被災者の証言と地図で知る東京大空襲

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2010/03/15(月)
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東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた一連の計画的かつ大規模な戦略爆撃の総称である。東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3 月10日、4月13日、4 月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年3 月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争(大東亜戦争)中に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に被害を与えた空爆である。

空襲の経緯

1945 年3月9日以前の空襲

1942 年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7 月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1 月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。

3月10日の空襲

3月10日の大空襲は、日本(当時は大日本帝国)の中小企業が軍需産業の生産拠点となっていると理由付けして、町工場も混ざる木造建築ばかりの下町の市街地、生活する市民そのものを焼き払うという低高度夜間焼夷弾攻撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。

1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオ放送を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、3 月9日から3月10日に日付が変わった直後(0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも攻撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)でも爆撃が開始されている。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上、竜巻並みの暴風が吹き荒れた。アメリカ軍が3月10日に東京大空襲を実施した理由は、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。但し、アメリカ側の資料では陸軍記念日を意識していたことは確認できていない。

東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、多くの爆弾投下機から殆どの機銃と弾薬を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この形は日本家屋の瓦屋根を打ち貫いて家の中に入り中身を散布するためで、縦にまっすぐ落ちるよう空中で体勢を制御するために吹流しのようなものを付けた。そしてこれらをまとめて一つの束にし、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼んだ。投下後空中で散弾のように分散するものである。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにのぼった。午前2時37分、アメリカ軍機は退去し、空襲警報は解除される。

当夜は強い冬型の気圧配置により強い北西の季節風が吹いており、この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

* もともと精度の悪い警戒用レーダーのアンテナを風が揺らしたため、ますます精度が悪化していた。これにより、確実な編隊の捕捉と敵の企図の把握が出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。また、敵機はウインドウを大量に散布するなどした。

* 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して、発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。着弾は高度爆撃よりはるかに精密になった。後続編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下予定地域ではない荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで広げた。このため、火災範囲は更に拡がった。

* 折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。

これら複数の要因が重なり被害が拡大した。

この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にした物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収された物を参考に開発された。当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または 0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。当時、都内では関東大震災を教訓に、燃えにくい素材で建物を補強するなどの対策がなされていたが、屋根瓦を貫き建物の中から燃やす仕組みとなっている新型焼夷弾E46の前では無力同然であった。

火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、超巨大な火災旋風が至る所で発生し、あらゆる場所に炎が火龍の如く流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。

水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ追い詰められた犠牲者が多いのに対し、逆に内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した生存者が多い。

被害

警視庁の調査での被害数は以下の通り。

* 死亡:8万3793人
* 負傷者:4万918人
* 被災者:100万8005人
* 被災家屋:26万8358戸

死者数は遺体が早期に引き取られた者は含まれておらず、他に行方不明者も数万人規模で存在することから、実際にはより多い。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。わずか一回の空襲で東京市街地の東半分、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失した。ちなみに、アメリカ側の損害は撃墜・墜落が12機と、撃破が42機であった。尚、アメリカ軍は関東大震災(1923年)を徹底的に検証、木造住宅が密集する東京の下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめ、そこを攻撃目標としている。よって、関東大震災と東京大空襲の被害地域が重なっていることは決して偶然ではない。

その後の空襲

その後も東京への空襲は容赦なく続けられた。4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、翌15日には大森・蒲田地区を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。 また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。

3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

大規模な実験

アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せるなどして精巧に作り上げられた。これらの実験によってクラスター焼夷弾開発の参考にされるなど、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃の際、効果的被害を与えることに成功している。

日本軍による迎撃

八丈島のレーダーは機影を捉えていたが、日本列島では猛烈な風のために本土防空隊は迎撃に出撃することができずにいた。その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に迎撃可能となり爆撃隊を迎撃した。その際の戦果と陸軍の高射砲部隊の戦果を合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた。 5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた。なお、この時墜落機の搭乗員の一人が逃亡途中で警防団員を射殺、逮捕された後に処刑されている(東京上野憲兵隊事件)。

米軍にとっての空襲

1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイント攻撃であった。なぜならハンセルはかつて日本軍が中国で行った無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからであった。しかし思わしい効果が上がらなかったため、翌年の1945年1月21日にカーチス・E・ルメイ少将と交代した。「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けたルメイは、大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、

1. 燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
2. 低高度(高度7000~8000ft,)からの焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
3. 爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。

というもので、「猛将」と呼ばれたルメイも流石に今回ばかりは、一睡もせずに攻撃隊の返事を待っていたという。

またルメイの「低く飛べ」と言う命令に兵士が「危ないですよ」と言うと、ルメイは葉巻を真っ二つに噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」と言ったという。しかし空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため、高度1万mに留まっていた飛行機もあった。基地に帰った後、ルメイはそのスケッチを満足げに受け取った。

「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」、「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのである」とルメイ自身証言している。一方で、「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」とも語っている。

その後

戦争犯罪

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし、日本国政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。

ところが、東京オリンピックから2ヶ月後の1964年12 月7日に、日本国政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したルメイに対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与した。これには、遺族からは勿論、左右両陣営からも批判の声が出た。しかし、真珠湾攻撃に大きく関わった参議院議員で元航空幕僚長の源田実は、当時この勲章授与を賞賛した。なお、源田はこれに先立ち、アメリカ合衆国政府から勲功章を受けている。これを以って、日米両国政府が真珠湾攻撃と日本本土空襲の責任者を相互免責し、日米同盟の強化を図ったとする見方もある。

ルメイは後年、「自分たちが敗けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。ルメイの前任者であったハンセル少将は、高高度からの軍事目標への精密爆撃に拘った故に解任されている。無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ合衆国大統領たちの選択であったと言ってよい。

記録

3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、僅か33枚の写真に残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し自宅の庭に埋めて保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える大切な資料となっている(石川自身、本当はこのような写真は撮りたくないと言っていた)。なお、石川はほかにも1942年のドーリットル空襲から1945年5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。

慰霊

身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連の空襲による正確な犠牲者数は不明である。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名簿(1942年~1945年の空襲犠牲者)を納めている。

空襲を免れた地区

東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。

* 丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受け全半壊したが、空襲を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命館や明治生命館などがあったためと言う。

* 築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院があったからだとも言われる。

* 中央区の佃島・月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で壊滅状態となった旧・深川区(現在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。

* 墨田区京島地区も甚大な被害を受けた墨田区中央部の中で奇跡的に延焼を免れた一帯。空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な問題のある地域として懸念されている。

* ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近も空襲は受けていない。

* 神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定かではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、アメリカ軍は名古屋大空襲(5月14日の空襲で名古屋城が焼失)やドレスデン爆撃など文化財の破壊を躊躇せずむしろ好んで行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなった事による本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された。

* 皇居(宮城)は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿(明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。

さらに詳しく → 東京大空襲  カーチス・ルメイ  B-29



昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
(2009/06/11)
半藤 一利

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