真実の近現代 チベット編 【小林よしのり】

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2010/03/17(水)
*チベット侵攻 (1950–1951) アイリス・チャン ホロコースト チベット 辛亥革命

中国共産党 マルクス主義 チベット動乱 ダライ・ラマ14世 

小林よしのり 非政府組織(NGO) 民族浄化 ABCD包囲網

チベット侵攻(チベットしんこう)とは、1950年から1951 年にかけて、中華人民共和国の中国人民解放軍が、チベットのガンデンポタン支配地域に侵略した戦争。中華人民共和国側はこれを「西蔵(西チベット)和平解放」と呼んでいる。これを契機として「十七か条協定」が中華人民共和国側から提案され、チベットは中華人民共和国に併合されてゆくこととなった。

一般情勢

チベットはユーラシア大陸の中央部に位置する険しいチベット高原にあった独自の文化圏であったが、清朝の時代の一時期には軍の駐屯を受け入れて保護国となり、また19 世紀にはイギリスの勢力下にあり、1904年にイギリス軍はラサに駐屯していた。しかし辛亥革命後にチベットは自立し、第二次世界大戦においては中立政策を保持していた。ただし第二次世界大戦におけるチベットは、中立政策を掲げながらもイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍へ、中華民国への兵站線を提供していた。

なお、当時のチベット政府ガンデンポタンは、チベット民族の居住地域全てを支配していたわけではない。18世紀始めの雍正のチベット分割により東部の領土を失っており、19世紀になってシッキムやラダックなども失っていた。つまり、当時ガンデンポタンが支配していたのは西蔵部分のみである。(詳細は「チベットの領域に関する認識と主張」参照。)この記事では便宜的に、チベットをガンデンポタン支配地域の意味で解説する。

当時のチベットの指導者は第14代ダライ・ラマであった。第二次世界大戦が1945年に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、中国国民党内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した国共内戦で先送りにされた。

国共内戦に勝利した、中国共産党の毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した1949年10 月1日の6週間後に、中国人民解放軍がチベット東部国境に移動しているという報告があった。そして1950年1 月1日に、中国国際放送(ラジオ北京)は「パンチェン・ラマ10世の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した。サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、としている。

さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言し、武力衝突は避けられないものとなった。1949 年の時点でチベットおよび西側の情報源では、この事件を一般に侵略と呼んでいた。例えば亡命チベット人のペマ・ギャルポは「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する。一方、中華人民共和国内では、この事件は、一般に「チベットの平和的な解放」(和平解放西藏)と呼ばれている。

この中華人民共和国によるチベット侵攻の動きに、アメリカ政府ではイギリスの代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による侵略に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。しかしアメリカは、朝鮮半島における状況が緊迫していたこともあり、自国の利権にあまり関係のない南アジアにおける紛争に深く関係することに積極的ではなかった。結果的にアメリカは8月にはチベットにインドを経由した極秘援助を伝え、チベット政府はこれを承諾した。

戦争経過

前哨戦

1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずはカムのダルツェドで足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドからカンゼまでの自動車道建設と地形情報収集であった。

1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。チベット人たちが殺されたが、チベット軍本体がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。ただし、中国人民解放軍首脳にとって兵士は消耗品にすぎず、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかった。

1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成した。チベット商人はこれを歓迎した。中国人民解放軍はカンゼを占領したが、従来の中華民国軍と異なり、規律が取れており、時には住民の雑用を手伝ったという。中国人民解放軍はカンゼに拠点を置いた。

侵攻開始

1950 年10月7日深夜、中国人民解放軍は、張国華将軍を指揮官として、「中華人民共和国側が中央チベットとの境界である」と主張するようになった、ラサの東方100kmの位置まで侵攻した。人民解放軍の兵力は2万人であったともいい、 4万人であったともいう。人民解放軍は東チベットに3方から同時に進軍した。

この進攻に対して、チベットに与した「義勇兵」を含め8000人のチベット軍が阻止を試みた。磴口ではムジャ・ダポンが率いる部隊が最大の火力であったブレン 303軽機関銃で応戦し、そこから100キロ南では中国人民解放軍が揚子江の渡河に成功してチベット軍の部隊50名を全滅させてランサムのチベット軍駐屯地に向かい前進した。そこからさらに200キロ南では中国人民解放軍は揚子江を渡河してマーカム・ガートク駐屯地を攻撃し、250名のチベット部隊を全滅させた。

翌10月7日にチベット北部でムジャ・ダポンの指揮下にあった小部隊は中国人民解放軍を揚子江で阻止していたが、ランサムの部隊はチャムドに向けて後退を開始しており、孤立しつつあった。10月8日にも中国人民解放軍の波状攻撃を阻止することに成功したが、作戦不可能なまでに戦力を失い、その夜間に指揮官は部隊を解散した。このことで中国人民解放軍はチベット北部で揚子江を渡河したために、磴口のムジャ・ダポンもチャムドまで後退を決意せざるをえなかった。

10月16日にチャムドで行方不明だった知事ンガプー・ンガワン・ジクメ(アボ)を捜索し、ラサへの交通路が中国人民解放軍に遮断されたために潜伏していたチャムド付近の寺院で発見した。ダポンはンガポに対して戦力を集中してラサへの交通路を確保することを主張したが、ンガポは反対して翌日の 10月17日に中国人民解放軍に投降した。そして十日間の抵抗の後にチベットは敗北した。もっとも、チベットの首都ラサから派遣された兵士は時としてカムの義勇兵を見捨てたこともあった。ダライ・ラマ14世側は、この戦闘におけるチベット軍の戦死者を4000人以上としている。戦後のチャムドでは反目しあっていた部族間で略奪や殺戮が始まり、町は地獄と化した。

チャムドから緊急の無線がラサ政府に向けて発せられていたが、彼らはたまたま実施中のピクニックを中断することもなく、インドその他に事態を知らせることもなく、いわば黙殺した。ラサ政府はあくまでも中央チベットさえ守られればよく、事態が中央チベット国内に伝わることでの混乱を恐れていたとも考えられる。たまたまインドにいたチベット代表団に対してインドのメディアが中華人民共和国による侵攻について質問すると、「そんな事実は無い」とそっけなく否定し、中華人民共和国の行動を黙認しているかのような態度を取った。一方中国人民解放軍は、「僧から歓迎される様子」や「降伏文書調印の様子」を写真に収め、メディアに提供するというプロパガンダ活動を忘れなかった。

占領政策

10月25日、中華人民共和国政府は中国人民解放軍のチベットへの進駐を宣言した。これはチャムド侵攻から17日も経ってからのことだった。翌26日、インド政府はこれを「侵略行為」として非難の政府声明を発表し、イギリス政府もこれを支持した。しかし両国はチベットへの軍事支援については触れず、実際に軍事支援を差し伸べることは無かった。

1950 年11月7日[24](あるいは10月17日[25])、摂政タクタ・リンポチェ・アワン・スンラプは引退し、テンジン・ギャムツォは成人の18歳に達しておらず(16歳)本人は望まなかったが、ダライ・ラマ14世として即位した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した。

同日、チベットのラサ政府は国際連合に対して中華人民共和国による侵略を訴えたが、国際連合は、国連軍を組織してまで関与していた朝鮮戦争への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かった。なおチベットは、国際連合の常任理事国である中華民国が独立国として認めておらず、自国領土として扱っていため、正式な独立国として扱われていない上、文書がチベット政府から直接でなくインドから発送されていたため、本物かどうか確認できなかったからでもあった。この事態に対し、サラエヴォとエルサルバドルがチベット擁護を訴えたが効果は無かった。

この様に、中華民国政府はあくまでもチベットを「自国領土」とする立場だったため、結果として、自らの敵国である中華人民共和国によるチベットへの侵略を結果的に弁護する形になった。なお、国連総会運営委員会は「チベットと中国、インドに平和をもたらすためにも国連の場で討議することはふさわしくない」として、審議の延期を決めた。

1951年、ダライ・ラマはアボ・アワン・ジグメ他数名を、中華人民共和国側にチベットの意志を伝えるために同国の首都の北京に派遣した。ただし、あくまでチベット側の言うべきことを相手に伝えて交渉を始めるために派遣したのであり、アボらが絶対に勝手に中華人民共和国側と協定類を結んだりしないようにと、ダライ・ラマは国璽を手元に念入りに保管しておいて派遣したのである。

ところが、中華人民共和国側は北京にやってきたアボらを脅迫・恫喝して、協定というよりも、最後通牒の形で、あらかじめ中華人民共和国側が作成しておいた「十七か条協定」なるものを一方的に提示し、全権委任もされてもおらず、条約を結ぶ権限を与えられてもいないアボに強引に署名させようとした。さらに中華人民共和国側は、アボらが国璽どころか各自の判すら持ってきていないことを知ると、ニセの国璽や判を急遽作成し、ダライ・ラマと連絡をとらせもせず、そのニセの国璽やニセの判を用いて1951年5 月23日、とうとう強引に署名させた。

5月26日には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてアボにより協定署名の件が放送された。(この合意について国連は、1959年の「チベットの地位に関する法律会議」で無効としている。)ダライ・ラマ14世はチベット南部のヤトンに避難していたが、持っていたラジオで中華人民共和国側が流しているアボによるチベット語放送を聞いて、非常に驚いた。そもそもアボらには権限を与えていなかったし、協定を結ぶのに必要な国璽は持たせていなかったから、そんなことはそもそも不可能なはずだったからである。

1951年7月、協定に調印したチベット外交団(アボを除く)と中国人民解放軍ラサ駐留司令官の張経武将軍がヤトンを訪れ、ダライ・ラマ14世に条約の有効性を認めるよう求めた。アメリカはダライ・ラマ14世に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけていたが、多くの僧侶がダライ・ラマ14世のラサ帰還を望んだため、結局ラサに戻って協定に基づいた改革をはじめることとなった。

1951年9月6日、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにラサに戻り、その3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり、 9月末には議会で承認された。 1951年10月24日、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」旨の手紙を毛沢東に送った。この手紙はその後中華人民共和国の中国共産党政府が正当性を主張するのに大いに利用された。

「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があった。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。中華人民共和国側はチベットに実質上の自治を与えるかのような態度を見せ、「ダライ・ラマをチベットの『元首』と認め」、チベット代表達を安心させる発言を繰り返した。しかし1956年初旬に中華人民共和国内からチベットにつながる幹線道路が完成すると、直ちに中国人民解放軍による攻撃が再開され、チベットの反乱を呼ぶこととなった。

チベットの人口の一部は、昔から農奴であり、チベットの裕福な僧院や貴族が所有する土地に縛りつけられている者が多かった。しかし亡命チベット人は、「農奴はチベット社会のごく一部であって、チベットは最終的には中国の干渉を受けることなく近代化を達成できたはずだ」と主張した[要出典]。一方、中華人民共和国政府は、「1951年の時点ではまだほとんどのチベット人が農奴であり、また、1913年から1959年の自治の間、チベット政府はチベット発展の阻止を宣言しており、中華人民共和国政府の提案した『近代化努力』のすべてに反対した」と主張している。

反乱開始

「十七か条協定」は、当初、旧チベットの領土内でのみ施行されていた。しかし、カム東部やアムド、つまり、中華人民共和国の行政区分で言えば西康省や青海省の行政区は、ラサのチベットの政府の統治外にあったので、中華人民共和国の他の行政区と同じように扱われ、土地の再分配が完全に実施された。

また、決定的だったのが中華人民共和国の中国共産党政府がチベットの宗教を「有害」と見做して一切の寺院と僧侶を除去すること、そしてあらゆる神が搾取の道具だということを宣言した。その結果、1956年6月には、アムドやカム東部で当地の多くの成人男性が山岳地帯のゲリラ組織「チュシ・ガンドゥク」に加わり、反乱が発生した。

この反乱は、アメリカ中央情報局によって軍事兵站や軍事教育などで支援されており、これは「セイント・サーカス作戦」と呼ばれていた。選抜されて渡米したチベット人が訓練所で不正規戦の教育を受け、1950年代に日本の嘉手納基地を経由してチベットにパラシュート降下で潜入している。

当時のチベットにはバータン、リータン、カンゼ、デゲに中国人民解放軍の駐屯地が設置され、約4万名、民兵を加えれば6万の戦力が配備されていた。しかしながらチベットのカンブー族は駐屯地を接続する交通路に対して継続的な攻撃を加え、兵站路を破壊した。

リータンが最初に陥落し、守備部隊は撃破された。続いてバータン、チャムド、デゲにも攻撃を加えてこれらを占領した。詳細は不明だが、ゴロキ族の部隊は中国人民解放軍の3個連隊を殲滅したと推測されている。最終的にはチベットに繋がる道路は中華人民共和国西部からアクサイチン砂漠を越える一本だけになった。

反乱はカンブー族の指導者ゴムポ・タシ・アンドラグツァンにより組織化された。ただダライ・ラマは平和主義の精神から武力行使を容認できず、また失敗すると信じていたために1957年にダムポ・タシの支援を断っている。ダムポ・タシはカンブー族、アムド族、ゴロキ族などから構成される抵抗組織「四つの河六つの山脈」(チュシ・ガンドゥク)を組織し、各部族の活動領域、指揮官、装備、攻撃目標選定などについて合意した。

「四つの河六つの山脈」は4月にラサで、ダライ・ラマを守護する時がきたときに中国人民解放軍に挑む攻勢作戦か、それともチベット各地でゲリラ活動を続ける防勢作戦かを仏前のくじ引きで選び、前者と決まった。そしてゴムポ・タシの指揮下に「国民志願防衛軍」が組織され、インドから多くの装備を調達したが、それでも物資の不足は深刻であった。しかし 1957年初頭には、国民志願防衛軍が攻勢をしかけ、中国人民解放軍の前哨地点を襲撃して圧倒していた。

その後生命の危機を感じたダライ・ラマが、中国人民解放軍の目を逃れてインド国境に向けてラサを脱出すると、中国人民解放軍は3月24日にラサを攻撃して多くのチベット仏教寺院が破壊され、これに反発してチベット人の一部が武装して反乱を起こした。この反乱はチベットの正月と祭典で人が多かったことから2万5000名の僧侶が拘束され、ダライ・ラマが捜索された。ダライ・ラマのインド亡命が明らかになると、インドと中華人民共和国の緊張は高まった。この頃には反乱活動に対して中国人民解放軍は10万名にも及ぶ大規模な陸軍力と航空部隊を投入し、反乱勢力は度重なる敗北により戦力を失う。

そして1971年に、冷戦下でソビエト連邦との対立を深めていたアメリカのリチャード・ニクソン大統領が、同じくソ連との関係が悪化していた中華人民共和国との関係の改善を進め、中華人民共和国によるチベット侵略と併合を黙認し、その結果チベットは中国人民解放軍によって完全に占領され、反乱勢力のほとんどが鎮圧されてしまった。以後、チベットは反乱活動を(インドからの支援を受けながらも)独自に継続せざるをえなくなった

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