方式としては瞬発式火縄銃と緩発式火縄銃とがある。現代では銃砲刀剣類所持等取締法の規制対象となっており、骨董品として所有するにしても許可が必要である。

概説

それ以前の銃器は、火種(火縄など)を手で押し付ける方式(タッチホール式)であった(宋の「突火槍」、明の「火竜槍」、1300年頃のロシアの「マドファ」など)ことから、扱いが難しく命中精度も低かった。この欠点を補うため、火縄をS字型金具(サーペンタイン)ではさんで操作するサーペンタインロック式が考案され、さらに銃床など構造面の整備が進み、火縄銃が完成した。日本には1543年(天文12年)に種子島に鉄砲伝来したことから、種子島銃あるいは単に種子島と呼ばれた。

マッチロック式は命中精度と射程距離の向上など銃の性能を大きく向上させた。その一方で、火種・火縄を常に持ち歩く携帯性の悪さや失火の危険、夜戦で敵にこちらの位置を教えることになる、構造上時間のかかる先込め式しか利用できない、雨天に極端に弱い等、改善すべき弱点はまだ数多かった。これらを克服するため、ヨーロッパでは回転する鋼輪(ホイール)に黄鉄鉱片を擦り付けて着火する方式(ホイールロック式)や、燧石(火打ち石:フリント)を鉄片にぶつけて着火する方式(フリントロック式)が発明された。

博物館の中の火縄銃と、現代のライフルなどを比較すると、グリップ付近の形状が大きく異なる。そのため、現代のいわゆるライフル銃のように台尻を肩に当てて、脇を締めて発射することはできず、弓を番えるように肘を外に張って射撃するスタイルで使用されていた(但しヨーロッパの火縄銃は、クロスボウの影響を受けた肩当ストック型のものの方が多く短床型の方が少数派)。

火縄銃の威力

火縄銃は「黒色火薬を使用し」「ライフリングのない滑空銃身で」「鉛製の丸玉を撃つ」事から、一般的には現代の小銃に比べて威力も性能も劣ると認識されがちである。しかしながら、この条件において現代の小銃よりも不利になるのは、長距離での弾道特性、命中率である。滑空銃身で、しかも弾丸の鉛部分を硬い金属で覆っていない場合(いわゆるソフトポイント弾)は、むしろ威力については増す。さらに現代の小銃、さらに散弾銃と比べても口径が大きいため弾丸自体がかなり重い。従って、火縄銃は小銃に比べれば弾丸の直進安定性こそ劣るものの、近距離での破壊力は現代の散弾銃に比肩。あるいは凌駕するかなり強力かつ危険なものである。

上記の様なある種の誤った認識が広まった一因としては、幕末に洋式銃を装備した薩長倒幕軍に火縄銃を主力火器とした幕府軍が脆くも敗れ去った事が民衆に強く印象づけられた経緯の他、泰平の世となり実戦で具足が使われる機会が無くなった江戸時代に具足職人が自らが拵えた具足の優秀さをアピールする為に「試し胴」と称して自ら火縄銃で具足を撃つデモンストレーションが各地で催され、「火縄銃の銃弾を受けても貫通しなかった具足」が各地に文化財として遺されている事情などが大きいと言われる。

しかし、正規の薬量・弾頭重量の火縄銃で戦国期当時の一般的な足軽向けの具足を射撃した報告[2]によると、厚い鋼板を用いた胴体正面部分であっても直撃を受ければいとも簡単に撃ち抜かれてしまい、硬い鋼板に当たる事で分裂した鉛弾が胴体内にバラバラに飛散して背中側の鋼板も貫いている事から、「たとえ完全装備の具足を纏っていたとしても、火縄銃がまともに胴体に命中すれば撃たれた兵はまず助からないであろう」と結論づけている。上述の「試し胴」については、火縄銃は前装銃の特性として、装填の際に弾丸の重量や火薬量を任意に調整できる事から、デモンストレーションのためあえて威力を減じたと考えられる。また、具足を木の枝などに吊り下げた状態で撃ったために、銃弾を受け流す格好になったと考えられる。

日本での火縄銃史

鉄砲と戦国時代

従来、『鉄炮記』の記述により日本への鉄砲伝来は1543年の種子島より始まるとされてきた。しかし、近年では、東南アジアに広まっていた火器が1543年前後に倭寇勢力により日本の複数の地域に持ち込まれ、伝来当初は猟銃として用いられていたとする説も提示されている。(宇田川説) だが、欧米の研究家の間では、欧州の瞬発式火縄銃が日本に伝えられて改良発展したものが、逆に東南アジアに伝えられ、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったものとする説もある。(ニッケル説、ブレーヤ説) 

戦国時代以降、日本では近江の国友、同じく日野、紀州の根来、和泉の堺が鉄砲の主要生産地として栄えた。根来のみは織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの影響で桃山期以降衰退したが、国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇った。戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国となる。

文禄・慶長の役では日本軍はその銃装備で明軍を手こずらせ、のち趙士禎が『神器譜』(1598年から1603年以降にかけて成立)を執筆する。それによれば嚕密銃(ろみつ)銃(オスマン・トルコの銃)を第一等に推し、ついで西洋銃(ポルトガル銃)をあげている。また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し、赤穂城などに応用された。

江戸期以降

日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃から進歩しなかった理由として、江戸時代に入って徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説、フリントロック式は火縄式に比べ強力なバネが装着されており、撃鉄作動時の衝撃が大きく、引金を引いてから一瞬遅れて装薬に着火する機構のため銃身がぶれ、火縄銃に比べ命中率が悪く「一発必中」を好む日本人から嫌われたらしいことのほかに、日本では良質の燧石が産出せず大量生産ができなかったこと、平穏な時代が長く続き連射性で勝る実戦的な銃自体がそれほど必要とされなかったこと、またおそらくはすべての武術と同じく鉄炮術も一種の競技的な要素を含んで流派形式で継承されたため、その結果必然的に器具類の改変は避けられた、という要素も大きく、幕末に実戦を前提として新式銃が輸入されるまでほとんどの銃器が火縄式のままであった。また幕末まで農具として農民へ売買され所有されていた。

但し例外として、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されていたことも事実であり、そのバリエーションは多岐にわたる。幕末新式銃渡来直前に海外事情も考慮してパーカッション式の銃器すら模造、試作されたものの他には、実用の可能性を想定していたものかどうかは何とも評しようがないものが多い。火皿を3つ付けたものや、銃身がリボルバーのように回転する物など三連発の火縄銃や水平二連式短銃など、様々なものが試製されていた。


明治維新以降は洋式銃や村田銃等の新式銃に圧され、国友を初めとする伝統的な火縄銃職人集団共々、日本からは火縄銃は急速に廃れていった。しかし、マタギなどの民間の狩猟家の間では軍払い下げ(若しくは民間メーカーのライセンス生産品)の村田銃が普及する昭和初期までは依然中古品の火縄銃に大きな需要があり、火縄銃職人の一部も大正から昭和初期ごろまで細々と火縄銃の製造を続けていたと言われている。なお、太平洋戦争最末期に旧日本軍が本土防衛師団向けに、簡素な町工場でも大量生産が可能な「国民簡易小銃」として火縄銃の量産配備を検討し、実際に開発を行っていたという記録が試作品の僅かな写真と共に残されている。

さらに詳しく → 火縄銃



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タグ : 歴史 東洋 マスケット銃 火縄銃

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