消えたユダヤ人資産

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2010/02/10(水)
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ホロコーストは、第二次世界大戦中にアドルフ・ヒトラー率いるナチ政権のドイツ、列びにナチ政権の占領地域において、ユダヤ人などに対して組織的かつ意図的に行われた大量殺戮(さつりく)を指す。広義には、組織的な大量虐殺一般をホロコーストと称することもある。英語では、前者を定冠詞をつけて固有名詞とし(the Holocaust)、後者を普通名詞 (Holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。

語源

ナチス政権のホロコーストによって殺害されたユダヤ人の数は、一般的に600万人とされるが、それ以外にもロマ人、スラブ民族(特に戦争捕虜)、共産主義者、ポーランド人、身体障害者、同性愛者なども迫害され大量に殺害された。犠牲者の数には諸説あるが、 900万から1100万人に上ると考えられている。

ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」+ 「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、「丸焼きの供物」を意味する。またここから派生した意味に「火災による惨事」があった。ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」だが、「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合には惨事を意味するショア (השואה) が用いられる。かつて英語では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカNBC系列で放映された長編テレビドラマ『ホロコースト』が衝撃的な内容から社会的現象となり、以後この語が「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。日本ではホロコーストを強制収容所におけるガス室を利用した大量殺戮に限定して議論することがあるが、多くの歴史学者は、ナチ政権が発足した1933年から、第二次世界大戦が終結した1945年の間に、強制収容の結果として疫病の蔓延や飢餓が原因で大量死に至ったものや、不当な裁判による大量の処刑もホロコーストと呼んでいる。

ナチ政権による迫害と殺戮は、段階的に行われた。まず、第二次世界大戦の開始より数年前に、ドイツ国内でユダヤ人を社会から除外する法律が制定された。次に強制収容所が建設され、犠牲者はそこで死ぬまで奴隷労働をさせられている。ナチス政権は東ヨーロッパで新たな領土を占領するたびに、アインザッツグルッペン(de:Einsatzgruppen)と呼ばれる特殊機動隊を使ってユダヤ人や抵抗勢力を公開銃殺刑にしてさえいる。

『ホロコースト』は広く世界で史実とされており、ドイツ、フランス、ポーランド、ポルトガル、チェコなど、ヨーロッパではホロコースト否定説は刑事罰の対象になる。特に加害者の立場であるドイツでは3ヶ月以上5年以下の懲役刑、被害が最も大きかったポーランドでは罰金または3年以下の懲役刑となるなど厳しい刑事罰があり、社会的にも最大のタブーとされる。ポーランドなどではユダヤ人の総人口の9割がホロコーストで現に死滅しているため、ナチ政権による大量虐殺を史実として疑うことは常識上、ありえないとされる。

その一方で、イスラエルと対立するアラブ世界等直接ホロコーストに関わっていない国や地域においては、「第二次世界大戦中に米英とシオニストの流したプロパガンダに過ぎない」とこれを認めないこともある。また戦争中の混乱による事実関係の不明確さや疑わしさから、その実在を疑問視する言説は後を絶たないが一般社会では否定論は一切相手にされていない(ホロコースト否認)。例えばヒトラーの命令書や計画書、大量虐殺のためのガス室などが実際に発見されているわけではなく、ニュルンベルク裁判ではドイツ側のヘルマン・ゲーリング以下の被告が、自分たちは大量虐殺に関与していないし、そんな事実も知らなかった。として無罪を主張している。

概略

1938 年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜 (Kristallnacht) 事件、1939年から1941 年に優生学思想に基づいて実行された安楽死政策T4 作戦をホロコーストのはじまりと定義する歴史家は多い。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。

ナチス党はとくにユダヤ人の殲滅(せんめつ)政策 (die Endlösung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」または die Reinigung, 「民族浄化」) を重要視して、約 500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされるが、「絶滅」が戦前から「計画」されていた目的であるのか、戦争突入後の状況変化による非計画的なものであったのかは、研究者によって意見が分かれる。

その一方で、「劣等民族」または「不穏分子」としてシンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人(300万人のキリスト教徒と300万人のユダヤ人)、セルビア人(50万から120万人)、ロシア人、スラブ人、知的障害者、精神病者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされる。一部の研究者の中には、ユダヤ人の虐殺のみをもってホロコーストと呼ぶ者もいるが、実際にナチスによって殺害されたこれらマイノリティーの合計は、900万人とも1100 万人ともいわれる。当時のドイツは、ヴェルサイユ体制に対する不満と世界恐慌以来の経済破綻によって、ヴァイマル憲法の民主主義に対して失望が広がり、ナチスが政権を獲得していた。ドイツは産業、技術、科学、教育などの各分野において、世界で最も進んだ国の一つでもあった。ユダヤ人でホロコースト研究の第一人者として知られるラウル・ヒルバーグ教授は「ユダヤ人絶滅の全作業を担った官庁はなかったし、特定の機関が創出されることもなく、特定の予算も割かれなかった」と計画性や統合性のなさを指摘している。。)また、西ヨーロッパ諸国における「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施され、多数の民間協力者が存在したことも否定し得ない事実で、ヨーロッパ諸国に広く根付く反ユダヤ主義がホロコーストをこれだけ大規模にしたと言える。

ドイツのあらゆる官僚組織が、この大量殺戮計画に協力した。教会や内務省は、国民の戸籍を当局に提出して、ユダヤ系の国民を特定させた。祖父または祖母に三人以上のユダヤ人をもつ者は例外なく強制収容所送りの対象者とされた。郵便局はユダヤ人の家庭に強制退去命令を送った。財務省はユダヤ人の財産を没収した。企業は、ユダヤ人労働者を解雇して、ユダヤ人の株主の権利を無効とした。大学は、ユダヤ人の新入生の入学や、在学中の生徒に学位を授与することを拒否した。運輸省は、大量のユダヤ人を強制収容所に送るための列車を手配した。当時、ドイツ国内でこうした政策を公然と批判したり、ユダヤ人をかばったりする宗教団体や大学、労働組合などは皆無だったという。

当初ナチ党の対ユダヤ人政策で具体的に目指されたのは、まずユダヤ人を強制収容所やゲットーなどに集合隔離し、その後ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放する計画(マダガスカル島が候補地とされていたというマダガスカル計画など)であり、劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろうという漠然とした予測をもって立案されていた。しかしそれは1940年以降、対英仏・対ソ戦局の推移に伴って追放予定地がドイツ支配圏内に入るか移送自体が非現実的となり、ドイツ国外のゲットーへの隔離と1942年7 月から開始された強制収容所に於ける奴隷労働を通した絶滅及び毒ガス・一酸化炭素・排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更されたと言われている。

ナチス政権は、ダッハウをはじめとするドイツ国内の「強制収容所」の他に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所をはじめとする「絶滅収容所」をポーランド領内に建設し、ユダヤ人をこれらの「強制収容所」及び「絶滅収容所」に収容した。とりわけ「絶滅収容所」には、ユダヤ人の大量殺人を目的とする「ガス室」が設けられた。「ガス室」では、「ツィクロンB」と呼ばれる毒ガスを使って、約600万人(正確な数は分かっていない)ものユダヤ人殺害されたとされる。ユダヤ人の遺体は焼却炉をフル稼働して焼却処分され、それに伴う死体運搬等の労働はユダヤ人が命ぜられた。遺体は全て焼却し残っていないとされる。とくに被害が大きかったのが中央および東ヨーロッパであり、1939年当初のユダヤ人人口は七百万人であったが、そのうち五百万人がホロコーストで殺害されたとされる。その内訳は、ポーランドで三百万人、ソビエト連邦で百万人、またオランダ、フランス、ベルギー、ユーゴスラビア、ギリシャなどでも数十万が犠牲になった。

ホロコーストの背景には、「アーリア人の民族的純血の厳守」というナチス政権の社会政策があると言われる。これは、白人至上主義者であるアルテュール・ド・ゴビノーの思想や、優生学、社会ダーウィニズムの影響を受けたものであった。すなわち「命に値しない命」(Lebensunwertes Leben) を根絶やしにして、民族的純血を保つ適者生存こそが、アーリア人の天才性を高める、自然の摂理にかなった、崇高な使命であるとされた。そのため、ナチスはホロコースト以前にもドイツ国内で身体障害者や精神障害者を20万人も安楽死させるT4 作戦を実行している。ヒトラーはその著書「我が闘争」や演説で「我々の社会は危機に瀕している。悪戯に弱者や病気の者に助けの手を差し伸べて、適者生存の原理に背いてしまったためだ。」「世界中のユダヤ人は、我々アーリア人の純血を汚そうとする陰謀を張り巡らせている。これを阻止するには、組織的に彼らを狩り出し、社会から除外するしかない。」と繰り返し述べている。そのようなプロパガンダを盛んに行い、ドイツ国民を洗脳した。それが第二次世界大戦中の極限状態の中で歯止めがきかずエスカレートして、ホロコーストに至ったと考えられている。

絶滅収容所

ドイツ国内には既に戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在し、それらの収容所は当初は比較的小規模であり、政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていた。後に収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を超える。ダッハウはとくに、薬草農園労働と、生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付きガス室が建設されたが、完成せず実用には至らなかったと言われる。しかし、このことはガス処分がなかったことを意味するのみで、墓地その他の調査によれば、実験による感染、郊外での銃殺などにより、労働強制収容所だったはずのダッハウから数万人の組織的大量虐殺(ホロコースト、ただしユダヤ人以外をも多く含む)が始まった事実は揺るがない。

絶滅を目的とした収容所としては1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ・トレブリンカ・マイダネク・ベウジェツ・ソビブルなどの収容所が次々と完成し、ゲットーや占領地域から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地(へきち)に建設され収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所ではほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたという。

「死の行進」

1944年中ごろには、「最終計画」はおよそ完成していた。ナチスが容易に手に届く範囲のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅された。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。5月にヒトラーは、演説で「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と豪語した。1944 年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなった。ドイツ軍はソビエト連邦やバルカン半島、イタリアから撤退を余儀なくされ、同盟国の日本とイタリアも敗戦色が強くなった。ロシア軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移された。アウシュビッツも閉鎖されたが、収容所の記録によると、最後の囚人は13人の女性だったが、みな"unmittelbar getötet"(直接殺害)されたという。証拠を隠滅するために、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく雪の中を無理に移送「死の行進」(death march)されたが、その過程でさらに10万人死んだ。

解放と終戦

収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、またしばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビブルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所も、アウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。90万人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1 月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠はほとんど隠滅されていたと言われる。ベルゲンベルセンでは捕虜6万人が保護され、死体1万3千体が遺棄された状態で発見された。

犠牲者の数

犠牲者について正確な資料が残されていないため、特に後期の犠牲者の数を推測するのは困難である。なお、ユダヤ人の定義は国や時代によって異なることに留意すべきである。

ソ連、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ルーマニアといった東ヨーロッパの国々に犠牲者数が多い。このために、米ソ冷戦勃発後の、敗戦国ドイツに対するプロパガンダ宣伝も入っているという説もある。例を挙げれば、終戦直後のニュルンベルク裁判においてソ連・ポーランド調査委員会はアウシュヴィッツで400万が死亡したと告発したが、現在では、これは誇張されたものであり、死亡者総数は100万から150万の間であるとされている。カチンの森事件、ヴィーンヌィツャ大虐殺も、実際はドイツのヒトラー政権ではなくソ連のスターリン政権による大量殺戮であったが、ヒトラー政権の犯罪と誤認されていた。ただし、カチンの森事件はニュルンベルク裁判において裁かれておらず同裁判においてカチンの森事件に関してはナチスは無罪とされている。

* ユダヤ人
* 出身国別の犠牲者数
o ドイツ: 165,000
o オーストリア: 65,000
o フランスおよびベルギー: 32,000
o オランダ: 10,000以上
o ギリシャ: 60,000
o ユーゴスラヴィア: 60,000
o チェコスロヴァキア: 140,000以上
o ハンガリー: 500,000
o ソ連: 2,200,000
o ポーランド: 2,700,000
* このほか
o ルーマニアの沿ドニエストル地方におけるポグロムや特別行動部隊の掃討作戦による犠牲者: 200,000以上
o アルバニア、ノルウェー、デンマーク、イタリア、ルクセンブルク、ブルガリアなどからも収容所に移送されたユダヤ人がいた。(BENZ, Wolfgang. Der Holocaust. C.H. Beck 1995)
* シンティ・ロマ人: 250,000
* 同性愛者: 10,000から25,000
* 精神障害者・重病人など: 20,000から30,000 (Wikipedia:en)
* エホバの証人:約2,000

合計すると1100万人前後 (ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人) となっている。

イスラエル建国を目指すシオニストたちは産業の基幹要員として、東欧在住のユダヤ人(アシュケナジム)の大半を占めるブルーカラー労働者を多く招き入れることを前提に国づくりを始めていた。しかし、ホロコーストによって受け入れるべきユダヤ人がいなくなってしまったことによりもくろみが外れ、のちに中東系、東洋系ユダヤ人(セファルディム、ミズラヒム)の移民を多く受け入れることとなった。皮肉にもホロコーストは、ヒトラー政権が夢想だにしなかったユダヤ人国家の運命すら大きく動かしたと言えよう。

アウシュヴィッツの死亡者数についての諸説とその推移

ヒトラー政権下のドイツで最大規模であったアウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、しばらくの間、西側連合諸国のアウシュヴィッツの調査を許可しなかった。そのために、死亡者数については色々な説があるが、近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少する傾向にある。例えば、ニュルンベルク裁判では、ソ連の検察が「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と主張し、実際に1990年までアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡の記念碑には400万死んだと書かれていた。だが1995年には完全に否定され、公式の記念館も全て150万に書き換えられた。

しかし、その人数も完全な信憑性がある訳ではない。具体的な例を挙げれば、ユダヤ系の有名なホロコースト研究者ラウル・ヒルバーグは、自著「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」の中でアウシュヴィッツで死亡した収容者は「125万人」と推測している。ユネスコの2007年6月28日のリリースで犠牲者は「120万人」としている。また、否定主義者ではない研究者の中で最も少ない人数を挙げているのは、ドイツのFritjof Meyerである。彼は、ガス室で死亡したのは35万人であると主張している。(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に詳細)。

さらに詳しく → ホロコースト  ユダヤ人  スイス銀行



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(2008/04)
芝 健介

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