特攻-神風特別攻撃隊

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2010/02/26(金)
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特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)とは、太平洋戦争末期に日本軍が編成した、生還の可能性の無い(主に航空機による)連合国軍艦艇に対する体当たり攻撃を実行するための部隊である。特攻隊(とっこうたい)・特攻(とっこう)と略す場合が多い。外国語においても「Tokko」(トッコウ)「Kamikaze」(カミカゼ)とは戦死を前提とした体当たり・自爆攻撃として通じている。

概要

特攻(=特別攻撃)とは、爆弾を搭載した軍用機や、爆薬を載せた高速艇等の各種兵器が、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たりする戦法である。太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、乗員が生還する可能性は皆無に等しく、(突入失敗で海面に激突し、奇跡的に助かった航空機搭乗員の例もあるが極めて稀なことであった)「突入」すなわち「死」を意味すると言えた。

背景には、太平洋戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下、近接信管(VTヒューズ)やF6F艦載機に代表されるアメリカ軍やイギリス軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。さらに台湾沖航空戦の結果、フィリピンでの稼動航空機数が激減し、少数の兵力で有効な戦果を挙げるために最も確率の高い方法として計画的に実行されたのが始まりである(部隊編成は19年初秋には始まっていた)。
最初の特攻隊として艦船に突入し軍神と畏敬された関行男中佐

レイテ沖海戦より始まった特攻であるが、「一機一隻撃沈」という事実は日米双方に衝撃を与え、硫黄島やウルシー・サイパンへの作戦を経て、沖縄戦において最高潮に達した。沖縄周辺に侵攻したアメリカ海軍やイギリス海軍、オーストラリア海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦大和以下の艦艇による“水上特攻”や回天、震洋などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。

結果として特攻は護衛空母3隻を撃沈、複数の正規空母を終戦まで戦列から去らせるなど相応の戦果を挙げ、戦後の米戦略爆撃調査団はその有効性をかなり高く評価している。フィリピンで特攻による損害を強いられた連合国軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。日本側はこの後も当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される本土決戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。

名称の由来

特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊(命名者は猪口力平)で、これは海軍航空機からなる特別攻撃隊である。名称の由来は元寇を追い払ったと言われる「神風」から、本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」第232号ナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ~」が定着した。あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」が使われる場合も多く、ウィキペディア各国語版もこの項目名に対し「カミカゼ」のローマ字読み(又はその語源での表記)である「Kamikaze」の表記を用いている。

背景

大日本帝国陸海軍は、日露戦争において白襷隊や旅順閉塞隊といった決死隊を編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすと言う目的で作られた部隊であった。

太平洋戦争中、組織的特攻作戦実施以前にも航空機による体当たり攻撃が自主的・偶発的に行われており

* 珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹の零戦が空母 翔鶴へ雷撃態勢に入ったTBD デバステーター1機を撃墜し、更にもう1機に対しては撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し撃墜、戦死。
* ミッドウェー海戦において、空母 飛龍から米機動部隊に向け発進した第二次攻撃隊の隊長、友永丈市大尉(戦死後中佐に特進)が米空母ヨークタウンに片道燃料で体当たりを敢行。
* マリアナ沖海戦において敵艦隊攻撃のために彗星に搭乗していた小松兵曹長が空母大鳳から発艦直後、アメリカ海軍の潜水艦から発射された母艦に迫る魚雷を発見し、魚雷目掛けて海面に突入。
* 1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。
* 1944年8月20日(神風特別攻撃隊誕生の2ヶ月前)のB-29の八幡製鉄所爆撃の際に、通常迎撃に出た陸軍第12飛行師団隷下飛行第4戦隊(二式複座戦闘機「屠龍」装備の精鋭防空部隊。第2飛行隊長は樫出勇)所属の野辺重夫軍曹機(同乗:高木伝蔵兵長。両名共にのち二階級特進、感状授与)が、「野辺、体当たり敢行!」と無線電話で地上本部と僚機に訣別電を発した直後に編隊先頭の梯団長機へ体当たりを敢行、2機(僚機1機は巻添え)を撃墜。

などの事例があり、自分を犠牲にして体当たりしてでも仲間や国民を護る、もしくは戦果を挙げるという行動は見られた。

また、既に形勢の決まっていた戦争後期に、本来地上で指揮をとる筈の第26航空戦隊司令官有馬正文少将(戦死後中将に特進)が、台湾沖航空戦において自ら攻撃部隊の空中指揮をとるとして、攻撃部隊の一式陸攻に搭乗し攻撃参加して未帰還、戦死するなど、特攻の下地は醸成されつつあった。後年、この有馬司令官の挺身攻撃が「特攻の先駆け」とも呼ばれるようになった。

日本軍では、東条内閣発足以来「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)という、捕虜に対する強い否定的意識が兵隊に訓育されていたことや、実際に真珠湾攻撃時に日本軍捕虜第一号となった酒巻和男少尉の存在を隠匿した海軍上層部(海軍省)に見られる様に、陸海軍共に捕虜となる事は恥であるとされ、負傷や乗機の損傷によって帰還が絶望的な場合は、自爆や敵に突入するという、他国の兵隊にはあまり見られない選択をする者が多かった。もっとも、連合国の国の兵士も、同じような状況に陥ったときに必ず降伏したわけではない。

特別攻撃隊には、1944年3月に計画した人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、人間爆弾船「震洋」、人間機雷「伏龍」と(後になって)呼称される特攻兵器も含まれており、例えば桜花を配備した特攻隊・神雷部隊の編成は、1944年9月に始まっている。つまり、 1944年10月の航空特攻の実施以前に様々な特別攻撃隊を準備することが決定していた。

海軍として最初の組織的な航空機による特攻作戦を発令したのは、大西瀧治郎海軍中将である。これは1944年10 月の台湾沖航空戦の敗北の結果、在フィリピンの大西中将が指揮する第一航空艦隊(一航艦)の稼動機数が僅か零戦40機程度に激減し組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力を活用する為である。

本来、一航艦はレイテ沖海戦において突入してくる連合艦隊の艦隊上空の護衛を行い制空権を確保する手筈になっていたが、前述の台湾沖航空戦で受けた大打撃により残存兵力では作戦遂行不可能になっており、この作戦目的を果たすためには敵空母部隊の飛行甲板を一時的にでも使用不能にさせ、敵の圧倒的な航空戦力を麻痺させて、敵航空部隊の空襲を阻止するしかなかった。この、敵空母攻撃をするにしても連合軍との兵力差は圧倒的であり、兵力が無い状態でこれを出来るだけ確実に遂行するには、爆撃機より速度の速い(敵迎撃網を突破しやすい)零式艦上戦闘機に積載上限一杯の250kg爆弾を積んだ上で、操縦者諸共体当たりすることにより命中率を上げることで行うしかなかったのである。大西は生還を全く見込めない戦法を自ら「外道の統率」であると認識していたが、アメリカ機動部隊の航空戦力を一時的に麻痺させることは栗田艦隊のレイテ突入支援に有効な戦法と判断し、実行を命じたのである。

大西は1942 年3月に海軍航空本部総務部長に就任して航空機生産に関わっており、部隊指揮からは遠ざかっていた。その彼が1944年 10月に、急遽フィリピンにおいて第一航空艦隊の指揮を命じられ、現場に着任直後に特攻隊の編成を命じている。神風特攻隊のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官である大西が独断で採用する権限はなく、源田実大佐他の軍令部が定めた特攻作戦を現場で実施に移したものと考えられている。

神風特攻隊の部隊名称も軍令部において編成前から決められていた。1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」は、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「大和隊」等をも併せて発表すべきこととされていた。特攻隊の部隊名称が軍令部からの指示で付けられ、戦果発表と同時に大々的に公表する方針が示されている。

特攻機として零式艦上戦闘機(零戦)の機体に250キロ爆弾を固定装備したが、縛ったままで爆発させる為に信管解除装置を改造した。爆弾には落下中の風圧で解除される風車式信管がついていたが、これを機上で解除できるように改造した。現場で兵器を勝手に改修、配備することは許されないので、やはり軍令部の承諾があったと考えられている。

海軍の神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の計24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。さらに連日のように各隊は出撃を繰り返すも空振りに終わり、23日に大和隊・佐藤馨上飛曹がスルアン沖の連合国軍艦船に突入(これも戦果未確認)。そして25日、敷島隊の関大尉(戦死後、中佐に特進)以下6機が、4度目の出撃で1機(一説には2機)がアメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営は大々的に発表、敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった。

陸軍の特別攻撃隊

陸軍の特攻作戦は、海軍の影響を受けてはじめられた。1944年(昭和19年)7月中旬には四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機の体当たり機への改修が秘かに進められた。陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、四式重爆)と万朶隊(鉾田、九九双軽)に始まり、その都度命名された。その当時の陸軍特攻隊指揮官は第4航空軍の悪名高い富永恭次中将である。

陸軍の最初の特攻隊の編成は鉾田、浜松教導飛行師団の腕利きを集めて行われた。鉾田の九九双軽は 26日にフィリピンに到着後万朶隊と名づけられた後、初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長の岩本益臣大尉以下5名が米戦闘機と遭遇し戦死。浜松の四式重爆はフィリピンに到着後富嶽隊と命名され、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。山本機は未確認ながらも突入したと推定されている。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して散華(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し佐々木伍長が戦後復員したほか全滅したが、航続距離を超えた遠距離目標を指示されて未帰還となるなど第4航空軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた。

沖縄戦では、第6航空軍(福岡)所属の振武隊と第8飛行師団(台湾)所属の誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は元陸軍航空総監菅原道大中将が務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から海上挺身戦隊など(マルレ)による攻撃も行われた。なお、第6航空軍航空参謀を務めていた倉澤清忠少佐の証言によると当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の戦闘部隊と志願によって戦闘する特攻部隊に区別し、特攻部隊には(決号作戦の為に航空機を温存する為に)九七式戦闘機などの旧式機が主に配備された。 

また、本特攻作戦は陸海軍合同のもと実施されたが、戦死特攻隊員数の陸海との大きな差に代表される様に、元々特攻作戦自体が上述の通り海軍主導によるものであり、陸軍は当初消極的であった事や、そもそも陸軍航空部隊の操縦者は陸軍航空という経緯や海軍航空との役割分担、太平洋戦争直前までソ連を仮想敵国としたものだったことから、陸上や沿岸部での運用をメインとした思想のもと航空機の設計開発、搭乗員の訓練がなされており、なんら目標の無い遠洋海上を天測によって自機の進路を決めるといった航法教育の分野も十分になされてなかった。そのため海上運用・対艦攻撃に適したものではなく、それ程大した戦果を望めなかった。同作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、航空機の故障などの理由によって帰投した605名は福岡県の振武寮に収容され、その存在は秘匿された。特攻隊員の生き残りは、その後、本土決戦のための特攻要員として全国に配備された。

終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍(東京)の指揮下で神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、1945年(昭和20年)8月9日には第255神鷲隊(岩手より釜石沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)、第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より下田沖に出撃)と3隊が出撃している。終戦時には、特攻出撃を前にしての敗戦や特攻の生還を悔いて、浅間山や伊勢湾などに愛機諸共に突入・自爆したり、自刃する隊員もいた。

編成(海軍)

航空特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。しかし、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。敷島隊の直掩を行ったのも当時のエース・パイロットの一人西沢広義少尉であった。一方で坂井三郎少尉のように歴戦の操縦者であっても特攻を命じられることもあった。

特別攻撃隊への参加者は本人の志願の上で司令部が選別する事とされたが、志願者が不足した場合、上官が指名せざるを得ない状況に追い込まれ、半ば強制的に志願させられた隊員もいたと言われる。一方で隊員のほぼ全員が「熱望」し(「熱望」・「希望」・「志願せず」から隊員が選択する)、志願者数がオーバーして編成に苦慮した部隊もあり、事情は様々だった。搭乗前に失禁、失神する隊員もおり、怖じ気づいて整備兵に抱えられて搭乗するものもいた。

一説として強制は陸軍に多かったとも言われるが、海軍の「第一号」の関行男大尉は志願ではなく(決して命令による強制はしてはならない、と言う事前の上層部の合意があったにも関わらず)上官の指名による事実上の強制であったとする文献もあるが、最終的には本人の決断によることでは一致している。一昔前の文献では指名されたその場で熟考の後即答したといわれているが、近年の文献では「一晩考えさせてくれ」と即答を避け、悩んだ末に家族を守るため(関は新婚だった)結局受け入れたとされ、食い違いがある。

「例え志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされ、そこから志願者を募ると言う事もなされている。

特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)の栄誉を受けることが原則であった。この様な進級制度の為、上層部には「どうせ通常攻撃でも戦死する可能性が高いのだから、特攻で確実に戦果をあげさせて特進の栄誉を与える」という考えもあった。特攻隊として全軍に布告された航空部隊(特に、九州沖航空戦時以降の海軍の第一線の実用機による作戦部隊)の搭乗員の戦死者の中には、編成・出撃時には通常攻撃を実施する部隊として扱われたものの、攻撃実施後に特攻隊(特攻戦死)扱いとされる形で全軍布告された事例も少なくない。

戦時中から見られる海兵出身の士官と予備士官の間での対立や待遇の差も多くあった。一例として、海兵出身の関行男大尉の戦果を特攻戦死第一号とし、関よりも4日前に未帰還となっていた予備士官の久納好孚中尉を特攻戦死第一号に認定しなかったところにも現れている。また特攻編成に際し海兵出身者は隊長クラスに1名に対し、予備士官は小隊長もしくは機長と言う低い待遇の運用も多々みられる事を考慮する必要がある(海兵出身の士官が仮に同人数でもそのような運用がされるか大いに疑問の残る編成も多い)。

かくして、多数の若い命を飲み込んだ特攻であったが、機材、燃料の不足、本土決戦の為等から温存され始め、10次に渡る菊水作戦が終了すると出撃のペースは鈍化、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、喜界島に最後まで残っていた第二神雷爆戦隊の岡島四郎中尉以下2機の爆戦が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の彗星8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われ全機未帰還。これが玉音放送前の最後の出撃であった。

特攻に反対した指揮官

部隊に打診のあった特攻作戦を撥ね付けて、これが黙認された第343海軍航空隊(343空)の志賀淑雄飛行長の例もある。戦争末期でのこのような事例は珍しい。また、熟練者による夜間通常襲撃の有効性を主張し、特攻を指示する上層部を論破して終戦まで沖縄に夜間襲撃を続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として後世の評価は高い。第203航空隊戦闘303飛行隊長であった岡嶋清熊少佐も、特攻には断固反対であり、国賊と言われても自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。玉音放送後も徹底抗戦を唱えて反乱状態となった厚木航空隊第302航空隊の小園安名司令も、特攻には反対していたという。また、『桜花』(神雷特別攻撃隊)空輸の一式陸攻部隊の部隊長だった野中五郎少佐は、特攻には批判的だったが、自身は特攻作戦で戦死する。

特攻隊員戦死者数

2010年02月現在確認されている特攻隊員戦死者数は

海軍

* 海軍航空特攻隊員:2,531名
* 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
* 回天特攻隊員:104名
* 震洋特攻隊員:1,081名
* 合計:4,156名

陸軍

* 陸軍航空特攻隊員:1,417名
* 丹羽戦車特攻隊員:9名
* 陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
* 合計:1,689名

この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者が以下となる。

* 第二艦隊戦没者:3,751名
* 回天部隊関連戦没者:1,083名
* 震洋部隊関連戦没者:1,446名
* 陸軍航空関連戦没者:177名
* 海上挺身隊関連戦没者:1,573名
* 空挺部隊関連戦没者:100名
* その他(終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等)戦没者:34名
* 合計:8,164名

以上合計14,009名を数える。

「特攻隊」生還者

特攻隊員に指名されるも生還したという例も多い(沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上る)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々である。戦中の場合、再度特攻の任を受け出撃するケース、特攻の任に耐えずと判断され休養に出されたケース、部隊から排除されたケースもあった。

戦後、特攻隊員の大多数は一様に心に傷を負いながらも戦後復興・経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。しかし一部の者は社会や価値観の変貌に付いていけず、また彼らを「特攻くずれ」と称して蔑む風潮もあり、敗残兵として冷遇を受け、そのため自暴自棄になり反社会的な行為に走る者も出現した。また特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り、犯罪を行うこともあった。

戦法

目標艦艇に突入するためには、まずアメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の迎撃(護衛戦闘機)隊の防空網を掻い潜らなければならず、その次には目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を潜らなければならない。こうした防空網を掻い潜るためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。しかも戦争後半には、VT信管装備の砲弾による対空射撃やレーダー管制による迎撃、優秀な新型戦闘機の投入等が大きな難関となっていった。その為、戦果を挙げるにはその外縁に位置する哨戒用の艦艇、すなわち駆逐艦を狙わざるを得なくなった。こうした事情から、日本軍の攻撃対象は本来狙うべき正規空母や戦艦などの主力艦艇から、駆逐艦や護衛空母などの補助艦艇に移行していった。実際、沖縄戦で特攻機によってアメリカ軍が受けた被害は、輸送船や駆逐艦に集中している。

戦闘機による特攻

主な機体

* 海軍機
o 九六式艦上戦闘機
o 零式艦上戦闘機
* 陸軍機
o 九七式戦闘機
o 一式戦「隼」
o 四式戦「疾風」

など。

当初は、連合国軍の意表をついてそれなりの戦果を挙げる事が出来た。しかし、アメリカ海軍を中心とした連合国軍は次第に特攻に対する防衛策を整えるようになった。先ずレーダーピケット艦や偵察機で出来るだけ特攻機を早く発見し、邀撃機で迎撃し、それらを通り抜け艦隊に達した特攻機に対しては、大型艦は円運動を小型艦は直線高速運動を行って、レーダーと連動した防御放火によって、突入体勢に入る前に撃墜を容易にし、突入体制に入れても艦船への命中を難しくした。当初70パーセントの特攻機の命中率を、至近も含めて30パーセント以下に抑え得たが、それでも、防御放火内へ突入されれば命中率は通常の攻撃よりかなり高く、硫黄島や沖縄での海軍艦艇の損害のほとんどが特攻機によるものであり米軍を悩ませた。

零戦の様な、速度超過を防止する為のダイブブレーキを持たない機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、被弾でフラッター現象等を起こし空中分解してしまう為、操縦者にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。また突入に成功しても機体強度と運動エネルギーが艦艇の装甲強度を上回れず、艦艇に命中しても機体ごと装甲に弾き返されることもあった。特に飛行甲板に厚い装甲を施したイギリス空母にその傾向が見られた(英軍の空母の被害は米軍よりもかなり少ない)。神雷部隊(零戦の新造機を使用した「建武隊」)などの一部の部隊では、突入直前に爆弾を投下する戦術も用いられている。

特攻専用機

特攻専用機桜花11型。所謂「人間爆弾」で、火薬ロケットを搭載し高速を誇ったが航続距離が短く、殆どが母機である一式陸攻諸共撃墜された。

主な機体

* 桜花

特攻専用機としか見なせない兵器まで計画され、機首部に大型の徹甲爆弾を固定し、爆撃機から投下・滑空の後、操縦者諸共体当たりする海軍の有人誘導爆弾「桜花」や、帰還・着陸用の車輪を持たない陸軍の「剣」等が作られた。「剣」は実用化が遅れ実戦に出る事なく終戦を迎えているが、「桜花」は量産され多数が実戦投入されている。

練習機による特攻

主な機体

* 九九式高等練習機
* 二式高等練習機
* 白菊
* 九三式中間練習機

など。

末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練、二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(いわゆる「赤トンボ」)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった(当時のアメリカ軍の戦闘機は2000馬力級、時速600-700km級)。

艦隊網の外部に位置し早期警戒を行うレーダーピケット艦に、「現在特攻機を追跡中」(「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉)という打電をされたという逸話もある。だがまったく使えなかった訳でもなく、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いが付け易い事等から、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は駆逐艦1隻を撃沈している)。

爆撃機・その他の機体による特攻

爆撃機・攻撃機 主な機体

* 九九式双発軽爆撃機
* 九九式襲撃機
* 九九式艦上爆撃機
* 艦上爆撃機「彗星」
* 九七式艦上攻撃機
* 艦上攻撃機「流星」
* 艦上攻撃機「天山」
* 陸上爆撃機「銀河」
* 四式重爆撃機「飛龍」(主に、「ト」号改造機、ならびに、桜弾装備改造機が特攻作戦に使用された)

など。

その他 主な機体

* 百式司令部偵察機
* 九八式直協機
* 零式水偵
* 零式水観
* 九四式水偵

など。

末期は数を揃える為に様々な機体が特攻用に爆弾装備可能に改修され実戦に投入された。

燃料・整備

「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である堀越二郎技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。特に被害の大きかったアメリカ軍からは、「燃料が突入時の火災を大きくする効果があった」という評価もある。

整備員達は「片道燃料などという酷いことが出来るか」と命令を無視して満タンにしたという話も聞かれる。しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえる為に」必要とされた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、訓練のための燃料も機体も少なくなっていたために搭乗員の技量の低下が激しい当時、航法を誤ればあっという間に燃料をムダに消費してしまう訳で、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していた、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。

特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった事や、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。

戦果

戦果

特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、セント・ローはフィリピン上陸作戦、オマニー・ベイはフィリピン攻防戦、ビスマーク・シーは硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。

また、イギリス海軍のイラストリアス級航空母艦のフォーミダブルが5月4日に、ヴィクトリアスが5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出した。

アメリカ海軍は沖縄戦において駆逐艦12隻を含む撃沈26隻、損傷164隻の損害を受けており、人的損害は1945年4月から6月末で死者 4,907名、負傷者4,824名となっている。特攻の主力艦に対する戦果は、2月21日に海軍第二御盾隊が硫黄島沖において正規空母サラトガに突入、これを大破させ、同艦を終戦まで出撃不能とした。バンカーヒルは5月11日に特攻機2機の突入を受けてブレマートンに帰投を余儀なくされ、エンタープライズも5月14日の特攻機による損傷でピュージェット・サウンド海軍工廠に帰還しており、終戦時は修理中であった。以上、3隻の正規空母を使用不能状態とすることに成功した。

損傷を受けた正規空母は少なくないが、沈んだ艦は1隻もない。その要因として、

* 特攻機の攻撃力は元々かなり低く、一定の装甲防御を有する中型以上の艦艇に対する効果は当初より懸念されていた。桜花のような専用機が開発されたり、大改造を施された飛龍のような事例が生まれたのはこの問題への根本的な対応を図るためである。
* アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等ダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。
* イギリス海軍の正規空母は戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲を持ち、甲板上にいた航空機は大きな被害を受けたが、沈没に至るようなダメージは受けずに済んだ。

等が挙げられる。とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害を特攻機が与えた事例もある。

特攻による攻撃隊は、突入機が1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、連合国軍からすれば1日の来襲機数は直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものであった。南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであればさらなる戦果拡大も望めたと見られるが、現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機も数を揃えることができず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行える水準についに復帰できなかった。

唯一、1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に、翌7日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となり、突入に成功した機は比較的多かったものの、撃沈できたのは僅か掃海艇1隻のみであった。

アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定していた(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26~28%と推定)。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱との見方が比較的多くなっている。ただし、視界に入らないうちに阻止されたものも含む実際の出撃数から算出される命中率は、5%程度である。

特攻に類似する攻撃

上記の様な航空機を使用した対水上艦艇に対する特攻の他に、敵に対し生還を期すことなく攻撃を行う戦法が俗に「特攻」と呼ばれることがある。

航空機のみならず、小型舟艇(震洋)や陸軍の海上特攻艇(マルレ)、有人操縦の魚雷(回天)、有人誘導爆弾(桜花)、小型潜航艇(海竜)も開発されている。その他にも真珠湾攻撃の際有名になった特殊潜航艇甲標的の改造艦蛟龍も建造された。また、実戦には投入されなかったが、潜水して棒の先につけた爆薬で上陸しようとする舟艇を攻撃する潜水具(伏龍)も試作された。

他にも占領された飛行場に強行着陸ののち、搭乗した兵員が駐機中の敵機を攻撃し使い物にならなくしようとする「義烈空挺隊」やフィリピン戦末期に行われた台湾高砂族によって編成された「薫空挺隊」を使用した「義号作戦」、高千穂降下部隊を使用した「テ号作戦」の3つを行なった空挺特攻がある。

水上特攻

第2艦隊(司令長官:伊藤整一中将)の「大和」以下の艦艇による沖縄水上特攻(坊ノ岬沖海戦)では、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じている。4月の時点で海軍の重油在庫は5万トンを切っており、南方航路が途絶し、各種資源、食料を日本に供給する最後の砦とも言える朝鮮、満州との日本海航路を護衛しようとすれば、月に7,000 トンの重油が最低限必要と海上護衛総隊が要求している状況下では当然の帰結であった。もっとも2,000トンだから片道と言う訳ではなく、戦闘行動を行いながらでも何とか1往復は出来る量であった。

しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」など容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだと言う)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料を補給した。結果、第一遊撃部隊(第2艦隊の所属艦から可動艦で編成)はタンクの底の通常は計量しない帳簿外の重油まで搭載しており、大和は満載6,300トンのところを4,000トン(約63%)、矢矧は満載1,400トンのところを 1,300トン(約93%)、駆逐艦以下は満載で総計1万トン以上、当初予定の5倍の燃料が搭載された。基準速力の16ノットであれば4往復から5往復、燃料消費が5倍に達する全速を出しつづけても往復出来るだけの量であったが、日本の航路護衛はこの時点で破綻したとも言える。

防空戦・震天制空隊

大戦末期になって、アメリカ軍のボーイングB-29爆撃機による日本本土への爆撃が開始されると、これに対する迎撃戦闘が行われるようになった。本土防空に活躍した代表的な戦闘機として、海軍の雷電・月光・紫電・紫電改、陸軍の鍾馗・屠龍・飛燕・疾風・五式戦闘機などが挙げられるが、排気タービン(ターボチャージャー)の様な高空での発動機性能を発揮させる技術を実用化出来なかった為に、高々度性能に劣る日本機ではB-29と同高度(高度10,000m以上)に達することすら難しく、同高度に達しても十分な機体性能は発揮出来なかった。しかもB-29 の高い防弾性や厚い編隊防御弾幕、戦闘機並みの高速に手を焼き、迎撃は困難を極めた。

高高度迎撃機は開戦後しばらくしてからようやく陸海軍で開発が始まったが、基礎工業力の乏しさに起因する技術力不足(特に発動機開発能力)は最後まで響き、結局終戦までまともな迎撃機は完成しなかった。

次善の策として陸海軍は百式司偵や彩雲のような高高度性能の比較的良い偵察機や銀河(極光)、彗星のような爆撃機に斜銃を付けて夜間戦闘機として迎撃に当たらせたり、四式重爆"飛龍"の改造機(キ-109)に高射砲を積んで飛ばすなどしたが、爆撃作戦を停止させるような決定的な効果はなかった。

陸軍は本土上空を護るための十分な能力を持つ高高度迎撃機が日本に当時存在しなかった為、体当たりをしてでも防ごうと、武装、防弾装備や通信アンテナすらも一切取り払った「無抵抗機」と称した機体を仕立て、これによってB-29に体当たりする迎撃部隊を発案した。最初に組織化されたのは昭和19年 11月7日、首都防空部隊であった第10飛行師団の隷下部隊に対し師団長心得吉田喜八郎少将から、1部隊につき各4機ずつ体当たり機の編成命令(震天制空隊)が発令された時である。この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。

初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解、戦死した。

こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB- 29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があった為、対艦船特攻の様に100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。

なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであった為、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった(参照:震天制空隊、飛行第244戦隊)。実際、衆人環視の中で落下傘が開かず墜死する操縦者を見たという証言は多く、そのうち何人かは宮城(皇居)に向かって敬礼しつつ墜ちていったと伝えられている。

海軍も空対空特攻隊は組織としては結成しなかったものの、自発的な特攻は相次いだ。陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11 月21日、海軍352空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。

だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38% であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トンにのぼると言われている。)

結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領され、B-29がP-51ムスタングを初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、通用しなくなっていき、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、無抵抗機や夜戦は絶好の餌食となり次々と撃墜、地上撃破されていった。しかし、その様な状況の中でも僅かながら戦果を挙げている。

陸上戦

日中戦争以降、日本陸軍では九七式中戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。

対戦車特攻で有名なのはフィリピン、バギオ近郊イリサンでの丹羽戦車部隊によるM4中戦車に対する戦車特攻である。1945年4月12日、軍司令部の置かれていたバギオに対して侵攻してきたアメリカ陸軍に対して、第14方面軍司令官山下奉文大将は司令部直轄戦車隊であった戦車第10連隊第5中隊に対して決死特攻隊の編成を命じ、アメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を厳命した。

この命を受け、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車、九七式中戦車各一両の戦車前方に先端に20kgの爆薬を取り付けた長さ1mの突出し棒を取付け、体当り特攻を仕掛けることとなった。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当りを仕掛け、双方の戦車4両が大破、炎上した。狭隘な道であったためにこれらの残骸の除去は難航。アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は整然と撤退したのである。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。

このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。砲や砲弾の製造技術が低かったこと、成形炸薬弾や携行射出装置(他国ではアメリカのバズーカやドイツのパンツァーファウスト、イギリスのPIATとして大戦中に使用)への注目の遅れ、全体的な生産力や先見性の欠如などから対戦車火器の欠乏は絶望的であり、歩兵がM4やT-34などの連合軍戦車を正面から撃破する事はほぼ不可能だった(これは、民間人に対し、竹槍を用いた白兵ゲリラ戦訓練が強制されていた事からも窺える)。火力の不足は血で贖われ、効果の薄い挺身肉薄攻撃で多くの将兵が命を落とした。追い詰められた日本軍はさらに生還の可能性が無い自殺攻撃に手を染めるようになる。沖縄戦では本来軍が守るべき民間人(学生)を現地徴用した鉄血勤皇隊に地雷や爆薬を抱えて戦車に体当たりする戦法を行わせることまでしている。

満州国に展開していた関東軍では、ソ連軍の侵攻に備えて肉攻(特攻)班が編制された。これは国境線上に掘った蛸壷に隠れた2人1組の兵士が2人がかりで野砲の15センチ榴弾を抱え、先端の信管をソ連軍戦車にぶつけて破壊しようという戦法であった。実際に戦果がどの程度あったかは不明である。

評価

日本

戦時中

「一億特攻の先駆け」、また特攻戦死は「散華」と肯定的に宣伝され、想定されていた本土決戦では全国民が範となすように求められた。特攻の戦果は軍国青少年を狂喜させたが、その一方、現場の声としては懐疑的・否定的な意見が挙げられていた部分もある。

坂井三郎は戦後、「当時の新聞等で、特攻で士気があがったと書かれているが大嘘。士気は低下しました。全員死んでこいと言われて士気があがりますか。間違いなく士気はさがったけれども、大本営と上の連中は上がったと称する。大嘘つきです。」とインタビューに答えている。日本最大の撃墜王岩本徹三氏も、著書の中で士気が低下したと述べている。

渡邉恒雄はニューヨーク・タイムズのインタビューにおいて、二等兵として入隊した太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がる事が出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている。

阿部信行総理大臣、松阪広政司法大臣、伊藤整一海軍大将のような官僚の息子も特攻隊として戦死し、黒木國雄少尉は父・肇の目の前で見送られ特攻として戦死しているなど、いかに戦局が厳しかったのかを物語っていた。

戦後

評価は一転し、左派、保守派も総じて特攻作戦は否定的になった。しかし、作戦自体には否定的意見でも、「特攻隊員も戦争の犠牲者」との意見は左派でも強かった。これは特攻隊員の多くが学徒兵などインテリ層で、自己の死の意味に苦悩する姿にシンパシーを感じる者が多かったからと見られる。これに対し、右翼、暴力団、暴走族を中心に「大和魂の権化」、「日本人の鑑」、「崇高な自己犠牲の体現者」と特攻作戦を含めて肯定する評価もあり、彼らは特攻隊にあやかった団体名称を好んだり、自らの服装を特攻隊に結びつけたりし、菊水のマークを意匠的に用いている。また、特攻隊出身者の多くは自嘲的な評価をした。

特攻に多くの若者を送り出した責任をとり、終戦直後に割腹自決した大西瀧治郎や、敗戦後に部下を死に追いやったとしてその行動評価は賛否両論に分かれるが玉音放送後に沖縄の米軍に対して部下11機を自ら率いて特攻を行った海軍の宇垣纒中将のような将官もいた。しかし、「君らだけを行かせはしない。」と隊員に語りながら、多くの部下を残したまま敵前逃亡した陸軍特攻隊創設者の富永恭次、源田実らを始めとする特攻に関わった殆どの将官、特に現場指揮官や参謀などは何事も無く終戦を迎え、責任も取らずに戦後の民主主義社会で生活を営み、特攻に関しては口を噤んだまま人生を終えていった。しかし口を噤んだ事には少なからず贖罪意識を持った事が捉えられる例があり、陸軍の菅原道大中将は隠遁し養鶏業を営んでおり、第6航空軍参謀であった倉澤清忠少佐は印刷会社の役員になりながらも特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら死の床についた。

特攻隊員の遺族が戦後生き延びている指揮官に対して憎悪を露わにするにする様子はあまり見られない。例えば菅原道大の三男の菅原道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めており、源田実は考案者であるにも拘らず特攻慰霊祭に出席した際に特攻隊員の遺族とトラブルがなく普通に対話していたが、源田は特攻に対し無言だった。

日本国外

前近代的な狂信的な行動であるとして欧米諸国、特にアメリカでは、特攻隊の攻撃方法は"クレイジー"と評された。また大日本帝国が単なる軍国主義国家というだけでなくナチスドイツと同じような悪しき狂信的集団であるという見方を確定した。これは戦後の日本の民主化政策に大きく影響した。一方、一部のイスラム諸国では国民感情が反米であることもあり、日本人は勇敢であるとの意見も一部存在する。

ドイツのゲーリング空軍元帥は『(自滅を前提とするのは)ゲルマン的な戦い方ではない』との見解を示している。また、開戦当時イギリス空軍機がドイツ海軍艦艇に対して爆撃時被弾後突っ込んでおり、それを評して「英軍はパイロットが負傷して帰還不能となると突っ込んでくる場合がある」と防空上の警戒をしている。もっとも、戦争末期帰還が極めて難しい人間魚雷(攻撃時に脱出し、後捕虜になるという前提)に志願者が女性も含めて多数の応募の事実があり、実際少ないながらも戦果があった。

一方でスプルーアンス提督は効果がきわめて高いと分析していた。負傷もしくは機体の損傷によって死が避けられないならば、敵に損害を与える可能性が高い体当たりの方が合理的だということである。アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。しかしその報道はルーズベルト大統領の死と重なったために、国内での衝撃はほとんど無かったともいう。

ただし、戦場においては、キリスト教的思考(自殺が禁じられている)では理解不能な攻撃に対し、恐怖でノイローゼに陥る兵士もいた。あるアメリカ海軍空母機搭乗員は「私達はカミカゼ(神風)が怖かった。10人のうち7人は涙を持って迎え、後の3人は憎しみをもってこれを撃ち落した」と証言している。

また、フランス人記者のベルナール・ミローは、著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は・・・無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。この理解不能性、恐怖や不安は、アメリカをして日本本土への無差別爆撃の強化や原爆投下を促す一因になったとも言われる。

戦後も、アメリカを始めとする諸外国における大方の評価は“クレージーな作戦”もしくは“戦法と呼べぬ戦法”であったと言う全否定的なものである。この評価の根底には、永年に渡って養成してきた貴重な人命を無駄に消耗させ、しかも数少ない貴重な資源や兵器を消耗させるだけであったことや、戦争指導者達が先の見通しを持たず、ただ流れに任せて無責任に命令を発していたことが多かったということが大きく作用している。また、特攻隊員に対しても「狂信的な国家主義に洗脳された」という、どちらかといえば否定的な見方が一般的であった。

さらに → 特別攻撃隊  特攻兵器  太平洋戦争



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