2010/01/04(月)
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年(明治25年)9月9日 - 1970年(昭和45年)4月30日)は秋田県秋田市生まれの外交官。スペイン特命全権公使・衆議院議員。
構成
国家憲兵隊のGSIGN(国家憲兵特殊安全対策群)の隷下にある。
* 治安介入部隊司令官(国家憲兵隊少佐)
* 副官及び参謀(3名)
* 第1~第4突入部隊(1名の士官と 15名の隊員で編成)
* 第1・第2突入部隊は自由降下訓練を、第3・第4突入部隊は潜水侵入作戦訓練を受けている。
4個部隊のうち最低1個部隊が24時間即応体制になっている。
東機関
日米交渉の行き詰まりにより、開戦は必死の情勢となる中、須磨は、親枢軸的なスペインを拠点にアメリカの情報を収集することを構想し、1940年 12月、「東機関」を開設、その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任した。1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まる対米開戦後、日本は、アメリカ大陸の在外公館を次々と閉鎖させられたことにより情報収集に著しい支障をきたした。しかし、「東機関」は、欧米の主要拠点に情報部員を送り込み、諜報戦で多くの成果を挙げた。1943年時点で、アメリカの原爆開発まで押さえており、また太平洋戦争で激戦となったガダルカナル戦の最中、サンディエゴから現地に向かう船の数まで把握した。しかし、こうした情報は、日本政府・軍部に活用されることなく、またアメリカは暗号解読によってマドリッドからの「東機関」による情報を全て把握していたため、1944年半ば、アメリカによって「東機関」は壊滅に追い込まれた。
A 級戦犯容疑者から代議士へ
戦後は、こうした諜報活動の成果が米国に警戒され、A級戦犯容疑で逮捕・拘留される。その後、1948年に不起訴処分で釈放。公職追放解除後、1953年、第26回衆議院議員総選挙に改進党公認で立候補し当選。1958年まで2期務めた。1965年、「勲二等旭日重光章」受章。
須磨コレクション
須磨はスペイン公使業務の一方で、敗戦までの5年間に2000点に上るスペイン絵画を購入している。その目的や資金原資に関しては謎が多い。須磨が戦犯容疑から釈放された後、スペイン政府から、収集品の一部が返還され「須磨コレクション」と呼ばれた。この「須磨コレクション」の一部は、1970年全国巡回の後78点が長崎県に寄贈され、長崎県立美術博物館を経て、現在長崎県美術館に所蔵・展示されている。
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さらに詳しく → 諜報活動 スパイ 須磨弥吉郎 東機関 ソロモン諸島の戦い
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