日本の戦争(Japanese war)

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2010/02/04(木)
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太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War)は、第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国(日本)など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)との戦争である。太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた紛争(日中戦争・支那事変)も包括する戦争となった。なお当時日本政府は大東亜戦争と呼称していた。

名称と期間

太平洋戦争」という名称は、連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策で当時の日本側の正式な呼称であった「大東亜戦争」を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせる検閲によって定着した名称である。名称は、アメリカにとって主戦場が太平洋地域であったことに因む。

戦争の期間は「1941年12月7日(ハワイ現地時間。日本時間では12月8日)から大日本帝国政府が降伏文書に調印した1945年9月2日」とするのが一般的である。

現在の日本においては、戦争の経緯や目的の違いから「日中戦争」と「太平洋戦争」とが別個の戦争として認識されることも多いが、当時使用された「大東亜戦争」は日中戦争(当時の呼称は「支那事変」)もその範疇に含む概念であった。現在においても対中戦争と対米英戦争を区別しない概念として「昭和戦争」、「アジア・太平洋戦争」などの用語が使用されている。

イギリスでは「War with Japan(対日戦争)」と呼ばれ、アメリカでは「Pacific Theater(太平洋戦域)」という術語が広く使用された。ヨーロッパでは、日中戦争は第二次世界大戦とは区別されず、日中戦争が発生した1937年7月7日からを太平洋戦争の始期とみなすことがある。中華民国と中華人民共和国(1949年以後の中国)では「中日戦争」として認識され、8年間としている。

通史概略

開戦前史

ベルリン会議(1885年)とアジア分割競争
アメリカの太平洋戦略
満州国建国と中華民国
中国戦線の泥沼化と三国同盟の締結


1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争(支那事変)において、大日本帝国政府は現地解決・不拡大方針など事態を最小限で収拾しようと試みたが、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、二・二六事件以後から行われるようになった軍隊による政治干渉などの内政的な不安に加え、大紅門事件、蘆溝橋事件をきっかけとする陸軍の暴走、それに対する郎坊事件、広安門事件、通州事件、第二次上海事変などが発生して在中邦人への危険性が迫ったことなどから軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず、日中両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展してしまった。

日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。日華事変の戦線は伸び未曽有の長期戦に陥っていた。

劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、国際世論(欧米世論)を味方につけ、支援を引き出すために、国民党中央宣伝部国際宣伝処を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。これに対しニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し日華事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国々は中国からの撤兵を日本に求めた。一方の大日本帝国政府は1940年(昭和15年)9月27日にナチス・ドイツ政府や、イタリア王国政府と日独伊三国軍事同盟を締結して国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、日米関係を一層改悪する結果となった。

第二次欧州戦線の勃発と欧米の情勢

1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことによって欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。

翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にもかかわらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。

タイ王国による南部仏印侵攻

1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。

日米交渉の決裂と南進論の活発化

米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省・海軍)が使用していた暗号解読機(九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。

一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナ北部に進駐し、援蒋仏印ルートを遮断したが、新たにビルマを経由する援蒋ビルマルートが作られた。

1941年4月から日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を開始したが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月28日に南部仏印へも進駐した。

これに対しアメリカは、7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース隊を核とした日本本土への先制攻撃作成(J.B.No.355)が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された。さらに7月25日には在米日本資産を凍結、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣)。この制裁は石油や鉄類、工作機械などの70%以上をアメリカから輸入していた日本にとって致命的なものであった。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなかく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。一方、8月25日にイギリスやソビエトと共同してイラン進駐を行っているがこれに対しては欧米列強の非難はなかった。

9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月18日に近衞内閣は総辞職する。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。

11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハル国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けたこともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示し、アメリカ海軍も同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対し無制限潜水艦作戦を発令した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。

宣戦布告と開戦

日本陸軍が日本時間12月8日午前1時30分に、イギリス領マレー半島に上陸(マレー作戦)し、宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。

なお、日本のアメリカに対する最後通牒は、日本時間12 月8日月曜日午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交する予定であった。12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。しかし、書記官室の寺崎英成一等書記官転勤の送別会が終了した後、タイプ役の奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをしており、井口貞夫参事官の指示で当直もなかったため、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成された。

日本海軍航空隊による真珠湾攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時 19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。

日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。

日本が真珠湾を奇襲した後で、対米最後通牒を手交したことは「日本によるだまし討ち」として喧伝され、アメリカ国民に広範な憤激を引き起こし、アメリカにおいて「卑劣な国家」としての日本のイメージを定着させる原因となった。しかし、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略である」とする真珠湾攻撃陰謀説の根拠となっている。

また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。また、厳密に言えば日米両軍は開戦以前から交戦していた(フライングタイガース)。

日本軍の攻勢

1940年9月以降日本軍は仏印進駐を行なっており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。12 月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラの陸軍部隊の上陸(マレー作戦の開始)と、同日行なわれた日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったたタイにまで日本軍が軍事侵攻したことは、最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りも買うことになった。

なお、これらの作戦は、これに先立つ11 月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告は、駐アメリカ大使館による暗号文の書き起こしとタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、英米への攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった。なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行われなかったにも関わらず、このように喧伝されることはなかった。

日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。

また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。

しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。

一方、真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、日本海軍航空機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。

この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島、フィリピン、ボルネオ島(カリマンタン島)、ジャワ島とスマトラ島などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。

真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。

前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21 日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年の1 月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1 月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。

1942 年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。

日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2 月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。

同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。

第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS 作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。

1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失 敗する。

戦局の転換期

4月、空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受けた海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定する。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母ですぐ戦場に移動できるのは瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画され大鳳、雲龍、天城、葛城を筆頭に信濃や伊吹などの建造を行なうが、艦載機・搭乗員・燃料の不足により開戦時に匹敵するような能力の機動部隊運用は終戦時まで困難なままであった。対するアメリカは、終戦までにエセックス級空母を14隻建造している。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する。

ミッドウェー海戦において戦闘力が下がったものの、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機や大型機などによりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、工場地帯の壊滅や森林火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。なお、アメリカ政府は、ミッドウェー海戦において勝利を収めたものの、国民感情に悪影響を及ぼさないために、この初の本土空襲の事実を公開しなかった。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。

ミッドウェー海戦により、日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。(ただしミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達している)8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、日本軍が建設し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかった。

その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が無いという危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。

それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。

1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。

1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。

1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での趨勢は最早決していたため、戦況には大きな影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、 8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。

連合軍の反攻

開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半からいよいよ反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。

同月に日本の東條英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。1944年3 月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。

5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中華民国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。

連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。

しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字どおり壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。

陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃圏内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った打撃は大きく、攻勢のための布石は完全に無力と化した。

これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発には時間がかかった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。

各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東條英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衞文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。

この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。

10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。

レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。

戦争末期

前年のフィリピンレイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要衝であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。

前年末から、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍はB-29 を撃墜するための新型戦闘機「震電」などの迎撃機の開発を進めることになるが実用化には至らず、既存の戦闘機で体当たり戦法などを用い必死に抵抗したが、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。

3月10日には大規模な無差別爆撃である東京大空襲が行われ、一夜にして10万人もの命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が在マリアナ空軍総司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。

また、この一連の爆撃に先立ち、2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した(大戦中期以降、米軍の死傷者が日本軍のそれを上回った数少ない地上戦の1つ)。最終的に日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。

迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策法を編み出していた米軍に対し、やや勢いが劣りがちであった。

この頃満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。

その後、5月7日には同盟国の中で最後まで抵抗していたドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙していくことになる。(とはいえ、元々ドイツとは距離的に離れていたこともあって、当初から実質的に一国で戦っていたようなものだったが)このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介に最後の期待を賭してポツダム宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。

その頃、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は次に沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月 23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和も4月7日に撃沈され(一応、大和を沈めるべく投入されたアメリカ軍の主要兵器も大半が被弾しており翼や武器がもげたものもあった。)、残されたのは長門や榛名を筆頭とする戦艦部隊と雪風を筆頭とする「駆逐艦」の艦隊や特攻兵器の「震洋」の部隊・葛城ら少数の艦隊のみであった。

この頃には、日本軍の制空権や制海権はほぼ消失し、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与えるなど、日本陸海軍も必死の反撃を行うものの、戦争経済に関する大局観を当初から欠いている上、日本の降伏はもはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの日本の戦争終結により実行されなかった。1945年7 月26日に連合国によりポツダム宣言が宣言される。

アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという名目と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月 6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月 9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで 20万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。

その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、1946年4 月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月 8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。

6月22日の御前会議に置いて昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、多面、戦争の集結についても、この際従来の観念にとらわれる事無く、速やかに具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結の事を口にされた。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍とちがって陸軍は、降伏を回避しようとしたので御前会議での議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8 月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8 月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。

なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。

翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。8 月14日には葛根廟事件が起きた。そのような中で8 月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した(三船殉難事件)。

また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8 月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国 17カ国の代表団の臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。しかし、南樺太や千島列島では、9月 4日までソ連軍との間で大規模な戦闘が行われた。また、沖縄や南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者がでた。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争、国共内戦などに多数の元日本軍将兵が参加することとなった。

海外在住の日系人

戦前から安い賃金でよく働くという日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカ、オーストラリア、カナダ、ペルー、ブラジルなどをはじめに移民排斥運動が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることにつながると共に移民者は差別や偏見を受けていた(注意:当時は白人至上主義絶世期だったため、日本人のみに限らず、有色人種に対する差別や偏見も激しかった)。太平洋戦争がはじまるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも、「敵性市民」として財産を没収されてアメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた(この際同じように敵国だったドイツ系の住民やイタリア系の住民は収容所に送られることが無かったことから人種差別だとする意見も存在する)。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日の丸を掲げるなど遺憾の意を示した。

その一方でアメリカ育ちの移民日本人2 世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線(米軍は日系日本人が離反し日本側に付くことを恐れたため、太平洋戦線ではなく欧州戦線へ投入された)の最前線に送られた。戦線での日系部隊の活躍はすさまじく、半数以上の犠牲をはらいつつも任務を遂行し、活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上もっとも多くの勲章を受けた部隊となった。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。

戦争の評価

日本における評価

太平洋戦争(大東亜戦争)の評価については、歴史家だけでなく知識人、作家、一般国民を巻き込んだ議論の的となっている。(1)ABCD包囲網やハル・ノートなどによって日本が追いつめられた結果の自衛戦争であったという見方、(2)アジアを欧米の植民地から解放したとする見方、(3)欧米の帝国主義者と同じく世界征服を企んだとする見方、(4)自衛戦争と侵略戦争の両面を持つとする見方、など様々である。

欧米に与えた影響

欧米でもこの戦争については色々な見解が存在する。英国の歴史家クリストファー・ソーンは、非白人種による史上初めての大規模な戦争であり、これにより、19世紀以来の人種主義(白人中心主義)が後退していく重要な契機になったとしている。また、アメリカでは第二次世界大戦が米国史上はじめて経験した総力戦であったことから、国家や国家理念を象徴する戦いとして位置づけられており、特に大きな被害を出した硫黄島の戦いを題材としたモニュメントがアメリカ独立戦争のモニュメントとともに並べられることもある。また、異文明との文明衝突の見地から、アメリカ人には、この戦いで見られた日本人の行動(精神)の記憶が、後にも残存しており、アメリカ同時多発テロ事件の際には、KAMIKAZEという言葉が報道記事に使用された。また原子爆弾投下の正当性の問題については、ジョン・ロールズをはじめ、その正当性(十分な必要性)が議論されている。

アジアにおける評価

中華人民共和国(1949年以後の中国)や朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)では、官民ともに日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、これら「特定アジア」といわれる国以外からは、日本を加害者とする評価だけではなく、肯定的な評価がなされている。日本軍による占領政策は概ね否定的であり、民間徴用にともなう虐待(「びんた」は多くのアジア諸国で現地語化した)や徴発・軍票体制による旧経済の混乱、農産品市場の脆弱さにともなう飢餓の発生などが論点として挙げられる。肯定的な評価としては現地人による自警団・自衛団を日本軍が組織したこと、それが有能で才能ある現地人の発掘につながり独立運動の中核をになう人材となっていったこと、日本軍の強調した民族自決と日本を長兄としたアジア連帯のうち、とくに前者が民族意識の高揚につながったことなどが挙げられる。

太平洋戦争で大日本帝国に解放されたベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、タイ、ビルマ(ミャンマー)など東南アジアの歴史学者の多くは、太平洋戦争(大東亜戦争)とそれに続くアジア各地の独立戦争を一連の流れとして考えており、欧米の戦勝国が日本の戦争責任を非難することについて、「欧米によるアジア植民地の歴史を歪曲することだ」と断じている。

これは、当時のアジアにおいて大日本帝国とタイ王国の 2ヶ国以外の総てのアジア地域はヨーロッパやアメリカの植民地若しくは隷属地であったため、(1)植民地支配からの解放に大きく寄与したとして肯定的に評価しているケース、(2)欧米に奴隷扱いされていたアジアの人々に、教育や政府機関、軍事力を整えたことを肯定しているケース、(3)戦後、再びアジアを植民地化しようと再上陸してきたヨーロッパ宗主国(特にイギリス、フランス、オランダ)に対して、旧日本軍の残党と共に戦ったことを好意的に評価しているケース、(4)日本軍の後盾で政権についた政治家(例:ベトナムのバオ・ダイ)の都合で親日的姿勢をとったケースなど様々である。

台湾における評価

当時は日本による統治下であった台湾では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。

第二次世界大戦後に中国大陸から入ってきて強権政治を行った中国国民党に対する批判により、相対的に日本の統治政策を評価する人もいる(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)。

戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然のことではあるが、極一部において、不当な強制連行であったと批判する反日活動家もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している反日活動家もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と(講和条約により日本政府が台湾の統治権を放棄したために別の国家扱いになった為)区別して取り扱いがなされたことに対する批判もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっている。

台湾での戦争観を語る際に、本省人が親日であり日本支配肯定論、外省人が反日抗日的であるとの見方があるが、実際はそれほど単純ではない。省籍矛盾については特定の政治家が選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがある。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人、福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人と台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない、という意見もある。

マレーシアにおける評価

現在、マレーシア人はマレー系が約65%、華人系が約25%、インド系が約7%を占める。日本軍がマレー半島に侵入した時、イギリスの植民地下にあり、マラッカ王国以来のマレー人、外来の華人系住民・インド系住民、その他に日本人、イギリス人などが居住していた。大戦中は、系統に問わず、日本軍に協力した者や抗日活動に身を投じたものもいた。このうち抗日運動に身を投じたのは華人系の住民が圧倒的に多く、これは日中戦争が影響している。マラヤの華僑は故国のため、国民党政府軍に物心両面の援助を惜しまなかった。中国大陸に渡り抗日軍に身を投じたり、中国国民党組織に向けて情報提供する者、抗日救国運動に力を注ぐ人々もいた。

当時、マレー人は英国人と比べて極めて低い権利しか与えられず、いわゆる奴隷であった。当時のマレー系住民は自らを支配する存在(白人)が無敵で、絶対的な存在だと信じていた。しかし、英国東洋艦隊が同じ東洋人である日本人によって撃滅されたことや、イギリス帝国絶対不敗神話の象徴だったシンガポールが陥落したこと、イギリス軍が焦土作戦のため、徹底的に破壊した発電所や工場などの都市設備を日本人がいとも簡単に短期間のうちに復旧させてみせたことなどを目の当たりにし、大きな衝撃を受けた。この出来事は長い間、支配に甘んじてきたマレー系住民の意識を変える転機となり、独立心を芽生えさせる糧となった。

マレーシアでは、太平洋戦争(大東亜戦争)についての回想や見解は多種多様であるが、典型的な意見としては、日本による統治が、イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ諸国によるアジア植民地支配を駆逐し、アジア人自身を覚醒させる衝撃となった事実を評価する点である。

特にマレー人の間では、イギリスによる長い植民地統治による愚民化政策と西洋文明の浸透(文化侵略)などによって、独自のアイデンティティー(経済・社会・文化的価値観)を喪失してしまったという論調が強いとされるほか、植民地統治の過程で流入した華僑や印橋などの異民族との抗争を経験をしたことから、ヨーロッパ各国が行った行為に対する批判が強く、ヨーロッパ(特にイギリス・フランス・オランダ)のメディアが日本軍による戦争を批判するのはヨーロッパ各国が行った植民地支配の歴史を歪曲しようとしているとして批判的な立場をとっている。その具体例として、チャンドラ・ムザファーやマハティール・ビン・モハマドなどのスピーチやルックイースト政策などでもうかがえる。

一方で、華人系マレー人のオン・カティン住宅・地方自治相は、小泉純一郎首相が2001年8月13日に靖国神社に参拝した時、「私は、この歴史教科書と首相の靖国神社参拝への抗議の意思を表明する先頭に立ちたい」「侵略戦争を正しい戦争と教えることは、次の世代を誤って導くことになる」と述べている。

インドネシアにおける評価

太平洋戦争終戦後、直ぐにオランダとの独立戦争となったが、独立には残留日本人の力も少なくなく、独立の英雄として称えられている。インドネシアでは、日本軍による強制労働により、多くの若者が犠牲になった。戦後の賠償交渉では、インドネシア政府は労務者の総動員数を400万人と主張している。

さらに詳しく → 太平洋戦争



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(2009/12)
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