四式戦闘機 キ84 「疾風」 (Nakajima Ki-84 Hayate、Frank)

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2010/04/14(水)
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四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦、ハチヨン、大東亜決戦機など。連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機

概要

九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度、武装、防弾、運動性、航続距離、生産性のバランスの取れた高性能機だった。624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった(キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、アメリカ軍のテストでも680km/h代後半を記録している)。四式重爆撃機「飛龍」と共に重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944 年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零式艦上戦闘機、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。

帝国陸軍から「大東亜決戦機」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が飛行戦隊など一級線部隊に配属され実戦参加し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最良戦闘機、日本最優秀戦闘機)」と評価された傑作機だが、搭載した新型エンジンの「ハ45(海軍名「誉」)」の不調や、潤滑油とガソリン(オクタン価)の品質低下、点火プラグといった交換部品の不良不足、整備力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、設計通りの高性能を出すのが難しかった為、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、評価の分かれる機体である。

開発経過

1941 年(昭和16年)12月にキ44(後の二式単戦)の発展型として中島飛行機に開発指示がなされた。最高速度680km/h以上、 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門を装備する、防空・制空・襲撃など、あらゆる任務に使用可能な万能戦闘機として要求された。当初はキ 44の2,000馬力級エンジンハ145搭載型であるキ44-III(計画のみという説と、少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度、上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。

しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていたため、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加と共に翼面荷重を計画値の155kg/m²に収める為に翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700kg程度と目されていた全備重量は3,000kgを優に越える見通しとなり、それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航した。さらに、前線からの要求で防弾・防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。

結局主翼面積は計画値の17.4m²から最終的に21m²となり、予定していた全備重量が実機の自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、1943年(昭和18年)3月に試作1号機が完成。試験飛行は1~3号機までは比較的順調に進み、好成績を収めたが、量産型のハ45を搭載した4~7号機ではエンジンプロペラのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。

問題を抱えながらも一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、また航空審査部(旧飛行実験部実験隊)のテスト・パイロット荒蒔義次少佐の進言により、それまでの増加試作機は10機以内という方針を転換し審査と試作を併行して進めた結果、制式前に100機を越える増加試作機が製造され、キ 84は1944年4月、四式戦闘機として制式採用され、順次中島飛行機製作所太田工場、宇都宮工場で生産が開始された。

愛称

本機の愛称は「隼」「鍾馗」「飛燕(三式戦闘機)」「屠龍(二式複座戦闘機)」といった各帝国陸軍新鋭戦闘機に次ぐものとして日本全国から募集され、中でも多くの票数を占めかつ陸軍省の選定を受けた結果「疾風」(はやて)と命名され、1945年(昭和20年)4月11日付の各新聞欄にて「殊勲を樹てている陸軍最新鋭戦闘機」「疾風のごとく敵に襲いかかるわが戦闘機の雄姿を讃ふにふさわしい名前である」という賛辞が交えられつつ写真付きで発表された。

コードネーム

本機に付けられた連合軍のコードネーム「Frank(フランク)」の由来は、当時フィリピンで鹵獲した当機をテストしたチームの長、フランク・マッコイ陸軍大佐が、この恐るべき敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。この逸話はコードネームを付与する部門の責任者でもあったフランク・マッコイ少佐が、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubushi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.架空の機体)」に与えられていた自分の名を取り上げて四式戦闘機疾風」に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりにHarry(ハリー)という名が与えられたという。

技術的特徴

機体設計

四式戦は2,000馬力級戦闘機としては極めて小型、軽量に設計されている。基本的に一式戦、二式単戦の延長線上にあり、機軸と前縁が直交し後縁が前進する主翼や、水平尾翼より後方にある垂直尾翼、蝶形フラップ、前後で分割する胴体など、中島製戦闘機の特徴を有している。ただし、一式戦や二式単戦がエンジンの後方から急速に絞られた胴体を採用しているのに対し、四式戦ではここでの乱流発生を警戒して零戦に類似した徐々に細く絞った胴体形状を採用しているのが特徴となる。生産性に配慮しているのも特徴で、一式戦や二式単戦と比較して生産時間が2/3ほどに減少している。生産性を除くと四式戦の機体設計は従来の一式戦や二式単戦とあまり変わり映えのしないものであったが、九七戦や一式戦では軽く設定されていた操縦系統が意図的に重く設定されている。

従来の軽い操縦系統は急旋回を行えるためその際にかかる荷重に対応して機体強度を高くしなければならず、強度確保のために機体重量が増加し、結果として飛行性能が低下するという悪循環が起きていた。そこで、急旋回を難しくすることで機体強度を低く設定して機体の軽量化を図り、速度や上昇力の向上につなげるという意図の元に重い操縦系統が採用されている。これは陸軍から中島飛行機のテスト・パイロットに転出した吉沢鶴寿の意見を取り入れたものと思われる。以下に機体設計時に吉沢が述べた意見を記す。

「そこで私は翼桁を太くするより操縦桿を重くして欲しいといった。エルロンは軽目でもいいが、昇降舵と方向舵は重目でなければいけないというのが私の考え。それというのもキ27から日本人は舵の軽いのに慣れてきた。その方が器用に扱え、空中戦もこなせるからであった。ところが、キ43クラスになると操縦桿を思わず引っぱりすぎて空中分解を起こすケースも出てきた。これを避けるには翼桁を太くすればよいかもしれないが、それでは機体が大きく重くなる。これに対し、アメリカ、イギリス、ドイツのは実に舵が重い。どんなに引っ張っても、われわれ日本人の力では効かないぐらい重い。これはひとつにはスティックの長さが違うこともある。日本のは長い。当然、レシオが異なってくるわけで、この点を改めたいと思っていたわけだ」。

このため四式戦では急旋回を多用する従来の空戦法(格闘戦)を行い難くなり、四式戦に適応した一撃離脱戦法を用いなければ本来の能力を活かせなくなった。その為、太平洋戦争初期からのベテラン操縦者の一部からは「いざというときに敵弾を回避できない気がする」や「座敷のような広い主翼のついた、押しても引いてもびくともしない戦闘機」、「何をしてもできるが、何をしても大したことがない戦闘機」と不評を投じる向きもあった。操縦者によっては四式戦より慣れ親しんだ一式戦や、末期に登場した五式戦闘機(キ100)を高く評価する事があるのは、エンジンの信頼性の他、パワーアップされた三式戦闘機「飛燕」(キ61)改といえる旋回性能を極限まで発揮できる機体であったからとも言える。しかし、飛行第22戦隊附脇森降一郎少尉の「操縦桿を力っぱい振れば格闘戦用の旋回能力もかなりある」といった感想や、実戦での模様から四式戦は「格闘戦も出来る重戦」「軽戦(一式戦)と重戦(二式単戦)の良いとこ取り」とも評価され、また、高高度での操縦性や速度、防御の点で本機の右にでる日本機はなく、まさに「大東亜決戦機」であった。

エンジン

搭載エンジンであるハ45はハ25/ハ115(海軍名「栄」)の18気筒版であり、当時欧米に水を空けられていたエンジン技術の格差を埋めるべく、ハ25と殆ど同じ前面面積で約2倍の出力を目指した新世代エンジンであった。やや無理な小型化が行われたためエンジン各部の余裕が少なく、「芸術品」と評されるほど繊細な部分があったとされる。このため大戦末期の量産時には、初期故障の頻発の上に、未熟な徴用工員を動員しての軍需省主導の無理な大量生産、更には、量産数を維持させる為の監督官からの指示が原因による品質低下等が起こり、額面通りの性能が発揮できないものが多発した。この事態に陸海軍や中島飛行機が手をこまねいていたわけではなく、可能な限りの対策が取られている。なお、 1944年に海軍に納められた誉のベンチテストの結果が、カタログ値より数割低かったという証言があるが、その反面で同時期にフィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のエンジンは完全な量産品であった。

ハ45は高品質の100オクタンガソリンの使用を前提に設計されたが、対外情勢の悪化に伴い入手が困難となったため、91オクタンガソリンに水メタノール噴射を行うことで100オクタンガソリンと同様の効果を得られる様に設計変更された。反面この水メタノール噴射の調整が難しく、ハ45の不調原因の一つとなっている(海軍の局地戦闘機雷電においても同様の不調が発生している)。

因みに「陸軍は87オクタンガソリンが精々で実態はそれ以下」とする説もあるが、本土だけでなく南方に展開していた実戦部隊の記録には最低限の需要を満たす程度の91オクタンガソリンは安定的に供給されていたことが記されており、87オクタンガソリンで飛んだという証言も「後方で実用機を転用した練習機に使えるかどうか試してみた」や「実戦でも使えないか試験的に入れて飛行してみた」という記述がほとんどである。つまり、陸海軍を問わず、練習機を除く第一線の実用機には91オクタンガソリンが使用されていたことになる。しかし、飛行第47戦隊で整備隊長を務めていた刈谷正意大尉は自著で「これ(ガソリン)自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べており、「燃料の性能が額面割れ」していた可能性も全く無いとは言えない。

「誉」の運転制限

1943年7月1日と10日の2回、福生飛行場で行われた飛行実験機材によれば、供試機体キ84第3号機、発動機ハ45特とある。中島飛行機の技術報告書によると、ハ45特は離昇2,000馬力のハ45(海軍名「誉」二一型)より先行して開発されていた離昇1,800馬力の誉一一型と同じになっている。つまり四式戦の初期試作機が搭載していたハ45特は「誉」一一型とほとんどおなじものということである。なお、ハ45特と離昇出力2,000馬力のハ45の性能差は、不具合への対策による運転制限によるものである。この運転制限はキ84の操縦参考書にも「ハ45特と同等の水準に運転制限を行う」と明記されている。なお、1944年末になっても、ほぼ同一エンジンの紫電改の操縦参考書において「制限解除の見通しが立ちつつある」と述べられていることから、かなりの長期間運転制限が行われていたのは確かである。

プロペラ

エンジンと並んで四式戦の不調の元凶となったのがプロペラで、一式戦や零戦に使われていたアメリカ「ハミルトン」式の油圧式可変ピッチプロペラではピッチ変更角度が足りず性能不足とされ、フランスの「ラチェ」式を独自に改良した電動可変ピッチ機構を採用した。当初ピッチ変動速度が遅く戦闘機には不向きとされたが、日本国際航空工業で構造が改善され(毎秒1.2度→13.2度)戦闘機への搭載となった。しかし、今度は変節速度が早過ぎてハンチングやエンジンの過回転といった問題が発生し、最終的には電動機の電力を半減して動作速度を落とす(毎秒13.2度→6.6度)事で解決された。四式戦に採用されたプロペラは直径3.05mの四翅タイプで、2,000馬力クラスの諸外国の戦闘機が採用した3.6~4.0mに比べるといかにも小さく、上昇力や最高速度の発揮を難しくしたと言われている。

同時期に海軍の紫電/ 紫電改に採用されたドイツ「VDM系」のプロペラが直径3.3m、同じ中島製の彩雲が3.6mを採用したことから、機体を小型にまとめようとするあまり、小径のプロペラを採用したことを悔やむ意見も後年多く出されているが、速度変化の激しい戦闘機に加速で有利な小径プロペラを選択するのは不合理なことではない。そもそも中島では、設計段階で「プロペラ効率76%で、最高速度660km/h」と試算し、実際それに近い速度性能を発揮している。

最高速度

四式戦の最高速度は、航空審査部キ84審査主任の岩橋譲三少佐が高度5,000mで記録した624km/hが広く知られている。同じ試作機の別の記録では、640km/hというのもある。また、船橋中尉が試作4号機により、高度6,120mにて631km/hを記録している。これらの記録は、いずれも集合排気管を装備した初期試作機のもので、量産型と同じ単排気管に改造した機体では、一型乙試作機が福生の審査部において、高度6,000mで660km/hを記録した。実戦においては、エンジンの調子が良い時ならば、一型甲量産機が650~655km/h以上出たという証言がある。

アメリカ軍はフィリピンの戦いで鹵獲した1446号機(1944年12月に製造された量産機)を使い、戦後の1946年(昭和21年)4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。140オクタンの燃料と高性能点火プラグを使用した四式戦は、戦闘時の重量を再現したと考えられる重量7,490lb(3,397kg)の状態で、高度2万ft(6,096m)において時速427mi(687km/h)をマークした。これは同高度におけるP-51D-25-NAおよびP-47D-35-RAの最高速度よりも、それぞれ時速3miおよび時速22miも優速であった(P- 51Dの最高速度703 km/hは高度7,620 mにおけるものである)。

武装と防弾

陸軍単発単座戦闘機としては初めて計画段階から20mm機関砲の装備が要求された機体で、当時の陸軍戦闘機の中では三式戦一型丙/丁(キ61-I丙 /丁)、二型(キ61-II改)などと並んで最も火力の大きい戦闘機だった。しかし、世界的な趨勢からみるとやや軽武装であるのは否めず、開発の比較的初期段階から武装強化型の乙型や丙型の開発が始まっている。防弾・防火装備については従来の陸軍戦闘機と同じく装備かつ強化することになり、全ての燃料タンクに防漏ゴムを張ったセルフシーリング式とし、操縦席の風防前面に65mm厚の防弾ガラス、操縦者座席の頭当てと操縦席後方に12mm厚の防弾鋼板(それぞれ70mm、13mmとする資料もある)が装備されている。

実戦

四式戦「疾風」を最初に装備した実戦部隊は1944年3月1日付編成の飛行第22戦隊で、垂直尾翼に描く部隊マークを菊水とした同戦隊は四式戦の実戦テストも兼ねたものであり、使用機体はキ84増加試作機を、幹部空中勤務者・地上勤務者は主に航空審査部から精鋭を抽出となり、戦隊長はキ84審査主任を務め当機を誰よりも熟知していたテスト・パイロットであり、ノモンハン事件からのエース・パイロットでもあった岩橋譲三少佐、整備隊長は同じくキ84班整備班長として長く携わっていた中村考大尉の両名が任命された。

第22戦隊は当初フィリピン戦に投入される予定だったが、アメリカ陸軍航空軍第14空軍(旧フライング・タイガース)のP-51B/Cを始めとする多数のアメリカ軍新鋭機の登場により、旧式の一式戦や性能に限界のある二式単戦では苦戦を強いられていた中国戦線に、現地の第5航空軍の強い嘆願もあり一ヶ月間の期限付きとして投入された。中国戦線の漢口に進出した22戦隊は現地軍の要請もあり、9月末までの短期間ながら僅か一個戦隊で連日中国全土に出撃し初陣を飾る。

こののち、フィリピン戦に備える為帰還する22戦隊から残機を引き継いだ飛行第85戦隊と飛行第25戦隊もP-51を相手に善戦し、「マスタング・キラー」「赤鼻のエース」として知られていた若松幸禧中佐(85戦隊附)の活躍など、一時的にではあるが中国上空の制空権を回復する活躍をしている。このように中国戦線では実戦部隊の操縦者からも高い評価を受けた四式戦だが、台湾沖航空戦においてほぼ奇襲された状況、しかも圧倒的な数的劣勢下でアメリカ海軍のF6Fヘルキャットに立ち向かった飛行第11戦隊の四式戦に対する評価は芳しくないものであった。

しかし、台湾沖航空戦とは比較にならないほど多数の四式戦部隊が編成・投入されたフィリピン戦(捷号作戦)では、中国大陸や台湾同様数的に優勢なP-38ライトニングを主力とするアメリカ軍とほぼ互角の戦いを演じ、中でもレイテ島の戦い下の1944年11月1、2日にはオルモック湾を制空し第1師団の上陸成功に貢献(多号作戦#第2次輸送部隊)、また一時的とはいえレイテ湾の制空権確保に成功。1945年1月7日には飛行第71戦隊の福田瑞則軍曹が操縦する四式戦が、アメリカ全軍第二位のエース(38機撃墜)であるトーマス・マクガイア陸軍少佐のP-38を撃墜している。この代償として最終的には四式戦戦隊を含む多くの部隊が壊滅し多くの犠牲を払ったとは言え、ようやく四式戦の存在に気が付いたアメリカ軍も「速度と上昇力に優れ、運動性も高く、被弾にも強い」と評価している。

ビルマの戦い(ビルマ航空戦)では飛行第50戦隊が1944年9月から四式戦に機種改編。改編当初は故障が続出したものの、一式戦装備の飛行第64戦隊と共に12月31日に撤退する第15師団を追尾する連合軍機甲部隊の捕捉・攻撃(襲撃)に成功。のちの64戦隊長である宮辺英夫少佐はこの戦闘と四式戦に対し「(掃射では20mm機関砲の)威力が大いに発揮された」「まずは、四式戦のビルマにおける初のお手柄」と述べている。

上述のように「量産型の四式戦は満足に飛べないものすら珍しくない」という説もあるが、飛行第47戦隊は同部隊整備指揮班長を務め整備の神様と謳われた刈谷正意大尉のもと、戦隊内に指揮小隊を設けそこで戦隊機の整備に関する全てを掌握し、厳密なる飛行時間の管理、点火プラグの早期交換、定期的なオーバーホールなど、徹底的かつ適切な整備を施すことで部隊の四式戦稼働率を常時87から100パーセント、満州の飛行第104戦隊は再生潤滑油を使用せず、補給廠デッドストックのアメリカ産輸入潤滑油を用い稼働率80から100パーセントをキープするなど、四式戦を使いこなしている部隊があるだけではなく、本土より遙かに条件が劣悪なフィリピンにおける四式戦の稼動率は三式戦はおろか一式戦よりも高かったという記録も残されている。ただ、このような整備方法は欧米諸国では一般的に行われていたので、四式戦の発動機自体がどうこうと言うよりもむしろ、それを扱う整備士の教育が立ち遅れていた側面が大きい。

その後も沖縄戦(菊水作戦)や日本本土防空戦にも投入されたが、既に多くの熟練操縦者を失いさらに戦局自体もますます悪化した末期には散発的な戦果に留まり、更に最末期には本土決戦(決号作戦)に備え兵器は温存され、迎撃も控えられていたために大きな戦果を挙げることは出来なかった。1945年8 月13日には沖縄から朝鮮に飛来してきたP-47に対し、機数に勝る京城飛行場の第22戦隊と第85戦隊の四式戦が迎撃したものの一方的な敗北を喫した。フィリピン戦末期(アメリカ軍のリンガエン湾上陸後)や、沖縄戦においては、部隊マークとしてドクロを描いた事で有名な第58振武隊他、四式戦で編成された特別攻撃隊も出撃している。

また、満州では、1945年8月9日にソビエト軍が侵攻したが、8月12日と終戦の日である8月15日の2度にわたって、飛行第104戦隊所属の四式戦が、同じく満州に展開していた独立飛行第25戦隊所属の二式複座戦闘機「屠龍」とともに、侵攻してきていたソビエト軍機甲部隊に対し、「タ弾」による攻撃を行ない、戦車やトラックなどの軍用車輌数十輌を破壊・炎上させる戦果を挙げている。なお、海軍空技廠に初期生産の2機が海軍の研究用として正式に譲渡された。陸海軍の機種統一を検討してとも言われるが詳細は不明。これらは終戦時まで残置しており、写真も残されている。

現存機

アメリカ軍がテストに使用し、その後レストアされた四式戦が現在鹿児島県知覧の知覧特攻平和会館に展示されている。なお、この保存機は当初は飛行可能であり、1973年(昭和48年)の入間基地への里帰り当時は華麗な飛行でファンの目を楽しませた。その後本機は栃木県宇都宮市の日本人オーナーに買い取られ、オーナーの死後は京都の嵐山美術館に売却され同地で展示される事となるが、劣悪な管理状況により飛行不能となった。本機を日本へ譲渡したアメリカの私設航空博物館のドン・ライキンスはこの状況を聞いて譲渡したことを深く悔いており、その後も復元を行ったマロニー博物館では、他の機体数機(同じく世界で唯一現存する雷電を含む)との交換で良いので還して欲しいとコメントしている(現時点ならまだ動態復元が可能であるという理由から)。

なお、飛行不能となった経緯については、野外展示だったため「展示がずさんなため部品の盗難にあった」、「機体の腐食やエンジンの破損が進み飛行不可能な状態となった」、「輸送のために機体をガスで切断した」などと言われているが殆どが正確とは言えない。盗難に遭ったのは事実であるが、それは元々機体から容易にはずせない部品を強引に取ったというものであり、容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていた。機体やエンジンに関しては、嵐山美術館閉館に伴い四式戦と共に南紀白浜に移転し、海岸そばでの展示のために腐食が悪化した零戦六三型と同じ理由である。機体分割に関しては、正規の方法で分解されている機体を、それと知らないまま言われているものである。おそらくは同じ知覧特攻平和会館展示の三式戦二型や、靖国神社遊就館の彗星などの保存機(いずれも一度ガス切断されている)と混同されたものと思われる。

さらに詳しく → 四式戦闘機



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