マリアナ沖海戦(Battle of the Philippine Sea)

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2010/02/06(土)
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マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1944年6 月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたアメリカ海軍空母機動部隊と日本海軍空母機動部隊の海戦。アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)である。日本側の作戦名称はあ号作戦。あはあめりかの“あ”よりきている。

概要

アメリカ軍がマリアナ諸島に進攻、それを日本軍が迎撃したことにより本海戦は発生した。日本海軍がアメリカ軍との決戦を意図したものであり、両軍の空母同士の航空決戦となった。この海戦で、日本機動部隊の母艦航空隊は強力な米機動部隊の前に“マリアナの七面鳥撃ち”と揶揄される程の一方的な敗北を喫し壊滅、同時に空母三隻を撃沈され、参加した潜水艦の大半を喪失した事(損害の項に潜水艦がありませんが?)により、日本海軍は”組織的な作戦能力を完全に失った。” この海戦後、マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西部太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちた。

海戦前

1943年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、11月にはギルバート諸島タラワ環礁、マキン環礁を占領、1944年2月にはトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻し占領した。さらに3月にはパラオを空襲し在泊艦艇および基地施設に多大な損害を与えた。そして4月にはニューギニア島のホーランジア、アイタペに上陸した。

この状況を受けて連合艦隊司令部では、5月から6月にマリアナか西カロリン方面への侵攻が行われると判断した。しかし、タンカー不足によりマリアナ方面での決戦は無理があり、パラオ近海において決戦を行うこととした。そのためにグアム、サイパン、テニアンの兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、機動部隊と基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。この作戦を「あ号作戦」という。

しかしながら、3月31日に起こった海軍乙事件により、「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書を米軍が入手し、すでにその暗号を解読していた。米軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約1ヶ月をかけて用意周到な作戦を練り上げていた。海軍乙事件で生存した当事者が情報の漏洩を報告しなかったため、日本海軍は「新Z号作戦」計画書が米軍に渡った事をまったく知らなかった。海軍は作戦名を「あ号作戦」と改めるなど多少の作戦変更を行ったが、最も重要な情報および戦略がアメリカに漏れた以上、もはや何の効果もなさなかった。

5月16日、リンガ泊地にあった小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊はタウィタウィ泊地へ進出した。タウィタウィではアメリカ潜水艦の跳梁により、駆逐艦4隻(6月6日水無月、6月7日早波、6月8日風雲、6月9日谷風)が撃沈された。このため十分な洋上訓練が行えず、航空機搭乗員の練度不足はあ号作戦に影響を及ぼした。

5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。同日、小沢治三郎中将は旗艦大鳳で訓辞を行った。

1. 今次の艦隊決戦に当たっては、我が方の損害を省みず、戦闘を続行する。
2. 大局上必要と認めた時は、一部の部隊の犠牲としこれを死地に投じても、作戦を強行する。
3. 旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは、各級司令官は宜しく独断専行すべきである[1]。
4. もし、今次の決戦でその目的を達成出来なければ、たとえ水上艦艇が残ったにしても、その存在の意義はない。

5月27日、連合軍はビアク島へ上陸を開始した。日本軍はビアク島救援の作戦、渾作戦を行った。しかし、6月11日、アメリカ軍がマリアナ方面に来襲し、渾作戦は中止された。

5月31日、敵中に孤立していたナウル基地を飛び立った海軍の偵察機彩雲が、メジュロ環礁に停泊するアメリカ軍の大艦隊を確認した。

6月5日、ふたたび彩雲がメジュロ環礁を偵察。アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。大本営は、アメリカ軍はマリアナ諸島を襲わずパラオ諸島に来襲するものと判断した。

6月13日、サイパンにアメリカ軍が来襲。民間人を巻き込んでの壮絶な戦闘が開始される。豊田長官は「あ号作戦」決戦用意を発令した。第一機動艦隊はギマラス泊地に移動後15日に出撃しマリアナ方面へ向かった。渾作戦参加部隊も出撃し、16日に機動艦隊と合流した。

6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始した。同日、豊田長官はあ号作戦決戦発動を発令した。だが、基地航空隊はこれまでの戦闘でほぼ壊滅状態になっていた。

海戦前の基地航空部隊の反撃としては12日サイパンから未明陸攻6機、昼艦爆6機出撃が戦果なし6機が未帰還。15日トラックから天山11機、ヤップから第一次攻撃隊零戦9機彗星3機・第二次攻撃隊零戦5機銀河10機が出撃が戦果なし15機未帰還。16日グアムから天山6機出撃が戦果なし全機帰還。 17日ヤップから零戦31彗星19出撃し米護衛空母ファンショー・ベイ少破・揚陸艦1少破も24機喪失22機グアム着陸残4不明、トラックから天山5機出撃し揚陸艦1撃沈も1機未帰還。18日ヤップから59機が出撃しタンカー2少破も22機失残り37機はグアムに着陸。19日グアムから爆戦3機出撃。

戦闘経過

6月19日の戦闘

19日、小沢機動部隊は早朝の3時30分から頻繁に索敵機を発進し周囲の捜索を開始した。

6時半頃、サイパン島西部にアメリカ機動部隊を発見し、7時25分に空母千歳、千代田、瑞鳳から前衛の部隊として64機(零戦14機、零戦爆戦43機、天山7機)と、7時45分に甲部隊(空母大鳳、翔鶴、瑞鶴)から128機(零戦48機、彗星53機、天山29機)の第一次、第二次攻撃隊を発進させた。甲部隊の攻撃隊は味方の前衛部隊による誤射で被害を受けた。双方の攻撃隊は2時間から3時間をかけて米第58任務部隊に到達。第一次攻撃隊は9時35分にアメリカ艦隊への攻撃を開始したが、レーダーで日本海軍攻撃隊の接近を既に探知しており、万全の防空体勢を敷いていたアメリカ海軍に次々と撃墜され、全体の2/3にあたる41機(零戦8機、零戦爆戦 31機、天山2機)を失った。第一次攻撃隊の戦果は戦艦と重巡をそれぞれ1隻ずつ小破させたのみであった。10時45分にアメリカ艦隊への攻撃を開始した第二次攻撃隊も、戦艦サウス・ダコタ、空母バンカーヒルと重巡洋艦ミネアポリスを小破させるに留まり、全体の3/4以上にあたる99機(零戦33機、彗星43機、天山23機)もの航空機を失うという大損害を被った。

8時10分、空母大鳳が米潜水艦アルバコアの雷撃を受け、発射された6本の魚雷のうち1本が命中。大鳳の損傷そのものは軽微(前部エレベーターの陥没)であったため、当初は戦闘続行可能な状態であった。

9時15分、乙部隊(空母隼鷹、飛鷹、龍鳳)から第二波の第三次攻撃隊49機(零戦17機、零戦爆戦25機、天山7機)が発進するが、別働隊と誘導機が進路(目標)変更の受信を逃した上、本隊も米第 58任務部隊を発見できずに引き返し、7機(零戦1機、零戦爆戦5機、天山1機)が未帰還となった。10時15分には第四次攻撃隊50機(零戦20機、九九式艦爆27機、天山3機)が発進した。第四次攻撃隊は攻撃後にグアム島かロタ島経由でヤップ島へ向かうように指示されたが、米艦隊を発見できずにグアム島付近で戦闘機の迎撃を受け26機(零戦14機、九九式艦爆9機、天山3機)が撃墜された。

大鳳の修理作業の後、10時28分に大鳳、翔鶴、瑞鶴から第五次攻撃隊18機(零戦4機、零戦爆戦10機、天山4機)が発進したものの、米第58任務部隊を発見できず、ほとんどが引き返し、一部は不時着、9機(零戦爆戦8機、天山1機)が未帰還となった。10時30分、乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)から第六次攻撃隊15機(零戦6機、彗星9機)が発進し、本隊8機が13時40分頃に米艦隊を発見、空母を目標に攻撃した。しかし、全く戦果を上げられず、9機(零戦4機、彗星5機)が撃墜された。

11時20分には、日本機動部隊に接近した米潜水艦カヴァラが空母翔鶴に4本の魚雷を命中させた。翔鶴は致命的な損傷を受け、14時10分に沈没した。14時32分には大鳳が突如大爆発を起こし、16時28分に沈没した。この大爆発の原因は魚雷のダメージにより気化した航空燃料が艦内に漏れており、それに引火したためだとされている。

17時10分、虎の子の正規空母を2隻も失い、送り出した攻撃隊の大半が未帰還となったことから、小沢中将は立て直しのために北上を命じた。日本機動部隊はそれまでに6次にわたる攻撃隊を送ったが、その全てが部隊の大半を失う致命的な損害を喫した。一方、米艦隊の艦艇は被害らしい被害を受けずに攻撃隊の大半を撃墜し、空戦で29機の戦闘機損失に留まる。

6月20日の戦闘

小沢艦隊は20日の夜明け前から活動を再開し、4時40分に索敵機を発進させるが、米機動部隊を発見することはできなかった。12時、小沢中将は旗艦を羽黒から瑞鶴に移した。米第58任務部隊は15時40分に日本機動部隊を発見し、16時過ぎになってその戦力を確認、マーク・ミッチャー中将は日本機動部隊までの距離が米艦載機の航続可能範囲の限界付近であることや、帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で216機(F6F戦闘機85機、SB2C急降下爆撃機51機、SBD急降下爆撃機26機、TBF雷撃機54 機)の攻撃隊を出撃させた。16時15分には日本軍側も米艦隊を発見し、17時25分に甲部隊、唯一の空母瑞鶴から7機の雷撃機を発進させ、前衛の栗田中将に夜戦のため東進を命じた。17時30分、米第58任務部隊から発進した攻撃隊が来襲し、零戦が迎撃に向かったが23機が撃墜され、空母飛鷹が沈没、他の空母瑞鶴、隼鷹、千代田も損傷してしまった。米攻撃隊は20機が撃墜され、帰還した機のうちの80機が着艦に失敗した。小沢中将は残存空母を率いて夜戦のため東進を続けたが、19時40分頃、連合艦隊長官豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。

結果・影響

機動部隊を率いる小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、アメリカ軍艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すアウトレンジ戦法を実行した。しかしレーダーに誘導された戦闘機による迎撃、またVTヒューズを使用した対空弾幕の増強により、日本の攻撃隊は大半が阻止され次々と撃墜された。当時の日本軍の航空隊の技量は開戦時よりも劣り、アウトレンジ戦法で2時間以上飛び続け敵艦隊を攻撃することはほぼ不可能に近かった。アメリカ軍は日本の攻撃隊がろくに回避運動もせず、容易く撃ち落とされたことを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。また、日本海軍の空母が相手との距離を縮めないように同じ海域に留まっていたため、次々と敵潜水艦の餌食となってしまった。

日本側はこの戦いで大鳳、翔鶴、飛鷹の空母3隻などを失った他、参加航空兵力の3/4以上となる378機もの航空機の損失により第一機動艦隊は事実上壊滅、日本海軍は二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。又、この後絶対国防圏の要ともいうべきサイパン島を失ったことで、戦局の挽回や有利な条件で講和を結ぶ可能性は完全に失われた。

日本海軍航空隊の敗因

これまでの幾多の戦いで消耗を重ねてきた日本海軍機動部隊であったが、マリアナ沖海戦での大敗北は機動部隊としての戦闘能力を喪失するほどのものであった。ここまで一方的な結果となったのには様々な要因が絡んでいるが、ここでは一般に広く流布している通説について紹介する。

物量の差
そもそも航空戦力に決定的な差があった。日本側428機に対しアメリカ側901機と2倍以上、しかも戦闘機だけでも445機(数値については諸説あり)もの差があった。また、日本側はこの海戦に持てる航空機動部隊のすべてを投入したが、アメリカ側はなお多数の空母が残っており、また建造中であった。兵器生産能力の差は大きく、日本側は消耗が許されない状況にあった。いずれにせよ、この時点ですでに日本側が正面から決戦を挑める状況ではなかった。

航空機の性能差
日本海軍の主力戦闘機を担っていた零戦は、開戦当初は文字通りに無敵の強さを誇ったものの、極限まで軽量化された機体であったため、搭乗員の生命を軽視し防弾装備は殆どされておらず、ひとたび攻撃される側にまわると脆さを露呈することとなった。また大出力エンジンの開発でも欧米に大きく遅れをとっていたため、改良型が開発されても大きな性能の向上は望めなかった。本来この時期に登場すべきであったはずの次世代機である烈風の開発も予定より遅れたため、この時期でも主力であり続けた零戦だったが、開戦当初のF4F ワイルドキャットに代わり米海軍の主力となっていた2000馬力級のF6F ヘルキャットに比べると旧式化・陳腐化。米軍の次世代機の高性能の前には、如何なるエースが搭乗しようとも苦戦は必至であった。 艦上攻撃機である天山は実戦配備が遅く、米軍のTBF アヴェンジャーと比べて速度や航続距離では多少勝っていたが、防弾面では他の海軍機の例に漏れず貧弱であった。このように搭乗員の質のみならず、航空機の性能面でも日本はアメリカに大きく遅れをとっていたのである。なお敵艦載機より航続距離の長いことが前提のアウトレンジ戦法であるが、実は艦爆に関してはこのころ既に実戦における爆装状態での航続距離は、米軍の方が勝っていた。

日本側搭乗員の技量低下
前述の通り、開戦当初からの様々な戦いによって、卓越した技量と戦闘経験を持った熟練搭乗員を損耗しただけでなく、い号作戦以降、幾度と無く繰り返された母艦搭乗員の陸上基地転用により、編隊を率いる指揮官クラスの搭乗員が激減していた。特に後者の損耗は致命的であり、またこれらの搭乗員は、容易に補充も急速錬成も出来無いものであった。

日本海軍は、新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成にもかなりの努力を払い、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時~南太平洋海戦までと比べてもあまり遜色ないレベルであったとされているが、その大半が基礎訓練を終えたばかりの実戦の経験も無い、新規の搭乗員で占められており、更に編隊指揮官の任に堪えうる熟練搭乗員や実戦経験者は極少数に過ぎなかった。また、アウトレンジ戦法に必要な技量に引き上げる為の各種訓練が必要であったが、タウイタウイ入泊後は殆どその機会が無かった。例えば一航戦の第601航空隊搭乗員は、リンガ泊地で約一ヶ月程の訓練を行ったが、タウイタウイ入泊後は僅かに二回しか訓練が出来無かった。

その原因としては、タウイタウイ島に、全艦載機を挙げて訓練する飛行場がなかった事、そもそも泊地自体が第一機動艦隊が全艦入泊した時点で一杯になり、泊地内で空母が母艦機の訓練を行なう事が出来無いほど狭かった事、タウイタウイ島周辺に米潜水艦が多数出没した為、泊地から出て訓練ができなかった事が挙げられる。

故に、もっとも訓練が必要だった二航戦の第652航空隊、三航戦の第653航空隊は、内地で満足に訓練が出来無いままタウイタウイに直行した為、僅かに回航中に一回、入泊後 05/18・05/31の二回しか訓練を行えなかった。その為、二航戦の奥宮航空参謀は、その著書で「タウイタウイでは”如何に練度を上げるかではなく””如何にしてこれ以上、練度を下げないようにするか”」に腐心したと記している。

このため、もともと技量のある指揮官クラスの搭乗員は列機を率い戦う訓練を行う事が出来ず、また新規搭乗員は訓練不足で技量の維持ができないという結果となった。故に、長距離を洋上航法を用い編隊飛行で敵艦隊を攻撃した後、また母艦まで往復するアウトレンジ戦法は、当時の母艦搭乗員の技量を無視して強行された戦法であった。また、敵艦隊や敵機に遭遇せずとも未帰還(行方不明)となった機体が多かったのは、十分な訓練の機会と時間を与えてやれなかった事が原因であり、敗北の一因を形成している。

 それをフォローする為に、攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を飛ばしたが、これは長距離飛行により生ずる時間経過によって、索敵機が発見した目標位置の誤差が拡大し、未錬成の搭乗員では目標を発見出来無いことを避ける為であった。また、攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導する事も期待されたが、結果的に見て、その効果は認められず、結局多数の未帰還機を出してしまった。

小沢治三郎中将以下、第一機動艦隊司令部の能力不足
前述のように敗因として搭乗員の技量不足が挙げられるが、そうなった責任は艦隊司令部の指揮官にあった。 奥宮航空参謀は、著書で「なお、マリアナ沖海戦での小澤司令長官の戦法(アウトレンジ戦法)は良かったが、飛行機隊の実力がこれに伴わなかったという説があるが、私はこれに賛成出来ない。第一線部隊の指揮官の最大の責務は戦闘に勝つか、払った犠牲にふさわしい戦果を挙げることであるからである」と述べているが、その言わんとするところは、小沢中将はその両方とも達成出来ていない事が挙げられる。

アウトレンジ戦法における認識の相違
小沢中将がアウトレンジ戦法による作戦を立てていたのに対し、乙部隊の首脳陣、特に奥宮正武参謀はそれを行うには母艦搭乗員の技量から見て自信がもてない、と感じていた。彼は大鳳艦上で行われた、小澤司令部との打ち合わせにおいて、アウトレンジ作戦についての反対意見を述べているが、敢えて議論はされなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている。奥宮航空参謀はソロモン方面での苛烈な基地航空戦での経験から現状を以上のように認識していたが、 小澤司令部もまたろ号作戦等、ソロモン方面での航空戦を経験しているため、(一航戦小沢司令部と、第二、三航戦司令部)の間には、母艦搭乗員の現状と空母航空戦の認識に相当の隔絶があったことが伺われる。

アメリカ艦隊の防空システムの進化
この時期になると、アメリカ海軍機動部隊はレーダーと航空管制を用いた防空システムを構築していた。このため日本海軍機の接近は予め察知され、アメリカ軍戦闘機は最も迎撃に適した場所に誘導された上で日本の攻撃隊を待ち受けることができた。また1943年の末頃から、対空砲弾が外れても目標物が近くにいれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。この結果、従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は数倍に跳ね上がった。

索敵の失敗
日本軍偵察機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を振り向けてしまった。これらの部隊は、米艦隊には会敵できず、彼我の被害減少と損害増大の一因となった。

基地航空隊との連携の失敗
当初は、マリアナ諸島に展開する第一航空艦隊と第一機動艦隊とが連携して米艦隊を迎撃することで、上述の「物量の差」を補う予定であった。ところが、海軍乙事件の機密漏洩の影響もあり、米軍の侵攻スピードは日本軍の予想を超え。第一航空艦隊は、練度・機数ともに準備が整う前に、逐次マリアナ諸島の各島嶼に展開、同時に米任務部隊の激しい機動空襲に晒される事になった。またビアクへの米軍上陸に伴い、部隊がそちらに転用されてしまった。その結果、迎撃に依る損耗や米艦載機による銃爆撃、一航艦司令長官、角田中将の行なった少数機での米任務部隊への攻撃、ビアクに上陸した米軍の攻撃、その為に生じた部隊の移動に伴う消耗等、複数以上の過誤が重なり、これら第一航空艦隊所属の航空隊は、あ号決戦発動前に、あらかた損耗してしまっていた。結果、第一機動艦隊は単独で米第五艦隊と戦うことになり、劣勢を余儀なくされたが、小澤司令部はその現実を知る事はなかった。

未帰還機について

NHKで放送された『証言記録 兵士たちの戦争マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』でも言及されていたが、広い太平洋の真っ只中で何の目印もない状況で、出撃した航空部隊が母艦に戻ってくることは、敵を攻撃する以上に難しかったという。特に戦闘爆撃機として出撃した零戦は単座であったため、航法管制をする搭乗員がいないので、独力で戻ってくることはほぼ不可能に近かったといわれる。そのため、アメリカ側に撃墜されただけでなく、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰還できなかった母艦機も相当数あったようであるが、その実数は不明である。

アメリカ側における問題点

米艦隊を率いたレイモンド・スプルーアンス提督の指揮は、海戦後長年にわたって多くの批判を受けた。サイパン島の上陸部隊の援護という主任務にこだわるあまり、慎重に行動しすぎて日本艦隊を壊滅させる絶好のチャンスを逃したという批判である。

さらに詳しく → マリアナ沖海戦  第二次世界大戦



マリアナ沖海戦―母艦搭乗員激闘の記録マリアナ沖海戦―母艦搭乗員激闘の記録
(2007/11)
川崎 まなぶ

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