中国共産党による東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)弾圧の実態

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2010/03/25(木)
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東トルキスタン(ひがしトルキスタン)は、テュルク(突厥)系民族が居住する中央アジアの地域、すなわちテュルクの土地を意味するトルキスタンの東部地域を指す地域概念。現在では中華人民共和国領新疆ウイグル自治区に相当することから、中国領トルキスタンとも言う。また東トルケスタンとも呼ばれる。南にチベット自治区および青海省、東に甘粛省、北東にモンゴル国と接しており、北西から南西にかけては、カザフスタン、キルギス、タジキスタン等西トルキスタン地域と呼称される旧ソビエト連邦領中央アジア諸国、インド・パキスタン間で係争中のカシミール(アクサイチン)地方などと接している。

歴史

近代以前

東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。タリム盆地の辺りには古くは疏勒、亀茲、焉耆、高昌、楼蘭などの都市国家が交易により栄えたが、しばしば遊牧国家の月氏や匈奴などの影響下に入った。前漢の武帝の時代に匈奴が衰えると今度は前漢に服属し、以後は北方の遊牧国家(突厥など)と東方の諸帝国(唐など)の勢力争いの狭間で何度か宗主が入れ替わった。タリム盆地の都市国家郡は7世紀ぐらいまでは存続し、以後は数百年かけて徐々に衰退していった。

一方、タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていた。しかし、突厥の支配時代にテュルク系民族集団の鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、今日では遊牧ウイグル帝国と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、安史の乱等ではしばしば唐を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めた。

遊牧ウイグル帝国は840年に崩壊する。これによって、モンゴル高原より逃亡したウイグル人は天山山脈北麓に天山ウイグル王国を建国し、同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教に改宗すると、イスラム化が進んだ。

カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝は金に敗れて西遷してきた遼の皇族耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイ又は西遼などと呼ばれている。カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。

13世紀に入ると、モンゴル高原を統一したチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が強大化し始めた。この頃になるとカラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、天山ウイグル王国はいち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。この判断は結果的に正しいものとなり、間もなく中央アジアの全域がモンゴルの勢力下に入ることとなる。

その後、モンゴル帝国は極東から東ヨーロッパに到る大帝国を建設したが、モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子オゴデイ系の領地(オゴデイ・ハン国)と第二子チャガタイ系の領地(チャガタイ・ハン国)に別れていた。やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫カイドゥは、モンゴル帝国の宗主たる元のフビライに公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。その後、東トルキスタンは長らくモンゴル系領主の支配を受けた。16世紀にウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立したが、この支配者もチャガタイ系であった。

ヤルカンド・ハン国は、17 世紀に北方からやってきたオイラト族のジュンガル部に滅ぼされた。さらに、18 世紀なかばにはジュンガルが清により征服され、その支配下に入った。清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」などと呼ばれた。

19世紀の後期、西トルキスタンのフェルガナ盆地を支配していたコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。しかし、間もなく清は欽差大臣の左宗棠を派遣して再征服に成功した。この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、1884年に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった(新疆省)。結果的に見れば、この時期の一連の出来事が21 世紀に至るウイグルの歴史に決定的な影響を与えることとなった。

辛亥革命によって清が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力の新疆省がイリ地方を取り込んだ。この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットとモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流を表明することとなった。ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国のような状態であった。

東トルキスタン共和国

また1944 年 - 1946年の東トルキスタン共和国をはじめ幾度かウイグル人主体の独立政権が試みられた。

中華人民共和国

1949 年の中国共産党による中華人民共和国成立に際して統合され、その支配下に入った(ウイグル人にとっては漢族による征服)。1955年には新疆ウイグル自治区が設置された。しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府主導のもとで行われている。

1964 年から中国政府は新疆ウイグル自治区にて、これまで46回におよぶ核実験を行い、放射能汚染による健康被害や農作物への影響が指摘されている。研究者による推計によると同自治区のウイグル人を中心に19万人が死亡しており、健康被害者は129万人とされている。このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモットにされた」と訴えるウイグル人も現れている。ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっており、漢人であってもウイグル自治区に30年以上滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となっている。また、先天性異常のために歩くことも話すこともできない障害児ばかりが生まれる地域もある。

さらに詳しく → 東トルキスタン  中国共産党  ウイグル人  世界ウイグル会議


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タグ : 紛争 ウイグル 東トルキスタン 新疆ウイグル自治区 中国共産党 東トルキスタン紛争

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