処刑(死刑)と拷問の歴史 - 近代編

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2010/04/20(火)
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ギロチンとは、斬首刑(死刑の一手法)の執行具。断頭台、断首台ともいう。2本の柱の間に吊るした刃を落とし、柱の間に寝かせた人の首を切る装置。

処刑道具のギロチン

ギロチン(仏: Guillotine)は、1792年4 月25日にフランスで正式に処刑道具として認められたものである。ルイ16世の提案で刃の角度が斜めになっており、刃についている重りによって素早く切り落とすことができ、従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされる。ギロチンの全高は約5メートルほどである。首を挟む場所は地面から37センチメートルほどの高さにあり、ギロチンは4メートルの高さから40キログラムの刃が自由落下することによって首を切断する。

当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もが処刑されていた。平民は絞首刑が適用されることになっており、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行された。当時の斬首には斧や刀が用いられていたが、死刑執行人が未熟練であったりした場合、囚人の首に何度も斬りつけるなど、残酷な光景が展開され受刑者に多大な苦痛を与えることも多かった。

1788年、革命前の不穏な雰囲気の中、車裂きの刑の公開処刑の場で、民衆が無実を叫ぶ死刑囚に同調してこれを逃がし、処刑台を破壊するという事件が起こり、死刑執行人の職務に対する忌避のタブーが破られた。これをきっかけとして車裂きの刑は廃止されることとなり、残酷な刑に変わり苦痛を伴わない処刑法を求める流れが起こった。内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンは受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分に関係せずに名誉ある斬首の刑が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタンの提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、ギヨタンの再度の提案と説得によりその案が採択された。

設計の依頼を受けた外科医のアントワーヌ・ルイは、スコッチ・メイデンやハリファックス断頭台などの各地の断頭台を研究し、刃を三日月形にし、死刑囚の首を板で固定するなどの改良を加えた断頭台を設計した。さらに断頭台の設計図を見たルイ16世が、刃を三日月形ではなく斜めの形状にすればどんな太さの首でも切断できると提案しその通りに改良された。

なお、首と同時に両手首も切り落とす形状のものも存在する。当初は、設計者のルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」や「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前を取った「ギヨティーヌ(Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。正式名称は「Bois de Justice(正義の柱)」という。

ルイ16世やマリー・アントワネットはこれによって処刑された。また、恐怖政治を主導し、受刑者をギロチン台に送り続けたマクシミリアン・ロベスピエールも最後はギロチンで斬首された。このように、フランス革命期すべての党派を次々と呑み込み処刑する状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。

ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが大切に保管していたと回想録に書かれているが、後にサンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたサンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した。しかし、アンリ=クレマンはこの直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。この当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではない。そのためサンソンは横領罪に問われることは無かった。一度、質から出されたギロチンは再度売られたという。サンソンが売り払ったギロチンは交流のあったイギリス人の手に渡り、現在はイギリスのマダム・タッソー館にマリー・アントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示され、説明書きに由来が記されている。

開発史

ギロチンの開発に関しては死刑執行人であるシャルル=アンリ・サンソンの回想録に詳細な記述が残されている。

1791 年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、死刑の方法は斬首のみになった。この直後にサンソンが法務大臣に斬首の難しさと問題点について意見書を提出した。これには、斬首は非常に難しく、全員を斬首することは難しいと記されていた。この意見書は法務大臣から国会に提出され、アントワーヌ・ルイ博士に斬首の研究を依頼した。サンソン回想録によると、この時にサンソン、ルイ博士、ルイ16世の3人で非公式に検討会が開かれたという、この時にルイ16世が、刃を直角三角形の定規のような斜めの形にすることを提案した。

1792 年3月17日にルイ博士から国会に報告書が提出され、国会はこれを採択した。試作品が作製されることになり、サンソンが知り合いのチェンバロ製造業者であるトビアス・シュミット (Tobias Schmidt) に960リーヴルで発注した。当時の一般市民の平均年収が400リーヴル強だったといわれている。シュミット工房はこれ以降、フランス死刑執行人の元締めであるサンソンとの関係からギロチンの製造独占権を得て、フランスだけでなくドイツなどの周辺諸国にも輸出するギロチン独占製造メーカーとなる。ギロチンは楽器製造の副業として製造されていた。

同年4月17日にギロチンの実験がおこなわれた。ルイ博士は当初は半円月の刃を提案していたため2種類の刃が作成されたが、実際に死体を使用した実験がおこなわれた結果、斜めの刃が採用された。

1793 年6月13日にギロチンを各県に1台ずつ配置することが政令で決定した、当時のフランスの行政区分に従い、83台のギロチンがトビアス・シュミットに1台812リーヴルで発注された。この時に熾烈なギロチン受注の利権争いが発生したが、サンソンとルイ博士の後ろ盾によりシュミットの独占権が守られた。その後も改良型ギロチンを売り込む業者や、ダンピング・政治活動によってギロチン利権を得ようとする業者は後を絶たなかったが、シュミット工房が最後まで独占権を守り続けた。

ギロチンは人間の背丈よりも高い台の上に設置され、回りから良く見えるようになっていた。1792年に助手を勤めていたシャルル=アンリ・サンソンの次男ガブリエルがこの台から転落死するという事故が起きた。これ以降は回りに手すりが付くようになった。

1870年にアドルフ・クレミューが法務大臣就任後にギロチンを台座からはずし、地面に直接置くように命令し、新しいギロチンを作製させた。この政令に新聞記者たちは一斉に抗議しパリ市民は怒り「我々は豚のように地面に這いつくばって死ぬことを拒否する」「ユダヤ人から人間としての誇りを取り戻せ」と憤慨の声が挙がった。晒し刑でもあった絞首刑とは違い、苦しむことなく首を刎ねられる斬首刑は、本来貴族にのみ許された名誉刑であった。ギロチンはこの名誉ある斬首をあまねく平民階級にも与える、人道的で名誉なものであったのである。

1871年4月に地面に置かれた新しいギロチンを使用した公開処刑がヴォルテール広場で初めて行われようとしたがパリ・コミューンはこの処刑に怒り狂い、ギロチンを焼き討ちされ破壊された。この時、死刑執行人だったニコラ・ロシュはムッシュ・ド・パリに就任してからの初仕事であった。

ギロチンが破壊されたため、1872年に新しく法務大臣に就任したジュール・アルマン・デュフォール(en:Jules Armand Dufaure)は新しいギロチンの作製を命じた。死刑執行人助手だったアルフォンス・レオン・ベルジェが改良を行い、新しい2台のギロチンが作製され、死刑廃止までこの形式のギロチンが使用された。

改良点は以下のとおり。

刃の落下衝撃の緩和
2本の縦枠の下方に、刃の落下によるギロチンに加えられる衝撃を緩和するためのバネをつけた。後に、バネに変えて円筒形のゴムがつけられたが、これによって独特なギロチンの音が変わった。

刃の固定装置の変更
刃をつけた重しの上部につけられた鏃型の金属の突起がギロチンの最上部につけられた「開閉装置」に挟み込むようにはめ込まれる。小さなレバー(後にはボタン式)によって開閉装置を開くと、鏃形突起が外れ、刃付き重しが落下する、という仕組みであった。

刃の稼働機構の潤滑化
縦枠の溝を滑る重しにキャスターを取り付けることで、スムーズに落下するとともに、レールの摩耗を防ぐことになった。

執行後の処理の迅速化
高い台の上に設置するのを廃止して、ギロチンは直接地面の上に置いた厚板の上に立てられることになった。
斬首後、死刑囚の頭と胴体を入れるために側に亜鉛とオイルクロスで覆った柳の籠が大小2個置かれた。

ドイツではフランスのギロチンを元に改良型が作られた。主な改良点は柱が金属製となり、死刑囚を拘束するための可動式の台が設けられたことである。ドイツのギロチンはフランス式より小型で230cmの高さから落下させる。そのため、落下高さは260センチ程しかない。

フランス革命当時のギロチンは固定設置式ではなく組み立て運搬式だった。ギロチンは使用しないときは死刑執行人の家に分解した状態で収納されており、死刑を行う通達を受けると、死刑執行人の助手たちが指定された場所へ運び込んで組み立てていた。死刑執行が終わると再び分解して収納するのが普通だった。当時は公開処刑であり、裁判所の判決次第で死刑を実施する場所が変わったため、死刑執行人は毎回、違う場所へギロチンを搬入する必要があった。後にソビエト連邦では馬車の荷台に据え付けたような形の移動式ギロチンが作られ、各地を巡回して全土を処刑場と化した。さらに後年にはトラックの荷台に据え付けた自走式ギロチンという物まで作られている。

シュミット工房のギロチンはフランスの植民地にも輸出され、インドシナの植民地がフランスから独立した後も使用され続けたことがあり、インドシナ戦争当時やベトナム戦争当時の南ベトナムで使用されている。ベトコンのゲリラがギロチンで処刑されている、という話はここから来ている。なお、シュミット工房は2009年現在もフランスでバイオリンやピアノの製造を行いながら存続している。

死刑執行の歴史

フランス

ギロチンが登場するまで、フランスには160人の死刑執行人と、3,400人の助手が存在していた。これが、ギロチンの導入後は減少の一途を辿り、1870年11 月には、1人の執行人と5人の助手が、フランス全土の処刑を一手に担うようになった。

フランスでは、第二次世界大戦直前の1939年まで、ギロチンによる公開処刑が行なわれていた。しかし、フランス革命でギロチンがあまりに用いられ過ぎた反省からか、その後は積極的に目立った場所でやらなくなり、1800年代には刑務所の門前で早朝に実施するようになり、広場などで白昼堂々と行う事はなくなっていた。1939年6 月17日にジュール=アンリ・デフルノーによってパーセイルズで行われたドイツ出身の殺人犯オイゲン・ヴァイトマン(Eugen Weidmann)の死刑執行が最後の公開処刑となった。この処刑は盗撮され、映画館で公開された。これに問題を感じた法務省は、以降の死刑執行を非公開に切り替える事になる。そのため、これがフランスにおいて唯一映像に記録されたギロチンによる処刑映像となった。

ヴィシー政権下では、レジスタンスのビラを配っただけで、ギロチン処刑された者がいた。また、堕胎罪で逮捕裁判され、死刑判決を受けて1943年に処刑されたマリー=ルイーズ・ジロー(Marie-Louise Giraud)もいた。

ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯から欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9 月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビ (Hamida Djandoubi) というチュニジア人労働者であり、1977年9 月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。アルジェリアやベトナムなどフランスの植民地でも使用されていた。

ドイツ

ドイツ帝国(1871年 - 1918 年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ワイマール共和国(1919年 - 1933 年)やナチス・ドイツを経て西ドイツで死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。特にナチス・ドイツ時代の1933年 - 1945年にかけては16,500人がギロチンにかけられ、史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら政治犯も多人数含まれている。

ナチス占領下のフランス・ポーランド・オーストリアでは、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977 年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。西ドイツになってから1949年に死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1990年のドイツ統一に伴い廃止された。

ベルギー

フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。現在ではヘントにあるフランドル伯の城にギロチンが展示されている。

スウェーデン

1900年以降になってギロチンを導入した。それ以前は斧による斬首刑が行なわれていた。しかし、1910年11月23日に行われたヨハン・アルフレッド・アンデの死刑が最後の死刑となったため、スウェーデンではたった1回しか使われなかった。

ベトナム

ベトナムでも、フランスの植民地とされた時代から1975年まで、ベトナム共和国(南ベトナム)で、ギロチンが使用されていた。

ギロチン処刑の手順

フランスでのギロチン廃止前1970年代のギロチン処刑の手順である。だいたい、20分以内に終わるとされる。死刑執行の日の午前4時ぐらいに、処刑する者の独房に、立会い者が向かい、検察官が恩赦が却下されたことを告げる。立ち会うのは、検察官、弁護士、教戒師たる牧師、刑務官、死刑執行人、死刑執行人の助手である。

遺書を書く時間が少し与えられる。そして、手を後ろ手に縛り、足を拘束具で固定し、抵抗できないようにする。襟と髪をはさみで切る。その間、ラム酒を飲ませ、タバコを吸わせる。カーテンが開かれ、助手によって死刑囚はギロチンの前の台に押し倒され、首を固定させられる。死刑執行人のボタンで、ギロチンが落とされる。

斬首後に意識はあるか

ギロチンは痛みを感じさせる暇もないほどの高速で斬首を行い即死させることを目的にした処刑道具である。しかし、心停止が行われても十数秒前後は意識が保たれているように、斬首後のごくわずかな時間、頭部だけの状態で意識が保たれているのではないかという説がある。斬首後の意識については幾つか報告が残されているものの、その多くは出典が怪しい。

例えば化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエは、自身がフランス革命で処刑されることになった時、処刑後の人に意識があるのかを確かめるため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言し、実際に瞬きを行なったと言われている。しかしながら当時、流れ作業で行われたラヴォアジエの処刑に立ち会った目撃者の記述にそのような逸話は書かれておらず、1990年以降、ボーリュー博士の報告を元に創られた都市伝説と考えられる。

同様に斬首後のシャルロット・コルデーの頬を死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが殴った時、彼女の顔が怒りで赤くなったという逸話があるが、処刑前にサンソンと会話をして微笑んで処刑を受け入れたという当時の記述や、死刑執行人のサンソンが常に紳士な態度をとり続けたという話とも矛盾し、都市伝説と考えられる。

具体的に死後の意識を確認した実験としては、1905年にボーリュー博士が論文として報告したものが挙げられる。1905 年6月28日午前5時半に、アンリ・ランギーユ死刑囚がロアレで処刑される際、事前に呼びかけに対して瞬くよう依頼したところ、斬首後数秒たって医師が呼びかけると、数秒目を開けて医師を直視し閉じた。二度目の呼びかけには応じたが、三度目以降は目が開かれなかったという。しかし、こういった報告は筋肉の痙攣によるものとされており、斬首の瞬間に血圧が変化し意識を失うので、意図的に瞬きをするのは不可能というのが通説である。

フランスでは1956年に議会の依頼によってセギュレ博士が実験を行なっている。この実験では瞳孔反応と条件反射を確認したが、死後15分は反応があったとする報告を行なっている。意識の有無については確認手段が無いため不明のままであった。

さらに詳しく → ギロチン



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