カラーで見るインドシナ戦争 第一次インドシナ戦争

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2010/02/19(金)
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第一次インドシナ戦争(だいいちじインドシナせんそう)は1946年から1954 年にベトナム民主共和国の独立に伴いフランスとの間で戦われた戦争。単にインドシナ戦争と呼んだ場合、この事を指す事が多い。

前史

東南アジアは19世紀以降、ヨーロッパ列強の侵略により植民地化が進んだ。 ベトナムにおいても阮朝内部の混乱に乗じたフランスが軍を進め、第一次フエ条約・第二次フエ条約によって、ベトナムを保護国化することに成功した(詳細フランス領インドシナ参照)。インドシナ総督府の支配下では重税、賦役、塩・アルコール・アヘンの専売、等の搾取を受けた。反抗運動は秘密警察により多数が投獄され、ギロチンにかけられた。経済的収奪に留まらず、伝統文化の破壊とフランス文化の強要がなされるなど、典型的な植民地政策の圧政下におかれていた。ところが、第二次世界大戦中にフランス本国がドイツに占領されると、日中戦争を拡大させて行き詰まっていた日本は、フランスから中国国民政府への物流を遮断する為、ヴィシー政権に近づいて仏印への日本軍進駐を認めさせ、1939年から1941 年の間に段階的に進駐、全土に駐留したが、仏印の内政に関する主権は戦争末期の仏印処理までフランスにあった(仏印進駐)。

共産主義の伸張の素地

ベトナムの社会構造の基礎をなすのは家族制度であり、これを基礎単位として広範な自治権をもつ村落が形成されていた。これらの村落が独自の長老会議を集約点とする自治形態を保持し、強固な団結心を維持しつつベトナム社会の底辺をなしていた。それ故に歴代王朝やフランス植民地行政機関も村落自治に容易に干渉することは出来なかった。

経済構造としては、総人口の約85%が農業、牧畜、漁業産業に依存し、国民総生産額の5割から6割を占めていた。フランス植民地省はこのような経済構造を変革させるために積極的に資本投下したが、前述の村落自治形態に阻まれ旧態依然たるまま日本軍の占領統治を受けることとなった。特に、土地問題は重要であり、本格的に植民地経営が始まった19世紀末頃からフランスは村落ごとの共同経営形態である公田制に介入し、農地改革に着手した。1930年には、全耕作地の8割が私有地となったが、農民の内約7割近くが小作人で、最大期で約6%の大地主が耕作地の60%以上を所有する結果となった。この傾向は特に北緯14度以北の北部ベトナムで顕著であり、多くの農民は貧しいままであった。共産主義勢力は農地問題に着目し、プロレタリア革命の重要点と位置づけ、のちの民衆抵抗の根源の一つとなる。

戦後処理と連合国軍進駐

独立宣言

1945 年8月15日に日本が降伏すると、すかさずホー・チ・ミン(グエン・アイ・コック - 阮愛国)率いるベトナム独立同盟(ヴェトミン)はベトナム八月革命によって権力を奪取、臨時ベトナム民主共和国政府が成立し日本が降伏文書に調印し戦争が終結した9月2日に、ハノイにおいてベトナム民主共和国の独立を宣言した。時期同じくして、在地フランス人と日本軍の捕虜となったフランス軍人らが主となりサイゴンにて植民軍の再編成を実施、9月2日の独立宣言は両者の衝突を招いた。

日本軍憲兵隊

8月15日以降、日本軍第38軍は降伏に備えて待機していたが、一部の部隊や軍人はべトミンなどに武器を引渡したり或いは個人単位で合流したりした。武器の引渡しを拒否した部隊との間では小競り合いが発生した。事態を憂慮した第38軍とインドシナ植民地行政当局は、信頼の置ける日本軍部隊に対し市中の警備を実施させ、日本軍の憲兵隊による取締りが(フランス国家憲兵隊が到着するまでの間)強化された。

連合国軍進駐

連合国一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、北緯16度線以北が中国軍に、以南がイギリス軍が割り当てられフランス軍が本格展開するまでの間、進駐する事となった。同年8月末には北部ベトナムに盧漢将軍率いる中国軍180,000人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには9月12日にルイス・マウントバッテン卿率いる英印軍の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手した。フランスは、ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー提督を高等弁務官に任命し、軍からは本国軍2個師団の派遣を決定し、フィリップ・ルクレール将軍を長とするフランス極東遠征軍団が編制され、9月12日にマダガスカル旅団を第一陣にして出発、10月5日に先遣部隊がサイゴンに到着、ルクレールは同月9日にジャック・マシュ大佐率いる行進群と一緒に到着した。11月までの間に3派に分かれて第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。空軍は輸送機と戦闘機を中心に約100機を派遣、海軍はフィリップ・オーボワノ提督を長とする護衛艦隊を率いて、「戦艦リシュリュー」、「軽巡洋艦グロアール」、「駆逐艦ル・トリオンファン」、「航空機輸送艦ベアルン」が極東海域に展開した。

歴史的経緯からベトナム人は中国軍の長期駐留を警戒し、べトミンも1945年11月にはインドシナ共産党を解散して共産色を払拭して中国に対する懐柔策を採るなどして、中国軍撤退に向けての努力が払われた。フランス自身もこの状況を快く思わず逐次フランス軍の増強と中国軍当局との折衝を重ね、1946年2月に仏中協定が結ばれ4月以降順次撤退した。その代償として中国各地にあったフランスの租借権の放棄とハイフォン港の自由化、在インドシナ華僑に対する優遇措置などを受け入れた。

べトミンの独立宣言以降、各地で発生する紛争に対し9月末以降英印軍も巻き込まれ、10月末以降にはフランス遠征軍が到着し、ますます衝突が激化した。中国軍の撤退に伴い、1946年2月28日と3月6日にべトミンとフランスは予備協定を締結し、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立とトンキン地方のフランス軍駐留を認め、3月26日にはフランス権益が多く存在する南部ベトナムにはコーチシナ共和国が成立し、相互に一時的妥協が成立した。

戦争

フランスとベトナム民主共和国との間で独立を巡る交渉が続けられ、ホー・チ・ミンはフランス本国まで赴いてベトナム全域の平和的独立への途を模索したが、南部のプランテーション入植者達の既得権益を優先したフランスは1946年3 月26日にフランスはベトナム南部にコーチシナ共和国を成立させる。これは、事実上フランスの傀儡政権であった。フランスはインドシナ植民地をフランス連合の下で5つの地域に分割し、それぞれが連合の枠内での独立を認める方針を指向していた。世界は戦勝国である米国・英国とソ連の対立がいよいよ本格化し、冷戦と呼ばれる時代に移っていたが、米英側に属するフランスとしては、共産主義者のベトナム独立を容認することは政治的にできなくなっていた。1946年6 月1日にベトミンは独立戦争の長期化に備えて元日本軍将兵からなる義勇兵を教官としたクァンガイ陸軍中学を設立して近代戦に対処した将校の育成を始める。

1946年11月20日、ハイフォン港において密輸船の取締りに端を発した銃撃事件は同港制圧の口実となり、11月23日にフランス海軍艦も交えての制圧戦となった。

前半期

全面衝突

1946 年12月19日、フランス極東遠征軍団はべトミン軍に対する制圧作戦を実行に移し、翌日までにトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸やその他重要施設を襲撃した。その後も急速に部隊を展開させおよそ2ヶ月の間に多くの戦略拠点の占領に成功した。べトミンは北部国境地帯の要点を抑え中越間の連絡路を確保した。これを受けてフランス軍は国境沿いの要衝ランソンを占領し牽制した。1947年2月に一連の平定作戦は完了した。中部ベトナムではダナン、フエ、プレイクを占領しヴォー・グエン・ザップを総司令官とするべトミン軍は内陸の農村地帯に退避作戦を取りゲリラ戦に移行し、慣れない亜熱帯の山林でのゲリラ戦はフランス兵を肉体的・精神的に消耗させた。

5月にフランス現地機関が軍事問題は存在しないと声明を発し強硬な態度をとった。対するべトミンは現地機関とフランス本国政府とを区別して、あくまでもフランス本国政府との和平を求め4月には交渉に臨んだが両者の要求は対立し決裂した。

交渉決裂を受け、フランス軍は1947年10月に15,000人からなる機械化部隊を投入し、北部山岳地帯のべトミン軍拠点に対し掃討作戦を開始したが頑強な抵抗にあい完敗した。フランス軍当局はこの事実を糊塗し勝利したように見せかけたが、既にべトミン軍は戦略守勢期を脱しこの時期以降から正規軍による積極的反攻にでた。1947年11月29日、フランス軍はミーチャック村虐殺事件を引き起こした。

外国勢力の援助拡大

1949年、現地視察に訪れたフランス軍参謀総長は情勢の悪化を確認し、近い将来にべトミン軍は中国から援助を受け、北部ベトナムの制圧は困難になると判断し、ハノイ・ハイフォン地区に兵力を集中し要塞地帯にしてべトミン軍の攻撃に耐える必要があるとした。同年1月、べトミン軍首脳部もゲリラ戦術だけでは決定的勝利を得ることは出来ないと判断、同年12月を目処に総攻撃に出る準備を開始した。1949年8月にソ連が原爆実験に成功し、10月に北隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1 月にソ連と中国がベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正統政権と認証し、武器援助を行うようになった。この承認に対抗し、アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。中共による援助の拡大により、ベトミン軍はトンキン以外にもアンナン、コーチシナ地方にも根拠地を設け次第に解放区を拡大していった。

フランスはベトナム人民の支持を得ようと、1949年6 月にコーチシナ共和国に代わり、南部に旧阮朝のバオ・ダイを国家主席とするベトナム国を成立させるが、これもフランスの傀儡政権であったため、支持は拡がらなかった。 また、フランスは同じインドシナのラオスを7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性を強調しようとした。

ベトナム側は、フランス軍の負傷兵をフランス社会へのメッセージを体現する存在として位置付け、意図的に障害が残り易い小型の地雷や各種の罠を多用。これによって負傷し手足を切断されたり、昼夜を分かたぬ手榴弾攻撃や待ち伏せ攻撃、ゲリラ容疑者とされた一般人を殺傷する掃討作戦によって精神に障害を負い帰国した若い負傷兵の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。これにより1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・多くはドイツ人やイタリア人からなる外人部隊兵で構成されることとなる。当初、フランス軍は本国軍兵士を年間47,000人を交代で勤務させる計画であったが現地兵や植民地兵の錬度・士気は低く前線に立つのはもっぱら外人部隊兵や本国軍部隊であった。これにより逐次に交代兵を利用しての部隊・兵員数を増加させる腹積もりが、ほとんど員数を増やせなくなり実質的に増援は来ない状態となった。

こうしてインドシナ戦争は、単にベトナム人民の独立運動ではなくなり、東西冷戦に否応無く組み込まれてしまったが、6月に朝鮮戦争が勃発したことにより、米ソ中各国は朝鮮半島に注目し、ベトナムに戦力を集中することは無かった。

後半期

アメリカの援助

第二次世界大戦後、フランスは荒廃した国土の再建と欧州情勢の対処、第四共和制下での中央政府の政争に忙殺されアメリカの援助なくしてはインドシナ情勢に対応できなくなっていた。1950年5月、フランスの武器援助要請に基づきベトナム援助計画を発表、6月にはグレイブス・アースキン少将を長とする調査団が派遣された。10月にはフランシス・ブレリンク准将を長とする軍事顧問団が派遣された。同月にはジュール・モック仏国防大臣とマルセル・ペッチェ仏財務大臣が渡米し米仏軍事会談が行なわれ、援助物資の引渡しが認められただちにインドシナに送られた。12月にはサイゴンにてジャン・ルトルノー海外担当大臣とヒース米公使とチャン・バン・フーベトナム国首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれた。1952年度までに年額約3億ドル、 1953年が約4億ドルにおよび、4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。

べトミンの大攻勢

1950年初頭、べトミン軍は大規模戦闘は行なわず各地でゲリラ戦を活発化させていた。特に、メコンデルタとトンキンでは間断なき戦闘を続けフランス軍の小規模陣地を襲撃、次々と全滅させていった。事態を憂慮したフランス軍は小規模陣地群を撤収させ、ラオカイ、カオバン、ドンケ、タトケ、ランソンに集中した。結果、兵力の消耗は防げたが主要拠点との連絡線が遮断され「点の支配」に陥り各地で孤立した。とくにカオバンの攻防戦(植民地道4号線の戦い)は「カオバンの悲劇」と呼ばれるほどの大敗を喫した。

同年9月、べトミン軍は各地にあるフランス軍主要拠点の攻撃を開始、以前までのゲリラ戦ではなく大隊単位の正規軍を投入した。これらの部隊は砲迫を装備した近代的な部隊であった。フランス軍はマダガスカル、アフリカなどから増援部隊を送り対処したが10月以降に逐次国境地帯から撤退していた。同年12 月17日にはド・ラトル・ド・タシニ極東遠征軍団司令官が高等弁務官を兼務する事となり、フランス軍の兵力は125,000人になっていた。この頃の本国政府はインドシナ問題の総てをド・ラトル・ド・タシニ将軍にまかせきりであった。べトミン軍は各所で圧力を強め1950年の終わりごろにはハノイ・ハイフォン・ナムデン三角地帯を防衛するド・ラトル線まで戦線を縮小せざるを得なくなった。

1951年、べトミン軍の総攻撃は成功に終わり戦争は反攻段階に移る。同年1月、べトミン軍はビンエンへの攻撃を開始、3月にはアンチャウ、4月にはナムディンなど次々と攻撃したが、フランス軍も航空機によるナパーム弾攻撃を活用し反撃に追われた。1951年前半期はべトミン軍の大攻勢が行なわれたが、正規戦の経験が少なく訓練不十分な状態であったため平野部の戦闘は依然として劣勢であった。北部ベトナムを押さえたべトミン軍であったが、この攻勢以降トンキンデルタでの戦闘を回避し、山岳部に誘引して小規模戦闘を行い戦力の再編成を行なうこととなる。10月、ライチャウ、ソンラを攻撃。11月、フランス軍は要衝ホアビンを占領し年末から1952年初頭にかけて激戦が展開された。南ベトナムでは10月にサイゴンで大規模部隊同士の戦闘が発生した。この頃には従来のゲリラ戦やテロ活動は減少し、組織的な正規戦闘に転換した。

1951年2月、インドシナ共産党の後身であるベトナム労働党が結成され、3月9日には諸勢力の結集を図り、民族抵抗組織であったベトナム国民連合(リエンベト)とべトミンは統合した。名称こそリエンベトのままであったが実態はべトミンに吸収されると言う形であった。更に3月11日にはラオス・カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成された。この動静に対し、ベトナム国側は新内閣を発足させ4万人から成る宗教団体私兵団を基幹に国軍の編成に着手し、7月に総動員令が発令、10月に召集が始まりアメリカの援助の下に着々と進められていった。これとあわせるように同年7月には土地改革計画を発表し、農民達の間に広がりつつある共産主義の浸透を防ごうとした。

一進一退の攻防戦とラオスへの戦火拡大

1952年2月、フランス軍はホアビンから撤収、同地を占領しべトミン軍はハノイ包囲網を狭めた。ホアビンはわずか3ヶ月で放棄されフランス軍の戦力低下が現実化してきた。雨季の間は一進一退の攻防戦が続き依然としてフランス軍はド・ラトル線の多くを保持していたが、10月にべトミン軍は北西部にて 3個師団を持って攻勢に出る。黒河沿岸の要衝を次々と攻略しナサンを攻撃、ラオス国境まで目前であった。これに対しフランス軍もただちに反撃に出たが、べトミン軍は中ソから援助された120mm迫撃砲、75mm無反動砲などを駆使してこれを撃退した。11月、フランス軍はソンラから撤退、飛行場のあるナサンに集結、空挺部隊を投入し周辺で発生する攻勢を阻止した。しかしラウル・サラン極東遠征軍団司令官はラオカイの奪回を敢えて実施しなかった。これが戦局全般の転換点となり、実質的な敗北となった。

1953年1月、アンケの攻防戦でフランス軍は急遽空母を動員し、海軍部隊も投入して火消しにあたった。べトミン軍はタイピン、ホアビンに進出し、ハイフォン南側に切迫。紅河デルタ一帯は膠着状態に陥る。やがてべトミン軍は南へ進路を変え、フエ、ダナン、クイニョンなどの中部ベトナムや北部ベトナム沿岸地方に拡大していく。4月、べトミン軍はフランス軍の補給線と防衛線を破綻させるためラオスに進攻を開始、これに対しフランス軍もビエンチャンに部隊を増派、ジャール平原に空挺部隊を降下させ防戦する。

ナヴァール計画

戦争が始まり7年が経とうとしていたが、事態解決の糸口は見つからずフランス国内では厭戦機運が高まり、共産主義の拡大防止をかかげ膨大な援助をしているアメリカと東南アジアの利権保持に拘るイギリスとの間でも意見の不一致が見られるようになっていた。1953年2月、米仏会談がワシントンD.C.で開かれ、今後2年以内に終結を目処に援助を拡大することが確認され、7月に米英仏外相会談が開かれナヴァール計画に対する援助が約束された。

1952年5月、アンリ・ナヴァールが遠征軍司令官に着任し、だたちに情勢を確認検討し一大攻勢計画を立案した。フランス軍戦闘部隊に対し、従来かけていた機動力と積極的攻撃性を付与し、1955年を目処にべトミン軍の中核体を破壊し、べトミンのゲリラ戦部隊に対する手当てとしてはベトナム国軍やラオス軍および山岳民族部隊をもって対処させ、そのための諸整備と作戦を実施することが目標となった。

ナヴァール計画に基づき、フランス軍は8月にナサン、12月にライチャウから撤収し戦力の集中と再編成を実施、また補給線遮断を目的に空挺作戦を実施、7月にランソン、10月にラオカイを占領した。同じく10月にムエット作戦を実施、ニンビンにてべトミン軍1個師団を捕捉し大損害を与えたものの決戦は回避され山岳部に逃走された。これによりフランス軍が自主選定した地域における撃破は困難であることが解り、山岳地帯に入り込み拠点を設けべトミン軍を誘引撃滅する方針に変更された。

1953年4月のべトミン軍ラオス進攻によりフランス軍は広域に展開せざるを得なくなったが、それはべトミン軍も同じで彼我の補給能力を比較した結果、根拠地としていた東部ラオス・中国国境からの補給路を断ち、航空機が使えアメリカの援助が期待できるフランス軍が有利であるとし、べトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引しこれを撃滅することを狙った。それに適した場所としては北西部山岳地帯とラオスの平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯にあるディエンビエンフーに拠点を構え、これに攻撃をかけようとするべトミン軍が周囲の山岳地帯に姿を現したところを砲爆撃し圧倒的な火力と物量で粉砕し、周囲数十kmの一帯やラオスの平原地帯に空挺部隊を降下させべトミン正規軍を撃滅することにあった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が実施でき、作戦航空機のハノイまで往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にして周囲に現れるであろうべトミン軍を迎撃することが目的であった。

本計画に対して、トンキン軍管区司令官ルネ・コニー将軍はトンキンデルタの守備兵力の減少を理由に反対し、遠征軍団空軍副司令官のニコ大佐は輸送力の不足を理由に反対していた。事実、コニー将軍は1953年8月に隷下部隊をナサンから隠密裏に撤収させて、戦線縮小を図っていた。

ディエンビエンフーの戦い

1953年11月20日、カストール作戦が実施され、ディエンビエンフーに3個空挺大隊が降下、同地を占領し12,000人の兵力と火砲が配備され、地上設備の充実と空中補給および近接航空支援の態勢が整えられ年内に準備が完了した。べトミン軍はディエンビエンフー降下の一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団の集結を決定。小規模ゲリラ部隊を駆使して各地のフランス軍を拘束し部隊移動を秘匿した。

1954年3月13日、遂に戦闘が始まるが緒戦からフランス軍は当初の見積もりと異なる戦闘様相となる。攻撃開始初日からべトミン軍による猛烈な砲撃が加えられ、数派の人海戦術により独立高地に設けた2個の陣地は早々に陥落した。これ以降は徐々に圧迫され3月末には滑走路も使用不可能となった。4 月、ハノイから3個空挺大隊の派遣と近接航空支援を増強したが、塹壕に篭るべトミン軍にはあまり効果が上がらなかった。雨季の天候は空軍の活動を制限し、べトミン軍の砲撃支援を受けた夜襲は次々と陣地を攻略していった。末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日に陥落し生き残ったフランス兵は捕虜となった。

ディエンビエンフー後

ディエンビエンフー陥落後、べトミン軍はトンキンデルタに攻勢を仕掛けジュネーブ会談中も手を緩めることなく交渉を有利に進めるべく、各地の攻撃を実施した。6月にフランス軍はプーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ・ハイフォン回廊に撤退しここにいたりフランスの敗北は明白となった。

戦争終結

1954年2月25日、ジュネーブで行なわれたアジア問題国際会議でルネ・プレヴァン国防相はインドシナ和平を提案したが会議の議題は朝鮮戦争の休戦が優先され、インドシナ問題は後回しにされ、同月にホー・チ・ミンも和平を提案した。これに対しナヴァール将軍は総ての作戦計画が台無しになると発言した。

ディエンビエンフーの敗北を受けて、フランスはベトナム民主共和国と和平交渉を開始し、関係国の間で和平協定であるジュネーヴ協定が締結された。これによりベトナム民主共和国の独立が承認されたが、戦争中にフランスを積極的に支援し、共産主義の東南アジア制覇(ドミノ理論)を恐れたアメリカは、北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南にはフランスの傀儡政権ベトナム国を存続させた。

しかし、フランスはフランス領アルジェリアなどアフリカ植民地への対応に忙殺され、アメリカにインドシナの肩代わりを求める。南では1955年10 月、アメリカの強い影響力を受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立、1956年6 月にフランス軍は完全撤収し、80年に及ぶフランスのベトナム支配が終わった。

75,000人の戦死者、航空機177機を喪失し8年にわたる戦争は終結した。ナヴァール将軍はフランスの帰国後マンデス=フランス首相に挨拶したが一言も言葉を交わさなかった。ナヴァール計画に反対していたコニー将軍とは生涯会うことはなかった。

日本人志願兵

日本人志願兵は約600名に上るとされており、陸軍第34独立混成旅団参謀の井川省少佐を始めとする高級将校から兵卒にいたるまでの多くの志願兵が独立運動に参加していた。日本人志願兵はベトミンに軍事訓練を施したり、作戦指導を行っていた。ベトナム初の士官学校であるクァンガイ陸軍中学の教官・助教官全員と医務官は日本人であった。 30名を上回る日本人がベトナム政府から勲章や徽章を授与されていることが確認されている

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