山本五十六(やまもといそろく) - 真珠湾攻撃の背景と経過

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2010/03/29(月)
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山本 五十六(やまもと いそろく、1884年(明治17年)4月4日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。

生涯

明治17年(1884年)、新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた(ちなみに、母親も45歳と高齢だった)。当時のフルネームは高野五十六。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業後、明治34年(1901年)に海軍兵学校に次席入学。

明治37年(1904年)、海軍兵学校を卒業。席次は7番。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗艦していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。

大正4年(1915年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する(→「山本家の相続」の節を参照)。以後山本五十六を名乗る。大正5年(1916年)、海軍大学校を卒業。

海軍次官を経て、昭和14年(1939年)8 月30日、 中将の山本は、聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。次官当時からの懸案事項であった日独伊三国軍事同盟に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。

またアメリカとの国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」(原文のまま)と発言している。

開戦決定以後は短期決着のため、特に航空機に力を入れる。その結果、真珠湾攻撃に始まる、大東亜戦争(太平洋戦争)初期は日本軍を有利に展開させ、国内では英雄として扱われる。

昭和17年6月、戦略目的の不明確なミッドウェー作戦を強行し、空母4隻とその全艦載機を喪失するという大敗北を喫した。その敗因には、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に、霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻の貧弱な護衛艦しかない南雲機動部隊、その540kmも後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、鳳翔、千代田の空母2隻、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、瑞鳳、千歳の空母2隻、水母1隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという、戦艦重視の聯合艦隊の編隊や、龍驤、隼鷹の空母2隻を中心とした部隊をアリューシャン方面に向かわせるという陽動作戦も挙げられる。しかし指揮官の山本は責任を追求されず、その後もその地位に留まった。

昭和18年(1943年)4 月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、米軍に通信文を傍受されたため乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死した(海軍甲事件)。遺骨はトラックに一旦運ばれて、その後内地に帰還する武蔵によって日本本土に運ばれた。勿論乗員には秘密にされたが、長官室周囲に立ちこめた線香の匂いに、その事実を悟った乗員も居た。

山本の死は一ヶ月以上秘匿され、5 月21日の大本営発表で公になった。同年6月 5日、日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。また、ドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与(5月27日授与)される。この勲章の受章者は159名しかおらず、山本は唯一の外国人受章者である。なお、山本は歴代の聯合艦隊司令長官で唯一の戦死者(山本の後任長官の古賀峯一大将は殉職扱い)である。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。墓地は東京都府中市の多磨霊園7番特別区に茨城県産出の真壁小目で建立されている。

年譜

* 1904 年(明治37年) - 海軍兵学校を卒業。日露戦争中日本海海戦に参加し、指を失う。
* 1905 年(明治38年)8月31日 - 任海軍少尉。
* 1907 年(明治40年)9月28日 - 任海軍中尉。
* 1909 年(明治42年)10月11日 - 任海軍大尉。
* 1910 年(明治43年)12月1日 - 海大乙種学生。
* 1914 年(大正3年)12月1日 - 海大甲種学生。
* 1915 年(大正4年) - 牧野忠篤子爵の口添えがあり山本家を相続(→「山本家の相続」の節を参照)。
o 12月13日 - 任海軍少佐。
* 1919 年(大正8年)
o 4月5日 - アメリカ駐在、ハーバード大学に留学(~1921年5 月5日)。
o 12月1日 - 任海軍中佐。
* 1923 年(大正12年)12月1日 - 任海軍大佐。
* 1924 年(大正13年)12月1日 - 海軍霞ヶ浦航空隊副長。
* 1925 年(大正14年)12月1日 - 駐米武官となる。
* 1928 年(昭和3年)
o 8月20日 - 軽巡洋艦五十鈴艦長。
o 12月10日 - 航空母艦赤城艦長。
* 1929 年(昭和4年) - ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加。
* 1929 年(昭和4年)11月30日 - 任海軍少将。
* 1930 年(昭和5年)12月1日 - 海軍航空本部技術部長となる。
* 1933 年(昭和8年)10月3日 - 第一航空戦隊司令官。
* 1934 年(昭和9年)9月7日 - ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表に任ぜらる。
* 1934 年(昭和9年)11月15日 - 任海軍中将。
* 1935 年(昭和10年)12月2日 - 海軍航空本部長に就任。
* 1936 年(昭和11年)12月1日 - 永野修身海相の下で海軍次官になる。
* 1937 年(昭和12年) - 米内光政海相のもとで次官留任。
* 1939 年(昭和14年)8月30日 - 連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に親補される。
* 1940 年(昭和15年)11月15日 - 任海軍大将
* 1941 年(昭和16年)12月8日 - 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦。真珠湾攻撃は山本の発案と言われている。
* 1943 年(昭和18年)4月18日 - ブーゲンビル島上空で、乗機が撃墜され戦死(海軍甲事件)。

山本五十六の評価

* 兵学校卒業時に教官より「もっと喋れ」と注意され、自身に対しても「温にして直」と戒めている。しかし、知己には明るく冗談好きで、上の人とはしっかり付き合い、下の者に対しては人情味があり礼儀正しく、面倒見もよかったので同僚や部下からの信頼が非常に高かった。
* 当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していた。
* 航空機に早期から着目し、陸上機爆撃機を加えた海軍航空隊育成に尽力した。
* 日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとした。

等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。

とりわけ、太平洋艦隊司令長官だったチェスター・ニミッツは、い号作戦での前線視察の予定を暗号解読で知ったとき「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」と判断し、殺害計画を実行させたほどである。

彼の教育者としての側面は現在でも高く評価され、彼の遺訓である「男の修行」は、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊各教育隊の教育方針として引き継がれている。

一方、山本に対する否定的な意見としては下記の事項が中心となっている。

* 軍令部の作戦計画を退け、連合艦隊主導の攻勢作戦を立案し実施した。
* その補給の乏しい航空機を主体とする独断専行の攻勢作戦は国力の限界を超えるものであった。
* 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様にその作戦計画は、投機的な危険を伴う作戦であった。そして真珠湾では事前の準備から見事な戦果を上げたが、肝心の空母を撃ち漏らした。一方でミッドウェーでは、杜撰な作戦準備から大損害を出している(もっとも、山本長官をさしおいてミッドウェー作戦の許可が出された可能性がある)が、ともに投機的(のるかそるかの「博打」)でありすぎた。
* 麾下の各艦隊司令長官、戦隊司令官に対して適材人事改革を行なわず、賞罰において、(兵学校出身者のエリート集団の団結を重んじるがあまり)失敗した部下に対する責任を曖昧にした。これは後に作戦の分析・評価が機能しない土壌を生み出した。
* 米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮とは言えない。

これらの理由により、平均点以下の「凡将」あるいは「愚将」であったとする辛辣な評価を下す意見もあるが、これに関しては、1948年の段階でサミュエル・モリソンが真珠湾攻撃を「愚手」と斬って捨てているように、比較的早くから出てきた見方でもある。

ただ山本五十六を米側のニミッツ長官などと比べると、空母部隊で旧態依然たる艦隊運用を行った事、戦艦対戦艦を「ぜいたくな戦い方」と言っていた事、マレー沖海戦で「プリンス・オブ・ウェールズは無理(沈まない)だろう」と言った事などから、海軍の航空主兵や航空機の運用を真に理解していたかには疑問を呈する向きはある。また、潜水艦を連合艦隊の作戦下に置いたことはあきらかな失敗であった。

山本自身主に軍政畑を歩いてきた人物であり、連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を当時の海軍大臣米内光政が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざける為に連合艦隊司令長官に任命するという避難的人事を行ったという事情もあり、実戦指揮能力の低さを批判するのは酷であるとする意見も少なくはない。実際、山本自身は連合艦隊司令長官に任官されることを拒み、吉田善吾海軍大将が海軍大臣に内定された際、吉田の下で日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望していたようで、米内海軍大臣に人事の撤回を強く要求している。

また、戦後発見された山本から友人に宛てた手紙等により、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にした上で、自身は海軍中央へ戻り軍政面で米内を支え、日米開戦の火消し役をしようと考えていたらしく、自らの実戦指揮能力に疑問を抱いていたとも言われている。幕末長岡藩の河井継之助同様に勝機の少ない戦いに反対しながら戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官と位置づけられる由縁である。

山本が日米開戦前に連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣あるいは海軍次官等の政治に意見を述べられる立場にいたのであるなら、その先見性と判断力をいかんなく発揮し、日米開戦を回避できたのではないかとする、山本五十六の軍政家としての能力を惜しむ意見も多い(例えば、秦郁彦なども戦略家としての山本には否定的であるが、軍政家としてはそれなりの評価をしている)。航空本部に勤務していたときには、九六式陸上攻撃機の量産化を始めるなどの業績をあげている。艦隊勤務の経験が浅かった故に、海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、航空戦を重視する主張を行い得たとする意見もある。

山本家の相続

山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流である。戦国時代には三河の小豪族として成長したが、桶狭間の合戦後に徳川家康が岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8 年(1565年)牧野家と山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1100~1300石の家格に定着した。

大政奉還後の越後長岡藩は、初め中立を模索したが新政府軍にこれが認められなかったため、奥羽越列藩同盟に加わって官軍と交戦した(戊辰戦争の北越戦争)が、近代化された兵力に勝る官軍に敗北。新政府から戦争責任を追及されると、藩主は新興の筆頭家老・河井継之助と譜代の上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として報告し恭順した。

河井は敗走中に傷死してすでに亡く、山本は捕われて処刑され、両家はともに家名断絶となる。しかし北越戦争の事実上の責任者は河井継之助で、彼が新興微禄の家老だったため、高禄譜代の上席家老だった山本帯刀がこれに添えられるかたちで犠牲にされたことは否めなかった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがあった山本家の家名再興を使命として尽力することになる。

山本家は戸籍の上では明治17年(1884年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」とされたうえ、その女子も死亡すると廃家となった。

再興が実現したのは北越戦争から半世紀以上を経た大正4年(1915年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男・五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたときのことだった。牧野忠篤子爵はこの31歳になる高野五十六の将来を見込んで、彼が山本家を相続するかたちで家名を再興することを提案したのである。

高野家は元々信濃上田藩の家臣であったが、慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となった。その後延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をしたことを機に、以後代々高野家は山本家と深い関係を持つようになり、100~150石の大組(上級藩士)として郡奉行・勘定方支配・取次格などを務めるまでになった。北越戦争の敗戦で河井・山本の両家老家が廃絶となると、代わって戦後処理で活躍した。

逸話

人物像に関するもの

* 山本は博打が好きで、腕前もかなりのもので、特にポーカーやブリッジに強かった。山本曰く「博打は一ドルなら一ドル出して自分の言葉に責任をもつこと」「博打をしないような男はろくな者じゃない」。ちなみに山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったと伝えられるが、そのモナコではカジノ協会から出入り禁止令を受けている。真珠湾攻撃を投機的と心配した昭和天皇に対して永野が「山本は博打につようございますから」と釈明したという。山本の博打好きは、山本の親友であった今村均によっても戦後、証言されている。毎週末に山本、今村、安達二十三らのどれかの家でポーカーが開かれていたと今村は語っている。
* 大和を旗艦としていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させた、というエピソードが伝わっている。また、武蔵に旗艦を移した後、休憩時間に甲板上で幕僚らとビールを賭けて輪投げに興じ、彼が一番強かった、というエピソードが『戦艦武蔵』(吉村昭著)に紹介されている。
* 旗艦乗り組みの下士官兵の間では、艦内で出会った際に敬礼すると、ほとんど同時に正確な挙手の答礼を返してくる、と言われていた。
* 山本は逆立ちを得意としていた。逆立ちに関する逸話としては「アメリカ行きの船の中で催されたパーティーで、階段の手摺の上で逆立ちを披露した」「妙義山頂の岩の上や急流下りの舟の舳先などで逆立ちを行い、皆がハラハラする様を楽しんだ」といった話が伝えられている。
* 当時の海軍軍人の例に洩れず、山本も女性関係が派手だった。女性に対して細やかな気配りを見せ、得意の逆立ちで宴席の場を盛り上げる等、花柳界ではかなりの人気者だったらしい。その一方で山本は下戸であり、一説によると彼の徳利には番茶が入っていたという。また新橋に愛人をかこっていたと言われる。
* 山本はナショナルジオグラフィック協会の会員でもあり、ナショナルジオグラフィックを購読していたらしい。
* 山本五十六の語録に見られる「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」や「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」の「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。「やってみせて…」は上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。また「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」と述べ、ステレオタイプの印象で若者を否定する年長者を諭す言葉も残している。
* アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談半分に答えたという。
* 他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている。

主張・意見に関するもの

* 山本はロンドン海軍軍縮会議の次席随員として派遣されたが、現地で最も強硬に対米7割を主張して若槻禮次郎全権を困らせ、大蔵省から派遣された賀屋興宣が、財政面から軍備の大きい負担には堪えられないという旨の意見を言おうとした際に「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」などと怒鳴りつけ、青褪めた賀屋が慌てて言葉を飲み込んだという逸話がある。
* 佐藤賢了によると、大東亜戦争開戦直後に岡敬純が本来御前会議に提出する筈だった資料を佐藤の下に持ち込んだ事があり、その資料のデータからはとても戦争を遂行するのは不可能であると判断せざるを得ないようなものだった。会議に提出した資料のデータは山本が勝手に書き換えたもので、佐藤は岡に対して「どうして反対しなかったんだ!」と怒鳴りつけたが、岡は「海軍の中で誰も山本に楯突く事はできない」という旨の答えしか返せなかった。この事から、佐藤は生涯山本の事を許さなかった。
* 東郷平八郎に対しては、自身の同志や友人を海軍から追放した経緯から否定的な感情を抱いていたとされる。東郷神社が建立された際、「面倒臭いことをやって貰って神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ」と周囲に皮肉交じりに語ったと伝えられている。その為か、真珠湾攻撃の成功により海軍内で自らが軍神の如く神聖化されて扱われる事に対し、「俺は神様でも何でもないんだ」と述べ不満を持っていたと云う。昭和18年の自らの戦死後、周囲が“山本神社”を建立しようと動いた際(下記【山本に関する史跡の項】参照)には、山本の遺志を知る人々がその動きを封じ込めた。

戦死に関するもの

* 戦死時、山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の某小隊長の証言として、『山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた』としている。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この二名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた。つまりこれが本当だとするならば、不時着から暫くは両名生存していたと言う事になる。
* 軍医の遺体検死記録によると『死因は戦闘機機銃弾がこめかみ(眦とも)から下アゴを貫通した事によるもの』という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されている。しかし山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38戦闘機の機銃の口径は12.7mmであり、検死記録の事実通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず。こういった疑問点から『山本自決説』『第三者による射殺説』が論じられる事がある。

その他

* 一説によると長岡空襲は、当地が彼の故郷であったというだけの理由で行われた。しかしこれを断定できるだけの史料は、米国公文書館には存在していない。山本五十六の故郷が新潟県長岡であるとの記録が残るのみである。しかしながら、米国マスコミの取材に、当時の軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたとエピソードを語っている映像がTVで報道されたことがある。
また長岡空襲を紹介した書籍・文献などに山本五十六の故郷だから、空襲が行われたともいうとの記述が散見される。長岡空襲は、市民を怯えさせるように大量の焼夷弾がB-29から落とされて、市内の約8割を焼き尽くしたが、軍施設・公共施設より市街地が中心に狙われるなど、一般の空襲と目的が違っていたことが伺える。但し、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設があり、長岡空襲は、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。
* 山本の映像は戦死直前にラバウルで撮影されたものと、海軍病院船氷川丸を訪問した時のものが残っている。前者は日本ニュースで紹介され、後者は記録映画「海軍病院船」で見ることが出来る。
* 肉声はロンドン海軍軍縮会議(1934年の第二次軍縮予備交渉)の代表を務めた際に、当時開設されたばかりの日英間無線電話(国際電話)を介して録音されたものだけである。国葬当日の夜に特別番組「在りし日の山本元帥」の一つとして放送された他、旧海軍軍楽隊メンバーが集まって録音した行進曲集のレコード・CDにも東郷平八郎のそれとともに収録されている。音質が非常に悪いが、大まかな内容としては、前半では交渉団が日本を出発した翌日(1934年9 月21日)に襲来した室戸台風の被害にあった人々への見舞いの言葉と復興を願うコメントを述べ、後半では山本自身や松平恒雄を含めた関係者が総力を集めて交渉成立に向けて全力を注いでいる、といったものである。なお、録音の中で山本は「海軍少将」と言っているが、渡英中に海軍中将に昇進している。

さらに詳しく → 山本五十六  海軍甲事件  真珠湾攻撃  フランクリン・ルーズベルト  日独伊三国軍事同盟  二・二六事件



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