【チリ・クーデター】 - もうひとつの9・11(1973 Chilean coup d'état)

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2010/03/16(火)
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チリクーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9 月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。選挙によって合法的に選出された政権を軍事力で覆した例として有名である。クーデターを起こして成立した軍事政権は、自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、1989年の国民投票により、冷戦体制とほぼ同時に崩壊した。

概要

冷戦においてサルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合(Unidad Popular)は1970年自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に反発した富裕層や軍部、そしてホワイトハウスに支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発し、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)将軍らの軍部がクーデターを起こした。

首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデ大統領は最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に殺された(後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と言っているが、実際にはモネダ宮殿ごとダイナマイトで爆破されたため、誰も遺体を確認できていない。モネダ宮殿に籠城した銃撃戦のもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底的に戦う姿勢が示されており、今日では自殺説は説得力を失っている)。

以後、軍事政府評議会による独裁政治が始まり、芸術家や労働組合指導者、学生など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。尚、一般に「9・11」というと2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリクーデターを指す事も多い。

1970 年選挙

人民連合は社会主義者として知られるアジェンデを、国民党は元大統領のホルヘ・アレッサンドリ(Jorge Alessandri)を、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチ(Radmiro Tomic)を擁立。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。

冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したホワイトハウスはこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。しかし、陸軍総司令官レネ・シュナイダー(René Schneider)将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、これを拒否。決選投票直前の10月22日、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー(Roberto Viaux)将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。

アジェンデ大統領の任期中

諸改革が行われ、当初は経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を越え、大統領選当時より大幅に支持を伸ばした。しかし、反共主義を掲げるテロ組織が次々に誕生するなど次第に政情が不安定化する。

また、アメリカが経済制裁や右翼勢力に対する公然非公然の支援などによって政権打倒の動きを強める。特に、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことが、チリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。また、国有化政策や社会保障の拡大などの経済改革はインフレと物不足を引き起こし、その結果、政権末期には、チリ経済は極度の混乱状態に陥った。

しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。

これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による国家転覆を狙うようになった。1973年6月には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ(Carlos Prats)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれたことで、軍部のクーデターの動きに対する内堀が埋められた状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。

クーデター

1973年9月11日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。元々反アジェンデ派が優勢な軍部はほとんどがピノチェトに同調、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで大統領官邸(通称「モネダ宮殿」)は炎上した。

アジェンデ大統領は降伏を拒否し、炎上するモネダ宮殿内で、大統領警備隊以外の味方がいない中自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデ大統領に死因については自動小銃による自殺説、反乱軍によって殺害されたという説がある。

クーデター後、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・リー(Gustavo Leigh)、国家憲兵隊のセサル・メンドサ=ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会が発足した。政権を握った軍部はすさまじい「左翼狩り」を行い、多くの左翼系市民が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラ(Victor Jara)もいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼系市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda:チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。

日本では当時の政府・与党の他、民社党などが反共を大義名分にクーデターを支持した。民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデターの即日に社会主義国のキューバとの国交を断絶。社会主義国側も対抗して、次々とチリとの断交に踏み切った。社会主義国を名目とする一党独裁国家の中では、ルーマニアと中華人民共和国だけがピノチェト政権との外交関係を維持した。

クーデター後

多くの左翼系市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察DINAの爆弾テロによってブエノスアイレスで暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、75年10月には、キリスト教民主党の前大統領エドアルド・フレイ=モンタルバ(Eduardo Frei Montalva)の下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(Bernardo Leighton)が、妻と共に亡命先のイタリアで襲撃され、重傷を負う。

76年9月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエル(Orlando Letelier)が滞在先のアメリカのワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で爆殺された。この事件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、ジミー・カーター大統領が態度を硬化させ、一時関係が悪化した。その後、関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは1990年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。

これら一連の非公然のテロ活動は、DINA単独によるものではなく、チリだけでなくブラジル・アルゼンチン・ボリビア・バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権が非公然に共同して互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦の一環だったことが、今日では知られている。

国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。もちろん、ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を、公表しようともしなかった。

ピノチェトの独裁政権は、1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィン(Patricio Aylwin)が19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。尚、2005年9月、チリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられた。

さらに詳しく → チリ・クーデター  チリ  サルバドール・アジェンデ  アウグスト・ピノチェト  中央情報局(CIA)  ヘンリー・キッシンジャー  


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