真実の近現代 世界史編 【小林よしのり】

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2010/04/25(日)
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小林 よしのり(こばやし よしのり、1953年8 月31日 - )は、日本の漫画家・社会思想家、「よしりん企画」社長。福岡商業高校、福岡大学人文学部フランス語学科卒業後、1976年にデビュー。『東大一直線』『おぼっちゃまくん』などのヒット作を持つ。1992年の『ゴーマニズム宣言』以降、政治的な作品が増え、2002年から季刊誌『わしズム』責任編集長なども務める他、大東亜青年塾名誉塾長という肩書きも持つ。新しい歴史教科書をつくる会に理事待遇として参画していたが2002年に退会した。

略歴

出生 - 中学生以前

二人兄妹の長男として生まれる。『逆噴射家族』のアイドル歌手と女子プロレスラー両方志望の少女は、妹がモデル。

幼少の頃から喘息を患い、ひどい時は気管が細くなり、腕立て伏せのポーズでないと息ができなかった。ガリガリにやせており、あだなは「もやし」「ガイコツ」「黄金バット」。町内相撲大会では、いつもアザと泥まみれだった。両親は「あんたは大人になるまでに死ぬんだからね。保険金もかけてあるんだから」と言い、彼専用の離れ部屋を作るなど、突き放した態度を取っていた。だがこれは自立心を養うためであり、『おぼっちゃまくん』の主人公・御坊茶魔風の表現で言えば「よーしゃなくきびしく」育てられた。

夏休みなど長期の休みには、地方で密教の住職を務める祖父の寺に預けられた。祖父は僧侶ながら女性関係もあったなど、親戚からの評判はいまいち良くなかったが、大東亜戦争中ニューギニア島へ派遣された際に俳優の加東大介と共に現地で将兵向けの慰問芝居を行い、これが後年『南の島に雪が降る』として映画化された事を誇りに思っており、小林もその自慢話をよく聞かされた。この寺で体験した事はその後『ゴー宣』を中心とする各所に影響を与えており、小林は自らの事を「不動明王の生まれ変わり」と称している(本気でそう信じているのでなく、自分の精神力に関する比喩)。子供の頃は親の方針であまり物を買ってもらえず、小林の場合はその経験が物欲に対する執着心を弱めるに至ったと語る。つい最近まで自己(自社)保有の車を持たなかったのも、その経験ゆえである。

小学校半ばの頃は、まだ体も弱かったがクラスから親しまれ、級長を務めていた。だが担任の男性教師が当時流行りのスパルタ教師で(戦後軍人帰りの中年が、教職に多数復帰したのも理由)男女問わず殴っていた。小林はこの担任から、ホームルームなどの学級行事進行を手厳しく叩き込まれ、これが『東大一直線』の血見太先生や『おぼっちゃまくん』の昴田先生のモデルになったと思われる。

また精神薄弱気味でブタ鼻のクラスメートがおり、遠足の弁当の時間、同席させてもらえる仲間がいない時は、彼と笑い合って一緒にいた。『東大一直線』『男のトラ子 女の虎造』の主人公は、彼をモデルにして描かれたものだと言う。テレビ番組が子供文化にも入り込むと「忍者部隊月光」「宇宙大作戦」等を視聴した。子供の頃の憧れの人物は「宇宙家族ロビンソン」のドクター・スミスだと語っており、その後の小林自身および著作の主人公の「憎まれっ子世にはばかる」を暗示している。

高校時代 - デビュー前

福岡市立福岡商業高等学校(現福岡市立福翔高等学校)のデザイン科に在籍。併願で進学校にも合格したが、あえて商業高校へ入学した理由は「家から近い」「暇なので漫画が描ける」「学校の3分の2が女」「勉強する奴がいないから、少し勉強すれば優等生」だと言う。商業関係の資格取得が卒業条件であったため、日商簿記検定2級および珠算3 級の資格を2年次までに取得して、後の高校生活はほぼ遊んで過ごしたとのこと。中学時代は坊主だった髪を伸ばして染める等、服装違反を繰り返し、毎日校門で生活指導に殴られていた。

高校を卒業した後は就職にかこつけて上京し、石ノ森章太郎の弟子となり、漫画家修行をするつもりだった。しかし担任教師に「大学へ行って本を読め」と勧められ、福岡大学人文学部フランス語学科に入学。このときに受験勉強の準備に取り掛かったことが後に『東大一直線』を描くきっかけになったと述べている。フランス語を専攻した動機は、大学へ進学するにしても自分には合わない商学部には進学したくなかったことや、当時ミッシェル・ポルナレフなどのフレンチ・ポップスが流行っていたことから、「フランス語でミッシェル・ポルナレフが歌えたらカッコいいし、女にモテるだろう」というものだった。こうしたことからフランス文化に対してわりと好意的である。作品の中にフランス(語)を意図的に出す事は無いが、『ほう作』の「ふまんたれぶー」や『茶魔』のカメ達の名前など、ごく稀にフランス語から作られたとおぼしきものが出て来る。また、フランスに旅行した際、日本語しか話せない日本人観光客を無視し続ける現地の女性店員にフランス語で話しかけたところ、非常に怪訝な目で見られたことがあるという。本人曰く、フランス語はもう忘れてしまったとのこと。また、大学時代は仏文学者の大塚幸男らに師事していた。

大学時代、左翼活動に若干ながら関わったが「自分とは違う世界だ」と比較的早く気づいた事や、「レーニンマン」と呼んでいた活動家とのエピソードが『ゴー宣』に記されている。その後は「今これをやっておかなきゃ後悔する気がする」と、貧血になる程に読書にのめり込んだり、アルバイトに精を出した。アルバイトでは喫茶店での常連客で相撲の話が好きなヤクザの幹部(店側としてはお客様)と話を合わせねばならず、必死に相撲のウンチクを本で勉強したり、虚弱体質ゆえに肉体労働に向かずクビにされかけた時、バイト先の先輩達が「いい奴だから雇い続けてくれ。その分は俺たちがカバーする」と雇い主に訴えた逸話がある。

東大一直線とその後の苦闘

当時は福岡で執筆活動を行っていたが、心機一転の心意気の為1980年に上京、四谷に住む。『東大快進撃』終了後、『週刊ヤングジャンプ』初代編集長の角南攻から、どんな作品を描いても大丈夫と太鼓判を押された小林は、ラブコメ等軟弱化した若者に喝を与える「(誅)天罰研究会」を連載開始。これが人気投票で最下位の屈辱を味わう羽目になり、連載第一回からグラビアページ以下の最下位を記録。結果的に二作目のジンクスとなり、単行本にして全2巻で打ち切りとなる。

その後「東大一直線」連載後期頃に『ジャンプ』でデビューした大平かずお(『東大一直線』の背景にも大平の絵がある)の「小林さん、何でそんなに目つり上げて競争しよるんですか。もっと簡単に、マイナーな雑誌で描いていく方法だってあるんですよ」という誘いにのり、集英社との専属契約の満了と共に、没落が続いていた『週刊少年キング』に大平と2人で移籍する。

『少年キング』移籍後スポ根パロディとも言える『風雲わなげ野郎』を連載するも、まもなく『キング』の休刊により連載は途中終了を余儀なくされる。『少年キング』休刊の連絡を受け小林は「たとえマイナーと言う世界があろうと、誰かがメジャーの場でやって行かねばならぬのだ」と悟ったと語る。なお、『風雲わなげ野郎』ほか少年キングの連載漫画は、最終回を書き下ろした上で、徳間書店から「トクマコミックスBanBanシリーズ」のレーベルで単行本化されている。

流転の時代

『週刊少年マガジン』において「異能戦士」を連載、この作品は単行本2冊半分の連載と多数の読切からなり、ある程度の人気を得ていた。『マガジン』では引き続き、『わなげ野郎』と同傾向の作品の要求に対し、同じモチーフで、小林が幼少期には気に入っていた数少ないゲームであるメンコをテーマにした「メンぱっちん」を連載、ある程度のヒットを得る。また、この人気に着目した長崎屋がメンコ大会を開催、劇中と同じメンコが現実に登場した。当時の小林は、各誌を転々とするも2本以上は連載を続けている。

この頃一時的に手塚治虫の手法として有名なスター・システムを、小林も使っている。宮下あきらや和田慎二の様に世界観が繋がっているタイプでなく、手塚治虫や竹本泉の様に、同じ顔が別の世界に出てくるタイプであり、『東大一直線』のチョンマゲ先生や『(誅)天罰研究会』の首長の竜などが挙げられる。小林がいちばん何とかしてあげたいと思っていたのは『東大一直線』の名脇役、多分田吾作で、『メンぱっちん』の敵役の他、主役とした読切「多分・ザ・ジゴロ」等を発表した。

後に多分を発展させたキャラで『ヤングジャンプ』に読切「不抜呆作伝」を掲載。さらに『週刊少年チャンピオン』にて「いろはにほう作」として連載を行う。なおタイトルには「呆」が差別用語とされ使えないため、ひらがな表記となっている。第一回目で人気投票一位となり、単行本にして全8巻と『東大一直線』に次ぐ記録となる。その後も『少年チャンピオン』で連載を行ったが、『ほう作』を超える長期連載はない。

おぼっちゃまくん以降

『ほう作』終了と入れ替わりに1986年 『月刊コロコロコミック』で連載された「おぼっちゃまくん」が大ヒットとなる。『コロコロ』編集部は『おぼっちゃまくん』以外の小林の漫画も求め、「いなか王兆作」の同時連載(『おぼっちゃまくん』後に連載を開始するも先に終了)、『救世主ラッキョウ』のリメイク、前述の『ほう作』の『コロコロ』における再録等が行われた。なお、小林は『救世主ラッキョウ』のリメイクについては「旧作に比べ受けはかなり悪かった」と『ゴーマンガ大事典』で語っている。毒のある旧作に比べて『おぼっちゃまくん』の絵柄に近づいた点がまず目に付く違いと言える。

『おぼっちゃまくん』は1989年に第34回小学館漫画賞を受賞。授賞式での審査員による「絵は下手だし下品だし、私にはこの作品のどこが面白いのかわからない。来年以降は人気のみでなく、内容の善し悪しも審査基準に組み込みたい」という発言に対して激怒した小林は「こんな下品な漫画に賞をくれた審査員の度胸に感謝します」と、痛烈な皮肉を込めたコメントで反撃し、翌年以降の審査員が刷新される事態にまで発展。この顛末は当時『宝島』に連載していた「おこっちゃまくん」で描かれた。以後は、小学館が小林の主舞台になった。

この事件により自らの意見を積極的に世に発する事に目覚めた小林は、上述の「おこっちゃまくん」で時事論評を展開。漫画による時事論評という新しい手法が注目され、そして1992年に第三のヒット作「ゴーマニズム宣言」を『SPA!』誌上で連載。そこから続く思想関連書で『わしズム』を創刊。

2006年、ストーリーギャグ漫画として「遅咲きじじい」を『ビッグコミック』にて連載開始。これは小林の目の病気以降の心境の変化が大きいとされる。

近年は佐藤優や山崎行太郎など保守陣営の論客との論争も目立つ(佐藤に関しては右翼ではなく、「右翼のフリをした護憲サヨク」などと批判している)。特に沖縄問題やアイヌの差別・民族問題などをめぐってやりとりが交わされている。沖縄問題においては、東アジア共同体を支持する発言も作中でなされた。沖縄やアイヌの知識人からの批判も受けているが、小林も精力的に反論している。

さらに詳しく → 小林よしのり  ゴーマニズム宣言



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